2027年──7月
「……もしもし、佐藤です」
受話器を手に取り、何回か相槌をうつ青年。右手ではメモを取っている。
「はい、分かりました…では、また」
通話を終えると、青年──佐藤那由多は長い息をつき、メモを見つめながら掠れた声で呟いた。
「やっと、だ……」
「3ヶ月ぶりか…」
佐藤那由多(さとうなゆた)は、校舎を見据えながら深く息をついた。
鉛をつけたように重い足を踏み出しながら、門を通り抜けて進んでいく。
「あれってもしかして、佐藤?」
「マジで?」
後方から聞こえる声に気づかず、那由多は足取りを進める。今年の春から不登校になり、夏までほぼ来ていなかった高校。
不登校の原因は、持病が悪化した父親の入院である。4月頃から通院をしていたが、6月下旬に入院。幼い頃に両親が離婚し、父子家庭で育った那由多にとっては、父の入院は生活的にも精神的にも苦しかった。
今日学校を訪れたのは、その最終的な相談である。
「なあ、佐藤だよな?」
「…え、は…はい」
「やっぱり佐藤だ!」
「マジじゃん」
階段をダダダと上ってきた男子二人組に那由多は肩を震わせ、足を止めた。
「超久しぶりだな!」
「……ごめん、急いでるんだ」
「あ!ちょっと待てよ」
クラスメートだった気がするが、いたたまれず、那由多は階段を駆けあがって職員室へと向かった。
「失礼します…2年1組の佐藤です。小林先生、いらっしゃいますか」
那由多は職員室のドアをノックした。しばらくして担任の小林先生が出てきて、カウンセラーの先生と一緒に相談室で話し合うこととなった。
「───というわけで、佐藤さんは二週間出席停止になります。欠席扱いにはならないので安心して下さいね」
「分かりました…ありがとうございました」
那由多は、二週間後また学校に来て、様子を見るということになった。
とりあえず方が付き、相談室を出た那由多はほっと息をついた。その間、思い出していた。仲が良かった友人、優斗のことを。
那由多が不登校になってから、優斗はメールや電話で励ましの言葉を送ってくれていた。那由多はそのおかげで心を支えられていたが、ある日を境に連絡が途絶えてしまった。
既読はつかず、電話も繋がらない優斗のことが気がかりだった。
名前の通り優しかった優斗。今すぐにでも会ってお礼を言えたなら、と那由多は唇を噛んだ。
考え事をしながら歩いていたため、すれ違いざまに人にぶつかってしまった。
「あ、すみませ…」
相手は、那由多を一瞥して去っていった。冷たいともとれる態度に那由多はびくびくしていると、通りすがった女子達の声が耳に入ってきた。
「ねえ、あの先輩ってさ…」
「あ、知ってる。有名だよね」
「そそ!カッコいいもんね」
どうやら女子達は、那由多がぶつかってしまった男子生徒のことを話しているらしかった。女子達が立ち止まり話し出すと同時に、那由多は無意識に聞き耳を立てていた。
「だけどさ、退学するらしいよ」
「え!?なんで?」
“退学”
そのキーワードが那由多の頭から離れなかった。何か問題を起こしたのか、はたまた家庭の事情か。
どちらにせよ、俺には関係ない。今は自分のことに向き合わなければ。那由多はそう思うことにした。が、
「ただの噂かもしんないけど、今の2年とトラブルあった…的な」
「えぇ…うちらの学年?」
同じ学年に、トラブルを起こすような問題児はいなかったはず。ただ、何かが引っかかっていた。何か……
那由多はハッとした。
優斗である。優斗との連絡がつかなくなってしまったことに、もしその“トラブル”が関係しているとしたら。那由多の頭にその考えが浮かんだが、一旦思いとどまった。
優斗は、上の学年とトラブルを起こすような人物か?そんなはずはない。そもそも連絡が途絶えてしまったことに大した理由はなく、ただ単に、俺にあきれて愛想を尽かしただけだとしたら。
十分すぎる理由だ…と、那由多は自分の不甲斐なさを痛感した。
