青い七月

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1:匿名:2022/01/09(日) 23:08


2027年──7月


「……もしもし、佐藤です」

受話器を手に取り、何回か相槌をうつ青年。右手ではメモを取っている。
「はい、分かりました…では、また」
通話を終えると、青年──佐藤那由多は長い息をつき、メモを見つめながら掠れた声で呟いた。

「やっと、だ……」

13:匿名:2022/06/05(日) 21:21


>>12
ありがとうございます!!本当に嬉しいです!!




「ただいま」
誰もいない部屋に、那由多の声だけが響く。
「おかえり」と誰かが言ってくれるはずはない。今この家には自分以外誰もいないのだから。
「はぁ…」
鍵を閉め、ドスンと玄関に腰を下ろす。今日、一日で一体どれくらいの進展があっただろうか。
那由多は気持ちを整理しながら、靴紐を解いた。

まず、学校に行って、先生と話し合った。次回行くのは二週間後。
そして、七瀬さんと出会った。色々あって、神社の奥にある学校に行った。京極先輩、常夏さんと知り合った。
そして、優斗のことが分かった。
まさか入院してたなんて…。

今度優斗の入院先の病院を、七瀬さんに聞いてみよう。面会は出来ないらしいけど、それでもいい。
「優斗が早く良くなりますように…」
那由多は祈るように両手を組んだ。


冷蔵庫にある食材で適当に夜ご飯を作り、テレビを見ながら食べる。部屋に響くのはテレビに映る芸能人の声と自分がご飯を食べる音だけ。
いつものことなのに、なぜか今日は格段に寂しく感じた。
きっとあの場所で、みんなと──七瀬さんたちと一緒に食べたからだろう。
誰かと一緒にご飯を食べる楽しさを、思い出してしまったから。

自分は孤独なんだ、と那由多は確信した。
もっとたくさん、誰かと関わりたい。話したい。この孤独を埋めてほしい。
そのためには自分が動く必要があるんだ。いつまでも自分の殻に閉じこもって、受け身で生きてちゃダメなんだ。
喝を入れるために、那由多は両手で自分の両頬を叩いた。
「…痛っ」
少し強すぎたかもしれない。


──翌朝。
ぱちっと目が覚め、時計を確認する。時刻は午前9時。
今日はお父さんのお見舞いに行くから、行く時にスーパーでゼリーとか買っていこう。
一昨日お見舞いに行った時は、このまま順調にいけば二週間後くらいにはリハビリに移れると言われた。
早くお父さんと一緒にご飯食べたり、テレビ見たりしたいな。
そう思いを馳せながら、那由多は着々と身支度を整えていった。

14:匿名◆PuoP/I:2022/06/20(月) 22:43


近所のスーパーでお父さんの好きなみかんゼリーを買い、お父さんの入院先の病院へ向かっていく。
空はどんよりとしていて、まだ午前中だというのにまるで夕方みたいに暗かった。昨日の晴天は嘘だったんじゃないかと錯覚するほど、雲が満遍なく空を覆っている。

今朝見た天気予報では、午後から雷雨になる可能性が高いと言っていたから、早めに行って早めに帰ってこよう。
那由多は曇り空を見上げながら、早足で進んでいった。

病院へ続く通りを歩いていると、近くの花屋の前に見覚えのある姿が見えた。
眉の少し下で切り揃えられた前髪、色素の薄めな大きな瞳。間違いなく、常夏染だった。
彼女はどうやら、花を見ているらしい。

那由多はそのまま歩いていき、声をかけた。
「常夏さん」
「えっ、佐藤くん!?なんでこんなところに…」
那由多が事情を説明すると、染は驚きながらも「偶然だね」と笑った。

「私、優斗にお花届けようと思って見てたんだ」
面会はできないけどね、と寂しげに目を伏せ、目線を白いガーベラへと移した。那由多はその様子を見ながら、口を開いた。

「…あのさ、優斗が入院してるとこって色葉(いろは)病院?」
「うん、そうだよ。すぐそこのとこ」
色葉病院──お父さんの入院している病院と一緒だ。

「じゃあ一緒に行く?」
そう尋ねると、染は言葉を詰まらせ、目を泳がせて言った。

「…いや、いい」
てっきり染が縦に首を振ると思っていた那由多は、目をぱちくりとさせた。
「そっか。じゃあ、またね」
そう手を振ると、染はぼうっと手を振りかえすだけだった。
ぼんやりとした様子の染に疑問を抱きつつも、那由多は病院へ急いだ。

15:匿名◆PuoP/I:2022/07/09(土) 15:09


色葉病院に着き、受付の人に父の部屋番号を伝えてから病室へと向かう。
203という番号の下に、父の名前が書かれているドアを確認して、コンコンとノックする。

「お父さん、おはよう」
病室の扉を右にスライドして開け、挨拶をしながら入る。
同時に、ベッドで横になっている父の姿が目に入った。
ゆっくりと上半身を起こしたお父さんの顔色は悪くて、それが那由多を不安にさせた。

「…那由多、今日も…」
そこまで言うと、父はゲホゲホと咳込んだ。
那由多は駆け寄り、父の背中をさする。
「お父さん、無理しないで」
少しして父が落ち着くと、那由多はトートバッグからみかんゼリーを取り出した。
「みかんゼリー買ってきたから、よかったら食べて。冷蔵庫に入れとくから」
「ありがとうな」
那由多は父の笑顔を見て安堵したような表情を浮かべ、みかんゼリーを病室の冷蔵庫へと入れた。

