2027年──7月
「……もしもし、佐藤です」
受話器を手に取り、何回か相槌をうつ青年。右手ではメモを取っている。
「はい、分かりました…では、また」
通話を終えると、青年──佐藤那由多は長い息をつき、メモを見つめながら掠れた声で呟いた。
「やっと、だ……」
「3ヶ月ぶりか…」
佐藤那由多(さとうなゆた)は、校舎を見据えながら深く息をついた。
鉛をつけたように重い足を踏み出しながら、門を通り抜けて進んでいく。
「あれってもしかして、佐藤?」
「マジで?」
後方から聞こえる声に気づかず、那由多は足取りを進める。今年の春から不登校になり、夏までほぼ来ていなかった高校。
不登校の原因は、持病が悪化した父親の入院である。4月頃から通院をしていたが、6月下旬に入院。幼い頃に両親が離婚し、父子家庭で育った那由多にとっては、父の入院は生活的にも精神的にも苦しかった。
今日学校を訪れたのは、その最終的な相談である。
「なあ、佐藤だよな?」
「…え、は…はい」
「やっぱり佐藤だ!」
「マジじゃん」
階段をダダダと上ってきた男子二人組に那由多は肩を震わせ、足を止めた。
「超久しぶりだな!」
「……ごめん、急いでるんだ」
「あ!ちょっと待てよ」
クラスメートだった気がするが、いたたまれず、那由多は階段を駆けあがって職員室へと向かった。
「失礼します…2年1組の佐藤です。小林先生、いらっしゃいますか」
那由多は職員室のドアをノックした。しばらくして担任の小林先生が出てきて、カウンセラーの先生と一緒に相談室で話し合うこととなった。
「───というわけで、佐藤さんは二週間出席停止になります。欠席扱いにはならないので安心して下さいね」
「分かりました…ありがとうございました」
那由多は、二週間後また学校に来て、様子を見るということになった。
とりあえず方が付き、相談室を出た那由多はほっと息をついた。その間、思い出していた。仲が良かった友人、優斗のことを。
那由多が不登校になってから、優斗はメールや電話で励ましの言葉を送ってくれていた。那由多はそのおかげで心を支えられていたが、ある日を境に連絡が途絶えてしまった。
既読はつかず、電話も繋がらない優斗のことが気がかりだった。
名前の通り優しかった優斗。今すぐにでも会ってお礼を言えたなら、と那由多は唇を噛んだ。
考え事をしながら歩いていたため、すれ違いざまに人にぶつかってしまった。
「あ、すみませ…」
相手は、那由多を一瞥して去っていった。冷たいともとれる態度に那由多はびくびくしていると、通りすがった女子達の声が耳に入ってきた。
「ねえ、あの先輩ってさ…」
「あ、知ってる。有名だよね」
「そそ!カッコいいもんね」
どうやら女子達は、那由多がぶつかってしまった男子生徒のことを話しているらしかった。女子達が立ち止まり話し出すと同時に、那由多は無意識に聞き耳を立てていた。
「だけどさ、退学するらしいよ」
「え!?なんで?」
“退学”
そのキーワードが那由多の頭から離れなかった。何か問題を起こしたのか、はたまた家庭の事情か。
どちらにせよ、俺には関係ない。今は自分のことに向き合わなければ。那由多はそう思うことにした。が、
「ただの噂かもしんないけど、今の2年とトラブルあった…的な」
「えぇ…うちらの学年?」
同じ学年に、トラブルを起こすような問題児はいなかったはず。ただ、何かが引っかかっていた。何か……
那由多はハッとした。
優斗である。優斗との連絡がつかなくなってしまったことに、もしその“トラブル”が関係しているとしたら。那由多の頭にその考えが浮かんだが、一旦思いとどまった。
優斗は、上の学年とトラブルを起こすような人物か?そんなはずはない。そもそも連絡が途絶えてしまったことに大した理由はなく、ただ単に、俺にあきれて愛想を尽かしただけだとしたら。
十分すぎる理由だ…と、那由多は自分の不甲斐なさを痛感した。
だが、那由多はまだ腑に落ちなかった。優斗は優しい。だから、友達を見離すなんて、そんなことをするはずがない。
優斗のことを疑うようにはなってしまうが、尋ねてみてもいいのではないか。
那由多ははやる気持ちを抑えながら、さっきぶつかってしまった先輩の背中を追った。
「あの……すみません」
「…何?」
「あ、2年の佐藤って言います…ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
那由多の声は震えていた。緊張でどくどくと高鳴る鼓動が妙に大きく聞こえる。
言葉をじっと待つ彼。那由多のこめかみを汗がつたっていく。
「…噂で、聞いちゃった、んですけど」
歯切れの悪い那由多に、彼は察しがついたのか、はぁ、と息を吐き出した。
「噂って、あれか?トラブルとかなんとかみたいな」
「そ、そうです」
「バカじゃねぇの」
「っえ…?」
吐き捨てるように言った彼に、那由多は目を丸くした。通りかかった生徒もまた目を丸くしている。
「あー、話しづらいからこっち来い」
那由多は言われるがまま、彼について行った。人通りの少ない廊下まで進んだところで、彼は口を開いた。
「ああいうくだらない噂は全部嘘だから」
「そ…ですか、すみません、余計なこと聞いてしまって…」
「いや、気にすんな。……それより、授業もうすぐ始まるんじゃねーの」
その言葉に、那由多は苦笑いを浮かべた。
「あー…受けないんで、大丈夫です」
「…俺も同じ」
「…」
那由多は、気になった。彼の白い手が握っている退学届。トラブルが退学の理由ではないのなら、本当の理由は一体なんなんだろうか。
「あの、……」
「あ?知りたいか、俺の名前」
「ぇ、?あ…たしかに」
「なんだよその反応」
ふっと笑う彼に那由多は、なんとなく感じとっていた。
自分をいい方向に導いてくれるような、何かを。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「…七瀬」
「下の名前は、なんていうんですか…?」
「七瀬が下。二階堂七瀬」
彼の名は、二階堂七瀬(にかいどうななせ)といった。
七瀬は那由多に向かって顎を小さくくいっと動かした。
「名前は?」
「佐藤…那由多です」
「かっこいーじゃん」
「あ、ありがとうございます」
那由多は照れくさそうに頭を下げた。すると、七瀬のポケットのスマホから着信音が流れた。画面を確認した七瀬は、少し離れた場所に行き耳にスマホを当てた。
那由多はしばらくその場に佇んでいたが、なかなか七瀬の通話が終わりそうにないので、ズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。
「……え」
ない。
スマホがない。途中で落としたか?いや、それなら音で気づくはず。それなら、どこかに置いてきたとしか考えられない。来た道を戻ろうと、那由多は踵を返した。
通った道はまんべんなく探したはずだが、那由多のスマホは一向に見つからない。焦りはどんどん増していく。しかも、夏の正午という本格的に暑くなる時間帯である。昇降口まで来たところで、那由多はワイシャツの襟を掴んで前後に動かし、風を送った。
10秒間ほど息を整えていると、足音と喋り声が聞こえてきた。
体育の授業から戻ってきた生徒たちである。那由多は反射的に近くにあった男子トイレへと駆け込んだ。
何かやましいことがあるわけではない。ただ、見られたくなかった。ずっと学校にきていなかった那由多は、人目に晒されることに抵抗を感じるようになったのだ。
生徒たちが過ぎ去ったことを確認して、那由多は男子トイレを出た。
またスマホ探しを再開していると、なにやら前方に、那由多を見てぱあっと顔を輝かせたぱっつん前髪の女子がいた。誰だ?と那由多は首を傾げたが、彼女は構わずこっちに向かってくる。那由多は無意識に逃げる体勢に入った。
「ま、待って!」
「…えっ」
彼女が叫ぶと同時に、その手が持っているものが、那由多の目に入った。あれは──