だが、那由多はまだ腑に落ちなかった。優斗は優しい。だから、友達を見離すなんて、そんなことをするはずがない。
優斗のことを疑うようにはなってしまうが、尋ねてみてもいいのではないか。
那由多ははやる気持ちを抑えながら、さっきぶつかってしまった先輩の背中を追った。
「あの……すみません」
「…何?」
「あ、2年の佐藤って言います…ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
那由多の声は震えていた。緊張でどくどくと高鳴る鼓動が妙に大きく聞こえる。
言葉をじっと待つ彼。那由多のこめかみを汗がつたっていく。
「…噂で、聞いちゃった、んですけど」
歯切れの悪い那由多に、彼は察しがついたのか、はぁ、と息を吐き出した。
「噂って、あれか?トラブルとかなんとかみたいな」
「そ、そうです」
「バカじゃねぇの」
「っえ…?」
吐き捨てるように言った彼に、那由多は目を丸くした。通りかかった生徒もまた目を丸くしている。
「あー、話しづらいからこっち来い」
那由多は言われるがまま、彼について行った。人通りの少ない廊下まで進んだところで、彼は口を開いた。
「ああいうくだらない噂は全部嘘だから」
「そ…ですか、すみません、余計なこと聞いてしまって…」
「いや、気にすんな。……それより、授業もうすぐ始まるんじゃねーの」
その言葉に、那由多は苦笑いを浮かべた。
「あー…受けないんで、大丈夫です」
「…俺も同じ」
「…」
那由多は、気になった。彼の白い手が握っている退学届。トラブルが退学の理由ではないのなら、本当の理由は一体なんなんだろうか。
「あの、……」
「あ?知りたいか、俺の名前」
「ぇ、?あ…たしかに」
「なんだよその反応」
ふっと笑う彼に那由多は、なんとなく感じとっていた。
自分をいい方向に導いてくれるような、何かを。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「…七瀬」
「下の名前は、なんていうんですか…?」
「七瀬が下。二階堂七瀬」
彼の名は、二階堂七瀬(にかいどうななせ)といった。
七瀬は那由多に向かって顎を小さくくいっと動かした。
「名前は?」
「佐藤…那由多です」
「かっこいーじゃん」
「あ、ありがとうございます」
那由多は照れくさそうに頭を下げた。すると、七瀬のポケットのスマホから着信音が流れた。画面を確認した七瀬は、少し離れた場所に行き耳にスマホを当てた。
那由多はしばらくその場に佇んでいたが、なかなか七瀬の通話が終わりそうにないので、ズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。
「……え」
ない。
スマホがない。途中で落としたか?いや、それなら音で気づくはず。それなら、どこかに置いてきたとしか考えられない。来た道を戻ろうと、那由多は踵を返した。
通った道はまんべんなく探したはずだが、那由多のスマホは一向に見つからない。焦りはどんどん増していく。しかも、夏の正午という本格的に暑くなる時間帯である。昇降口まで来たところで、那由多はワイシャツの襟を掴んで前後に動かし、風を送った。
10秒間ほど息を整えていると、足音と喋り声が聞こえてきた。
体育の授業から戻ってきた生徒たちである。那由多は反射的に近くにあった男子トイレへと駆け込んだ。
何かやましいことがあるわけではない。ただ、見られたくなかった。ずっと学校にきていなかった那由多は、人目に晒されることに抵抗を感じるようになったのだ。
生徒たちが過ぎ去ったことを確認して、那由多は男子トイレを出た。
またスマホ探しを再開していると、なにやら前方に、那由多を見てぱあっと顔を輝かせたぱっつん前髪の女子がいた。誰だ?と那由多は首を傾げたが、彼女は構わずこっちに向かってくる。那由多は無意識に逃げる体勢に入った。
「ま、待って!」
