〜序章〜
「島に近づいたら原住民に攻撃されるからな。ここらへんに放り込んどけ」
「了解致しました」
幾重にも巻かれた太いロープに抗える体力は残っていない。
鬱血するほど食い込んだそれは、今にも血の流れを止めてしまいそうだった。
かつて私の部下だった男──アシメア少佐は俺の身体を乱暴に持ち上げると、躊躇なく海へと放り投げた。
派手な水しぶきが散る。
「ゔっ……がっあぁ……!」
塩水が鼻や耳や口など穴という穴にに入り込み、激しくむせた。
耳に水が入って周囲の音は不透明になり、アシメア少佐が嘲笑いながら何か言っていたが聞き取ることができない。
両手足が縛られているせいでまともに泳ぐこともできず、顔を出すのが精一杯だ。
マントやコートが水を吸ったせいで鉄球でも付けたかのように重みが増し、溺死も時間の問題だった。
"流刑"とは言いつつも、これでは実質死刑である。
船は俺に背を向け、元来た海路を辿ろうとしていた。
船のへりを掴もうと鉛のように重い手を伸ばすも、縛られた腕は上がらない。
水は掴んだって掴んだって、手をすり抜けて消えていくだけだ。
「アシメア゛ァアアァッ!」
薄れゆく意識の中、吠えるように叫んだ声はアシメア少佐に届いたらしい。
彼は薄汚い微笑を浮かべながら、こちらに首だけ向けて振り返る。
それはいつか王室のサロンで見た水彩画のように、ふわふわとぼやけていた。
「アシメア……」
ぽちゃり、と水面に泡が浮かんで、消えた。
寒さと疲労で力が抜け、海の誘いに従うようにして身体を任せて溺れた。
海を通して見る青空ほど美しいものは無い。
海の裏側は、こんなにも幻想的だったのか──。
最期に知ることができてよかった。
ゆっくりと光が遠のき、闇へ堕ちていくのが分かった。
俺はきっと、光さえ届かないほど深くまで堕ちてゆくのだろう。
底があるのか分からない。
もしかしたら俺の身体は、永遠に闇へ闇へと堕ちていくのかもしれない。
もう拝むことができないこの光を、瞳に焼き付けて眠ろうか。
※以前投稿したものの改正版です
──ラルテル・フィーシェは、ラシャレー王国という小さな島国の名将軍であった。
その部下であるアシメアは、彼を嫌悪はすれども軽蔑はしなかった。
むしろ尊敬していた。
主に海戦を得意とし、2万の大軍に対し8000の軍で挑み、戦力差をひっくり返して勝利を収める知略の天才。
気候や地形を熟知し、自然現象を味方につけ、斬新な戦法を切り拓く。
4ヶ国語を操り、知識や教養にも富み、外交にも強い。
ラルテル率いる8000のラシャレー王国軍と戦うより、2万の他国軍を相手にする方がマシだとスペイン王にさえ思わせた男だ。
若干25歳にして大佐に抜擢されたのも、アシメアは嫉妬はしたものの、疑問は無かった。
「陸の戦いは軍事力のある方が勝つ。海の戦いは頭の良い方が勝つ」
ラルテルは地図を広げて戦略を考える際、いつもそう言っていた。
そんな逸材ラルテルだが、彼は国王アメレス2世に忌み嫌われていた。
初めは素晴らしい戦績を残したことで王に気に入られていたものの、ラルテルは民衆の味方に徹し、税の徴収額が重すぎると抗議したからである。
もともと裕福ではない家庭から上り詰めたため、民主からも慕われていたラルテルにはその負担がいかに辛いかよく分かっていたからだ。
とにかくラルテルに嫉妬していたアシメアは、その状況を利用した。
ラルテルに不満を持つ王を味方につけられるかもしれないと踏み、ある讒言を創り上げることを持ちかけた。
それは、ラルテルが隣国に軍事情報を漏洩させているという罪をでっち上げ、島流しの刑にするという算段だった。
隣国に婚約者を持っていたことが幸いして信憑性も高まり、次第に軍や民衆のの信用を勝ち取ることに成功した。
ラルテルは、流刑となった。
死刑にしなかったのは、彼を慕う貧乏民が暴動を起こさないようにと配慮したからである。
彼らは地理に疎いので、島流しであればいつか戻ってくると信じて大人しく待ってくれる。
とはいえ、彼の流された島は、フィーシェ王国の位置するヨーロッパへ泳いで帰れるほどの距離ではない。