「これっ、君のだよね?」
「そうです…!ありがとうございます」
駆け寄ってきた彼女に渡されたのは、紛れもなく那由多のスマホであった。
「でも、どうして…俺のだって分かったんですか?」
「えぇっと」
目が泳ぐ彼女の様子を不思議に思っていると、突然その目がバッと見開かれた。
「へ、何…?」
那由多は思わず間抜けな声を漏らした。すると、近くの曲がり角から七瀬が出てきた。
「よお、何してんだ?」
「ひっ、し、失礼しました!」
同時に、女子は頭を下げて一目散に逃げていった。
那由多は、何がなんだか全く分からず、次々と起こる予想外の出来事に頭の処理が追いつかずにいた。
「あの、今の女の子って…」
「常夏染っていう俺の後輩」
那由多は、彼女の名前が常夏染(とこなつせん)であることを知った。くりくりとした目の印象と慌ただしい印象が那由多に強く残っていた。
「七瀬さんのこと見て逃げましたよね…?なんでですか?」
「それはまぁ、そのうち分かる」
「そうですか」
と言いながら、那由多は疑問に思っていた。二階堂七瀬と常夏染。この2人…どうしてこんな暑い日に、汗ひとつかいていないんだろう。
ひとつ訊ねようとしたところで、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。チャイムと同時に、那由多のお腹も鳴り、「あ」と呟きながらお腹をさする。
「なんか食いに行くか」
「あ…でもお金持ってきてないです」
「奢るよ」
那由多の返事を待たずに、七瀬は歩き出した。
「いや、いいですよ!申し訳ないし…」
「いいから」
遠慮する那由多を遮って、七瀬はさっさと歩いていく。
本当にこの人はよく分からない。那由多は心の中でそう思った。
七瀬について行った先は、学校の近くにあるファストフード店だった。外から見たところ、店内はそこまで混んでおらず、席は空いている。
「じゃ、適当に買ってくるから待ってろ」
七瀬はそう言い残し、スタスタと店内に入っていった。
ぽつんと残された那由多は、座るのに丁度いい段差を見つけ、腰を下ろした。
夏を象徴するような鮮やかな青空と、綿菓子のような入道雲。おまけに飛行機。全部、那由多にとっては眩しいくらいに綺麗だった。
それをぼんやりと眺めていると、七瀬がドリンクと紙袋を持って戻ってきた。
「あ、ありがとうございます」
すると、七瀬が「あ」と声を上げた。
「忘れてた、俺あいつに呼ばれてるんだった」
「あいつ…って?」
首を傾げる那由多に、七瀬は「暇なら一緒に来るか?」と言った。
「え、いや…まぁ暇ですけど」
「じゃ、行くか」
半ば強引に、那由多は七瀬と一緒に“あいつ”の元へと向かうことになった。
しばらくついて行くと、正面に長い石階段が見えてきた。
「ここは…」
「神社。まぁ、目的地はここじゃないけど」
七瀬の話によると、随分と古い神社で、神主もたまにしか見かけないそうだ。
階段を登り終え、一礼して赤い鳥居をくぐった。
拝殿を通り過ぎて、深い森の中へと続く石階段を登っていく。
「まだ、登るんですか」
「ああ、もうすぐだ」
那由多の息が切れてきたところで、視界がひらけた。
「が、学校?」
目の前にそびえ立つのは、少し古びた校舎だった。那由多の通っている高校と同じほどの大きさである。
「俺の…いや、“俺たち”の学校」
「?」
間抜けな顔をする那由多に、七瀬は微笑んだ。
「ついてこい」
那由多はこくりと頷き、後に続いた。
森の中ということもあり、あたりはうるさいくらいに蝉の声で満たされていた。
門の内へ入ると、駐輪場や校庭が見えた。しかし誰一人として生徒はおらず、校舎からも賑やかな雰囲気は感じ取れない。それが那由多に違和感をもたらした。
一足制のため、二人は土足のまま校舎へと入っていく。廊下を歩いている最中、那由多のお腹が思いっきり鳴った。七瀬がそれを聞いてふっと笑う。
「そういえばまだ食べてなかったな。どっかで食べるか」
那由多は全力で縦に首を振った。
二人は、一階の突き当たりにある教室にやって来た。中に入ろうと七瀬がドアに手をかけると、何かに気づいたように動きを止めた。
「どうしたんですか?」
「…いや、なんでもない」
那由多にそう返し、七瀬がドアを開けた。眩しい光とともに目に入ってきたのは、不規則に置かれたいくつかの机。その上にはストローが刺さった紙パックのジュースが二つ置いてあった。中へと入った那由多は目をぱちくりとさせて、七瀬の方を見た。
「誰かいるみたいですね…昼休みだからかな」
「いや、多分あいつらだ」
「あいつらって、」
那由多が言いかけた瞬間、廊下から声が聞こえてきた。
「お腹すいたなぁ〜、京極先輩は何弁当にしたんですか?」
「シャケ弁当!染ちゃんは?」
「私はトンカツ弁当にしました!」
「美味しそー!早く食べたいね」
「ですね!ところで今日、二階堂先輩と伊織って来るんですかね?」
なんだか聞き覚えのある声だと思い、那由多は後ろを振り返った。と同時に、二人の男女が教室へと入ってきた。先にこっちに気づいたのは、
「二階堂先輩!?…と、あの時の!」
那由多のスマホを拾ってくれたぱっつん前髪の女子、常夏染だった。大きな目をさらにさらに見開いて、ぎょっとしている。驚いたのは那由多も同じだった。まさかこんなところで再会するなんて、と思いながら会釈をする。
「えっ、七瀬新入り連れてきたの!?」
「声がデカい」
大きな声を出して七瀬に注意されたのは、染の隣にいる男子。七瀬と同じくらい背が高く、お洒落な容姿をしている。耳元で何かきらっと光った。ピアスだろうか、と考える那由多に歩み寄り、彼は言った。
「京極天音です、よろしく!」
「さ、佐藤那由多です、よろしくお願いします」
人懐っこい笑顔で話しかけてきた京極天音(きょうごくあまね)。その隣でハッとしたように染も口を開いた。
「常夏染です」
よろしくね、と優しく微笑む彼女に、那由多もつられて笑みを浮かべる。言葉を発する代わりに、那由多のお腹がぐぅう〜と大きく鳴った。
「あ………」
恥ずかしそうに俯く那由多を見て、三人が笑う。
「お腹空いてるならこれあげるよ?」
天音がビニール袋からシャケ弁当を取り出した。
「食べるのあるので、大丈夫です」
「そか!シャケ食べたくなったら言って」
「ありがとうございます…」
ふと、那由多の目の奥がじんと熱くなった。人の優しさに触れるということが久しぶりだったから。
「さ、食べましょ食べましょ!」
机を四つ寄せて、那由多たちは昼食をとり始めた。
りんごジュースをちゅーっと吸いながら、染が那由多をじーっと見つめる。
そして口を開いた。
「ねえ、佐藤くんってなんで二階堂先輩と知り合ったの?」
「それ俺も気になるな〜」
天音も同調して言う。二人とも興味津々といった様子だ。
「えーっと…俺から声をかけたんです」
那由多は七瀬の方をちらりと見て、ざっくりと経緯を説明していった。
まず、親友の優斗と連絡がつかなくなったこと。たまたまぶつかった相手が七瀬で、彼の噂と優斗が関係しているのではないかと思ったことなど。話を聞き終えると、二人は感心したように息をついた。
「へぇ〜、そんなことがあったんだ」
「凄いなぁ、勇気あるね」
「いえ…」
「でも、その友達が今どうなっちゃってるのか心配だね」
染の言葉に、那由多は頷いた。
「もしよかったらだけどさ、友達探し、俺たちに手伝わせてくれない?」
天音の提案に、目を見開く那由多。
「…いいんですか?」
「うん。俺ら暇だし」
なっ、と天音が同意を求めると、七瀬と染はこくりとうなずいた。
「でも……やっぱり頼めません」
「なんで?」
きょとんと首を傾げる染に、那由多は申し訳なさそうな顔をしながら続ける。
「だって、みんな学校とかで忙しいだろうし」
それに、迷惑をかけたくないという気持ちもあった。すると、天音が「なーんだ、そんなことか」と笑う。