「…えっ」
彼女が叫ぶと同時に、その手が持っているものが、那由多の目に入った。あれは──
「これっ、君のだよね?」
「そうです…!ありがとうございます」
駆け寄ってきた彼女に渡されたのは、紛れもなく那由多のスマホであった。
「でも、どうして…俺のだって分かったんですか?」
「えぇっと」
目が泳ぐ彼女の様子を不思議に思っていると、突然その目がバッと見開かれた。
「へ、何…?」
那由多は思わず間抜けな声を漏らした。すると、近くの曲がり角から七瀬が出てきた。
「よお、何してんだ?」
「ひっ、し、失礼しました!」
同時に、女子は頭を下げて一目散に逃げていった。
那由多は、何がなんだか全く分からず、次々と起こる予想外の出来事に頭の処理が追いつかずにいた。
「あの、今の女の子って…」
「常夏染っていう俺の後輩」
那由多は、彼女の名前が常夏染(とこなつせん)であることを知った。くりくりとした目の印象と慌ただしい印象が那由多に強く残っていた。
「七瀬さんのこと見て逃げましたよね…?なんでですか?」
「それはまぁ、そのうち分かる」
「そうですか」
と言いながら、那由多は疑問に思っていた。二階堂七瀬と常夏染。この2人…どうしてこんな暑い日に、汗ひとつかいていないんだろう。
ひとつ訊ねようとしたところで、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。チャイムと同時に、那由多のお腹も鳴り、「あ」と呟きながらお腹をさする。
「なんか食いに行くか」
「あ…でもお金持ってきてないです」
「奢るよ」
那由多の返事を待たずに、七瀬は歩き出した。
「いや、いいですよ!申し訳ないし…」
「いいから」
遠慮する那由多を遮って、七瀬はさっさと歩いていく。
本当にこの人はよく分からない。那由多は心の中でそう思った。
七瀬について行った先は、学校の近くにあるファストフード店だった。外から見たところ、店内はそこまで混んでおらず、席は空いている。
「じゃ、適当に買ってくるから待ってろ」
七瀬はそう言い残し、スタスタと店内に入っていった。
ぽつんと残された那由多は、座るのに丁度いい段差を見つけ、腰を下ろした。
夏を象徴するような鮮やかな青空と、綿菓子のような入道雲。おまけに飛行機。全部、那由多にとっては眩しいくらいに綺麗だった。
それをぼんやりと眺めていると、七瀬がドリンクと紙袋を持って戻ってきた。
「あ、ありがとうございます」
すると、七瀬が「あ」と声を上げた。
「忘れてた、俺あいつに呼ばれてるんだった」
「あいつ…って?」
首を傾げる那由多に、七瀬は「暇なら一緒に来るか?」と言った。
「え、いや…まぁ暇ですけど」
「じゃ、行くか」
半ば強引に、那由多は七瀬と一緒に“あいつ”の元へと向かうことになった。
しばらくついて行くと、正面に長い石階段が見えてきた。
「ここは…」
「神社。まぁ、目的地はここじゃないけど」
七瀬の話によると、随分と古い神社で、神主もたまにしか見かけないそうだ。
階段を登り終え、一礼して赤い鳥居をくぐった。
拝殿を通り過ぎて、深い森の中へと続く石階段を登っていく。
「まだ、登るんですか」
「ああ、もうすぐだ」
那由多の息が切れてきたところで、視界がひらけた。
「が、学校?」
目の前にそびえ立つのは、少し古びた校舎だった。那由多の通っている高校と同じほどの大きさである。
「俺の…いや、“俺たち”の学校」
「?」
間抜けな顔をする那由多に、七瀬は微笑んだ。
「ついてこい」
那由多はこくりと頷き、後に続いた。
森の中ということもあり、あたりはうるさいくらいに蝉の声で満たされていた。
門の内へ入ると、駐輪場や校庭が見えた。しかし誰一人として生徒はおらず、校舎からも賑やかな雰囲気は感じ取れない。それが那由多に違和感をもたらした。
一足制のため、二人は土足のまま校舎へと入っていく。廊下を歩いている最中、那由多のお腹が思いっきり鳴った。七瀬がそれを聞いてふっと笑う。