それから、昨日はこんなことがあったとか、どんな人と会ったとか、色んなことを話した。その度に頷いて聞いてくれるお父さんが、大好きだ。
そう感じるとともに、不安が襲ってくる。
お父さんがいなくなったら、俺は本当に一人ぼっちになってしまう、と。

*

面会時間の終わりが来ると、那由多は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、また来るね」
「ああ」
手を振って病室を後にする那由多。毎度、病室から出るときは夢から覚めたような気分になる。
どこか寂しい、終わっちゃったんだ、というような。

病院の廊下を歩きながら、那由多は探していた。
優斗のいる病室はどこなんだろう、と。


そして、やっと見つけた。
108という数字の下に書かれている、『二階堂優斗』の名前を。
どく、と心臓が大きく音を立てた。
ここに、いるのか…優斗が。

思わず手を伸ばし、ドアの取っ手を掴もうとしたところで、那由多はぴたりと手を止めた。

だめだ。関係者以外は入れない。自分が入っちゃだめだ。
でも会いたい、会って話したいのに。
この一枚の扉を開ければ、優斗がいるのに。
だけど…面会は、禁止なんだ。

心音は徐々に静かになり、那由多は冷静になった。
会うのは今じゃない…優斗が元気になってから、面会ができるようになってから。
那由多はそう言い聞かせ、手をゆっくりと下ろした。

16:匿名◆PuoP/I:2022/07/12(火) 20:59




蝉の鳴き声、廊下を行き交う人たちの話し声や足音。
それらに紛れる、ただ一人シャーペンを走らせる音。
「あと5分です」
黒板と教壇の間に立つ先生が淡々と告げた。
時間配分のことを考えていなかったから、時間はもうギリギリだ。
最後の問題の数式を慎重に計算していく。
だが、だんだん頭の中で数字がはてなに変わっていく。
…なんだこれ?全然分からない。
とりあえず、勘で解答欄を埋める。

「…よし」
解答欄は全部埋めた。自分にしては結構いけた方だと思う。
もう、後は野となれ山となれだ。これでダメだったら次頑張ればいいだけの話だ。

ざっと見直しを終えると同時にタイマーが鳴った。
「はい、終了です。解答用紙を回収します」
「ありがとうございました」
解答用紙を先生に渡し、教室を出る。
文化祭の準備が出来ると思って学校に来たものの、結局、俺は別室にて受けていなかったテストを受けることになってしまっていた。

約三時間ほどのテストから解放され、大きく伸びをしながら歩いていると、
「あ、京極くん」
後ろから木下くんの声が聞こえた。
「おー木下くん。授業ちょうど終わったとこ?」
「うん」
「そっか。じゃ、せっかくだし一緒に自販機行かない?」
「あ…ごめん、僕用事あるから」
そう言って木下くんは、なぜか顔を俯けがちに、早足で行ってしまった。
え、なんかしちゃったかな。もやもやとしながら、飲み物を買おうと自販機に向かった。


人のあまり通らない階段に座りながら、自販機で買ったサイダーを飲む。
喉をしゅわしゅわが通り過ぎていく。その間、さっきの木下くんの様子を思い出していた。

木下くん、俺のこと嫌いなのかな。
いや、でもそしたらそもそも話しかけてこないはずだし、プリントもわざわざ届けてくれるなんてしないはずだし、嫌いではないのかな。

一人頭を悩ませていると、階段を下りてくる二人の足音と、話し声が聞こえてきた。
ここを退こうとしたその時、『木下』と『京極』という言葉が耳に届いた。
確かに聞こえたその二つの言葉に、動揺しながらも、反射的に近くにあった掃除用具入れの陰に隠れた。

女子二人の話し声は足音と共に近づいてくる。
「ていうか、木下みたいな根暗なやつが京極と仲良さげにしてんの、違和感しかない」
「それ。なんか、なんで?って感じ。さっきも話しかけてたから思わずじろっと見ちゃった」
「京極もさ、変に優しくしたりするからなんじゃない?知らんけど」
「それで仲良いって思い込んじゃうの可哀想ー」
「まぁでも私も思い込んじゃうかもだわ」
あはは、という笑い声とともに彼女達は去っていった。声が遠ざかっていったことを確認して、そっと陰から出る。
心臓が嫌な音を立てて、どくどくと脈打っているのを感じる。
聞き耳を立てたのは自分なのに、二人の会話が頭から離れなかった。

『──さっきも話しかけてたから思わずじろっと見ちゃった』
だから木下くんは、あの時逃げるようにして行っちゃったんだ。
合点がいった。でも、それよりも、木下くんが“根暗”なんて言われていたことに苛立ちを覚えた。
なんで俺と木下くんが話してるだけで、勝手に色々言われなきゃいけないんだろう。