「全然気にしないでいいよ?俺たち三人ともサボり魔だから」
「え?」
「平日の昼間にこんなとこにいるの、おかしいと思わない?」
確かに、それはそうだけど……。戸惑う那由多に、染が畳み掛けるようにして続けた。
「学校にも家にも居場所がないから、ここにいるの」
那由多は言葉を失った。まるで、今の自分と同じような境遇だったからだ。居場所がないというわけではないけど、どこにいても息が詰まるような、そんな感覚。
「私は…親が厳しくて、家に居づらくて、学校でも気張り詰めてばっかで…風邪ひいた時に何日間か休んだら、そのまま行きたくなくなっちゃった」
染が頬杖をつきながら、どこか遠くを見るような目をする。
「もう、疲れちゃったんだよねぇ」
染の横顔をじっと見つめる那由多に気づいた彼女は、慌てて謝った。
「あっ、ごめん、暗い話しちゃって!」
那由多は首を横に振る。
「なんか、安心した…俺も、そんな感じだから」
そう言うと、染は微笑んだ。
「佐藤くんもか、仲間だね」
「…うん」
柔らかく笑い合う二人に向かって天音が手を伸ばし、頭の上にぽんと手を置いた。
「なんでも、言っていいからな」
わしわしと撫でられる染と那由多。染は嬉しそうに笑い、那由多は涙を滲ませながら頷いた。
優しく目元を細める天音のくすんだ緑の髪の毛が、窓からの光を受けて優しく透き通った。
那由多は一人帰路についていた。あの後は、他愛もない話をした。好きな食べ物や苦手なものの話など。
家庭環境のことについては、あまり余裕がない、とだけ説明した。
三人とも優しい人たちで、また明日も会おうと言ってくれて。
それが嬉しい反面、なんだか胸騒ぎがして落ち着かなかった。
那由多は立ち止まって振り返る。誰もいない。
「……気のせいか」
小さく呟いて再び歩き出したその時だった。
「久しぶり、那由多」
聞き覚えのある声に、心臓が大きく跳ねた。
「優斗……?」
目の前に現れたのは、親友の優斗だった。久しぶりに会ったから、見た目は少し変わっていて、その雰囲気はいつもと違って冷たかった。
「お前さぁ、今までどこ行ってたんだよ?」
那由多の顔が強張っていく。優斗の声は低く、不機嫌そうで。
──これは優斗じゃない。
那由多は直感的にそう感じ、無意識に一歩ずつ後ろへと下がっていった。
「なんで逃げるんだよ」
見た目は優斗だが、明らかに様子がおかしかった。口調はこんなにぶっきらぼうじゃないし、それに…
「優斗は……そんな顔しない」
那由多は震える声で言い放つ。優斗は笑っていた。それはもう、恐ろしいほどに。口角を上げているが、目は全然笑っていなくて、その表情はまるで別人みたいだ。優斗の笑顔はもっと優しい。
「あーあ、バレたか」
「誰なんだよ……!」
「俺は優斗だよ」
ふざけるな、と那由多が怒鳴ろうとした瞬間、優斗の姿が消えた。
そして、首筋に何か冷たいものが当てられた。
それが何か認識した瞬間に、那由多の意識は引き戻された。
「はっ……!!」
「あ、起きた。大丈夫?」
目の前にあったのは、天音の顔だった。右手には水の入ったペットボトル。
那由多は、夢を見ていた。
「俺、いつの間に…?」
どうやら那由多は机に突っ伏したまま眠っていたらしい。
キョロキョロと見回すと、染は窓の外を眺めていて、七瀬は教室にはいなかった。
「那由多が寝たのはお昼食べてからかな。といっても1時間前くらい」
天音は頬杖をつきながら首を傾げた。
「どんな夢だった?魘されてたから思わず起こしちゃったけど」
「親友が出てきました」
「それって、連絡がとれないって言ってた友達?」
頷く那由多に、天音は数秒間黙り込んだ。何かを悩んでいるようにも見える。
「あのさ那由多、もしかしてその親友の名前って…」
「京極先輩」
窓際にいる染が焦ったように声を上げた。
「分かってるよ、染ちゃん」
眉を下げる天音と、染の顔を交互に見比べて那由多は眉をひそめた。
「なんの話ですか?」
「いや、なんでもないよ!」
染が慌てたように手を振る。なにかを隠しているような様子に、那由多は怪訝な顔をした。
すると、天音のポケットに入っているスマホが揺れた。
「伊織からだ」
「あ、私が話してもいいですか?」
「うん」
染は嬉しそうに天音からスマホを受け取り、通話ボタンを押した。
「もしもし、伊織?」
『なんだ、染かよ』
通話の相手は、声の若さ的に那由多と同じくらいの青年のようだ。
『京極先輩に代わって』
ぶっきらぼうな言い方に染はむっとしながら天音に代わり、空いていたイスに腰を下ろした。
天音が伊織と話している間、那由多は染に訊ねた。
「伊織さんっていうの?今の人」
「そうだよ、幼馴染みなんだ。頭と顔は良いけど口が悪くてさ〜」
染の話によると、彼の名前は五十嵐伊織(いがらしいおり)といって、同じ高校の同級生らしい。
「私が通ってる高校、といってもまともに行けてないけど、進学校なんだ。伊織がそこ行くって言うから、一緒のとこ行きたくて勉強頑張って、やっとのことで合格したんだけど…結局授業ついてけなくて、それがきっかけで…」
「それで、不登校に?」
染は俯きがちにこくりと頷いた。
「でもね、京極先輩とか、二階堂先輩のおかげで前よりは病まなくなったんだ」
染の言葉に、那由多は少しほっとした表情を見せた。
染がここに来ている理由は、『居場所がないから』。
そして染は、京極先輩たちと過ごしている。それはつまり、彼らが染にとって信頼できる人物だということだ。
血の繋がっていない他人にそこまで気を許せるものなのか、と那由多には疑問だったが、血が繋がっていないからこそ分かり合えることもあるのか、と思い直した。
そんなことを考えているうちに、天音が電話を終えたようだ。
「染ちゃん、ちょっといいかな」
天音は染を連れて廊下に出て行った。那由多もついて行こうとしたが、天音が目で制す。仕方なくその場で待つことにした。
二人は五分ほど話し込んでいたが、戻ってきた染の顔はなぜか浮かないものだった。
◇
「どうかしたの?」と佐藤くんが聞いてきた。
さっき京極先輩と話してたことは、伊織からの電話の内容についてと、『佐藤くんの言ってた“連絡がつかない親友”が優斗なんじゃないか』ってこと。
「あー、えっと…」
曖昧に答えることしかできず、京極先輩の方に目をやる。
私じゃ、上手く説明できない。
意志を汲み取ってくれたのか、京極先輩が口を開いた。
「質問に質問で返す感じになっちゃうけど、那由多『二階堂優斗』って子のこと知ってる?」
その名前を聞いて、佐藤くんは目を丸くした。
「!俺の親友です…七瀬さんと兄弟だったなんて、なんで気づかなかったんだ…」
やっぱり、佐藤くんが言ってたのって優斗のことだったんだ…。
二階堂先輩がそれを知った上で佐藤くんを連れてきたのか、はたまた偶然なのかは分からないけど、私も京極先輩も驚きで顔を見合わせる。
「連絡が繋がらない親友って言ってた子が優斗、で合ってる?」
京極先輩の問いに佐藤くんは頷いた。私は二人のやり取りを見ながら、その場に佇むことしか出来なかった。
京極先輩は佐藤くんと同じ目線になるように腰を落として言った。
「あのね、優斗は今、入院してるんだ」
「……え…なん、で?」
「原因は俺たちもよく分からないけど…寝たきりの状態が続いてて」
「そ、んな……いつから…?」
佐藤くんの目から涙が零れた。その涙を見て、私は胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
私が優斗と知り合ったのは、高一の頃行っていた学習塾。7月の夏期講習で、伊織と私は優斗に出会った。
一緒に勉強するうちに少しずつ打ち解けていって、夏期講習が終わる頃には、私たちは友達になっていた。優斗は明るくて話しやすく、彼のことを嫌いな人はいないんじゃないかってくらいみんなに好かれていた。
