アントロギア

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1:鷹嶺まほろ◆XA:2021/11/22(月) 21:35

ファンタジー系の小説やイラスト、キャラや世界観の設定を見せ合うアンソロジースレ!
ファンタジーと見なされるものであれば設定はなんでもOK!
また、他の人の設定を使用するのは自由なのでシェアワールドも作れます!

なお、完成した作品はこのスレに投稿してください。


【ルール】
・荒しは無視
・サイトポリシーを守って書き込む
・雑談はこのスレでは控える(雑談は一日一回スレか専用スレを立ててしてください)
・次スレは>>980が立てる、スレを立てる人はテーマを変えてもよい。

30:ヤマーダ:2022/02/08(火) 17:17

G
人に虐げられる悪魔が暮らすのは、路地裏街の更に深く奥、地下街だった。そこでは大小、年齢関係なく様々な悪魔が身を寄せあって生きている。中には人間の少年と変わらない幼子もいた。人間は馬鹿だとか、誰のおかげで戦争に勝てたんだとか、うちの息子もいずれは帝国に徴兵されるのかと思えば身震いするだとか、見た目通り十人十色な声が飛び交う中、そのような声の山の一切合切も寄せ付けず、すぐ傍で異臭を放つ下水の横で、積み重なった分厚い本の山にまるで似つかわしくない少年は、辞書の如く重厚な本を両手で抱えながら真剣に文字を追っていた。シトロは学ぶことが好きだ。なぜそうするのか、なぜそう思ったのか、人々の行動に無意識として表れるほつれた思考の糸が好きだった。彼は物語を一冊読み終えるのに、長い時間をかける。ようやく読み終えた時、物語の登場人物も、また、作者の気持ちですらも理解したような気になって、ひとり満足するのだ。彼にはまだ理解しがたいことがある。かの晩の軍人、ジョージ・シュヴァルツのことだ。

「シトロの坊や、今日も地上か」

内容半ばの本を閉じると、酒場屋の店主が声をかけた。シトロの羽根が小さくなる。驚いた時に現れる癖であった。直さないと、格好悪い。心の中で呟き、自分の羽根が小さく折りたたまれたのを自覚して、シトロは自責に赤くなる。名を知る者は皆、この一連の仕草を知っていた。シトロは悪魔ながらも分かりやすい少年だ。目線を逸らさないよう、けれども赤い顔を見られないように、俯いた格好のまま上目を遣って返事する。

「はい、店主さん」

店の外で「店主さん」はやめてくれ、店主は大袈裟に肩をすくめる。こうするとこう反応する、というのは、地下街に住む悪魔にとってのアイデンティティでもあり、名と共に知られることでもあった。彼らは無意識下で仲間という意識を知らずのうちに繋ぐ。くすりと笑って、ごめんなさい、と一礼した後、店主は目を糸のように細めて笑った。

「軍人だろ?」

シトロはまた驚いてしまった。

「どうして知っているんですか?」
「そりゃあお前、そうだろう。軍人好きのシトロ、物好きのシトロ。ここじゃお前さんの癖の次に、皆が知ってるのさ。だってお前は、何度も軍人に助けてもらったろ」
「街に出れば必ず頬に痣をつくって帰ってくる。地上で遊ぶ人間のダチなんざいないだろう。そんなお前が、ついこないだ、ひとつも痣をつくらず帰ってきた時には驚いたよ。一体何があったのかと噂したもんさ」
「そうたらもっと驚いた。あの晩、俺の酒場にいた悪魔のガキはお前さんだった。傍に軍人がいたろ。まるで本でも読む時みたいに、目ん玉キラキラさせてな、こんな風に」

店主は、懐から取り出した飾り玉を片目にかざして微笑んだ。地下街に灯るわずかな光に緑色が透き通り、照らされた埃がちらちらと舞いながら、宝石のように輝いている。シトロはあの晩のことを思い出して、ポケットの上から中のコインをぎゅっと握りしめた。あの軍人の瞳には、諦念すら宿っているのに、ずっと見ていたくなるほど綺麗だった。

「ぼくは本よりも人が好きかもしれません。いいえ、本を書いたのが人であるなら、ぼくは人が好きです」
「そして、あの酒場も同じくらいに大好きです」
「これからも、お邪魔していいですか、店主さん」

店主は少しばかり照れくさそうに笑った。人間を恐れ、恨むばかりが地下街ではない。ここでは地上に、世界に、人に想いを寄せる悪魔も存在する。人間と同じように享楽に浸る様も、誰かを慮る心も、この腐った国では人間よりも人間らしく輝く。人と悪魔、決して隔たりの境界線を埋めることができない者同士であるからこそ、理解しようと思うのだ。今現在のこの国では、人と人でさえ分かり合えていない。

31:ヤマーダ:2022/02/08(火) 17:19

H

国内派閥の二極化は激化していた。今日もどこかで白旗が上げられる。今日もどこかで悪魔が虐げられ、殺される。国民の鬱憤を権力で鎮圧してきたのは帝国軍だ。王は近々、悪魔殺しの刑罰を正式に重く繰り上げようと目論んでいるらしい。国が完全に神を捨てた瞬間となる。裏切ったという方が正しいだろうか。国と悪魔への反発、悪魔という禁じ手を用いた戦争、終わりなく渦巻いた絶望を薪にして、燃えて、燃え続け、我々は更なる分断化に立ち会おうとしている。終わりはなく、負けの札もない。勝利だけを貪って生きるこの国に、果たして未来などあるのだろうかと、街外れの工場で働く中年親父も、一切れのパンを紙袋に入れて歩く貴婦人も、皆薄らと疑問に思っていた。だが、地下街の階段を上る悪魔少年はそんなことも露知らず、頬いっぱいの緩んだ笑顔で今日も街を歩く。

「悪魔だ!」

ひとりの少年がシトロを指差して言った。この手の呼び名には慣れていて、それに、この声はもっと聞き慣れている。振り向くと、あの晩どころか、街で角と羽根を見かけるたびに全員で囲み、殴ったり蹴ったりと、暴力のかぎりを尽くす少年たちがいた。しかし、変わったことに、いつもなら四人組の筈の彼らが今日は三人組になっていた。悪魔だ、悪魔だ、少年らは駆け寄る。

「コイツのせいだぞ、ぜーんぶコイツが悪いんだって、そいつとそいつと、おれの父さんだって言ってるんだ」

中心格の少年が、横並びの仲間の頭を順に指差し、最後に自分に指先を向けて叫ぶ。

「どうして、三人しかいないの?」

シトロは、恐る恐る聞いてみた。少年の叫び声はもっと大きくなった。

「お前のせいなんだよ。あいつの家はばーっと燃えた!」
「『悪魔は滅するべき』あいつの父さんと母さんが言うのを真似て、ある日あいつも同じことを街中でぽろりと、何気なくこぼした」
「たまたま軍人野郎が聞いてたわけだよ。そしたらあいつんちと、あいつと親は反悪魔主義者ってばれたわけなんだ」
「どうしてお前が、街を普通に歩けるんだ。あいつは今頃、寒い場所で臭い飯を食ってる。お前らのせいなのさ、お前らがいたらロクなことないね!」

悪魔なんて死んじまえ!悪魔なんて死んじまえ!少年たちは口々に唱える。唱えた言葉は呪文のように、深く、深くシトロの心に刻まれる。どうしていいのか分からなかった。謝るべきなのか、それとも元の道を引き返すべきなのか。シトロはこういう時に、自分はなぜ生まれてきたのか考える。考えて、やっぱり人間に辿り着く。肯定してくれるのは国だけだ。在り方を教えてくれるのも。シトロはまた、ポケットの中のコインを握りしめた。

バン。銃声が響く。街は喧騒から一転、恐怖の叫びで満ちた。「早撃ちだ」銃声に遮られて、すぐそこまで出かけた何度目か分からない反悪魔的言動も、流石に喉の奥へと引っ込んだ様子で少年は言う。撃たれた煉瓦がぱらぱらと崩れ落ちていた。

「やあ、こんにちは。まったく平和じゃないね」

マイヤー。『早撃ちのマイヤー』だ。どこからともなく現れた男に向かって、隣で少年が呟く。マイヤーと呼ばれた男は帝国軍の制服を身にまとい、引き金を引いたばかりで黒煙の漂う拳銃を片手に、煙たそうな表情で空気を払った。

「それより、気にならなかったか? 焦げたパンの匂いがした。誰かが仕事を怠ったのか、それとも、今もどこかで家が燃えているのかな?」

この野郎、『早撃ち』に畏怖していた少年が飛び出しそうになるのを、もうひとりが必死に抑える。今もどこかで燃えている家、少年らの友人を指していることは一目瞭然だった。マイヤーは軍服がよく似合う美形であったが、反悪魔主義者を根絶するべく彼の手にかけられた引き金は他のものよりも軽かった。軍部の過激な悪魔崇拝者は彼を尊敬するが、グーテンベルクのような神の信徒は毛嫌いする。たとえ帝国軍でなくても、ゴスペル・マイヤーが正義の皮を被った悪趣味な悪魔であることは変わらない。

32:ヤマーダ:2022/02/08(火) 17:20

I

「この引き金は正義だ。そして、弾は鉄槌だ。私には引き金を引く義務があるのだよ」
「それに比べて、君らはどうだろう。正義と違って、罪は重ねていいものではない。私は巨悪を見過ごしはしないのさ」
「愚か者は一度間違えると二度間違える。そうだ、ミシェルもそうだった。私はずっと君達に銃口を向けていた筈だよ。きちんと前を見なければね。忠告に気付かず家を燃やしたミシェルのようになりたくはないだろう? 彼はね、自業自得さ。報いを受けた。そう思わない?」