次、彼に会った時、どんな顔で接すればいいんだろうか。
そう思いながら、ぼんやりとしたまま校舎の外へと向かっていった。

17:匿名◆PuoP/I:2022/07/16(土) 17:41


空は灰色の雲で覆われていて、今にも雨が降り出しそうだ。
まるで今の自分の心の中をそのまま表したような空模様だ。

スマホで天気を見ると、12時から傘マークがついている。今は12時過ぎだから、これから降る可能性大ってことか。

このまま6時間目まで授業受けてもいいけど、さっきの女子達とか、木下くんに会ったりしたらなんとなく気まずい。

“逃げ”の文字がもやもやと頭に浮かぶ。
今日は帰ろうと決め、駐輪場に停めていた自転車に乗る。

校門を出ると、ポツリと頬に冷たいものが当たった。

「げ、降ってきた」
ペダルを漕ぐ足を早めると、水滴がどんどん数を増やしていく。
家に着く頃にはびしょ濡れになりそうだ。

周りに学生らしき姿はない。
途中で帰ったりしてるの、俺だけか。
みんな偉いなぁ。ちゃんと学校行ってんのか。

そう思った途端、自分が惨めで情けなく思えてくる。
俺、ほんとにこんなんでいいのかな。
ネガティブな感情に比例するように、雨脚は強まっていった。


俺は、よく“雨男”って言われていた。その理由は確か、肝心な時必ず雨だ、とか。あともう一つ、なんか言われた気がするんだけど…。誰に言われたんだっけ。

ぼーっと考えながら自転車を漕いでいると、道に転がっていたペットボトルに気づかず、思いっきりタイヤで踏んでしまった。
その拍子にバランスを崩し、雨で滑ってペダルから足が外れる。
「うわっ」
ガシャン、と音を立てて自転車が倒れ、俺は地面に投げ出された。
「痛…っ!」
身体を打ち付けた痛みで涙が出てくる。
くそ、ついてない。最悪だ。側から見たら、最高にカッコ悪い馬鹿なやつなんだろうな。身体の痛みと、自分の情けなさと、色々混ざり合って涙が出てくる。泣いてもバレないから、今日が雨でよかったのかもしれない。

なんて思っていると、
「何してんの」
呆れたような、笑っているようなそんな声が頭上から降ってきた。と共に、傘で雨が遮られて止んだ。見上げるとそこには、黒髪の、整った顔立ちをしている人物がいた。見慣れた顔だ。

「え、えっ七瀬?」
拍子抜けした声が出る。混乱したまま、差し伸べられた手を掴んで立ち上がる。
「なんか前の方で盛大に転けた奴いるなと思ったら」
笑いを含んだようなその言い方に少しイラッとするも、俺の方に傾いている傘を見て、七瀬の優しさに気がついた。

「ていうか、泣いてるし…やっぱお前雨男だよな」
「うるさ!」
そう言いながら、自転車に乗る。「ありがとう」と言い残し、そのまま走り去った。
後ろの方で、「おー」という返事が聞こえた。

『天音って、ほんと雨男だよね』
『なんで?』
『だって、よく泣くし』
『…なにそれ』
いつだったっけな、七瀬にそう言われたの。

18:匿名◆PuoP/I:2022/07/19(火) 21:45





ベッドに寝転がって、窓の外を見つめる。まだ雨は止みそうにない。12時ごろから降り始めて、16時になってもまだ降っている。

結局私は、花を買わずに家に帰った。
しかも、せっかく佐藤くんが一緒に行く?って言ってくれたのに、あんな断り方しちゃった。
相変わらず私はコミュニケーションが下手だ。
「はぁ…」
もう何度目か分からないため息をついた。
ため息をつくと幸せが逃げるって言うけど、私にはもう逃げるほどの幸せもないんじゃないか、なんてネガティブな事ばかり思う。

ふとスマホの画面を見ると、伊織からメッセージが来ていた。
『明日から短縮授業だから来れば?』
という文面だ。
短縮授業、というのは、お昼なしで、授業が4時間目までしかないことだ。いつもより授業時間が短いから、早く帰れる。
でも、行ったとしても伊織は同じクラスじゃないし、なんてまたネガティブな事を考えながら文字を打つ。

『んー、考えとく』
と送信して何分か経って、伊織から『おー』という返信が来た。
簡潔で伊織らしい返事に、少し頬が緩む。
恋愛感情ではないけど、私は伊織が好きだ。
一緒にいて落ち着くし、楽しい。
こんな幼馴染みを持てて良かったと思う。
でも……私は伊織に依存しかけてるのかもしれない。

今、私に伊織以外で“友達”と呼べるほどの親しい人はいない。
優斗とは最近会えてないし、二階堂先輩や京極先輩も、“友達”とはちょっと違う気がする。佐藤くんとも、まだ完全には打ち解けてない。

思えば、私には同性で同世代の友達がほぼいない。
去年──高一の頃は普通に学校も行ってたし、仲のいい子もいたけど、今年に入ってから友達作りに失敗して、授業についていけなかったりとかもあって学校もまともに行かなくなった。
そんな私のことをなんだかんだで気にかけてくれる伊織が、救いだった。

ずっとこのままじゃいけないって分かってるけど、どうしても勇気が出ない。

ごろんとベッドで寝返りを何度も何度も繰り返す。何度も、何度も。
そしてようやく決心がつき、スマホを手に取った。

『明日学校行く』
伊織とのトーク画面でそう入力して、送信ボタンを押す…
寸前で手が止まった。
やっぱり、やっぱりやめようかな。行ったところでって感じだし、短縮授業だからって、特に変わんないし。

悶々と悩んでいると、地面が割れるくらい大きな音で雷が落ちた。
思わず肩が跳ね、その拍子に指が送信ボタンに触れた。
「あ…」
まぁ、いっか。
私はもう一度寝返りを打ち、目を閉じた。

19:匿名◆PuoP/I:2022/07/23(土) 22:14


次の日、私はばたばたと支度を終え、玄関を出た。太陽の光で、白ばかりが眩しく目に映る。

「伊織!おはよう」
「おう、おはよ」
私の家の前で、伊織は自転車を止めて待ってくれていた。少し茶色っぽい髪の毛が、いい感じに跳ねている。

伊織に会うの、何日ぶりだろう。
そう考えながら玄関の段差を駆け下りる。
「わざわざありがとね」
「うん」
思わず笑みがこぼれてしまい、慌てて口元を押さえる。
「どした?」
「なんでもない。行こっか」
それでもまだ口角は上がりっぱなしだった。伊織と一緒にいるだけで楽しいんだ。
「後ろ乗る?」
「あ、うん!」
伊織の自転車の荷台に、リュックを抱えて乗っかった。