高一が終わるタイミングで私は塾をやめたから、それからは優斗と会っていなかった。再会したのは優斗が入院していると知ってから、高二(現在)の6月のはじめに伊織と一緒にお見舞いに行ったとき。
まさか再会があんな形になるとは思わず、病室のベッドに横たわる優斗を見たときはショックを受けた。
その時は会話できて、顔色は冴えていなかったけど私たちをちゃんと覚えていてくれて、安心したのを覚えている。
そこで、ちょうどお見舞いに来た二階堂先輩と初めて会い、お見舞いに来てくれたお礼を言われた。
病室を出る間際、かすかに聞こえた二階堂先輩の『俺のせいだ』と言う言葉が今でも頭から離れない。
そしてさっき伊織から来た電話は、優斗のお見舞いに行ったが、看護師の人に面会が出来ないと言われてしまったという内容だった。つまり、状況があまり良くない、ということ──
いつの間にか涙が頬を伝い、地面にぽたぽた落ちていた。
「優斗……死んじゃったらどうしよう……」
佐藤くんと京極先輩が息を呑んで私を見つめた。相応しくない言葉だとは分かっているけど、こう思わずにはいられなかった。優斗の笑顔を思い出せば出すほど、涙は溢れるばかりだった。
▽
スマホで時間を確認すると、そろそろ5時半になる頃だった。椅子に座って話す染ちゃんと那由多に呼びかける。
「じゃ、そろそろ帰ろっか。これ以上遅くなると、お母さんも─」
心配するし、と言いかけて、口を噤んだ。
那由多は察したようで「気にしなくていいですよ」と切なそうな笑みでそう言った。
「ごめん…」
本当に、無意識に人を傷つけてしまうところは、昔から変わらない。
『天音くんって、なんか空気読めないよね』
いつかは忘れたけど、クラスの人にそう言われたことがある。
周りの人も、否定しなかった。ショックだったけど、笑って誤魔化したら、
『いつもヘラヘラしててムカつく』
って言われて、もうどうしたらいいか分かんなくて、走ってその場を去ったのを覚えている。
「あーあ、もう終わりかぁ、この時間も」
鳥居をくぐって神社の階段を降りながら、染ちゃんが寂しそうに言った。
「あっという間だねー」
「ほんとですね…」
楽しかった、と那由多。また、切なそうに笑っている。
会ってからずっと、那由多はどこか寂しそうだった。話してる時も、笑ってはいたけど、心から笑っているっていう感じじゃなかった。やっぱり優斗のことが心配なんだろうな…。
「…綺麗」
視線を上に向けながら立ち止まり、ぽつりと那由多が呟いた。
「綺麗だよね、ここから見える景色」
明かりの灯る住宅街が見渡せて、まだ淡く水色が残る空には、薄く月が浮かんでいる。今日は満月だ。
「こんな隠れスポットあったんですね」
ひぐらしの声が鳴り、空気も涼しくなってきた。
「なんか、佐藤くんにもこの場所知ってもらえて嬉しい」
嬉しそうにはにかむ染ちゃんに、自然と口角が上がった。
二人と別れて、家に帰るまでの道を歩いていると、後ろから「あ、京極くん」と声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に振り返ると、クラスメイトの木下くんがいた。
出席番号が一個前の、メガネをかけた黒髪の真面目くんで、先生に頼まれてか、俺がサボった時によくプリントを届けてくれる。
「今日もわざわざ届けにきてくれたの?ありがとう」
「あ、うん」
何枚も重なったプリントを受け取った。
「嫌だったら断ってね、別に机の中入れっぱなしでもいいし」
「あ、いや、最早日課みたいなものだから嫌ではないよ」
「まじか、ごめんね」
木下くんって優しいね、と言いかけたけど、やめておく。
手を振って別れ、プリントに目を落とした。
「文化祭のお知らせかぁ…」
明日は行こっかなぁ、学校。
( 匿名先生、面白いっす
>>12
ありがとうございます!!本当に嬉しいです!!
◯
「ただいま」
誰もいない部屋に、那由多の声だけが響く。
「おかえり」と誰かが言ってくれるはずはない。今この家には自分以外誰もいないのだから。
「はぁ…」
鍵を閉め、ドスンと玄関に腰を下ろす。今日、一日で一体どれくらいの進展があっただろうか。
那由多は気持ちを整理しながら、靴紐を解いた。
まず、学校に行って、先生と話し合った。次回行くのは二週間後。
そして、七瀬さんと出会った。色々あって、神社の奥にある学校に行った。京極先輩、常夏さんと知り合った。
そして、優斗のことが分かった。
まさか入院してたなんて…。
今度優斗の入院先の病院を、七瀬さんに聞いてみよう。面会は出来ないらしいけど、それでもいい。
「優斗が早く良くなりますように…」
那由多は祈るように両手を組んだ。
冷蔵庫にある食材で適当に夜ご飯を作り、テレビを見ながら食べる。部屋に響くのはテレビに映る芸能人の声と自分がご飯を食べる音だけ。
いつものことなのに、なぜか今日は格段に寂しく感じた。
きっとあの場所で、みんなと──七瀬さんたちと一緒に食べたからだろう。
誰かと一緒にご飯を食べる楽しさを、思い出してしまったから。
自分は孤独なんだ、と那由多は確信した。
もっとたくさん、誰かと関わりたい。話したい。この孤独を埋めてほしい。
そのためには自分が動く必要があるんだ。いつまでも自分の殻に閉じこもって、受け身で生きてちゃダメなんだ。
喝を入れるために、那由多は両手で自分の両頬を叩いた。
「…痛っ」
少し強すぎたかもしれない。
──翌朝。
ぱちっと目が覚め、時計を確認する。時刻は午前9時。
今日はお父さんのお見舞いに行くから、行く時にスーパーでゼリーとか買っていこう。
一昨日お見舞いに行った時は、このまま順調にいけば二週間後くらいにはリハビリに移れると言われた。
早くお父さんと一緒にご飯食べたり、テレビ見たりしたいな。
そう思いを馳せながら、那由多は着々と身支度を整えていった。
近所のスーパーでお父さんの好きなみかんゼリーを買い、お父さんの入院先の病院へ向かっていく。
空はどんよりとしていて、まだ午前中だというのにまるで夕方みたいに暗かった。昨日の晴天は嘘だったんじゃないかと錯覚するほど、雲が満遍なく空を覆っている。
今朝見た天気予報では、午後から雷雨になる可能性が高いと言っていたから、早めに行って早めに帰ってこよう。
那由多は曇り空を見上げながら、早足で進んでいった。
病院へ続く通りを歩いていると、近くの花屋の前に見覚えのある姿が見えた。
眉の少し下で切り揃えられた前髪、色素の薄めな大きな瞳。間違いなく、常夏染だった。
彼女はどうやら、花を見ているらしい。
那由多はそのまま歩いていき、声をかけた。
「常夏さん」
「えっ、佐藤くん!?なんでこんなところに…」
那由多が事情を説明すると、染は驚きながらも「偶然だね」と笑った。
「私、優斗にお花届けようと思って見てたんだ」
面会はできないけどね、と寂しげに目を伏せ、目線を白いガーベラへと移した。那由多はその様子を見ながら、口を開いた。
「…あのさ、優斗が入院してるとこって色葉(いろは)病院?」
「うん、そうだよ。すぐそこのとこ」
色葉病院──お父さんの入院している病院と一緒だ。
「じゃあ一緒に行く?」
そう尋ねると、染は言葉を詰まらせ、目を泳がせて言った。
「…いや、いい」
てっきり染が縦に首を振ると思っていた那由多は、目をぱちくりとさせた。
「そっか。じゃあ、またね」
そう手を振ると、染はぼうっと手を振りかえすだけだった。
ぼんやりとした様子の染に疑問を抱きつつも、那由多は病院へ急いだ。
色葉病院に着き、受付の人に父の部屋番号を伝えてから病室へと向かう。
203という番号の下に、父の名前が書かれているドアを確認して、コンコンとノックする。
「お父さん、おはよう」
病室の扉を右にスライドして開け、挨拶をしながら入る。
同時に、ベッドで横になっている父の姿が目に入った。
ゆっくりと上半身を起こしたお父さんの顔色は悪くて、それが那由多を不安にさせた。
「…那由多、今日も…」
そこまで言うと、父はゲホゲホと咳込んだ。