「そういえばまだ食べてなかったな。どっかで食べるか」
那由多は全力で縦に首を振った。
二人は、一階の突き当たりにある教室にやって来た。中に入ろうと七瀬がドアに手をかけると、何かに気づいたように動きを止めた。
「どうしたんですか?」
「…いや、なんでもない」
那由多にそう返し、七瀬がドアを開けた。眩しい光とともに目に入ってきたのは、不規則に置かれたいくつかの机。その上にはストローが刺さった紙パックのジュースが二つ置いてあった。中へと入った那由多は目をぱちくりとさせて、七瀬の方を見た。
「誰かいるみたいですね…昼休みだからかな」
「いや、多分あいつらだ」
「あいつらって、」
那由多が言いかけた瞬間、廊下から声が聞こえてきた。
「お腹すいたなぁ〜、京極先輩は何弁当にしたんですか?」
「シャケ弁当!染ちゃんは?」
「私はトンカツ弁当にしました!」
「美味しそー!早く食べたいね」
「ですね!ところで今日、二階堂先輩と伊織って来るんですかね?」
なんだか聞き覚えのある声だと思い、那由多は後ろを振り返った。と同時に、二人の男女が教室へと入ってきた。先にこっちに気づいたのは、
「二階堂先輩!?…と、あの時の!」
那由多のスマホを拾ってくれたぱっつん前髪の女子、常夏染だった。大きな目をさらにさらに見開いて、ぎょっとしている。驚いたのは那由多も同じだった。まさかこんなところで再会するなんて、と思いながら会釈をする。
「えっ、七瀬新入り連れてきたの!?」
「声がデカい」
大きな声を出して七瀬に注意されたのは、染の隣にいる男子。七瀬と同じくらい背が高く、お洒落な容姿をしている。耳元で何かきらっと光った。ピアスだろうか、と考える那由多に歩み寄り、彼は言った。
「京極天音です、よろしく!」
「さ、佐藤那由多です、よろしくお願いします」
人懐っこい笑顔で話しかけてきた京極天音(きょうごくあまね)。その隣でハッとしたように染も口を開いた。
「常夏染です」
よろしくね、と優しく微笑む彼女に、那由多もつられて笑みを浮かべる。言葉を発する代わりに、那由多のお腹がぐぅう〜と大きく鳴った。
「あ………」
恥ずかしそうに俯く那由多を見て、三人が笑う。
「お腹空いてるならこれあげるよ?」
天音がビニール袋からシャケ弁当を取り出した。
「食べるのあるので、大丈夫です」
「そか!シャケ食べたくなったら言って」
「ありがとうございます…」
ふと、那由多の目の奥がじんと熱くなった。人の優しさに触れるということが久しぶりだったから。
「さ、食べましょ食べましょ!」
机を四つ寄せて、那由多たちは昼食をとり始めた。
りんごジュースをちゅーっと吸いながら、染が那由多をじーっと見つめる。
そして口を開いた。
「ねえ、佐藤くんってなんで二階堂先輩と知り合ったの?」
「それ俺も気になるな〜」
天音も同調して言う。二人とも興味津々といった様子だ。
「えーっと…俺から声をかけたんです」
那由多は七瀬の方をちらりと見て、ざっくりと経緯を説明していった。
まず、親友の優斗と連絡がつかなくなったこと。たまたまぶつかった相手が七瀬で、彼の噂と優斗が関係しているのではないかと思ったことなど。話を聞き終えると、二人は感心したように息をついた。
「へぇ〜、そんなことがあったんだ」
「凄いなぁ、勇気あるね」
「いえ…」
「でも、その友達が今どうなっちゃってるのか心配だね」
染の言葉に、那由多は頷いた。
「もしよかったらだけどさ、友達探し、俺たちに手伝わせてくれない?」
天音の提案に、目を見開く那由多。
「…いいんですか?」
「うん。俺ら暇だし」
なっ、と天音が同意を求めると、七瀬と染はこくりとうなずいた。
「でも……やっぱり頼めません」
「なんで?」
きょとんと首を傾げる染に、那由多は申し訳なさそうな顔をしながら続ける。
「だって、みんな学校とかで忙しいだろうし」