マイヤーは自己的な正義を宣い、少年たちの心に燻る反抗心に火をつける。それでもかまわない、寧ろ興が乗ると、笑う瞳に享楽を浮かべる様はまさしく悪魔そのものだ。シトロは、この瞳を知っていた。今この瞬間を引き金にして、ある記憶が溢れ出した。

「クロム」

かつての友の名を呼ぶ。同時に、足音が聞こえた。

「元気だね、早撃ちさん」

シトロにはこの声も聞き覚えがあった。あの晩の、ジョージ・シュヴァルツ。自分を救ってくれた、二人目の軍人だった。

33:ヤマーダ:2022/02/08(火) 21:20

J

「驚いたよ。君の正義が罪そのものだとはね」

マイヤーは、声のした方向に爪先を向ける。未だ黒煙が上がり漂う銃口付近に、ふっと息を吹きかけて、重い銃の頭を二、三度振ったあと元に戻し、いつもの狂気じみた微笑みの仮面を被る。シュヴァルツ、ご機嫌いかが?と。

「民は王の命だ。命を守るのが私達の役目だろう」
「マイヤー将軍、君はたった今、守るべき命に銃口を向けたんだぜ」
「君は何度間違えた? 一度と言わず、二度も、三度も間違えた。愚か者の鏡は君かもしれないね。早撃ちさん、そう思わない?」

マイヤーの正義と対を成すように、国の正義を盾に切り返す。マイヤーは非人道的な男だ。この国を分裂させる火種であり、今もどこかで芽を出し育んでいる反悪魔勢力を許しはしない。敬虔な信徒は尚のこと、善良な市民が悪魔帝国に疑問を呈すことすら粛清対象になりえた。ある意味では、現帝国の一番の尽力者といっても過言ではない。影の尽力者は笑う。

「シュヴァルツくん。私は君が気に食わないんだよ」
「君は、この国を脅かす神の狂信者共とは違う。かといって、私のような帝国主義者でもない」
「いつだって中立の立場で誰とでも仲良しこよしだ。グーテンベルクに、そこの悪魔に、ああ、それから私への態度もナンセンスだ。君は一体誰の味方で、誰を守っているのやら。平和主義なんて、笑わせてくれるわけじゃないよね? なんてね、でも、君は帝国犬だからなあ。『国の正義』だなんて言うけれど、私の正義とどう違う?」

シュヴァルツとマイヤーの背丈には頭一つ分の差があった。マイヤーは意地悪い微笑みに嘲りを混ぜながら、同胞であり、この場では敵である相手を見下して尋ねる。見下された軍人は、諦念の中に捨てた筈の自己を宿し、向かい合った。怯まなかった。

「君と話をするつもりはないが、ひとつだけ返そう」
「いつからこの国は悪魔の国になった。いつから、悪魔のための国へと変わったのだ」
「君の正義とは、もはや人道ではないのだよ。私には国の正義の前に、人徳がある。ただそれだけだ」

生きる意味を、在り方を示してくれる帝国。ここに生きていいんだと、守ってれる帝国。その一方で、同じ種族同士がお互いを傷付けあっている。人という種を理解したいシトロにとって、争いは最も理解しがたいことだが、少しだけ腑に落ちたような気がした。人間は悪魔と同じで、それぞれが異なる。異なるから、排除しようと、争うのだと、眼前にいる二人の救世主を眺めながらそう思う。同時に、人間が傷つくのは自分のせいでもある。悪魔という種を憎み、叫び、家を燃やされた少年のことを思い浮かべ、「ごめんなさい」生まれて初めて、罪悪感を自覚した。あの晩にした謝罪の真意だった。

34:ヤマーダ:2022/02/09(水) 03:24

K シトロという少年

シトロには家族がいなかった。この世に産み落とされて以来、ひとりぼっちだった。悪魔は出ていけ、人間が言う。ここで生きなさい、人間が言う。当時、シトロの頭の中には、数えきれないほどのクエスチョンが浮かんでいた。そんな中、唯一の友達は本だった。しかし、本以外にも友達と呼べる、いや、家族と呼べるかもしれない存在がいたことを、悪魔はたしかに記憶する。

図書館が好きだ。本をめくる音と、時折聞こえてくる誰かの寝息。ある人は文字の海に、ある人は夢の中に浸り、皆それぞれの世界で時間も気にせず過ごす空間が、何よりも好きだった。その時だけは、街で起こる恐ろしいことを忘れられた。隣の白魔は幸せそうに眠っている。どんな夢を見ているのかな、なんて、本をめくる手を、文字を追う目を休ませて、静かな寝息を立てるクロムをぼんやりと見つめながら、本の世界と、夢の世界、どちらが面白いか比べたくなった。彼が起きたら、夢の話を覚えているか聞いてみよう。そう思って、「忘れちゃったよ」と笑顔で頭に手をやり不戦勝になるのはいつものことだ。だから、いつからか期待しなくなってしまったけど、それでもこの空間だけは愛していた。

「グンジンの夢を見たよ」

夢の輪郭をわずかながらも捉えていたのは、多分これが初めてだった。それはあまりにも珍しいことだったから、シトロは興味津々になって、食い入るように話を聞き出そうとする。

「グンジンって?」

「ぼくらを守ってくれる人間のことだよ。でっかいお城の、テイコクグンジンだ!」
「かっこいいんだよ、グンジンはね、夢の中でもぼくの元へすぐ駆けつけて、帝国印をちらっと見せたらみんな逃げてくんだ。そして、『怪我はないか?』って」
「英雄なんて生き物がいるんだとしたら、それはグンジンのことだ。ほら、覚えてる? ぼくら、パンをもらったろ、二人分も」
「ああ、叶うならもう一度、いや、何度だってあの夢を見たいな」

夢心地に踊らされ、うっとりとしながら願望を口にする。あれは、あの時の人間は軍人というのか。悪魔と名の付くものであれば無作為に石を投げつけ、この世から出ていけと憎悪の塊みたいなものをぶつける彼ら人間。夢の中ですら恐怖に追われるこの国の実態を咎めるべきなのか、それとも、夢の中でさえ救いの手を差し伸べてくれるこの国に敬意を払うべきなのか、誰にも分からない。というよりも、答える前に許可がいるような情勢だ。しかし、人間の中にも別の種族がいるというのは、嬉嬉として語る友を見れば分かる。

「こんにちは、シトロ」

ある教会の一人娘は二人の悪魔に挨拶する。彼女はよく図書館に足を運んでいた。彼女は悪魔を毛嫌いしなくて、そして本が好きだった。そんなところが好きだったのかもしれない。いつも隣に並んで本を読んだ。相変わらずクロムは夢の中だったけど、気にしなかった。藁葺き屋根の馬小屋主人は寝床に使えと藁をくれる。花屋の女店主は好きな子にあげなさいと綺麗な花を一輪くれる。人と悪魔は分かり合える、そう綴った本の作者を尊敬していた。街の人々がそれなりに好きだった。

「やめてよね、悪魔なんて好きなわけないじゃない。みんな、滅べばいいのよ」

あの子の本音を聞いたのは、花屋がくれた花をあげようとした時だった。本音の相手は人間の男の子。頭に角なんて生えてなくて、尻尾も、羽根もない、普通の男の子。人と悪魔は分かり合える。先生、やはり、本という空想の塊が、机上から浮かび上がる日は来ないのでしょうかと、シトロは心の中で問いかけた。地下街に持って帰った花は、下水のせいか、負の感情をぐんぐんと吸って育ったせいか、その両方か今となっては知る由もないが、立派に枯れてしまったのだった。そんなある日に、友は言った。

35:ヤマーダ:2022/02/09(水) 03:25

L

「初めて列車に乗るんだ」

「どうして?」

「ぼくの魔力が認められた。グンジンはぼくの力がほしいんだよ。ああ、ようやく海がなにか分かるんだ」
「ぼくにも帝国印をくれるかな。あんな英雄になりたいよ」
「ねえシトロ、海は空と同じで青いかな」

別れ際、クロムは車窓から身を乗り出して、ずっと手を振っていた。その姿が見えなくなるまで、車輪の音が消えるまで、シトロも手を振り返す。憧れの列車、軍人、未知なる海。人間が母と呼ぶ海と、悪魔が本能的に親しみを覚える空は同じ青色だ。地上という境界線によって交わらず隔てられていることを、奇妙な運命のようだと語っていた彼が帰ってくることはなかった。友は海を見たでしょうか。あの日から、空に投げかけた問いの答えを探している。

ある夜に街の一角は燃えた。シトロの好きな、人と悪魔の共存を描いた著書の作者は、反悪魔主義者によって更なる抗議活動の火種にされた。悪魔反対、悪魔反対。焚書を中心に囲んで、もっと燃えろ、燃やし尽くせと、次々に燃料となる言葉を投げ入れる。酷い光景だった。それどころか、呆然と立ち尽くすシトロをとっ捕まえて「悪魔がいるぞ」と晒し上げ、悪魔は滅びろ!悪魔は滅びろ!悪魔は滅びろ!大勢の反悪魔主義者はたったひとりの悪魔を口々に罵った。空想は燃やされていく。願望は薄れ消えていく。

「ごめんなさい」

せめてもの謝罪は群衆の雄叫びにかき消されて届かなかった。好きな子へ告白する時も、帰らない友人の無事を尋ねる時も、いつもいつもシトロの声は届かない。それは、周りの声が、音が大きいからだと気付いた。自分が他人の何倍も無力だということも。地下街に生まれ住んでいつからか、自分と仲間のことを多数派だと思い込んでいたのかもしれない。だけど、それは間違いだ。少数派で、小さくて、無力な悪魔。おかしいのは誰だなんて聞かれれば、誰だって人間だと答えない。角や羽根のない人間の男の子へ寄せた憧憬が蘇り、どうしようもなく涙がこぼれ落ちそうになったのを、シトロはいつまでも覚えている。そして、それから先のことも、ずっと。