那由多は駆け寄り、父の背中をさする。
「お父さん、無理しないで」
少しして父が落ち着くと、那由多はトートバッグからみかんゼリーを取り出した。
「みかんゼリー買ってきたから、よかったら食べて。冷蔵庫に入れとくから」
「ありがとうな」
那由多は父の笑顔を見て安堵したような表情を浮かべ、みかんゼリーを病室の冷蔵庫へと入れた。
それから、昨日はこんなことがあったとか、どんな人と会ったとか、色んなことを話した。その度に頷いて聞いてくれるお父さんが、大好きだ。
そう感じるとともに、不安が襲ってくる。
お父さんがいなくなったら、俺は本当に一人ぼっちになってしまう、と。
*
面会時間の終わりが来ると、那由多は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、また来るね」
「ああ」
手を振って病室を後にする那由多。毎度、病室から出るときは夢から覚めたような気分になる。
どこか寂しい、終わっちゃったんだ、というような。
病院の廊下を歩きながら、那由多は探していた。
優斗のいる病室はどこなんだろう、と。
そして、やっと見つけた。
108という数字の下に書かれている、『二階堂優斗』の名前を。
どく、と心臓が大きく音を立てた。
ここに、いるのか…優斗が。
思わず手を伸ばし、ドアの取っ手を掴もうとしたところで、那由多はぴたりと手を止めた。
だめだ。関係者以外は入れない。自分が入っちゃだめだ。
でも会いたい、会って話したいのに。
この一枚の扉を開ければ、優斗がいるのに。
だけど…面会は、禁止なんだ。
心音は徐々に静かになり、那由多は冷静になった。
会うのは今じゃない…優斗が元気になってから、面会ができるようになってから。
那由多はそう言い聞かせ、手をゆっくりと下ろした。
▽
蝉の鳴き声、廊下を行き交う人たちの話し声や足音。
それらに紛れる、ただ一人シャーペンを走らせる音。
「あと5分です」
黒板と教壇の間に立つ先生が淡々と告げた。
時間配分のことを考えていなかったから、時間はもうギリギリだ。
最後の問題の数式を慎重に計算していく。
だが、だんだん頭の中で数字がはてなに変わっていく。
…なんだこれ?全然分からない。
とりあえず、勘で解答欄を埋める。
「…よし」
解答欄は全部埋めた。自分にしては結構いけた方だと思う。
もう、後は野となれ山となれだ。これでダメだったら次頑張ればいいだけの話だ。
ざっと見直しを終えると同時にタイマーが鳴った。
「はい、終了です。解答用紙を回収します」
「ありがとうございました」
解答用紙を先生に渡し、教室を出る。
文化祭の準備が出来ると思って学校に来たものの、結局、俺は別室にて受けていなかったテストを受けることになってしまっていた。
約三時間ほどのテストから解放され、大きく伸びをしながら歩いていると、
「あ、京極くん」
後ろから木下くんの声が聞こえた。
「おー木下くん。授業ちょうど終わったとこ?」
「うん」
「そっか。じゃ、せっかくだし一緒に自販機行かない?」
「あ…ごめん、僕用事あるから」
そう言って木下くんは、なぜか顔を俯けがちに、早足で行ってしまった。
え、なんかしちゃったかな。もやもやとしながら、飲み物を買おうと自販機に向かった。
人のあまり通らない階段に座りながら、自販機で買ったサイダーを飲む。
喉をしゅわしゅわが通り過ぎていく。その間、さっきの木下くんの様子を思い出していた。
木下くん、俺のこと嫌いなのかな。
いや、でもそしたらそもそも話しかけてこないはずだし、プリントもわざわざ届けてくれるなんてしないはずだし、嫌いではないのかな。
一人頭を悩ませていると、階段を下りてくる二人の足音と、話し声が聞こえてきた。
ここを退こうとしたその時、『木下』と『京極』という言葉が耳に届いた。
確かに聞こえたその二つの言葉に、動揺しながらも、反射的に近くにあった掃除用具入れの陰に隠れた。
女子二人の話し声は足音と共に近づいてくる。
「ていうか、木下みたいな根暗なやつが京極と仲良さげにしてんの、違和感しかない」
「それ。なんか、なんで?って感じ。さっきも話しかけてたから思わずじろっと見ちゃった」
「京極もさ、変に優しくしたりするからなんじゃない?知らんけど」
「それで仲良いって思い込んじゃうの可哀想ー」
「まぁでも私も思い込んじゃうかもだわ」
あはは、という笑い声とともに彼女達は去っていった。声が遠ざかっていったことを確認して、そっと陰から出る。
心臓が嫌な音を立てて、どくどくと脈打っているのを感じる。
聞き耳を立てたのは自分なのに、二人の会話が頭から離れなかった。
『──さっきも話しかけてたから思わずじろっと見ちゃった』
だから木下くんは、あの時逃げるようにして行っちゃったんだ。
合点がいった。でも、それよりも、木下くんが“根暗”なんて言われていたことに苛立ちを覚えた。
なんで俺と木下くんが話してるだけで、勝手に色々言われなきゃいけないんだろう。
次、彼に会った時、どんな顔で接すればいいんだろうか。
そう思いながら、ぼんやりとしたまま校舎の外へと向かっていった。
空は灰色の雲で覆われていて、今にも雨が降り出しそうだ。
まるで今の自分の心の中をそのまま表したような空模様だ。
スマホで天気を見ると、12時から傘マークがついている。今は12時過ぎだから、これから降る可能性大ってことか。
このまま6時間目まで授業受けてもいいけど、さっきの女子達とか、木下くんに会ったりしたらなんとなく気まずい。
“逃げ”の文字がもやもやと頭に浮かぶ。
今日は帰ろうと決め、駐輪場に停めていた自転車に乗る。
校門を出ると、ポツリと頬に冷たいものが当たった。
「げ、降ってきた」
ペダルを漕ぐ足を早めると、水滴がどんどん数を増やしていく。
家に着く頃にはびしょ濡れになりそうだ。
周りに学生らしき姿はない。
途中で帰ったりしてるの、俺だけか。
みんな偉いなぁ。ちゃんと学校行ってんのか。
そう思った途端、自分が惨めで情けなく思えてくる。
俺、ほんとにこんなんでいいのかな。
ネガティブな感情に比例するように、雨脚は強まっていった。
俺は、よく“雨男”って言われていた。その理由は確か、肝心な時必ず雨だ、とか。あともう一つ、なんか言われた気がするんだけど…。誰に言われたんだっけ。
ぼーっと考えながら自転車を漕いでいると、道に転がっていたペットボトルに気づかず、思いっきりタイヤで踏んでしまった。
その拍子にバランスを崩し、雨で滑ってペダルから足が外れる。
「うわっ」
ガシャン、と音を立てて自転車が倒れ、俺は地面に投げ出された。
「痛…っ!」
身体を打ち付けた痛みで涙が出てくる。
くそ、ついてない。最悪だ。側から見たら、最高にカッコ悪い馬鹿なやつなんだろうな。身体の痛みと、自分の情けなさと、色々混ざり合って涙が出てくる。泣いてもバレないから、今日が雨でよかったのかもしれない。
なんて思っていると、
「何してんの」
呆れたような、笑っているようなそんな声が頭上から降ってきた。と共に、傘で雨が遮られて止んだ。見上げるとそこには、黒髪の、整った顔立ちをしている人物がいた。見慣れた顔だ。
「え、えっ七瀬?」
拍子抜けした声が出る。混乱したまま、差し伸べられた手を掴んで立ち上がる。
「なんか前の方で盛大に転けた奴いるなと思ったら」
笑いを含んだようなその言い方に少しイラッとするも、俺の方に傾いている傘を見て、七瀬の優しさに気がついた。
「ていうか、泣いてるし…やっぱお前雨男だよな」
「うるさ!」
そう言いながら、自転車に乗る。「ありがとう」と言い残し、そのまま走り去った。
後ろの方で、「おー」という返事が聞こえた。
『天音って、ほんと雨男だよね』
『なんで?』
『だって、よく泣くし』
『…なにそれ』
いつだったっけな、七瀬にそう言われたの。
◇
ベッドに寝転がって、窓の外を見つめる。まだ雨は止みそうにない。12時ごろから降り始めて、16時になってもまだ降っている。