伊織の漕ぐ自転車はゆったりと進んでいき、風が控えめに頬を撫でる。周りの景色も、ゆっくりと変わっていく。
今日はバスケ部の朝練がないから、って迎えに来てくれた伊織。前もたまに、こうやって後ろに乗せてくれたなぁ。
嬉しいし、懐かしい。

しばらく無言の時間が続いたけど、居心地の悪さはなかった。

校門を通り抜けると、私は荷台から降りた。
「ありがとね、伊織」
「うん」
「──あ」
思わず声を上げてしまった。伊織は「ん?何?」と首を傾げている。
私の目線は、校門をくぐってきた一人の女の子に吸い寄せられていた。

顎のラインで切り揃えられた艶のある綺麗な黒髪。
白くて滑らかそうな肌。
長いまつ毛に縁取られた大きな瞳。
形の良い唇。
まるで白雪姫みたいなその子は、前に何回か廊下ですれ違ったとき、儚い雰囲気がすごく印象に残った子だった。

私の目線の先を辿ったのか、今度は伊織が「あ」と言った。
「一宮」
「いちみや?」と私は繰り返した。「うん、同じクラスの…」と伊織の説明を聞いていると、白雪姫ちゃんがぱっとこっちを向いた。

「あ、五十嵐」
「いがらし?」とまた私は繰り返す。苗字、しかも呼び捨てで呼び合ってるってことは仲良いってことなのかな。
「おはよ、その子もしかして彼女?」
「いや、幼馴染み」
「えっ、幼馴染みとか羨まし!青春じゃん!」
儚げな雰囲気とは打って変わった、明るくハキハキとした喋り方だ。勝手におしとやかなイメージだと思ってたから、予想外だった。

親しげに話す二人を前にぽかんとしていると、白雪姫ちゃんが近寄ってきて言った。
「一宮叶亜です、よろしくね!」
「あ、とっ常夏染です!」
白雪姫は、一宮叶亜(いちみやとあ)ちゃんと言った。

「染ちゃんって呼んでいい?私のことは自由に呼んで!」
「うん。じゃあ、叶亜ちゃんって呼ぶね…!」
「了解!」
眩しい笑顔を浮かべる叶亜ちゃん。絶対この子、友達いっぱいいるだろうな。
「じゃ、俺自転車置いてくるから」
そう言い、伊織は駐輪場へ行ってしまった。
叶亜ちゃんはひらひらと手を振ると、「一緒に行こ!」と歩き出した。私もそれについて行く。

私はドキドキとしていた。でも、心地のいい緊張だった。

20:◆PuoP/I:2022/07/31(日) 09:47


教室に向かう階段を上る途中、叶亜ちゃんが口を開いた。
「私ね、ずっと前から染ちゃんと仲良くなりたいなって思ってたんだ」
「…え?」
どうしてこんな、高嶺の花みたいな存在の子が、どこにでも生えてる雑草みたいな私と?疑問符が頭を埋め尽くす。

「いつから…?」
「んーとね、去年から!文化祭で3組のお化け屋敷行った時、その時の受け付けが染ちゃんで、にこにこしてて可愛いなぁって思ってからずっと気になってた」
そんな風に思われてたなんて全然知らなかった。まさか、そんな前から私のこと覚えててくれてたなんて…

叶亜ちゃんは微笑んで、私の顔を覗き込んできた。
「だからね、こうやって話せて嬉しい」
大きな瞳を細め、口元で優しく弧を描く。その表情を見て、胸がじわり、と温かくなった。
「私も…嬉しい」
そう言うと、叶亜ちゃんは「いひひ」と満足気に笑い、さらに続けた。

「ね、よかったらさ、今日一緒に帰らない?」
屈託のない笑顔を浮かべる叶亜ちゃん。もちろん、断る理由はなかった。
「…うん!」
「じゃあ、約束ね!」
ばいばい!と叶亜ちゃんは手を振って、1組の教室へと入っていった。
私も同じように手を振り、2組の教室へと向かう。

──だんだん、現実に引き戻されていく。
そういえば私、同じクラスに仲良い人いないんだった。
どうしよ…ここまで来たのに、帰りたいかも。

ドアの前で立ち尽くしていると、「染」と声が聞こえた。振り向くと、そこには伊織がいた。
「大丈夫か?」
「う、うん…大丈夫」
私はぎこちなく笑い、「ありがとね」と付け足した。伊織は何か言いたそうにしてたけど、友達に呼ばれてそっちに行ってしまった。

教室の後ろのドアを開け中に入ると、何人かが視線をこっちに向けるだけだった。
…よかった。変に『常夏さんだ』とか言われても困るし…
少し顔を俯けがちにしながらそう思っていると、一人のクラスメイトが「あっ!」と声を上げた。

「常夏さんだ」
えっ、と思わず声が出た。
「おはよ〜」
「おはよう!」と、次々にかけられる挨拶の声。
なんで?
「えっ…あっ、お、おはよ!」
困惑しながら慌てて返事を返す。それ以降は特に何も言われなかった。
みんな、こんなにフレンドリーだったっけ?挨拶運動みたいな期間とか?