新しく発見されたアメリカ大陸付近の、小さな孤島である。
周囲に島はない上に害獣も多く、さらに野蛮な原住民がいる。
以前探索に派遣された使節団は、原住民に攻撃を受けて引き返したという記録がある。
たとえ島に辿り着いたとしても原住民に侵略者として殺される。
いくらラルテルとはいえど、未曾有の地の言語で意思疎通することはできないだろうと、王とアシメアは嘲笑っていた。
>>3
フィーシェ王国✕
ラシャレー王国〇
「国王。手筈通りラルテルを始末して参りました。島流し……と言っても、海に放り捨てたので今頃海底で骨になるのを待っていることでしょう」
「そうかそうか……! では約束通り、君にラルテルの地位を埋めてもらおう」
国王は豊かにたくわえられた白髭を撫でながら、満足そうに微笑した。
アシメアはラルテルの持つ大佐という地位を齢20歳で手に入れられることに心臓が暴れるような喜びを感じていた。
しかし、彼の心を踊らせるのは大佐という地位だけではなかった。
ラルテルの婚約者であるレアンヌ嬢は、ラルテルとの婚約を破棄しなくてはならない。
レアンヌ嬢に密かに想いを寄せていたアシメアは、悲しみに打ちひしがれる彼女につけ込んで婚約まで持ち込む算段を立てていた。
「ではよろしく頼むよ、アシメア大佐」
「……はい」
国王にそう呼ばれてアシメアは自信が大佐になったという実感が沸き、気を引き締めて敬礼した。
と、その直後であった。
慌ただしい足音と共に、ノックが四回。
「なんだ騒々しい。入れ」
国王が許可を下すと同時に扉が開き、初老の男が顔を真っ青にして室内へと雪崩込んだ。
「大変です国王! 極秘だったアメリカ大陸周辺の島の地図と、船や武器の設計図が何者かに持ち出されたようで……!」
男性は膝をつきながら、息を切らして途切れ途切れに言葉を紡いだ。
彼の言う"何者か"は考えるまでもなくラルテルである。
「やつめ、生き延びるつもりか……!」
「心配ご無用ですよ、国王。仮に船の設計図があったとしても、作る道具や資材がありませんから。作れたとしても、せいぜいイカダでしょう。イカダで大海原は横断できません」
焦燥する国王を宥めるように言えば、国王はすぐに微笑みを取り戻した。
「それもそうだな。やつはもう、帰ってくることはできまい。それこそ、奇跡が重ならぬ限りな」
──俺は今、夢をみている。
俺は夢の中でもやっぱり闇に引きずり込まれていて、もう抗うことを諦めていた時だった。
最後にもう一度光を掴もうと手を伸ばした時、俺は心地よい泡に包まれた気がした。
重いはずの身体は翼でも授かったかのように軽く、泡の中は暖かい。
──女の顔が見えた。
朦朧とした意識は彼女の姿を捉えることを諦めたようで、俺の瞳はぼんやりと淡い人影だけを映していた。
それは太陽の光を背に受け、きらりと蒼く輝いていたと思う。
ラルテルは、肌寒く暖かいという矛盾した感覚に目を醒ました。
重い瞼をこじ開けると、緋色の夕陽が双眸を刺すように輝いている。
背に刺さる細かい破片やザラザラとした感触に不快感を覚え、ゆっくりと起き上がった。
「ここは……」
光さえ届かない海の底でも煮えたぎるような地獄でもなく、静かに波が揺れて夕陽に染まるだけの海岸。
名も知らない鳥の声。
ラルテルに脱いだ記憶はないが、コートとマントは丁寧に広げて干されている。
若干四肢が塩でべたつくものの、完全に乾燥しており、長いこと浜で寝ていたことを示唆していた。
「……なぜ俺は生きている……」
何者かが溺れたところを助けてこの島に置いたと考えるのが筋ではあるが、かなり深くまで沈んでいたはずだ。
あんな孤島近くの海で深くまで潜っている人間など、果たして存在するのだろうかと、ラルテルは思案を巡らせる。
かといってアシメアが罪悪感を抱いてラルテルを救ったとも考えられず、ますますラルテルを混乱させた。
砂浜には不思議なことに、ラルテルを運んだであろう人物の足跡はひとつもなく、蟹の親子がハサミを振り回しながら波打ち際を横切っているだけだ。