「少年」

肩にぽん、と手を置かれた。暖かい、大人の大きな手だ。見上げた先で、帝国印が目に入る。肩に置かれた手を、するりと懐へ滑り込ませ、四角形の分厚い何かを取り出す男の顔は、やけに綺麗で優しかった。

「私も好きなんだ。本棚に何冊も置いてある」
「君にあげよう」

気付けば、群衆の声は止んでいた。皆、胸元の帝国印を見てざわめいている。人と悪魔の共存。万人から望まれない大義の行方は、再び少年の手の中へ戻ってきた。男は依然として微笑みを浮かべ、片方の手の指先に回した引き金を、焚書へと向かって躊躇いもなく引いた。乾いた音がして、ばらばらばら、本の山が崩れる。抗議活動の終わりに等しい。

「国民よ。君らがこの書を『罪だ』と糾弾するのなら、私もまた咎めよう」
「この国では、罪の根源を燃やすそうなのでね」
「次はどこに向くかな」

たとえ、何百と連なる死体の山であろうと、崩れた本の山だと嘘を真実に変えてしまえる、圧倒的な権利の力。鉄砲玉ひとつで群衆を推し黙らせるそれを目の当たりにして、かつての友が彼らのことを「英雄」だと敬したのが、その気持ちが、分かったような気がした。

36:ヤマーダ:2022/02/09(水) 17:08

M

針を落としたレコード盤から荘厳なクラシックが流れる。硝子の机を挟んで、客と自分用の座椅子が二席設けられている以外には、部屋のほとんどが本棚と、その中に隙間なく詰め並べられた本でできていた。一切の無駄も排除した、ある意味では殺風景とも言えるこの部屋は「弾薬庫」と呼ばれていて、まるで弾薬の補充でもするように、本を目当てに軍人が頻繁に出入りする。国が国を守るため、自国に銃口を向けている状況下では、悪魔思想は容易く武器と化す。権力という鉛と、正義と名乗る引き金を兼ねた武器。彼の引き金は国に改革をもたらした。

「シュヴァルツ君。今年の聖夜は中止にすることになった」

理由は分かるだろう、マイヤーは笑う。昼間に街中であったことなど頭から抜け落ちたように。本棚から一冊ずつ本を取り出し、適当にぺらぺらとめくっては中身を確認し、確認が済んだら半歩横にずれて、また本の背表紙に手をかける。「悪魔という神」そう書かれた本の横には「悪魔解剖書」何も言わずに連れられた私を背後に、マイヤーはひたすら武器の手入れをする。

「聖夜というと、いい思い出なんてなかったものだ」
「幸せで裕福な家族がごちそうを囲んでいる。ツリーからは今日のための特別な木の匂い。暖炉からは身も心も包む暖かさ」
「家もなく、藁を噛み、サンタクロースへのお願いに引っ下げる靴下すらない少年だった」
「毎日裸足の裏を向けて大人の靴を磨いた。たったコイン一枚分の稼ぎだよ」
「その頃の私の楽しみはなんだと思う?」

悪魔解剖書、その隣の、狂信者。マイヤーはよく尋ねるくせに、答えに可も不可もつけたがらなかった。語りの独壇場が好きだった。私はそれを知っていて、彼の独り舞台の観客になったつもりで黙りを決め込む。

「靴の裏にこっそりと犬の糞を」
「愉快だった。奴らは、自分が踏みつけにした小さな汚れも、その匂いにも気づかない」
「私のように裸足でなければ、靴を履いていても裏に目をやることすらない。皆、上面の綺麗が好きなのさ」

本を閉じる音がして、微笑みの仮面が振り返る。上面の清純に囚われている人間を嘲るのは、皮肉のように思えた。だが、其奴らと同様に、マイヤーは己が被る仮面の裏側に気づかない。黙る私に道化が靴音を立てて歩み寄る。

「この国も同じだ。民衆は表の顔を信じ込む。信じて、自分の愚かさも忘れる」
「表裏一体だよ。神と悪魔、私はね、悪魔こそ神で、神こそ悪魔だと思っている。そして、信じている。君の好きなコインと同じだ」
「嘘と真実も。互いが互いになければ存在しない。だから、見つけるのは簡単なんだ」

「君のお兄さんが捕まったと聞いてね」

兄。心臓が、大きく脈打ったのが分かった。するりと、頬に伸ばされた手の冷たさに震える。やはり綺麗だ、マイヤーはそう呟いて、頬の次に髪を撫でつけた。

「いい瞳だ。つくづく思うよ。完全に支配されきった老犬とは違う、だが、馬鹿な駄犬とも違う。君はなぜ自分がここにいて、どうしてここにいなければいけないのかを知っている」

真っ白になった頭が、銃口を向けろと囁く。髪を撫でつける手を振り払って、銃を取り出して、奥で鉛が眠る暗い空洞を向けようとして、殴られた。君の武器は手入れ不足だと、倒れた私にマイヤーが言う。

「無理やりのほうが好きかな?」

床に倒れて、やっとの思いで向けた銃口の引き金から、ゆっくりと指先を剥がされる。この部屋に入ってから一度も言葉を発さなかったが、「糞野郎」とたった一言、恨み言のように吐き捨てると、瞳の中の喜色が色濃く浮かび上がるのが分かった。

37:ヤマーダ:2022/02/09(水) 17:09

N

「馬鹿は嫌いだ。しかし、愚直は好きだ。骨を反対に折り曲げるように、痛みをもって従わせるのは心地がいい」

クラシック音楽が流れる。ひたすら、うるさいほど流れる。

「君の兄は真実で、君は嘘だ。言ったろう、見つけるのは簡単だと。裏と表は切り離すことができないともね」
「やはり私は君が好きだ。ジョージ・シュヴァルツ……いいや」

「ジェイス」

靴の裏が、コインの裏が、見えた。無理やり、運命を捻じ曲げられたのだ。ゴスペル・マイヤーは、不条理に生きて、不条理を与える。彼の独壇場はまだ終幕ではない。裏で流れるクラシックもそうだ。次第に、絶望ばかりが波となり押し寄せてくる。四人の兄のうちの、「ジョージ・シュヴァルツ」は反逆罪で捕まったのだろうか。そうすれば、私の罪も芋づる式に公になる。そのことを、止められない。

「私をどうするつもりだ」

どうもしない。私の上でマイヤーは微笑む。

「人々は帝国を悪魔と呼ぶ。そうかもしれない、そしてね、真の悪魔とはこの国に住む命だ」
「君も人間でいることをやめた。全てをコインに委ねて、国の正義に首輪を巻かれる犬になった」
「勝者こそ正義。君は正義の味方なんだろう? 嘘つきのジェイス」
「それなら、いっそ悪魔の犬になりたまえ」

その晩、私は、悪魔に抱かれた。

38:◆XA:2022/02/11(金) 00:22

『贖罪の序章/1』


「……戦いたくない」
 
 ルイス・パーシアスは薬で朦朧とする意識の中、譫言のように呟いた。
 この薬の効果が切れたら、左腕に装着された投薬装置が起動したら、きっとまた沢山の生命を奪うのだろう。誰かの幸せを踏みにじるのはもう充分だ、これ以上罪を背負うのはもう嫌だ。
 出来るのなら今すぐこの場から駆け出して誰も居ない所へ行きたい、けれど麻痺薬が効いている、身体を動かす事はできない、辛うじて目と口だけが動かせる。
 遠く聞こえる都市の喧騒、それがまもなく悲鳴と慟哭に変わるのだ、脳裏に浮かぶ“あの日”の光景、あの惨劇を繰り返すことになる。

「あぁ、もう誰も殺したくないなぁ……」

 左腕の投薬装置さえ外せれば惨劇は回避出来る、けれど現実はあまりにも残酷だ、麻痺薬の効果が切れるよりも早く投薬装置が起動し忌まわしき異能を強制励起させる、今のルイスに逃れる術はなかった。加えて此処は人通りの無い路地裏だ、誰かに助けを求める事も望めないだろう。
 出来る事はただ力なく壁に背を預け凭れかかるだけ、その事実を前にルイスの瞳から涙が零れ落ちる。
 どうして自分はこれほどまでに無力なのだろう、と思ったその時、ルイスの左腕にチクリと痛み。
 

「嫌だ、嫌だ、殺したくない……」



 ――まもなく心優しい少年は殺戮の獣へと変貌を遂げる。

39:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:17

O

「やあ、ジョージ」

両手で掴んだ檻の間から兄が顔を出す。檻の外側にあるのは、明かりと暖を補うには不十分なたった一本の松明と、毎朝早くに運ばれる残飯だけだった。寒い場所と臭い飯、既に国民全体の共通認識、あるいは隠語として根付き始めたこの場所に、血を分け合った実の兄はいる。ここでは当然のように、毎日誰かひとりがいなくなる。そして、下にも上にも、二度と帰ることはなかった。明日は、明後日は兄の番になるかもしれない。けれども、兄は能天気なのか、気づいていないだけなのか、それとも、気づかないフリをして笑っているのか、昔と変わらずお気楽で、それでいて純粋な悪に染まった顔でこちらを見ていた。

「俺の名前を借りるなら、俺の罪にも責任を負えばよかった、そうだろ?」

ジョージは悪魔の売買で捕まった。別段、金に困っているわけではないのに、臓器や角を高値で売りつけた。そして、その金で思いつくかぎりの豪遊をした。毎晩歓楽街をほっつき歩き、通りすがりの道端の悪魔に唾を吐いて、隣に連れた女の尻に手を回す。仮にも公爵家の息子であった筈の男が、どうしたらここまで落ちぶれられるのかと、呆れ半分、軽蔑すらした。そうしたら、それが気に食わなかったのか「なんだその目は」と睨まれた。