疑問を抱きながら、自分の席をきょろきょろと探していると、
「あ、席ここだよー」
と窓際の一番後ろの席の女子が、前の席を指差しながら教えてくれた。さっき『常夏さんだ』って言った子だ。
お礼を言い、そこの席に荷物を置く。

みんな、こんなに優しかったっけ…
もしかして、これ夢?
左手の甲をつねってみた…痛かった。夢じゃない。

その後も、前の席の子とか後ろの席の子が休み時間の時話しかけてくれたり、授業で当てられた時に隣の席の人が助けてくれたりとか、本当にみんな親切だった。

なぁんだ。
私が勝手にみんなとの壁を作ってただけで、本当は壁なんて最初からなかったんだ。

21:◆PuoP/I:2022/08/07(日) 16:50


帰り、コンビニで買った棒アイスを食べながら、私は叶亜ちゃんと肩を並べて歩いていた。

「染ちゃんはさぁ、夏にやりたいことある?」
叶亜ちゃんがそう言い、アイスに齧り付いた。
「んー」
雲一つない空を見上げながら、私はやりたいことを思い浮かべる。

去年は確か、優斗と伊織と、3人で夏祭りに行ったり…
「あっ」
「なになに?」
興味津々というように、叶亜ちゃんが身を乗り出した。

「海とか行きたいかも」
すると、叶亜ちゃんが目を輝かせた。
「え!私も思ってた!」
「ほんと?」
きっと私の目も同じようになってると思う。
蝉が私たちを包むように鳴いている。
「じゃあ行こうよ、一緒に!」
「…!うん!」
「今!」
「え?い、今?」
「うんっ」
そう言うと、叶亜ちゃんは私の左手をとって走り出した。
私はアイスの棒を握りしめながら、手を引かれるがままに走った。

「あっ、見て叶亜ちゃん」
「ん?」
私は右手に握っていたアイスの棒を見せた。そこには『当たり』の文字が刻まれている。
「おぉ〜!なんかいいことあるんじゃない?」
「だといいなぁ」
いいことなんて、もうとっくに起きてるかもしれないけど。
心の中でそう呟いた。

5分ほど坂道を下っていくと、日差しを受けてきらきらと光る海が見えてきた。
「染ちゃん、ほら見えてきたよ!」
「…疲れた……一旦休ませて…」
私は叶亜ちゃんを引き留め、日陰で息を整えた。やっぱり体力落ちてるなぁ私…
「お、自販機みっけ」
一方、叶亜ちゃんはスキップをしながら、近くの自販機へと向かっていった。艶のある黒髪が揺れている。

今朝初めて話したばっかりなのにこんなに打ち解けられたのは、全部、叶亜ちゃんの底抜けに明るい性格のおかげだと思う。
冷たい氷が暖かい日差しに溶かされていくように、私は叶亜ちゃんに心を溶かしてもらったんだ。

そんなことを考えていると、
「わっ!!」
突然聞こえてきた叶亜ちゃんの悲鳴。そして、がしゃんという缶の落ちる音。
「大丈夫!?」
私が振り向くと同時に、コーラの缶二つがコロコロと足元を転がっていった。
「えっ」
「待って待ってごめん手滑って落としちゃった!!」
「ひ、拾わなきゃ!」
叶亜ちゃんと私は焦りながら、転がっていく缶を追いかけた。

ようやく缶が止まると、私たちはほっと息をついた。缶を拾い上げ、ぱっぱっと汚れを振り払う。
「ふぅ、無事でよかった!」
と、プシュッと音を立て、叶亜ちゃんがコーラの蓋を開けた。あれ、炭酸って落としたりしたら溢れちゃうんじゃ…
「今開けない方が…あ」
言うのが遅すぎた……。
叶亜ちゃんは固まった笑顔のまま、溢れてくるコーラを見つめていた。

22:◆PuoP/I:2022/09/17(土) 00:11



裸足になって、砂浜を歩く。日差しを受けて熱くなった砂は、鉄板の上みたいに熱い。
暑さを冷ますように、波に足をつける。
海も砂と同じように日差しを受けてるはずなのに、ちっとも熱くなくて、気持ちいい。

心地のいい風が私たちの髪や頬を撫でた。
叶亜ちゃんの方を見ると、ぱちっと目が合った。

まっすぐで、大きくて綺麗な瞳に吸い込まれそうになっていると、その瞳は優しく細められた。
「綺麗」
「え?」
一瞬、私の気持ちを代弁したのかと思った。だけど、叶亜ちゃんは私を見て微笑んだ。

「染ちゃんって、綺麗だよね」
「…えっ!?」
綺麗。
「なんか、夏が似合う可憐な女の子って感じ!」
可憐。
「そ、そんな!叶亜ちゃんのほうが……」
叶亜ちゃんの方が、ずっと、ずっと綺麗で、可憐で、眩しくて、明るくて…
私が言葉を探しているうちに、叶亜ちゃんは水平線の方へと進んでいった。

叶亜ちゃんの膝の少し下を波が覆う。
そして振り返り、太陽よりも輝く笑顔を見せた。

「行こう」
そう言って、叶亜ちゃんは私に手を伸ばして、手首を掴んだ。
「……?」
私は腕を引っ張られるままに歩き出した。ばしゃ、ばしゃ、じゃぼん。

さっきまで足首の辺りだった波は、膝あたりまで来ていた。
このままじゃスカートの裾が波に浸かっちゃう。
「と、叶亜ちゃん?」
「んー?」
叶亜ちゃんは、水平線を見据えたままお構いなしに私の手首を引っ張る。力が緩められることはなく、それどころか少しずつ、強まっているような。

叶亜ちゃんのスカートの裾が、海水を吸い込んで色が濃くなっていく。
「あ…え、叶亜ちゃん…?」
さっきまでの、穏やかな気持ちとは打って変わって、私の心はどくどくと胸騒ぎを覚えはじめた。
「待って、待って」
引っ張られる方とは反対方向に力を込めると、叶亜ちゃんがふっと振り返った。