それに、迷惑をかけたくないという気持ちもあった。すると、天音が「なーんだ、そんなことか」と笑う。
「全然気にしないでいいよ?俺たち三人ともサボり魔だから」
「え?」
「平日の昼間にこんなとこにいるの、おかしいと思わない?」
確かに、それはそうだけど……。戸惑う那由多に、染が畳み掛けるようにして続けた。
「学校にも家にも居場所がないから、ここにいるの」
那由多は言葉を失った。まるで、今の自分と同じような境遇だったからだ。居場所がないというわけではないけど、どこにいても息が詰まるような、そんな感覚。
「私は…親が厳しくて、家に居づらくて、学校でも気張り詰めてばっかで…風邪ひいた時に何日間か休んだら、そのまま行きたくなくなっちゃった」
染が頬杖をつきながら、どこか遠くを見るような目をする。
「もう、疲れちゃったんだよねぇ」
染の横顔をじっと見つめる那由多に気づいた彼女は、慌てて謝った。
「あっ、ごめん、暗い話しちゃって!」
那由多は首を横に振る。
「なんか、安心した…俺も、そんな感じだから」
そう言うと、染は微笑んだ。
「佐藤くんもか、仲間だね」
「…うん」
柔らかく笑い合う二人に向かって天音が手を伸ばし、頭の上にぽんと手を置いた。
「なんでも、言っていいからな」
わしわしと撫でられる染と那由多。染は嬉しそうに笑い、那由多は涙を滲ませながら頷いた。
優しく目元を細める天音のくすんだ緑の髪の毛が、窓からの光を受けて優しく透き通った。
那由多は一人帰路についていた。あの後は、他愛もない話をした。好きな食べ物や苦手なものの話など。
家庭環境のことについては、あまり余裕がない、とだけ説明した。
三人とも優しい人たちで、また明日も会おうと言ってくれて。
それが嬉しい反面、なんだか胸騒ぎがして落ち着かなかった。
那由多は立ち止まって振り返る。誰もいない。
「……気のせいか」
小さく呟いて再び歩き出したその時だった。
「久しぶり、那由多」
聞き覚えのある声に、心臓が大きく跳ねた。
「優斗……?」
目の前に現れたのは、親友の優斗だった。久しぶりに会ったから、見た目は少し変わっていて、その雰囲気はいつもと違って冷たかった。
「お前さぁ、今までどこ行ってたんだよ?」
那由多の顔が強張っていく。優斗の声は低く、不機嫌そうで。
──これは優斗じゃない。
那由多は直感的にそう感じ、無意識に一歩ずつ後ろへと下がっていった。
「なんで逃げるんだよ」
見た目は優斗だが、明らかに様子がおかしかった。口調はこんなにぶっきらぼうじゃないし、それに…
「優斗は……そんな顔しない」
那由多は震える声で言い放つ。優斗は笑っていた。それはもう、恐ろしいほどに。口角を上げているが、目は全然笑っていなくて、その表情はまるで別人みたいだ。優斗の笑顔はもっと優しい。
「あーあ、バレたか」
「誰なんだよ……!」
「俺は優斗だよ」
ふざけるな、と那由多が怒鳴ろうとした瞬間、優斗の姿が消えた。
そして、首筋に何か冷たいものが当てられた。
それが何か認識した瞬間に、那由多の意識は引き戻された。
「はっ……!!」
「あ、起きた。大丈夫?」
目の前にあったのは、天音の顔だった。右手には水の入ったペットボトル。
那由多は、夢を見ていた。
「俺、いつの間に…?」
どうやら那由多は机に突っ伏したまま眠っていたらしい。
キョロキョロと見回すと、染は窓の外を眺めていて、七瀬は教室にはいなかった。
「那由多が寝たのはお昼食べてからかな。といっても1時間前くらい」
天音は頬杖をつきながら首を傾げた。
「どんな夢だった?魘されてたから思わず起こしちゃったけど」
「親友が出てきました」
「それって、連絡がとれないって言ってた友達?」
頷く那由多に、天音は数秒間黙り込んだ。何かを悩んでいるようにも見える。
「あのさ那由多、もしかしてその親友の名前って…」
「京極先輩」
窓際にいる染が焦ったように声を上げた。