「お前が俺になりたかったのは分かるよ。罪までは背負えなくてもな」
「昔のことだが、お前、試験問題の答案を盗んだことがあっただろ。俺と、他の兄さんと同じで優秀だって、父さんに褒められたかったんだってな」
「そうだよ、俺は優秀だもんなぁ。父さんはいつも俺を褒めた。でもお前は、今の俺みたいに、寒いところでまずい飯を食ってた」
「何かの間違いじゃないか? どうして俺がこんなところにいるんだろうな」
「代弁してやっただけさ。頭ん中では文句ばかり垂れてるくせに、国が怖くて口すら開けない臆病者のジジイやババアの心の声を、俺が代わりにぶちまけてやったんだ、悪魔の体がばらばらになって、せいせいしたはずだ。俺だってな、愉快だった。俺は優秀だからなんだってできる、できたんだよ。英雄だ、俺は英雄なんだ」
「悪魔どもの角を切るのは大変だった、首も、胴体も、岩みたいに硬かったんだ。あいつらの血の色を知ってるか? 青だ、青だよ。俺たちのおかげで生きてる、半分俺たちの血だ。それなのに、『助けてくれ』と暴れて困ったよ」
「そうだ! ジェイス、今からでも遅くない。お前が兄さんを尊敬してるのはよく分かる。だから、これを冤罪ってことにして、お前が牢に入らないか?」

兄の姿はあまりに醜悪で見るに耐えない。正義が不正義で隠蔽されるその瞬間を、この目で見たのは兄が最初だった。だが、今となっては不正義を通り越して、ただの巨悪になった。嘘も重ねれば真実になる。言葉通り、この国では、嘘を権力で塗り重ねて、偶像的な真実を作り上げてきた。ひた隠しにしてきた。燃やされる本の山と、死体の山は同じ数だけ減っていく。兄は、正当さという嘘をついて、つき続けて、しまいには信じて、歪な真実に洗脳されてしまった。そして、悪魔のおかげで今日まで嘘を背負って生きる私の罪も、同じ血を分け合った兄とそう変わらないのだと自覚する。罪を咎めたくとも咎められない私には、この男を見下ろす資格すらないのだ。

「さようなら、兄さん」

目を合わせるのは苦だった。だから、いいかげん黙って背を向けた。牢の主は焦ったのか、出口へと向かう私の背後で檻を揺らし、いくな、いくなと必死に呼び止める。ここは寒いんだ、ほら、氷に立っているようだ。腹も減った。暗い、寒い、怖くて、寂しい。ジェイス、いかないでくれ、いかないでくれ、ここから出してくれ。兄の悲痛な叫びと、殺された悪魔の最期が重なる。きっとこんな風に、お願いだからと叫んだ筈だ。兄は命乞いに耳を貸さなかった。そして、私も同じことをした。当然のことだと言い聞かせても、しばらく胸苦しさは晴れないでいた。

40:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:19

P

「やあ、お勤めご苦労様」

地下牢から出ると、グーテンベルクがにこやかな笑みをたたえて小さく敬礼していた。彼の笑顔を見ると、心のどこかで安堵する。それでも、今日ばかりは笑い返せなかった。グーテンベルクも察していたのか、気を紛らわせようとたたえていた微笑みに悲哀を浮かばせて目を逸らす。

「いくら悪魔主義者と相容れなくても、あんな惨いことをするのは同じ人間とは思えない。地下牢の彼らこそ、悪魔のような気がしてならないくらいさ」
「そんな時、僕は、自分の立っている場所が分からなくなるんだ。軍人である以上、避けようのない性なのかもしれないけどね」
「とにかく、お疲れ様。シュヴァルツ」

あの罪人と、私の体には同じ血が流れていると知っても、彼は同じことを言うだろうか。暖かい筈の言葉が、ちくりと、冷えて刺さった。

「君も、お疲れ様」
「私を迎えに?」

「うん、まあね。南の教会を訪ねる前に、君と寄り道でもしようかと思ってさ」

グーテンベルクは、私の横をいつもよりゆっくりと歩く。彼は誰かと相対する時、常に相手のことを考えた。考えて、一語ずつを慎重に選んだ。今だって、そうだ。

「今度、クリスマスパーティーをするんだ」
「クリスマスパーティー?」

うん、彼は頷く。聖夜の禁止令は既に発令されている。家に橙色の明かりが灯っていれば、神などおかまいなしに国の悪魔がやってくる。そして彼は、信徒である前に軍人だ。国で暮らす民よりも内部の圧力はずっと強い。でも、気にしていないようだった。悪魔殺し。抗議活動。過度な反抗の抑圧。周りで起こる事柄に葛藤して気を揉ませながらも、彼の信じることは不変で、彼の日常はそのままだった。寧ろ、信じなくては自分までもが悪魔に魂を売ってしまうのだと、恐れていた。そして、信じていた。どうしてかと聞くと、彼は困ったように笑うのだった。

「家族も呼ばない、ひっそりとしたお祈りだよ。でも、ひとりだと、ツリーもごちそうも寂しそうでね」
「君にきてほしいんだ」

すぐ傍では冷たい雪が降り始めていた。パーティーではなく、お祈りなら許してくれるだろう。パイを持っていくよ、私は二つ返事で頷いた。

「メリークリスマス」

ツリーに、暖炉に、テーブルの上のごちそうたち。普段となんら変わらない、悪魔がこの世に現れる前の聖夜と遜色のない光景がそこにあった。ある信徒は情熱的に踊り、ある信徒は今日の日だけはと酒を交わし、近所の若者から神父まで皆交わって、教会の中ではできない賑やかな世間話で場を溢れさせる。そのような活気は今、失われている。聞こえてくるのは静かに暖炉が燃える音だった。

「あまり、炭鉱や薪も使えないよね。でも、今日だけは特別だ」

さあ、楽しんでいってくれ。グーテンベルクは席につく。片手に提げたアップルパイの箱をテーブルの上に置き、私も反対に座る。グーテンベルクの言う通り、今日だけは何もかも忘れられる気がした。あの晩のことも、地下牢のことも。暖炉と、銀食器と、それから友人の話す声だけが響く。楽しげな声色ではなかったものの、聖夜の空間と雰囲気は、心にひとたびの安寧をもたらした。彼と話す時に感じる安堵によく似ている。

41:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:20

Q

「僕の知り合いの、レコード盤ショップの店員は不当に解雇されたと泣きついてきた。聞いてみると、代わりに悪魔が働くためだと。今月の給料も貰えず、炭鉱も買えない。このままだと凍え死にそうだから、助けてくれとね」
「悪魔のためなら店を持たせてやるし、税金も使ってやれる。いつからか、人間が蔑ろにされているんだ」
「僕の母も、自分がいつ牢屋に入れられるか分からないと怯えている。教会だけは守ろうと他の信徒を言い宥めているみたいだけど」
「それにしても、悪魔と人が一緒になって平然と暮らしているなんて、随分とおかしな世界になったよ」

それでも、まだまだ悪魔の地位は低い。彼らは毎晩を下水の隣で過ごす。そして、人に虐げられる夢を見る。悪魔を見かけると、軍人はよくパンとチップを渡し、首輪つきの恩を売る。悪魔の店は国民の金で成り立ち、得た収入は倍になって懐に入る。国と民とで、完全に食い違っているのがよく分かる。それが悪魔帝国の現状だ。グーテンベルクはそんな世間を、憂いている。

「今はね、教会自体がタブーだ。聖夜と同じで禁止されているから、結婚式も軍基地でする」
「まったく、おかしいよね。僕らは信仰しているだけだ。地下牢の男のように、悪魔を虐げるのは間違っている、そう思うけど、信仰を抑圧するのも間違いだ」
「シュヴァルツ、君はいつか僕に聞いたよね。この戦争に勝ってほしいか、負けてほしいかと」
「僕は、悪魔に縋るだけのこの国に、悪魔さえ生かしておけば勝利は絶対だと宣言するこの国に、負けてほしいと思ってる」
「でも、負けたらどうなるか。僕が信仰しているものと、この国もろともが滅ぶ。大切な友人も、神父たちも。それが神のご意向だと述べる人はいる。でもね、僕は失いたくないんだ。だから、そういう意味では勝ちたい」
「僕は今、自分に負けたくないよ。そして、勝ちたい。信じて、また。賑やかな聖夜を過ごしたいんだ」

暖炉は燃える。暖炉の周りの空気が熱で歪んでいるように、グーテンベルクの瞳もたしかな熱を帯びて揺らいだ。悪魔を排除せよと結託する信者、悪魔こそ神だと謳う国の中で、二極の槍の矛先が向く悪魔と、信仰と狂信の間で葛藤する彼のような人間が、救われないと思った。やはり彼はまだ人間だ。自分だけは悪魔になるまいと、悪魔の犬に成り下がった私に向かって決意を誓う。この国が勝ってしまった時も、彼はまだ人間でいられるのだろうか。コインの表を見る日がくるのだろうか。ますます、穢れた自分が忌々しい。

42:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:21

R

「シュヴァルツ君」

ある日、マイヤーが私の家の戸を叩いた。出ると、「ジェイス」本当の名を呼んで、ハグをする。一体いつの間に、恋人のような扱いを受けるようになったのだろう。たった一晩の関係が、早撃ちの頭の中で大きく恋の炎を燃え上がらせ、ここに至るまでのストーリーを都合よく補完したに違いない。マイヤーは私の髪を撫でるのが好きだった。この日も私の頭を撫でて、微笑みながら誘いを告げる。

「映画を見にいこう」

マイヤーは可も不可も問わず、選択肢も与えない。いつも自分が中心に世界を回っている。何かと無鉄砲な彼が落とした火種の鎮火をするのはいつも私で、引き金にはストッパーが必要だった。彼はそんな私を煙たがりながら、惹かれていた。しかし、恋愛的な感情ではない。躾けるのに丁度よかったからだ。マイヤーが人を躾けて悦に浸るのを知っている。だから、私を屈服させたがるのも知っていた。見下すのが大好きな視線を見れば犬でも分かる。