長いまつ毛に縁取られた瞳が、揺らぎながら私を見つめた。さっきまでの笑顔は、どこ?
「叶亜ちゃん、ど、どうしたの…?」
少し震えた声で私が訊けば、叶亜ちゃんは瞬きをしたあと、目線をわたしの後ろの方へ向けた。
わたしもつられて後ろを見る。

海沿いの道を、自転車がゆっくりと走っていた。あれは…
「伊織…!」
見慣れたその姿を見た瞬間に、緊張の糸が解けた。伊織の方もこっちに気がついたのか、自転車を止めた。
「二人ともなにしてんだよ、危ねえだろ」
「ごめんってばー!ただ遊んでただけだって!」
叶亜ちゃんは砂浜に戻りながら、いつものように明るく声を上げた。
その明るさが逆に、私を不安にさせた。
叶亜ちゃんは、何するつもりだったんだろう。

23:◆3w:2022/11/27(日) 22:41





私は昔から、自分が持っていないものを持っている人を死ぬほど羨ましく、妬ましく思ってしまう性格だった。
例えば──誰にでも好かれるカリスマ性を持っている人とか。



最初は、特に話したこともない、ただのクラスメートだった。
『二階堂数学の課題見して!』
『優斗ー弁当食べよ』
『二階堂くん今日部活?頑張って!』
だけどみんなが面白いくらいに彼のことを呼ぶから、だんだん気になってきて。
ある日、席替えで隣になった時『チャンスだ』って思って、にっこり笑顔を浮かべながら、明るい声で彼に挨拶をした。

『二階堂くん、よろしくね』
いつもはこれで大体の人は私の虜になるけど、そう簡単にいかなかった。
『うん、よろしく。一宮さん』
彼はそう言って微笑んだだけで、それ以上何も言ってこなかったし、私に興味がある素振りを見せようともしなかった。

私は無性に悔しくなって、どうにかして彼に興味を持ってもらいたくなった。
そして彼と仲良くなれば、彼の持っているものは私のものにもなるかもしれない、って。

それから私は、鬱陶しいくらいに彼に関わった。
『二階堂くんおはよ』
『ねぇねぇ、次の時間割何だっけ?』
『この前おすすめしてくれた漫画、超面白かった!』
とにかく、彼に話しかけた。彼は私に対して嫌な顔ひとつせず、みんなに接するのと同じように接してくれた。
だけど、“みんなと同じ”じゃ納得できない。私はみんなよりも彼と仲良くなりたい。そして彼の持つカリスマ性が欲しい。
私は必死だったと思う。

周りのクラスメートは、私たちのことを噂していた。
『二人って付き合ってるの?』
とか、
『叶亜ちゃんって、二階堂くんのこと好きでしょ?』
とか言われることもあった。
その度に私は、首を横に振った。
私はただ、彼が持つものが欲しいだけで、それを手に入れたいから彼に関わってるだけ。
って、自分に言い聞かせていた。

本当は心の奥底で気づいていたんだと思う。
私は二階堂優斗が好きなだけなんだ、って。

彼の周りにはいつだって人がいた。男女問わず、彼はみんなから好かれていた。春の暖かい日差しのような優しさと、雲ひとつない夏の青空みたいな爽やかさを兼ね添えたような性格で、きっと彼が漫画の登場人物だったら、間違いなく主人公だなと勝手に思っていた。
そして、私とは真反対だなと感じていた。

私は基本的にいつも一人で、特別仲の良い人なんていなかった。クラスメートからは勝手に“高嶺の花”扱いされて、話す時も、いつも一定の距離感を保たれて。
『可愛い』とか『綺麗』とか、言われて嬉しいのも最初のうちで、言われるたびに自分が遠ざけられているような気がしてしょうがない。

そんな私を一面的に捉えず、“一宮叶亜”として普通に接してくれたのは、ただ一人、二階堂優斗だけだった。

24:◆PuoP/I:2023/01/22(日) 23:58


ある暑い夏の日、彼に、『一緒に帰ろう』と誘われた。断るはずもなく、私は首を縦に振った。もちろん、と。

彼の隣で歩くのは最高にいい気分で、すれ違う生徒たちが羨ましそうにこっちを見るのがたまらなかった。
側から見て、私たちはお似合いだったんだと思う。
高鳴る鼓動を抑えながら、ふわふわと彼の隣を歩いたのを覚えている。

人気者の二階堂優斗は、私と一緒に下校するんだ。
私は、二階堂優斗と一緒に下校できるんだ。
そう思うだけで、世界が少しだけ綺麗に感じた。

『ちょっと寄りたい場所があるんだけど、いい?』
他愛もない話をしながらしばらく歩き、日が傾きかけた頃、彼は言った。断るという選択肢は私の中にない。私は『いいよ』と言い、思わずスキップしそうになる足を地面にしっかりとつけながら彼の隣を歩いた。
どきどきした。

辿り着いた場所は海だった。じんわりとした夕日に照らされた海面はほのかに輝いていて、それに加えて私たちの影が砂浜に並ぶのを見ながら、私はまた、世界は綺麗だなんて思ってしまった。

押し寄せる波を見つめながら、私は思った。
彼はどうして私と一緒に帰りたいって思ったんだろう。
どうして私をここに誘ったんだろう。
なんて、本当は心の隅で分かりかけていることを考えてみるふりをした。

夕日を見つめる彼にそっと目を向けてみた。鼓動が増していくのが分かる。
私が彼に向けるこの感情を、彼も同じように私に向けているんじゃないか?
その思いを私に告げるために、私を誘ったに違いない。そうでなきゃおかしい。