「分かってるよ、染ちゃん」
眉を下げる天音と、染の顔を交互に見比べて那由多は眉をひそめた。
「なんの話ですか?」
「いや、なんでもないよ!」
染が慌てたように手を振る。なにかを隠しているような様子に、那由多は怪訝な顔をした。
すると、天音のポケットに入っているスマホが揺れた。
「伊織からだ」
「あ、私が話してもいいですか?」
「うん」
染は嬉しそうに天音からスマホを受け取り、通話ボタンを押した。
「もしもし、伊織?」
『なんだ、染かよ』
通話の相手は、声の若さ的に那由多と同じくらいの青年のようだ。
『京極先輩に代わって』
ぶっきらぼうな言い方に染はむっとしながら天音に代わり、空いていたイスに腰を下ろした。
天音が伊織と話している間、那由多は染に訊ねた。
「伊織さんっていうの?今の人」
「そうだよ、幼馴染みなんだ。頭と顔は良いけど口が悪くてさ〜」
染の話によると、彼の名前は五十嵐伊織(いがらしいおり)といって、同じ高校の同級生らしい。
「私が通ってる高校、といってもまともに行けてないけど、進学校なんだ。伊織がそこ行くって言うから、一緒のとこ行きたくて勉強頑張って、やっとのことで合格したんだけど…結局授業ついてけなくて、それがきっかけで…」
「それで、不登校に?」
染は俯きがちにこくりと頷いた。
「でもね、京極先輩とか、二階堂先輩のおかげで前よりは病まなくなったんだ」
染の言葉に、那由多は少しほっとした表情を見せた。
染がここに来ている理由は、『居場所がないから』。
そして染は、京極先輩たちと過ごしている。それはつまり、彼らが染にとって信頼できる人物だということだ。
血の繋がっていない他人にそこまで気を許せるものなのか、と那由多には疑問だったが、血が繋がっていないからこそ分かり合えることもあるのか、と思い直した。
そんなことを考えているうちに、天音が電話を終えたようだ。
「染ちゃん、ちょっといいかな」
天音は染を連れて廊下に出て行った。那由多もついて行こうとしたが、天音が目で制す。仕方なくその場で待つことにした。
二人は五分ほど話し込んでいたが、戻ってきた染の顔はなぜか浮かないものだった。
◇
「どうかしたの?」と佐藤くんが聞いてきた。
さっき京極先輩と話してたことは、伊織からの電話の内容についてと、『佐藤くんの言ってた“連絡がつかない親友”が優斗なんじゃないか』ってこと。
「あー、えっと…」
曖昧に答えることしかできず、京極先輩の方に目をやる。
私じゃ、上手く説明できない。
意志を汲み取ってくれたのか、京極先輩が口を開いた。
「質問に質問で返す感じになっちゃうけど、那由多『二階堂優斗』って子のこと知ってる?」
その名前を聞いて、佐藤くんは目を丸くした。
「!俺の親友です…七瀬さんと兄弟だったなんて、なんで気づかなかったんだ…」
やっぱり、佐藤くんが言ってたのって優斗のことだったんだ…。
二階堂先輩がそれを知った上で佐藤くんを連れてきたのか、はたまた偶然なのかは分からないけど、私も京極先輩も驚きで顔を見合わせる。
「連絡が繋がらない親友って言ってた子が優斗、で合ってる?」
京極先輩の問いに佐藤くんは頷いた。私は二人のやり取りを見ながら、その場に佇むことしか出来なかった。
京極先輩は佐藤くんと同じ目線になるように腰を落として言った。
「あのね、優斗は今、入院してるんだ」
「……え…なん、で?」
「原因は俺たちもよく分からないけど…寝たきりの状態が続いてて」
「そ、んな……いつから…?」
佐藤くんの目から涙が零れた。その涙を見て、私は胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
私が優斗と知り合ったのは、高一の頃行っていた学習塾。7月の夏期講習で、伊織と私は優斗に出会った。