「ジェイス、どうだい?」

マイヤーは私の手の上に、自分の手を重ねて尋ねる。目の前のスクリーンでは、大きな翼を広げた悪魔と人間の女が抱き合っていた。勧悪の政策。この国の法において、反悪魔的思想を描いた書物や映画などは全面的に禁止している。悪魔は滅ぶべきだとか、一文でもあれば街中から薪をかっさらう。人と悪魔は分かり合える。分断が進む他ないこの国で、誰もが鼻で笑い飛ばすような絵空事を宣う映画がマイヤーは好きだった。

「まるで空き箱のようだね」

スクリーンを見つめながら吐き捨てる。

「どこもかしこもまばらだ。私と君以外に、人の頭は数えるほどしか見当たらないよ」
「本当にこんなものを、何ヶ月も上映するんだね。上映費の方が上回りそうだ」

「戦争に勝てば、満員になる」

マイヤーは当然のように返す。スクリーンでは悪魔と人がキスをした。

「ひとつ欠点がある」
「それはね、この女優が反悪魔主義者なことだ」
「戦争が、上映が終わるまでの間は野犬のままでいさせてやる。きっと、この女には嫌がる演技をさせた方が儲かるね」
「君がスクリーンにいたらいいのに、ジェイス」

マイヤーはいつの間にかスクリーンから目を離して、私の髪を撫でつけたあとにキスをした。『愛してる』スクリーンとマイヤーの声が重なる。こんなにちっぽけな、形のない愛や支配にさえ抗えない。世界を敵に回してでも抗おうとしているグーテンベルクのことを思い出して、首輪を繋がれたままの自分がひどく惨めになった。

43:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:21

S

その日の悪魔酒場は、映画館のように客足がまばらだった。いつもは周りを渦巻く熱気も、わずかな温さに変わっている。近い戦争のために、大勢の人や悪魔が徴兵されたのだと話すと、シトロはジュースに手もつけないで食い気味になって聞いた。

「みんな、列車に?」

首を下に落とすと、列車に覚えでもあったのか、どことなく心配そうに質問を連ねる。

「列車に乗った人は、いつ帰ってくるんですか?」
「それに、帰ってこなくても生きている人は? 人だけじゃなく、悪魔も」

分からない。そう答えるとシトロは肩を落とした。

「戦争はいつ終わるんですか」

そして、最後に、せめてもの希望の薪を会話に投げ入れた。辺りの空気は相変わらず生温かった。分からないと、また無造作に同じ答えを返す。

「勝っても、負けても、いずれ滅びが待っている。近頃、私にはそんな気がする」
「悪魔に抑圧された人間が悪魔になって、皆人間をやめていく。そうして、怪物同士の争いへと変わった時に」

「悪魔帝国として、滅ぶ」

誰も止められない。今もまだ抗おうとしている信徒のことも、正義の引き金で断罪し続ける悪魔のことも。いずれ、悪魔に悪魔は殺される。いいや、殺し合う。いつしか、深く目を閉ざしていたのだろうか。そっと手に添えられた、小さな温もりに気がつかなかった。傍でワインの水面が波紋となって揺れる。シトロは、私の手の中に何かを握らせた。見ると、それはコインだった。あの日の、あの晩の。賭けをした表のコイン。

「投げてください」
「何度でも、投げてください」
「表が出るまで」
「ぼくはあなたに在り方を教えてもらった。だから、ぼくもあなたに生きてほしい」
「軍人さん、ぼくはあなたが、人間が好きなのです」

軍人。軍人。軍人。果たして、今の私にはそう呼ばれる価値があるのかと、少年に敬われるほどの身であるのかと、問いたくなる。コインを投げる私の手はずっと、国にお手と阻まれる。私は、すべてが分からなくなってしまった。なぜ、兄の名を騙ってまで軍人になったのかも。

「とある少女の話をしよう」

それは、最初で最後の、少女としての記憶。

44:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:23

21

落ちこぼれの優等生。ずる賢い劣等生。彼女は様々な呼び名で呼ばれた。街角のおもちゃ屋に売ってある飛行機、あの子が遠くの街へ引っ越した。周りでは同い年の子らが話す声。今回の試験の点数はよかったか、クラスで何番目だったか。家では食卓に成績の話が並ぶ。年相応の少女としての流行り廃りを知らない彼女は、自分の世界だけが他の世界と断絶されているような気がした。齢一桁の頃から孤独だけを知っていた。家に帰れば、暗く寒い部屋が待っている。次に待つのは残飯だ。人間の人間らしい生活に飢え、いつからか「いただきます」も「ただいま」も忘れ去り、犬のように見上げる日々。自分が声を大にして張り上げた正義よりも、嘘を盾に並べた不正義を信じる世界に、不信感を抱かずにはいられなかった。少女はおもちゃ屋を知らない。飛行機と聞けば空を見る。少女にとっての遠くとは、自宅からすぐそこの郵便局を差す言葉だった。少女は何も知らない。自分が間違っていた理由も、級友が花を咲かせる話題の広さも。ただ知りたかった。あるいは、逃げたかったのかもしれない。ある夏の暑い日に窓を開け放ち、遥か下の地面を見つめて「裸足で駆けられるのか」と興味一粒の固唾を飲んだのが、最初の一歩だった。部屋のカーテンを裂いて、結んでを繰り返し、自分の体よりもずっと長い紐へと変貌したそれは、まさしく新世界の架け橋で、少女は文字通り新世界を見た。感動のあまり、裸足でいることすら忘れていた。おもちゃ屋のショーウィンドウの中では、吊り下げられた飛行機がくるくると回っている。青色の硝子玉を目のくぼみに嵌め込んだ金髪の人形、毛布の中身を全部詰め込んだのかと見紛うくらい柔らかなテディベア。これらに「はじめまして」と話しかけて、己の一問だけがガラス越しに残っても、少女は気にしなかった。まさに夢のような夜の間に、少女は知る。裸足で地面は駆けられたと。

ある日、少女の靴が隠された。心当たりのある人は先生に。棚の隙間に落っことしたペンの持ち主でも尋ねるように、緩みきった教鞭の主は伝令する。結局、心当たりのある者など教室の中にはいなかったが、少女は気にしなかった。裸足でも駆けられることを知っている。昼の街より、夜の街の方がうんと楽しいことを知っている。酔い潰れた大人の足元でゴミ箱に潜る虫、灰色の灯、鮮やかな腐りに一点の色をつける、夜の街の異物と呼ばれる子ども。人の家の煙突に忍び込み、野菜やらパンやらを盗んでは窓から逃げていく、傍迷惑なサンタクロース。札付きの不良少年、ペンキ屋のユミルは少女の足の裏を見て笑った。同じように別世界を知る友は、後にも先にも彼だけだった。

「やあ、落ちこぼれさん」
「犬みたいな足だな」

ユミルは片手に赤い靴を引っさげてやってきた。

「おれの足も煤だらけ。毎晩、煙突を降りるのもなれたもんだよ」
「この靴を履いて帰って、ごしごし洗って売ってやりたいところだけど、勘弁しといてやる」

投げられた赤い靴が宙を舞って、少女の手元に戻ってくる。よく見ると、ユミルの体は煤や埃で汚れていた。靴はもっとぼろぼろで、底が剥がれている。病で寝込む母親を心配させまいと、煙突の下から食糧を盗んだ帰りには冷たい川で身を洗う少年が、隠された失くしものを泥だらけになって真剣に探してくれた。ありがとう、頭を下げると、「そいつが勝手に出てきたんだよ」靴を指して照れくさそうにおどける。

「落ちこぼれ、おまえは、答案を盗んでなんかいないよ」
「おまえの足は、犬の足だ。靴磨きのガキと同じ。盗人ってのはな、おれみたいに足の爪も切らないもんさ」

45:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:24

22

この日を皮切りに、二人は毎晩のように街へ繰り出した。時には馬小屋の藁の上で眠り、時には冷たい川の傍で星空を眺め、時には二人きりの学校で一晩中語り明かしたこともあった。少年の足が煤だらけにならないよう、少女は食棚からこっそりと豚や魚を持ち出し、赤い靴を履いて歩いた。ある晩、母親の病気が悪くなった、申し訳なさそうに木扉から顔を出す少年は、まもなくしてペンキを持って現れた。何に使うのかと聞けば、「未来のために」と、手足の爪を切った少年は歯を見せて笑う。戦争反対。貧民層のスローガンを街壁に塗りたくる最中、ユミルは珍しく自身の生い立ちを語った。夢を見る少年のような、煌めいた顔だった。

「金はみんな、みーんな、戦争に使われちまう」
「俺も、母さんも腹ぺこだ。卵を産む鶏も、肉を焼く薪もなけりゃ、薬を買う金だってない」
「今のおれが、過去のおれになったら、未来は変わったんだって自慢したいんだ。なあ、ほら、見えるよ」
「飛行船や、戦闘機の上の人間にだって」