『一宮さん』
名前を呼ばれて心臓が跳ね上がった。『好き』。その類の言葉を、私史上最も待ち侘びた瞬間だ。
返事の言葉はどうしようかな──後で、手繋いでもいいかな──なんて、舞い上がっていた。
しかし、彼が次に発したのは、私の予想していた言葉とはまるで違った。


『──願いが必ず叶う神社、って知ってる?』
『……は?』
理解が追いつかなかった。どうしていきなりそんなことを?戸惑いながら、私は答えた。

『いや、知ってるも何も…有名な噂じゃん。あの神社の鳥居の前に立って三回願い事すると、それが叶うってやつでしょ?』
『そう、それ』
『…それで、何がしたいの?』
私は思わず冷たい言い方をしてしまった。すると、彼はポツリとこう漏らしたのだ。

『死んでみようかなって』
『え?』
耳を、疑った。
『もう飽きたんだ。疲れたっていうか…優等生でいるのも全部、面倒くさいし』
彼の口から信じられない言葉ばかり出てくる。“死んでみようかな” “飽きた” “疲れた” “面倒くさい”。

私が知っている二階堂優斗とはまるで別人のように、力のない表情と、声。
普段の明るくて爽やかな彼はどこにもいなかった。

『だからさ、一宮さん』
二階堂優斗は私の名前を呼んだ。
『俺のこと殺してくれない?』
その言葉は、その表情は、夕焼けに染まる海の綺麗さにそぐわない、あまりにも残酷なものだった。

25:◆PuoP/I:2023/02/23(木) 23:30


あれ…そのあと私、なんて答えたんだっけ。大事な部分が思い出せないなんて…

ただ、私があの時なんと答えていようが、彼が未だに目を覚まさない事実は変わらない。
彼は私のこと、どう思ってたんだろう。聞いとけばよかったな……


──彼が持っていたものはたくさんあった。人を惹きつけるカリスマ性。陽だまりのような微笑み。晴天のような爽やかさ。みんなから好かれる性格。
全部、私にはないもの…欲しくてたまらないもの。どうやったって手に入れられないものを彼は持っていて、憧れの中に嫉妬も混じっていた。
それが徐々に、特別な感情に変わっていった。

私が話しかけると、彼は必ず目を見て応えてくれる。
どれだけつまらない話でも、嫌な顔せずに聞いてくれる。
そんな些細なことでも、私の心が溶かされていくには十分だった。
例え“優等生”を演じるために貼り付けられた笑顔でも、取り繕っただけの偽りの優しさだとしても、私は彼のことが好きだ。
彼は私の初恋だった。生まれてからの15年間は、彼のために取っておいたと言ってもおかしくないくらいだ。

そんな彼の『殺してくれ』という頼み。私にだけ弱さを見せて頼んだということは、私のことが特別だったからなんじゃないか…なんて都合よく解釈した。

彼がいらないものは、私が欲しいものだ。彼が飽きてしまった“みんなから好かれる優等生”という存在は、私が求めていたものであり、憧れの存在だったのだ。
彼が持つ優しさも、カリスマ性も、人に好かれる才能も、私が欲した全てだった。
それを全て捨ててしまおうというのなら、いっそのこと私がもらってしまいたい。強くそう思った。

──ああ、思い出した。確かあの時、私はこう言ったんだ。


『……殺…すなんて、無理。でも、それでも本当に死にたいって思ったら…二階堂くんは私に、意識を渡して欲しい』
『…どういうこと?』
『そのままの意味だよ。私の中で生きればいい。ずっと、私と一緒にいてよ』
私は彼に死んで欲しくなかった。
だって、話してると楽しいから。
優しく応えてくれるから。

朝、おはようって微笑んで挨拶してくれるから。
難しい問題の解き方を教えてくれるから。
好きな漫画の話ができるから。

凛とした横顔が格好良いから。
見惚れてしまうほど綺麗な瞳をしてるから。
手を繋ぎたいと、触れたいと思わせてくれる人だったから。
好きでたまらないから。

無色だった私の人生に、色をくれた人だから。
『ねえ…二階堂くん』
その時も、彼はいつものように私の目を見てくれた。綺麗な瞳に私を映してくれた。


──君が死んだら、もう君の瞳に私は映らない。私と君の視線が交わることもない。
教室を見渡しても、君の姿を見つけることはできない。ただぽっかりと空いた君の席だけがそこにあるだけ。
帰り道に、二人で影を並べることもない。君の隣を歩くこともできない……
そんな思いが溢れ、目の前の彼が涙でぼやけた。
『…死なないで………』
頬を伝う涙は止まらず、砂浜へと落ちていった。
自分の中で彼がこんなにも大事な存在になっていたんだと気づいた。

涙を拭おうとしたその時、
『…ごめん』
彼はそう言って、私を抱きしめた。
一瞬、時が止まったように感じた。体温が一気に上がっていくような気がした。心臓が壊れそうなほど速く動いて、どうにかなりそうだった。
遠慮がちに背中に回された腕。彼の匂い。鼓動。
全てが私をくらくらさせた。
あと数秒抱きしめられていたら、きっと私は倒れていただろう。

私から離れた彼は、もう一度『ごめん』と言った。
『あんなこと言って、本当にごめん。あと…ありがとう』
そして頭を下げた。
『約束するよ。死なない、絶対に』
『…本当に?』
私が訊ねると、彼はしっかりと首を縦に振った。
真っ直ぐに、私を見つめたまま。