一緒に勉強するうちに少しずつ打ち解けていって、夏期講習が終わる頃には、私たちは友達になっていた。優斗は明るくて話しやすく、彼のことを嫌いな人はいないんじゃないかってくらいみんなに好かれていた。
高一が終わるタイミングで私は塾をやめたから、それからは優斗と会っていなかった。再会したのは優斗が入院していると知ってから、高二(現在)の6月のはじめに伊織と一緒にお見舞いに行ったとき。
まさか再会があんな形になるとは思わず、病室のベッドに横たわる優斗を見たときはショックを受けた。
その時は会話できて、顔色は冴えていなかったけど私たちをちゃんと覚えていてくれて、安心したのを覚えている。
そこで、ちょうどお見舞いに来た二階堂先輩と初めて会い、お見舞いに来てくれたお礼を言われた。
病室を出る間際、かすかに聞こえた二階堂先輩の『俺のせいだ』と言う言葉が今でも頭から離れない。
そしてさっき伊織から来た電話は、優斗のお見舞いに行ったが、看護師の人に面会が出来ないと言われてしまったという内容だった。つまり、状況があまり良くない、ということ──
いつの間にか涙が頬を伝い、地面にぽたぽた落ちていた。
「優斗……死んじゃったらどうしよう……」
佐藤くんと京極先輩が息を呑んで私を見つめた。相応しくない言葉だとは分かっているけど、こう思わずにはいられなかった。優斗の笑顔を思い出せば出すほど、涙は溢れるばかりだった。
▽
スマホで時間を確認すると、そろそろ5時半になる頃だった。椅子に座って話す染ちゃんと那由多に呼びかける。
「じゃ、そろそろ帰ろっか。これ以上遅くなると、お母さんも─」
心配するし、と言いかけて、口を噤んだ。
那由多は察したようで「気にしなくていいですよ」と切なそうな笑みでそう言った。
「ごめん…」
本当に、無意識に人を傷つけてしまうところは、昔から変わらない。
『天音くんって、なんか空気読めないよね』
いつかは忘れたけど、クラスの人にそう言われたことがある。
周りの人も、否定しなかった。ショックだったけど、笑って誤魔化したら、
『いつもヘラヘラしててムカつく』
って言われて、もうどうしたらいいか分かんなくて、走ってその場を去ったのを覚えている。
「あーあ、もう終わりかぁ、この時間も」
鳥居をくぐって神社の階段を降りながら、染ちゃんが寂しそうに言った。
「あっという間だねー」
「ほんとですね…」
楽しかった、と那由多。また、切なそうに笑っている。
会ってからずっと、那由多はどこか寂しそうだった。話してる時も、笑ってはいたけど、心から笑っているっていう感じじゃなかった。やっぱり優斗のことが心配なんだろうな…。
「…綺麗」
視線を上に向けながら立ち止まり、ぽつりと那由多が呟いた。
「綺麗だよね、ここから見える景色」
明かりの灯る住宅街が見渡せて、まだ淡く水色が残る空には、薄く月が浮かんでいる。今日は満月だ。
「こんな隠れスポットあったんですね」
ひぐらしの声が鳴り、空気も涼しくなってきた。
「なんか、佐藤くんにもこの場所知ってもらえて嬉しい」
嬉しそうにはにかむ染ちゃんに、自然と口角が上がった。
二人と別れて、家に帰るまでの道を歩いていると、後ろから「あ、京極くん」と声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に振り返ると、クラスメイトの木下くんがいた。
出席番号が一個前の、メガネをかけた黒髪の真面目くんで、先生に頼まれてか、俺がサボった時によくプリントを届けてくれる。
「今日もわざわざ届けにきてくれたの?ありがとう」
「あ、うん」
何枚も重なったプリントを受け取った。
「嫌だったら断ってね、別に机の中入れっぱなしでもいいし」
「あ、いや、最早日課みたいなものだから嫌ではないよ」
「まじか、ごめんね」
木下くんって優しいね、と言いかけたけど、やめておく。
手を振って別れ、プリントに目を落とした。
「文化祭のお知らせかぁ…」
明日は行こっかなぁ、学校。
( 匿名先生、面白いっす