未来への希望論を聞くのが好きだった。好きで、叶ってほしいとも思った。いつかこの街壁と、ペンキ屋の息子の勇気ある行いが、讃えられる日を心待ちにしていた。

乾いた夜だった。空から爆弾の雨が降って、街がどんどん穿たれる。おもちゃ屋も、学校も。知るかぎりの世界が破壊されていく。少女と家族、他の近隣住民は地下壕に逃げ込んだ。近くで赤子の泣き声がする。腕を失ったと叫ぶ人がいる。もっと詰めろ、軍人に先導されて、溢れかえる人の波に奥へ奥へと流されたあと、赤い靴のかかとがやっと地下壕の壁についた。わずかに生まれた余裕の中で辺りを見渡すと、同じように流された少年少女は数えきれないほどいたが、友の姿だけが見つからなかった。また近くで轟音が鳴って、地下壕が揺れる。ユミルの背を必死になって探した。身動きが取れなくても、目が探した。「入れてください」入口で、誰かが咳き込んだ。「お願いします」少年の声も聞こえた。ユミルだ。ユミルの声だ。早く中へと母の背中を押す彼を、軍人が押しのける。病気をうつすな。反戦争主義者だって、薬があっても国がなければ生きていけないくせに。気に食わないなら、そこの泥棒が薬でも盗めばいい。散々な罵倒と悶着のあと、ついに扉が閉められた。中に入れてくれ、叩く扉の外からくぐもった友の声が響く。開けてくれ、開けてくれと、助けを求めるうちにすぐそこで爆弾が落ちた。時々、爆弾にかき消される少年の声が痛いくらい頭に響いた。爆撃の音が止むのと、少年の声が消え去るのと、どちらが早いだろうか。命の砂時計が、ひたすら落ちていく。その子は私の友人だから開けてくれと、人波をかき分けて頼もうとするのを父が止めた。兄が、周りが止めた。長い長い夜だった。眠れない夜のどれにも勝らないほどの、長い夜。爆撃の音が止んで、夜が明けたその日に、赤いペンキで塗った街壁は跡形もなく崩れ去っていた。ただただ、崩れた希望の向こうから残骸に差し込む太陽の光を浴びて、呆然としていた。

「今でも私は、私の心は、あの地下壕の中に。扉の前に取り残されている」
「贖罪だった、救いたかった。今度こそ、空から文字が見えるようにと」

ジェイス。マイヤーが呼ぶ。シュヴァルツ。グーテンベルクが呼ぶ。私はどちらにもなれない。正義はただの物差しで、剣にはなれなかった。あの日に枯らした涙が頬を伝う。シトロは、洗いざらい話した私の傍らで、一緒に泣いてくれた。

46:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:24

23 とある少年の話

夢を見た。まだ、鉛の黒が夜空の色と同じだった頃の夢。沈むと二度と戻れない、泥沼のような暗闇で見る夢の最後はいつも変わらない。ハッピーエンドのその先が、必ずしも幸せだとはかぎらない、まるで童話みたいなおしまいを何度でも見る。憧れの列車に乗って遠い場所へ行く自分に、寂しそうな顔で手を振る友人。その姿が石ころみたいに小さくなるまで、列車はぐんぐん前へと進んで、あの街も、友人も、何もかも見えなくなってしまったら夢が終わる。友は本が好きで、夢の話が好きだった。「どんな夢を見たのか」目が覚めるたびに聞かれても、「覚えてないよ」と嘘をついた。大人や、自分たちと同じ少年に殴られる夢の話なんて、本の中身と比べようがないからだ。優しい少年の心がどこかで傷つくのが怖かったし、傷つけるのも怖かった。彼は、元気だろうか。今も変わらず空想に生きているだろうか。その方がいい。皆、生きながら夢を見ている。瞼の裏側の暗闇だけを知っている。見つめ返される深淵と会ったことなんてない、空の青さと雲の白さが当たり前だった。たった二色の世界で生きているのが、なんて幸せだったんだろう。あの頃を思い描いては苦しくなる胸の奥で、灰色の息を飲む。

「悪魔だ! 悪魔がいるぞ!」

茂みの向こうで声がした。こする間もなく寝ぼけ眼が縦に開く。どうやら、誰かに見つかったらしい。逃げなければ。捕まったら殺される。ギイギイと、嫌な金属音の鳴る壊れたブリキの人形みたいに、棒きれになった両足を踏ん張らせて走った。砂利だらけの斜面を転ぶ。転ぶ。転んで、また走る。視界の先で顔を出す何本もの枝木が肌を裂いた。走って、走って、半分の半分くらい形をなくした翼を広げて、ありったけの力で奮い飛んだ足が空に浮く。木々のざわめきと共に、満身創痍の翼も揺れる。鳥よりも、戦闘機よりも中途半端で不安定な低空飛行。どれだけ不格好で、ゼロに等しい命の灯火だろうとかまわない。かまわないから、逃げなければいけない。友が待つあの国に帰りたい。夢を見た日は泣いていた。眠ることをやめたのに、起きても同じ夢を見た。逃げるうちに地続きの大地が途切れて、真下に広い海が見えた。もうじき生夢の最後のページも終わる。いいや、終わらせなくては。瞼という天球が涙の膜を張って、溺れる。どぼん、海に溶けていく。誰かはもうぼくを追わなかった。代わりに、何百、何千という人間の船が、空を泳いで夢を追った。

47:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:25

24

何粒目かの涙のあとに、酒場の外で何かが落ちた。嬌声は恐声に変わり、音は衝撃を乗せて、絶望を降らせる。爆弾の音。命が死んでいく音。抗えない生存本能が、鼓動になって、荒波のように脈打つ。

「戦争だ」

窓ガラスの向こうから映る赤色が、中に差し込んで、ワイングラスを、戸棚を、同じ色で染める。人が源となって点す熱気とは別の、身を焦がす激情がやってくる。人と人の争い。そして、人と悪魔の戦い。理解しがたい交わりは、案の定、ぼくの理解を振り切った。まっさきに、地下街の悪魔や図書館に眠るたくさんの本、そして、友のことが走馬灯のように頭に浮かぶ。床が、壁が、憎しみの渦に震える。「シトロの坊や」店主の声にはっとした。声が火蓋を切って、ぼくの地につかない足が地についたのは、軍人が手を引いたからだった。ジョージ・シュヴァルツ。いいや、ジェイス将軍が赤裸々に語ってくれた真実と同じ、あの長い夜が再び訪れようとしている。外では屍が横たわり、生きる骨が逃げまどう。煙突の煙じゃない、爆弾が点てた炎が、煙が、天高く街を貫いて渦巻いている。渦巻いた憎しみや悲しみが届きそうな空を見上げて、一瞬、何秒ともいえる長い一瞬の中で、唖然とした。

「ああ」

クロム、君は、こんな空を見ていたのかな。たった一色、赤に染まった空を。

落とされた爆弾の雨から立ち上る煙雲が、空を赤い海へと変える。海からは、破壊の雫がしきりに振り落ちる。傘の中を探して走った。いつかの街角も、映画館も、教会も、軍基地も、雨粒に飲まれて燃えていた。苦しそうに息を上げる悪魔の手を引いて、走る、走る。どれだけ走っても、目に映る景色は変わらない。走り去る横では歴史の産物が破壊されて、剥き出しになった命が恐怖を叫んだ。この街が、この国が積み上げた時間も、育んだ命も、瓦解していく、跡形もなく消えていく。あの夜の外側ではこんな惨状が起きていた。怖い、辛いと、誰よりも叫びたかったはずだ。救う余地のある命を、薬漬けの軍人は見殺しにした。どれほどの屈辱を抱いて、どれだけ赤壁の未来を願って朽ちたのか。箱の中にしまいこんで、溢れないようにした思いが、とめどなく溢れ出す。溢れて、こぼれて、最後に残った罪だけが沈む。箱の隅に上がった火の手に追い込まれるように、行先の四方八方は炎で囲まれていた。

48:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:26

25

「軍人さん」

シトロが袖を引っ張る。今にも焼け落ちそうなレコード店の看板の隣に伸びる、路地裏街への一本道をもう片方で指差していた。「あっちだよ」街の間を縫って、道じゃなくなった道を歩いて、走る。獣が形作る獣道のような、足跡に近いものではない。人が破壊のために作り上げた滅びの道を、一歩ずつ、一歩ずつ。焼けつく肺で煙を吸いながら、死の宣告を数えてようやく辿り着いたのは、地下街だった。地下街の入口は沈静としていた。不意に安堵の息がこぼれ落ちた矢先、下り階段に爪先を下ろしたシトロの体が何者かにはねのけられる。見ると、地下街の中はすぐそこの階段まで人の頭で埋まっていた。

「中に入れてくれ」

ダメだ、一人分の隙間もない。誰にも安全地帯は譲るものかと、先頭の男は尖った刃物のように鋭く言い捨てる。一睨みに顔を上げると、胸元の帝国印に気付いたが、かまわず睨んだあと鼻で笑った。

「帝国印がなんだ。ただのお飾りの言い訳だ」
「お前らが何をしてきたのか、崇高な頭で考えてみればいい」
「自然淘汰。悪魔のためなら手を貸して、人を足で蹴落とした。お前たちがしてきたことさ、正義に託けたお決まりの文句が大好きなんだ」
「俺は国の命だ。国がしたことに従って、今ここにいる。悪魔がいれば勝てるんだってな、そりゃあいい」
「人のために戦い、人のために勝って、今度こそ滅べばいい。どうせそのつもりなんだ。この国も、王も」

最後にもう一度、力いっぱい押し返された。静寂が熱いのに、心は冷えていた。不当、理不尽、不条理、不正義、不道理。私が今まで立ち会って、私以外の誰かに立ち会わせてきたものたちが、束になって襲いかかる。あの時の報いだと思った。無力で、何もできない、失くしたものすら自分で探せない。大切な人を大勢と一緒に見殺しにした、覆されることのない不正義へ宛てた罰。背後で罪が消える音がする。背後で、どこかで、すべてが燃やし尽くされる音がする。私の心は、どんどん熱を失って、氷のように冷えていった。するりと、離した手のひらから何かが落ちる音がする。見ると、それは涙や爆弾でもなくて、一枚のコインだった。

『君の好きなコインと同じだ』
『投げてください』
『何度でも』

私は。

『自分に負けたくないんだ』
『君がスクリーンにいたらいいのに』

私は、どんな正義を信じていたのだろう。どんな正義に飼われていたのだろう。何を信じて、生きていたのかな。燃えた。燃えた。燃えた。何も知らない子供も、知らないふりをする大人も、知ったかぶりをする人間も、何もかも巻き込んで。シトロは、無言でコインを手に取ると、表を見つめた。