なのに、どうして────
約束、したじゃん。

26:◆PuoP/I:2023/03/28(火) 20:52



──2027年5月22日午後7時45分ごろ、十関(とぜき)海岸波打ち際にて、制服を着た男子高校生が倒れているのが通行人によって発見された。男子高校生は溺水したと見られ、病院に搬送されたが、意識不明の重体である。

あの事故が地元のニュース番組で流れたのは、その翌朝の一度きりだ。
たまたまそれを目にした私は、ものすごく嫌な予感がして、すぐに二階堂優斗に電話をかけた。

だけど、その電話は何度かけても繋がることはなく、ただ無機質なコール音が響くだけだった。
──きっと、彼はまだ寝てるんだ。だから電話に出ないんだ。
しかも彼は、学校のない土曜日にわざわざ制服を着て夜の海に行くような人じゃない。

そう自分に言い聞かせて、なんとかして目の前が真っ暗になってしまわないように必死だった。
お願い、どうか、二階堂優斗じゃありませんように…そう祈りながら。
 
私は、それまで生きてきた中で一番大きな不安に囚われたまま一日を過ごした。
思い詰めた様子の私に、母は何があったのかと訊ねてきたけど、私はそれに上手く答えることができなかった。

そしてついに、夜になっても二階堂優斗から連絡が来ることはなかった。
何度彼に電話をかけても、聞こえるのは無機質なコール音と、生気を纏っていないロボットのアナウンスだけ。
私が聞きたいのは二階堂優斗の声だというのに。

一瞬、彼の家を訪ねようかと迷ったけどそれはできなかった。
もしそこに彼がいなかったとしたら……そう考えただけで恐ろしかった。そして何より、彼の家族に迷惑をかけるわけにはいかない、と。

明日だ。明日は月曜日。学校に行って、彼に会おう。彼の顔を一目見れば安心できる。きっと大丈夫だ。
私は不安を取り去るように、そう信じて眠りについた。


しかし翌日、二階堂優斗が登校することはなかった。
 

27:◆PuoP/I:2023/06/04(日) 09:00






少年が呼んでいる。
波の音に紛れて、声が聞こえる。


足を止めると、微かに姿が見えた。


少年が呼んでいる。
風の音に紛れて、声が聞こえる。


──あれは誰だろうか。俺はあの少年を知っているだろうか。


少年が呼んでいる。


──七瀬兄ちゃん!


少年は俺の名前を叫んだ。

その途端、大きな波が少年に覆い被さった。
深い青が、一瞬にして一人の命を呑んでいく。攫っていく。奪っていく。

ああ、まただ。また救えなかった。


どうして助けられなかったんだろう。
俺は悪夢の中で、何度もがいているのだろう。
命が沈んでいく瞬間を、ただ見ていることしかできないでいるのだ。

少年の声ももう聞こえない。
この悲劇を、何度繰り返せばいいのだろうか。


──優斗、ごめん。
今度こそ必ず手を差し伸べるから、だからどうか待っていてほしい。
 

28:◆PuoP/I:2023/08/02(水) 12:00



コンコン、と繰り返しドアをノックする音で目が覚める。
誰だ…?
寝ぼけたまま身体を起こすと、開いたドアの隙間から光が差し込んだ。

ゆっくりと開いたドアから顔を覗かせたのは、ここにいるはずのない人物だった。
「え…は…?」
その人物を目にした瞬間、眠気が吹っ飛び、心臓が大きく音を立てて、細胞という細胞が一気に目を覚ましたような気がした。

「──おはよう。もう7時だよ」

優斗!!!
体中が叫んだ。
なんで、なんで優斗が。
俺は咄嗟に言葉が出ず、彼を見つめることしかできなかった。髪型も、顔も、声も、背丈も、紛れもなく優斗だ。
「……どうしたの?」
優斗は不思議そうに訊ねた。

だけど、家に優斗がいるわけないじゃないか。だって優斗は今入院してるんだ。寝たきりなんだ。
これは夢だ。幸せな出来事が起こるのは大体夢の中だ。
どうせ、腕だってつねってみても痛くないんだろ。
そう思いながら軽く腕をつねった。

痛みは…ある。
これは、夢じゃない。

そんな俺を見て、優斗が吹き出した。
「あははっ、珍しい。兄ちゃんが寝ぼけてる」
久々に聞いた優斗の笑い声。くしゃっと笑った顔。
「ありえない…」
「なにが?…ていうか、早くしないと学校遅れるよ」
じゃ、とドアを閉めようとした優斗を思わず引き止めた。

「…び、病院は?」
口をついて出たのはその一言だった。
「病院?」
もしかしたら、俺の知らない間に元気になって、退院してきたのかもしれない。いや、あり得ないけど、もしかしたらあり得るかもしれない。


「なにそれ、なんの話?」
優斗はきょとんとして首を傾げた。とぼけている様子ではなかったし、本当に何も知らないようだった。
「ごめん、なんでもない…」 
なんでもないわけない。信じられない。この状況全てが信じられない。
「疲れてるんじゃない?今日はもう休めば」
そう言い残し、優斗は部屋をあとにした。

優斗が出て行った後も、ぐるぐると頭の中が混乱し続けた。
なんだ、これ、本当に現実か?
おかしい。絶対、おかしい。

ハッとなり、スマホで今日の日付を確認する。

[ 5月10日 月曜日 ]

「どうなってんだよ…」
本当なら今日は7月8日のはずなのに。
何度見ても、画面の日付は間違いなく5月10日を示していた。二ヶ月前に戻ったってことか?あり得ない。
こんなに奇妙な朝は初めてだ。


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