結局私は、花を買わずに家に帰った。
しかも、せっかく佐藤くんが一緒に行く?って言ってくれたのに、あんな断り方しちゃった。
相変わらず私はコミュニケーションが下手だ。
「はぁ…」
もう何度目か分からないため息をついた。
ため息をつくと幸せが逃げるって言うけど、私にはもう逃げるほどの幸せもないんじゃないか、なんてネガティブな事ばかり思う。
ふとスマホの画面を見ると、伊織からメッセージが来ていた。
『明日から短縮授業だから来れば?』
という文面だ。
短縮授業、というのは、お昼なしで、授業が4時間目までしかないことだ。いつもより授業時間が短いから、早く帰れる。
でも、行ったとしても伊織は同じクラスじゃないし、なんてまたネガティブな事を考えながら文字を打つ。
『んー、考えとく』
と送信して何分か経って、伊織から『おー』という返信が来た。
簡潔で伊織らしい返事に、少し頬が緩む。
恋愛感情ではないけど、私は伊織が好きだ。
一緒にいて落ち着くし、楽しい。
こんな幼馴染みを持てて良かったと思う。
でも……私は伊織に依存しかけてるのかもしれない。
今、私に伊織以外で“友達”と呼べるほどの親しい人はいない。
優斗とは最近会えてないし、二階堂先輩や京極先輩も、“友達”とはちょっと違う気がする。佐藤くんとも、まだ完全には打ち解けてない。
思えば、私には同性で同世代の友達がほぼいない。
去年──高一の頃は普通に学校も行ってたし、仲のいい子もいたけど、今年に入ってから友達作りに失敗して、授業についていけなかったりとかもあって学校もまともに行かなくなった。
そんな私のことをなんだかんだで気にかけてくれる伊織が、救いだった。
ずっとこのままじゃいけないって分かってるけど、どうしても勇気が出ない。
ごろんとベッドで寝返りを何度も何度も繰り返す。何度も、何度も。
そしてようやく決心がつき、スマホを手に取った。
『明日学校行く』
伊織とのトーク画面でそう入力して、送信ボタンを押す…
寸前で手が止まった。
やっぱり、やっぱりやめようかな。行ったところでって感じだし、短縮授業だからって、特に変わんないし。
悶々と悩んでいると、地面が割れるくらい大きな音で雷が落ちた。
思わず肩が跳ね、その拍子に指が送信ボタンに触れた。
「あ…」
まぁ、いっか。
私はもう一度寝返りを打ち、目を閉じた。
次の日、私はばたばたと支度を終え、玄関を出た。太陽の光で、白ばかりが眩しく目に映る。
「伊織!おはよう」
「おう、おはよ」
私の家の前で、伊織は自転車を止めて待ってくれていた。少し茶色っぽい髪の毛が、いい感じに跳ねている。
伊織に会うの、何日ぶりだろう。
そう考えながら玄関の段差を駆け下りる。
「わざわざありがとね」
「うん」
思わず笑みがこぼれてしまい、慌てて口元を押さえる。
「どした?」
「なんでもない。行こっか」
それでもまだ口角は上がりっぱなしだった。伊織と一緒にいるだけで楽しいんだ。
「後ろ乗る?」
「あ、うん!」
伊織の自転車の荷台に、リュックを抱えて乗っかった。
伊織の漕ぐ自転車はゆったりと進んでいき、風が控えめに頬を撫でる。周りの景色も、ゆっくりと変わっていく。
今日はバスケ部の朝練がないから、って迎えに来てくれた伊織。前もたまに、こうやって後ろに乗せてくれたなぁ。
嬉しいし、懐かしい。
しばらく無言の時間が続いたけど、居心地の悪さはなかった。
校門を通り抜けると、私は荷台から降りた。
「ありがとね、伊織」
「うん」
「──あ」
思わず声を上げてしまった。伊織は「ん?何?」と首を傾げている。
私の目線は、校門をくぐってきた一人の女の子に吸い寄せられていた。
顎のラインで切り揃えられた艶のある綺麗な黒髪。
白くて滑らかそうな肌。
長いまつ毛に縁取られた大きな瞳。
形の良い唇。
まるで白雪姫みたいなその子は、前に何回か廊下ですれ違ったとき、儚い雰囲気がすごく印象に残った子だった。
私の目線の先を辿ったのか、今度は伊織が「あ」と言った。
「一宮」
「いちみや?」と私は繰り返した。「うん、同じクラスの…」と伊織の説明を聞いていると、白雪姫ちゃんがぱっとこっちを向いた。
「あ、五十嵐」
「いがらし?」とまた私は繰り返す。苗字、しかも呼び捨てで呼び合ってるってことは仲良いってことなのかな。
「おはよ、その子もしかして彼女?」
「いや、幼馴染み」
「えっ、幼馴染みとか羨まし!青春じゃん!」
儚げな雰囲気とは打って変わった、明るくハキハキとした喋り方だ。勝手におしとやかなイメージだと思ってたから、予想外だった。
親しげに話す二人を前にぽかんとしていると、白雪姫ちゃんが近寄ってきて言った。
「一宮叶亜です、よろしくね!」
「あ、とっ常夏染です!」
白雪姫は、一宮叶亜(いちみやとあ)ちゃんと言った。
「染ちゃんって呼んでいい?私のことは自由に呼んで!」
「うん。じゃあ、叶亜ちゃんって呼ぶね…!」
「了解!」
眩しい笑顔を浮かべる叶亜ちゃん。絶対この子、友達いっぱいいるだろうな。
「じゃ、俺自転車置いてくるから」
そう言い、伊織は駐輪場へ行ってしまった。
叶亜ちゃんはひらひらと手を振ると、「一緒に行こ!」と歩き出した。私もそれについて行く。
私はドキドキとしていた。でも、心地のいい緊張だった。
教室に向かう階段を上る途中、叶亜ちゃんが口を開いた。
「私ね、ずっと前から染ちゃんと仲良くなりたいなって思ってたんだ」
「…え?」
どうしてこんな、高嶺の花みたいな存在の子が、どこにでも生えてる雑草みたいな私と?疑問符が頭を埋め尽くす。
「いつから…?」
「んーとね、去年から!文化祭で3組のお化け屋敷行った時、その時の受け付けが染ちゃんで、にこにこしてて可愛いなぁって思ってからずっと気になってた」
そんな風に思われてたなんて全然知らなかった。まさか、そんな前から私のこと覚えててくれてたなんて…
叶亜ちゃんは微笑んで、私の顔を覗き込んできた。
「だからね、こうやって話せて嬉しい」
大きな瞳を細め、口元で優しく弧を描く。その表情を見て、胸がじわり、と温かくなった。
「私も…嬉しい」
そう言うと、叶亜ちゃんは「いひひ」と満足気に笑い、さらに続けた。
「ね、よかったらさ、今日一緒に帰らない?」
屈託のない笑顔を浮かべる叶亜ちゃん。もちろん、断る理由はなかった。
「…うん!」
「じゃあ、約束ね!」
ばいばい!と叶亜ちゃんは手を振って、1組の教室へと入っていった。
私も同じように手を振り、2組の教室へと向かう。
──だんだん、現実に引き戻されていく。
そういえば私、同じクラスに仲良い人いないんだった。
どうしよ…ここまで来たのに、帰りたいかも。
ドアの前で立ち尽くしていると、「染」と声が聞こえた。振り向くと、そこには伊織がいた。
「大丈夫か?」
「う、うん…大丈夫」
私はぎこちなく笑い、「ありがとね」と付け足した。伊織は何か言いたそうにしてたけど、友達に呼ばれてそっちに行ってしまった。
教室の後ろのドアを開け中に入ると、何人かが視線をこっちに向けるだけだった。
…よかった。変に『常夏さんだ』とか言われても困るし…
少し顔を俯けがちにしながらそう思っていると、一人のクラスメイトが「あっ!」と声を上げた。
「常夏さんだ」
えっ、と思わず声が出た。
「おはよ〜」
「おはよう!」と、次々にかけられる挨拶の声。
なんで?
「えっ…あっ、お、おはよ!」
困惑しながら慌てて返事を返す。それ以降は特に何も言われなかった。
みんな、こんなにフレンドリーだったっけ?挨拶運動みたいな期間とか?
疑問を抱きながら、自分の席をきょろきょろと探していると、
「あ、席ここだよー」
と窓際の一番後ろの席の女子が、前の席を指差しながら教えてくれた。さっき『常夏さんだ』って言った子だ。
お礼を言い、そこの席に荷物を置く。
みんな、こんなに優しかったっけ…
もしかして、これ夢?