「軍人さん」
「もしも、裏と表が選べたら」
「どちらかが出るまで、何度でも投げられたら。どんなにいいですか?」

軍人さん、お願いです。悪魔は懇願の末に、両目を閉ざす。無知が知に変わる瞬間、愚かさの意味を知ったシトロは、たった一筋、希望の糸を見つけた。

「こんな世界を、未来を、変えてください。あの赤壁のように、信じてほしいのです」

「ぼくと契約してください、ジェイスさん」
「そして、もう一度」

表が出るまで。コインが高く投げられる。投げられて、落ちてくる。時空を引き裂くように、たった一枚、運命を委ねたコインが。

爆弾と共に落ちた時、世界は吹き飛んだ。

49:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:27

26

悪魔帝国。人々はそう呼ぶ。どこからともなく奴らが現れたのは、つい先日のことだった。人の世に、そしてこの国に顕現した悪魔達はこう言った。

「命を捧げれば勝利を誓おう」

賽を降る前に、コインを投げる前に、世界が滅ぶ前に。時が、戻る。

第一話 了

50:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:37

第一話…
戦死、犬死END

やっと終わっ…た…orz
これは帝国×悪魔×タイムリープのあれだ…
ほんとの独にサンタさんはこないんですよね(´>؂∂`)テヘッ☆

51:マリン:2022/02/11(金) 18:39

お疲れ様

52:ヤマーダ:2022/02/11(金) 18:48

マーリンくん
ありがとうございます
わいは力尽きもした
┏┛墓┗┓‐ω‐)っ

53:山田伝記:2022/02/13(日) 05:41

@恋夢羊

「ごめん、今日で抜けさせてほしい」

……え

「ケンタくんやめちゃうの…?」
「なんで…一緒に文化祭出ようねって言ったじゃんっ!!」
「めっちゃ練習したじゃん!」
「タピオカ飲んだりタピオカ食べたりタピオカ吸ったりしたじゃんかぁぁ!!」
「どうして鈍足ハゲの馬面が抜けないの!? パートまで被ってくるくせしてケンタくんよりいいとこ一つもないじゃんか! お前抜けろよ!!」

馬面はそこまで複雑な心境でもないのか、落ち着いた面持ちで肩をすくめた。ケンタくんは黙ってた。

「猫が干支に入れないから、って」
「羊はいいけど馬が二匹もいるのがいやだって」
「猫がヒスるから抜けたいんだってさ」

────

「進路? 第一希望は夢枕で……」
「本当はピアニストになりたいんだけど」
「でもほら、アタシってさ、統率とれないじゃん。体育とか苦手だしドジだし、はい羊が二匹〜て言われても行けない、アタシ大縄も無理」
「なんでピアニストかってさ、それはさ…」
「好きな人に聴いてもらえたら嬉しいじゃん」
「あと、なるべく一緒だといいから」

────

「やっぱ猫と同じくらいヒスだよお前も」
「黙れ馬面!!」

ふざけんな、ふざけんな!!
ばきっピアノを叩き割る。

ずっと優しくてもいいじゃん?
アタシほんとは、初めて会ったとき、ケンタウロスじゃなくてケンタロウスだと思ってた。
メガ進展したかった、好きになっちゃったから。

馬面ハゲと違って足速くてイケメンでかっこいいんだもん、四足歩行だけどかっこいいんだもん。
羊数えなきゃ眠れない奴のことなんてどうでもいい、アタシが夢を見ちゃダメなの?

「もう許せない」

神様、おばあちゃん、どうかこの時だけは許して。
アタシは、八つ当たりしにいく。

54:山田伝記:2022/02/13(日) 05:42

A 🦄💭💗

「あ〜〜眠れないな」
「こんな時は羊を数えよう」
「羊がいっぴ〜き、あ、きたきた、羊きた」

「にひ〜き」
「おや二匹目が出てこないな」
「に、ひ、き!」
「羊がにーひーきー」

……

「こりゃまいった、羊のやつ隠れてやがるな…」
「まあおけ、大丈夫、ぼくは美少女を数えて眠る」

「美少女がひとーり」
「…ひとり」
「ひと」

「はーい美少女でーす!」

「うわきた」
「アタシこそが、絶世の美少女もとい美羊女、な・ん・つ・っ・て」

「ぼくの安眠妨害をするのはいいかげんやめてほしいんだ」
「寝る気ないくせに人のせい、いや、羊のせいにするのはやめてほしいわ」
「ところでおまえは、なにしにきた」
「安眠妨害に決まってるじゃん?」
「はあ〜〜〜」

「ねえ漠ってば、そんなイヤそうな顔しないでよ、ちょっとアタシの夢を食べてほしいの。砂糖たっぷりにしておくから楽しみにしててよ、それまで寝たらダメだからね、寝たらひっぱたくからね」

お化粧台に頬杖をつく女の子みたいに、枕元に肘ついて、きらきら笑顔で見てやった。でも、眠れない夜の犠牲者はため息ひとつ数えて、呆れた顔に毛布をかぶる。呆れはしても、驚いてはいないようだった。

「なあんだ、またフラれたか…」
「フラれた、ですって…? 違うのよ、今回は泥棒猫のせいなの! 猫がいなけりゃ脈アリどころか不死身の恋だったのよ!」
「そうか、乙、じゃあな」
「じゃあなってなによ? ねー、ねーってば、あげるっていってるじゃん、アタシの夢だよ、ほしくないの?」

「甘ったるすぎて胃もたれするから」
「だったら塩でも入れとくからぁあ!」
「入れ方知らんやろ、ぼくもう寝たいんや、愚痴と憂さ晴らしと出会い系目的なら他当たって……ぐぅ」
「寝るな! 寝るな! ひっぱたくよ!!」
「おまえさあ」
「ぼくのこと、そーいうサービスと勘違いしてるやろ」
「便利屋じゃないんだから。もういい年なのにひとりで寝れない〜とか現抜かすなよ、寝言は夢の中だけにしろって」
「そうじゃないと、今度から、ババアって、呼ぶからな!」

ぐはぁ。
小さな指につんつんおでこを小突かれて、ちょっと大袈裟に背中からひっくり返る。

「クソガキが…」

幼い夢食いはまたため息をついた。

「ラメルさ、そんなにぼくが好きなんだったらさ、他の夢持ってきてよ」
「ぼく辛いの食べたいからよろしくね!」

……

55:山田伝記:2022/02/13(日) 06:42

B

「辛いのって、どうやってつくるの」
「唐辛子でも持ってこようか?」

げ、とか聞こえたから見ると、あからさまにイヤな態度のガキだった。

「しまった。そーだそーだ、配達員は山羊さんじゃないか」
「羊なんてせいぜい眠らせることしかできないのに職務放棄してるもんな〜」
「なにが言いたいわけよ?」
「ばか、おまえ、ラブレター書いたことないのかよ」

「はー? ある…」
「……あるし」

「なあ、絶対なさそうなのやめてくれ」
「だってさあ…」
「だっては幼稚園までな」
「でもでも!」
「でもも一緒だから!」

「…あのね、アタシ、こう見えてもすごーくピュアなの」
「猪突猛進って思うでしょ!?」
「でも残念、アタシはかよわくってかわゆい羊だから…そう、羊は寂しいと死んじゃうの」

「よーするに、告るまえにフラれたって?」
「フラれて、ない、から!」

「ふ〜ん」

今度はメルトが枕に頬杖をついて、短い足を宙ぶらり、半目で見下ろす。

「ま、どうでもいいんだよ」
「そんなことより大事なのは、甘いのだけが恋じゃないってこと」
「悲しいとか、怒りとか、そういうのぜーんぶひっくるめて恋っていうの」
「ぼくは便利屋でもなんでもないからね、ほんと。こっちは…砂糖漬けで飽き飽きしてる」
「だからさラメル、ラブレターの配達員になってよ」
「たくさん恋を見つけて、あと、なんか美味しそうなのがあったらぼくによこしてくれたらいい」

「分かった?」
「…う」

「ほら、返事」

ぐいぐい、尻尾で額を押される。

「うううう…」
「…」
「そんなだったら、もう十分よ!」
「あたしひとりで、この恋、解決してみせるから!」
「ばかメルト! 見てなさいよ! 生意気叩いたことぜったい、ぜーったい謝らせてやるから!」

56:◆XA:2022/02/15(火) 21:30

『贖罪の序章/2』

 異能励起薬、政府の研究所における研究成果の一つ、異能者の意思に関係なく異能を発動させる薬だ、特筆すべきはその即効性、効果が表れるのは投薬と同時、抗う間もなく眠っていた神秘が目覚め全身を駆け巡る。
 身体が燃えるように熱い、熱い、熱い――!
 並々と水を注がれたコップから側面を伝って水が流れ出るように、ルイスの身体から神秘が溢れだす、止め処なく流れ出るそれはもはや神秘の奔流。
 
「ぐぁぁ……あぁ……『狂禍銀狼(ジャガーノート・リュカントロポス)』――」

 口を衝いて飛び出したのは忌まわしき異能の名、その言葉が無形の神秘にカタチを与える、ルイスの身から流れ出るそれは神々しさすら感じる白銀の毛並みとなり、鋭く湾曲した爪となり、お伽噺の中の存在でしかなかったモノ――人狼へと変貌した。

 人狼の強化された身体機能の前に麻痺薬はもはや意味を成さない、ルイスは四肢に力を込めた。
 動く、いつもと変わりなく動かせる、感情の無い目でルイスは自らの手足を見つめている。
 
「……」

 人狼は緩慢な動作で立ち上がる、研ぎ澄まされた獣の五感はすぐさま獲物の匂いを感じとった。
 殲滅対象――異能解放戦線の拠点はこの近辺と言うことだ、迷いなく人狼は歩を進める。

 不思議だ、さっきまであんなに嫌で嫌で仕方なかったのに、もう誰も殺したくないと思っていたのに、そんなことはもうどうでもよくなった。
 今はただ戦いたい、その衝動がルイスの身体を突き動かす。

「だ、誰だ! お前、政府の異能者か!」

 突然、張り上げられた声が狭い裏路地に響く、声の主は二十代ほどの男性、服装は軽装、武器の類いは所持していない。
 男は人狼に驚きはしているが怯えてはいない、しっかりとこちらを見据え冷静にルイスを観察している、こういった類いのモノは見慣れているのだろう、彼もまた異能者か。




 ならばここで彼には死んでもらわなければ。

57:◆XA hoge:2022/02/23(水) 21:29

「……大丈夫、泣いてないよ、ルー君」
「ルー君、………………大好き♡」

名前:シェリル・ロックチェイン
性別:女性
年齢:15
身長・体重:150cm/44kg(成長中)
【容姿】
https://i.imgur.com/OMe14PP.png
 快活な笑みを浮かべ周りを明るくさせる、けれどどこかアンニュイな雰囲気を感じさせる紫髪の美少女。
【性格】
 ぐーたらで寂しがり屋で甘えん坊それでいて少し人間不信、そんな自分がちょっと嫌い、しっかり者だと思われたくて人前では明るく元気に振る舞っている。でもルイスの前でだけは素直になれる。
 こんな自分のことを大好きと言ってくれて、いつも側に居てくれるルイスの事が大好きで、ルー君と呼ぶくらいには信頼している。
 異能嫌いであるため異能者に対しては無意識の内に冷たい態度を取る。
【異能】
 無し

【備考】
 一人称はシェリル、あたし。
 BOUQUET(自警団)の管理するボロアパートでシルイスと同棲している、結婚はしていないが本人はルイスのお嫁さんという認識。
 BOUQUETには恩があるため喫茶店でアルバイトをする傍らBOUQUETの手伝いもしている。
 寝るときはルイスと手を繋いで寝る。そうすると悪夢をあまり見ない。
【過去】
 神秘の氾濫後も異能とは縁遠い生活を送っていたが、1ヶ月前のルイスと異能者達の戦いに巻き込まれ両親を亡くしている、この事がきっかけで異能嫌いと人間不信になった、ぐーたらは元々。
 その後、ルイスと出会い行動を共にするようになる。
 


……ルー君、あたし達ずっと一緒にいれるよね?

58:名を捨てし者 hoge:2022/02/24(木) 04:44


「いけっ! 電撃!」

ウォォォォォォォォ!!
とかいう雄叫びをあげ、トレーナーが片足を半歩前へ上体を斜めに人差し指をびしっと突き出した先のパチモンが電撃を放った。
パチモンの電撃は、己の臨界である内側と外側を隔てた白い境界線を悠々と越えて、数十メートルくらい先の相対する敵へと飛んでいく。

グァァァァァァァ!!
パチモンの電撃がコンマ何秒かで相手に届き、相手は雄叫びというか断末魔をあげ、まるでアニメの実験失敗の時みたいに頭をアフロ丸焦げ風にさせ、レントゲンみたいに骨まで見え、ファンタジーもしくはフィクションのような倒れ方をした。バタッとかオノマトペが聞こえてきそうなくらいだった。つまりはクソアフロのHPは0であり、相手の目の前が真っ暗になることと同義であった。

「うぉぉぉ!! すっげぇぇEEEE!!」

わぁぁぁぁ!
熱狂的に渦巻く、何百何千と連なる歓声の中のひとりである少年は目をキラキラ胸をワクワクとさせ、子供っぽく両の手の握りこぶしなんて掲げながらその様を見ていた。
少年にとっては夢であり、そして近く遠い光景であった…いつかは自分があそこに立ち、いつかは誰かが自分の場所に座る、そして、新たなる夢を与える……のだとか、闇雲、いや、光雲であろう幼い希望たっぷりな理想を胸に馳せる。

「俺もいつかあんなすげえトレーナーになるんだ!」

そう、夢はパチモンマスターになること。だが…この時、こんな風に夢を追っていた彼も、まさかあんなことになるとは…というより、彼がかなりクズであるとは、誰も予知することが叶わなかったのである。

「クソがよぉ、お前個体値ザコじゃねえか何しにきたんだよ、いい加減にしろよおめーーみたいなのをおんぶに抱っこにしてる俺の負担考えろよてめーよ、抱っこ紐でそのまま木に首くくりつけたらええやんけ聞いてんのか?」

キュィィィィィ、といった感じにモンスターは鳴いた…少年はハイテクで近代的な図鑑片手に嫌味ったらしい顔で早口で喋る。

「クソが、ふざけんな!!おめーはカスだ!クソガンモが!!」

違うぞ!待て!少年!よく見るがいい…
いつからパチモンがモンスターだと錯覚していたのだ…少年は肩で息をする…

「はあ、はあ……」

クリストファー、落ち着け。
よく目を凝らしてごらん、床に落ちた黒いものを埃か虫かどうか観察するように。

少年はゆっくり見て、ゆっくり見続けて、やがて自分の視界がぼやけたのが分かった。それは、眼球のピントがズレたとか、目を開きっ放しにしていたせいで涙目になったからとかではなくて、夢から覚める時のような感覚に似ていた。
目の前の小さくて愛らしく虐げるには丁度良いパチモンの姿が変わっていく、変貌を遂げていく。

いくら妖怪でもここまで酷くはならない。短い手足は太く長く伸び、ぼてっとして腹は更に広がり垂れ、さらさらとした毛並みはざらざらとした剃り毛やうっすらと見える産毛、あとはほんの少しの毛に変わった。やがて少年の視界に映し出されたものがパチモンからハゲデブになった時、世界は完全に崩壊し、何もかもがひたすら歪んでいった。

「キュィィィィィ」

ハゲデブが鳴く。うっ、おえええEEE、少年は吐いた。

「ーー博士、C027****が狂いました」

どこかで白衣を着た研究者が、大きな町を模した小さなジオラマの一角を指差して言った。あーまたか、ではもう一度やり直すように。博士は、面倒くさそうに頭を掻いて、ジオラマの近くまでは寄らずすぐに向こうへ消えた。

「あのハゲいっつも人任せにしやがって…」

やれやれ、と眉間に皺を寄せつつ溜息を吐き、言われた通りにジオラマに佇む少年をつまんで元に戻す。テープを巻き戻し、いつもの席に座らせたらこれで元通り。

「いけっ! 電撃!」

59:◆XA:2022/03/09(水) 22:38

『贖罪の序章/3』
 
「……!」

 ルイスは地面を強く蹴って疾走、強弓から放たれた矢の如き速度で男との距離を一瞬で詰める、男は猛然と突撃するルイスを見据えたまま地に片膝を突き、地面に手を当て。

「グラウンドランス――!」

 液体のように波打つ地面、飛び出す円錐形の槍の穂先。どうやら彼の異能は地面に対して作用するらしい。
 一つ目の槍は横に飛んで躱す、直線的な攻撃である以上、槍を上回る速度があれば躱すのは容易。
 続く二撃、三撃目も同様に躱し男との距離を詰める、しかしここは狭い裏路地、逃げ場は多くない。

「ほう、お前なかなか動けるな――だがこれならどうだ!」

 行く手を阻むように生成される地面の槍、それが同時に二十本、古代ギリシャのファランクスを思わせる密集陣形を前にして、なおもルイスは止まらない、スピードは落とさない、むしろ加速する――!
 正面突破は不可能、スピードでどうにか出来る数ではない、このまま突っ込んでも待っているのは串刺しの末路。
 ならば、残された道はただ一つ、ルイスは接触する刹那、地面を蹴って高く跳んだ。そのまま何度か壁を蹴り男の頭上へ。

「速い……!」

 男の驚愕の表情など最早ルイスの視界には入らない、ルイスは男の背後に背中合わせに降り立つ。

「――ッ!」

 そして、間髪入れずルイスは回し蹴りを放つ、それと同時、男もまた人狼を貫かんと異能を行使する。
 しかし、男の攻撃は届かない、槍はルイスに触れる直前、砂と化して崩れ落ちる。
 ルイスの蹴りが僅かに早かった。男の首が音を立ててへし折られる、致命傷だった。
 男の身体が崩れ落ちるのを見届けてルイスは次の獲物を探し始めた。

□■□■□

 それから一時間もの間ルイスは戦い続けた、次々と現れる異能者を屠り続け、気付けばルイスに立ち向かう者はもう誰も居なくなった。
 
 それからさらに三十分後、ルイスはようやく正気を取り戻した。
 ほんの十分前の記憶ですらおぼろ気で不確か、けれど視界に映る光景はルイスに自らの行いを理解させるのに充分だった。
 紅く血に染まった街並みと辺り一面に散らばる死体死体死体、そのあまりにも凄惨な光景にルイスは自らの犯した罪の重さに耐えかねて地面に膝をついた。
 
「――違う、僕はこんな事がしたかったんじゃない……!」
 
 目に涙を滲ませ血に濡れた地面に拳を叩き付ける、筆舌に尽くしがたい罪悪感が体を駆け巡る。
 一体どれ程の命をこの手で奪ったのだろう、
 
「あと何回、僕はこんな思いをすればいい……?」

 平和の為の戦いと言えば聞こえは良いけれど、実際にしている事はただの殺戮だ、
 自分は政府の異能者として平和のために戦うのだと信じていた、疑ったことなど一度もなかった。
 ああ、いっそ此処で死んでしまおうか、そうすれば苦しむこともない。ルイスは散乱していたガラス片の一つを手に取る、これで喉を切れば死.ねるだろう、だけど本当にそれで良いのか? 最後に一つくらい誰かの役に立つことをしてからでも良いんじゃないか?
 
「……そうだ、まだ早い。僕はまだ終われない」


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