左手の甲をつねってみた…痛かった。夢じゃない。
その後も、前の席の子とか後ろの席の子が休み時間の時話しかけてくれたり、授業で当てられた時に隣の席の人が助けてくれたりとか、本当にみんな親切だった。
なぁんだ。
私が勝手にみんなとの壁を作ってただけで、本当は壁なんて最初からなかったんだ。
帰り、コンビニで買った棒アイスを食べながら、私は叶亜ちゃんと肩を並べて歩いていた。
「染ちゃんはさぁ、夏にやりたいことある?」
叶亜ちゃんがそう言い、アイスに齧り付いた。
「んー」
雲一つない空を見上げながら、私はやりたいことを思い浮かべる。
去年は確か、優斗と伊織と、3人で夏祭りに行ったり…
「あっ」
「なになに?」
興味津々というように、叶亜ちゃんが身を乗り出した。
「海とか行きたいかも」
すると、叶亜ちゃんが目を輝かせた。
「え!私も思ってた!」
「ほんと?」
きっと私の目も同じようになってると思う。
蝉が私たちを包むように鳴いている。
「じゃあ行こうよ、一緒に!」
「…!うん!」
「今!」
「え?い、今?」
「うんっ」
そう言うと、叶亜ちゃんは私の左手をとって走り出した。
私はアイスの棒を握りしめながら、手を引かれるがままに走った。
「あっ、見て叶亜ちゃん」
「ん?」
私は右手に握っていたアイスの棒を見せた。そこには『当たり』の文字が刻まれている。
「おぉ〜!なんかいいことあるんじゃない?」
「だといいなぁ」
いいことなんて、もうとっくに起きてるかもしれないけど。
心の中でそう呟いた。
5分ほど坂道を下っていくと、日差しを受けてきらきらと光る海が見えてきた。
「染ちゃん、ほら見えてきたよ!」
「…疲れた……一旦休ませて…」
私は叶亜ちゃんを引き留め、日陰で息を整えた。やっぱり体力落ちてるなぁ私…
「お、自販機みっけ」
一方、叶亜ちゃんはスキップをしながら、近くの自販機へと向かっていった。艶のある黒髪が揺れている。
今朝初めて話したばっかりなのにこんなに打ち解けられたのは、全部、叶亜ちゃんの底抜けに明るい性格のおかげだと思う。
冷たい氷が暖かい日差しに溶かされていくように、私は叶亜ちゃんに心を溶かしてもらったんだ。
そんなことを考えていると、
「わっ!!」
突然聞こえてきた叶亜ちゃんの悲鳴。そして、がしゃんという缶の落ちる音。
「大丈夫!?」
私が振り向くと同時に、コーラの缶二つがコロコロと足元を転がっていった。
「えっ」
「待って待ってごめん手滑って落としちゃった!!」
「ひ、拾わなきゃ!」
叶亜ちゃんと私は焦りながら、転がっていく缶を追いかけた。
ようやく缶が止まると、私たちはほっと息をついた。缶を拾い上げ、ぱっぱっと汚れを振り払う。
「ふぅ、無事でよかった!」
と、プシュッと音を立て、叶亜ちゃんがコーラの蓋を開けた。あれ、炭酸って落としたりしたら溢れちゃうんじゃ…
「今開けない方が…あ」
言うのが遅すぎた……。
叶亜ちゃんは固まった笑顔のまま、溢れてくるコーラを見つめていた。
裸足になって、砂浜を歩く。日差しを受けて熱くなった砂は、鉄板の上みたいに熱い。
暑さを冷ますように、波に足をつける。
海も砂と同じように日差しを受けてるはずなのに、ちっとも熱くなくて、気持ちいい。
心地のいい風が私たちの髪や頬を撫でた。
叶亜ちゃんの方を見ると、ぱちっと目が合った。
まっすぐで、大きくて綺麗な瞳に吸い込まれそうになっていると、その瞳は優しく細められた。
「綺麗」
「え?」
一瞬、私の気持ちを代弁したのかと思った。だけど、叶亜ちゃんは私を見て微笑んだ。
「染ちゃんって、綺麗だよね」
「…えっ!?」
綺麗。
「なんか、夏が似合う可憐な女の子って感じ!」
可憐。
「そ、そんな!叶亜ちゃんのほうが……」
叶亜ちゃんの方が、ずっと、ずっと綺麗で、可憐で、眩しくて、明るくて…
私が言葉を探しているうちに、叶亜ちゃんは水平線の方へと進んでいった。
叶亜ちゃんの膝の少し下を波が覆う。
そして振り返り、太陽よりも輝く笑顔を見せた。
「行こう」
そう言って、叶亜ちゃんは私に手を伸ばして、手首を掴んだ。
「……?」
私は腕を引っ張られるままに歩き出した。ばしゃ、ばしゃ、じゃぼん。
さっきまで足首の辺りだった波は、膝あたりまで来ていた。
このままじゃスカートの裾が波に浸かっちゃう。
「と、叶亜ちゃん?」
「んー?」
叶亜ちゃんは、水平線を見据えたままお構いなしに私の手首を引っ張る。力が緩められることはなく、それどころか少しずつ、強まっているような。
叶亜ちゃんのスカートの裾が、海水を吸い込んで色が濃くなっていく。
「あ…え、叶亜ちゃん…?」
さっきまでの、穏やかな気持ちとは打って変わって、私の心はどくどくと胸騒ぎを覚えはじめた。
「待って、待って」
引っ張られる方とは反対方向に力を込めると、叶亜ちゃんがふっと振り返った。
長いまつ毛に縁取られた瞳が、揺らぎながら私を見つめた。さっきまでの笑顔は、どこ?
「叶亜ちゃん、ど、どうしたの…?」
少し震えた声で私が訊けば、叶亜ちゃんは瞬きをしたあと、目線をわたしの後ろの方へ向けた。
わたしもつられて後ろを見る。
海沿いの道を、自転車がゆっくりと走っていた。あれは…
「伊織…!」
見慣れたその姿を見た瞬間に、緊張の糸が解けた。伊織の方もこっちに気がついたのか、自転車を止めた。
「二人ともなにしてんだよ、危ねえだろ」
「ごめんってばー!ただ遊んでただけだって!」
叶亜ちゃんは砂浜に戻りながら、いつものように明るく声を上げた。
その明るさが逆に、私を不安にさせた。
叶亜ちゃんは、何するつもりだったんだろう。
*
私は昔から、自分が持っていないものを持っている人を死ぬほど羨ましく、妬ましく思ってしまう性格だった。
例えば──誰にでも好かれるカリスマ性を持っている人とか。
最初は、特に話したこともない、ただのクラスメートだった。
『二階堂数学の課題見して!』
『優斗ー弁当食べよ』
『二階堂くん今日部活?頑張って!』
だけどみんなが面白いくらいに彼のことを呼ぶから、だんだん気になってきて。
ある日、席替えで隣になった時『チャンスだ』って思って、にっこり笑顔を浮かべながら、明るい声で彼に挨拶をした。
『二階堂くん、よろしくね』
いつもはこれで大体の人は私の虜になるけど、そう簡単にいかなかった。
『うん、よろしく。一宮さん』
彼はそう言って微笑んだだけで、それ以上何も言ってこなかったし、私に興味がある素振りを見せようともしなかった。
私は無性に悔しくなって、どうにかして彼に興味を持ってもらいたくなった。
そして彼と仲良くなれば、彼の持っているものは私のものにもなるかもしれない、って。
それから私は、鬱陶しいくらいに彼に関わった。
『二階堂くんおはよ』
『ねぇねぇ、次の時間割何だっけ?』
『この前おすすめしてくれた漫画、超面白かった!』
とにかく、彼に話しかけた。彼は私に対して嫌な顔ひとつせず、みんなに接するのと同じように接してくれた。
だけど、“みんなと同じ”じゃ納得できない。私はみんなよりも彼と仲良くなりたい。そして彼の持つカリスマ性が欲しい。
私は必死だったと思う。
周りのクラスメートは、私たちのことを噂していた。
『二人って付き合ってるの?』
とか、
『叶亜ちゃんって、二階堂くんのこと好きでしょ?』
とか言われることもあった。
その度に私は、首を横に振った。
私はただ、彼が持つものが欲しいだけで、それを手に入れたいから彼に関わってるだけ。
って、自分に言い聞かせていた。
本当は心の奥底で気づいていたんだと思う。
私は二階堂優斗が好きなだけなんだ、って。
彼の周りにはいつだって人がいた。男女問わず、彼はみんなから好かれていた。春の暖かい日差しのような優しさと、雲ひとつない夏の青空みたいな爽やかさを兼ね添えたような性格で、きっと彼が漫画の登場人物だったら、間違いなく主人公だなと勝手に思っていた。
そして、私とは真反対だなと感じていた。
私は基本的にいつも一人で、特別仲の良い人なんていなかった。クラスメートからは勝手に“高嶺の花”扱いされて、話す時も、いつも一定の距離感を保たれて。
『可愛い』とか『綺麗』とか、言われて嬉しいのも最初のうちで、言われるたびに自分が遠ざけられているような気がしてしょうがない。
そんな私を一面的に捉えず、“一宮叶亜”として普通に接してくれたのは、ただ一人、二階堂優斗だけだった。
ある暑い夏の日、彼に、『一緒に帰ろう』と誘われた。断るはずもなく、私は首を縦に振った。もちろん、と。
彼の隣で歩くのは最高にいい気分で、すれ違う生徒たちが羨ましそうにこっちを見るのがたまらなかった。
側から見て、私たちはお似合いだったんだと思う。
高鳴る鼓動を抑えながら、ふわふわと彼の隣を歩いたのを覚えている。
人気者の二階堂優斗は、私と一緒に下校するんだ。
私は、二階堂優斗と一緒に下校できるんだ。
そう思うだけで、世界が少しだけ綺麗に感じた。
『ちょっと寄りたい場所があるんだけど、いい?』
他愛もない話をしながらしばらく歩き、日が傾きかけた頃、彼は言った。断るという選択肢は私の中にない。私は『いいよ』と言い、思わずスキップしそうになる足を地面にしっかりとつけながら彼の隣を歩いた。
どきどきした。
辿り着いた場所は海だった。じんわりとした夕日に照らされた海面はほのかに輝いていて、それに加えて私たちの影が砂浜に並ぶのを見ながら、私はまた、世界は綺麗だなんて思ってしまった。
押し寄せる波を見つめながら、私は思った。
彼はどうして私と一緒に帰りたいって思ったんだろう。
どうして私をここに誘ったんだろう。
なんて、本当は心の隅で分かりかけていることを考えてみるふりをした。
夕日を見つめる彼にそっと目を向けてみた。鼓動が増していくのが分かる。
私が彼に向けるこの感情を、彼も同じように私に向けているんじゃないか?
その思いを私に告げるために、私を誘ったに違いない。そうでなきゃおかしい。
『一宮さん』
名前を呼ばれて心臓が跳ね上がった。『好き』。その類の言葉を、私史上最も待ち侘びた瞬間だ。
返事の言葉はどうしようかな──後で、手繋いでもいいかな──なんて、舞い上がっていた。
しかし、彼が次に発したのは、私の予想していた言葉とはまるで違った。
『──願いが必ず叶う神社、って知ってる?』
『……は?』
理解が追いつかなかった。どうしていきなりそんなことを?戸惑いながら、私は答えた。
『いや、知ってるも何も…有名な噂じゃん。あの神社の鳥居の前に立って三回願い事すると、それが叶うってやつでしょ?』
『そう、それ』
『…それで、何がしたいの?』
私は思わず冷たい言い方をしてしまった。すると、彼はポツリとこう漏らしたのだ。
『死んでみようかなって』
『え?』
耳を、疑った。
『もう飽きたんだ。疲れたっていうか…優等生でいるのも全部、面倒くさいし』
彼の口から信じられない言葉ばかり出てくる。“死んでみようかな” “飽きた” “疲れた” “面倒くさい”。
私が知っている二階堂優斗とはまるで別人のように、力のない表情と、声。
普段の明るくて爽やかな彼はどこにもいなかった。
『だからさ、一宮さん』
二階堂優斗は私の名前を呼んだ。
『俺のこと殺してくれない?』
その言葉は、その表情は、夕焼けに染まる海の綺麗さにそぐわない、あまりにも残酷なものだった。
あれ…そのあと私、なんて答えたんだっけ。大事な部分が思い出せないなんて…
ただ、私があの時なんと答えていようが、彼が未だに目を覚まさない事実は変わらない。
彼は私のこと、どう思ってたんだろう。聞いとけばよかったな……
──彼が持っていたものはたくさんあった。人を惹きつけるカリスマ性。陽だまりのような微笑み。晴天のような爽やかさ。みんなから好かれる性格。
全部、私にはないもの…欲しくてたまらないもの。どうやったって手に入れられないものを彼は持っていて、憧れの中に嫉妬も混じっていた。
それが徐々に、特別な感情に変わっていった。
私が話しかけると、彼は必ず目を見て応えてくれる。
どれだけつまらない話でも、嫌な顔せずに聞いてくれる。
そんな些細なことでも、私の心が溶かされていくには十分だった。
例え“優等生”を演じるために貼り付けられた笑顔でも、取り繕っただけの偽りの優しさだとしても、私は彼のことが好きだ。
彼は私の初恋だった。生まれてからの15年間は、彼のために取っておいたと言ってもおかしくないくらいだ。
そんな彼の『殺してくれ』という頼み。私にだけ弱さを見せて頼んだということは、私のことが特別だったからなんじゃないか…なんて都合よく解釈した。
彼がいらないものは、私が欲しいものだ。彼が飽きてしまった“みんなから好かれる優等生”という存在は、私が求めていたものであり、憧れの存在だったのだ。
彼が持つ優しさも、カリスマ性も、人に好かれる才能も、私が欲した全てだった。
それを全て捨ててしまおうというのなら、いっそのこと私がもらってしまいたい。強くそう思った。
──ああ、思い出した。確かあの時、私はこう言ったんだ。
『……殺…すなんて、無理。でも、それでも本当に死にたいって思ったら…二階堂くんは私に、意識を渡して欲しい』
『…どういうこと?』
『そのままの意味だよ。私の中で生きればいい。ずっと、私と一緒にいてよ』
私は彼に死んで欲しくなかった。
だって、話してると楽しいから。
優しく応えてくれるから。
朝、おはようって微笑んで挨拶してくれるから。
難しい問題の解き方を教えてくれるから。
好きな漫画の話ができるから。
凛とした横顔が格好良いから。
見惚れてしまうほど綺麗な瞳をしてるから。
手を繋ぎたいと、触れたいと思わせてくれる人だったから。
好きでたまらないから。
無色だった私の人生に、色をくれた人だから。
『ねえ…二階堂くん』
その時も、彼はいつものように私の目を見てくれた。綺麗な瞳に私を映してくれた。
──君が死んだら、もう君の瞳に私は映らない。私と君の視線が交わることもない。
教室を見渡しても、君の姿を見つけることはできない。ただぽっかりと空いた君の席だけがそこにあるだけ。
帰り道に、二人で影を並べることもない。君の隣を歩くこともできない……
そんな思いが溢れ、目の前の彼が涙でぼやけた。
『…死なないで………』
頬を伝う涙は止まらず、砂浜へと落ちていった。
自分の中で彼がこんなにも大事な存在になっていたんだと気づいた。
涙を拭おうとしたその時、
『…ごめん』
彼はそう言って、私を抱きしめた。
一瞬、時が止まったように感じた。体温が一気に上がっていくような気がした。心臓が壊れそうなほど速く動いて、どうにかなりそうだった。
遠慮がちに背中に回された腕。彼の匂い。鼓動。
全てが私をくらくらさせた。
あと数秒抱きしめられていたら、きっと私は倒れていただろう。
私から離れた彼は、もう一度『ごめん』と言った。
『あんなこと言って、本当にごめん。あと…ありがとう』
そして頭を下げた。
『約束するよ。死なない、絶対に』
『…本当に?』
私が訊ねると、彼はしっかりと首を縦に振った。
真っ直ぐに、私を見つめたまま。
なのに、どうして────
約束、したじゃん。
──2027年5月22日午後7時45分ごろ、十関(とぜき)海岸波打ち際にて、制服を着た男子高校生が倒れているのが通行人によって発見された。男子高校生は溺水したと見られ、病院に搬送されたが、意識不明の重体である。
あの事故が地元のニュース番組で流れたのは、その翌朝の一度きりだ。
たまたまそれを目にした私は、ものすごく嫌な予感がして、すぐに二階堂優斗に電話をかけた。
だけど、その電話は何度かけても繋がることはなく、ただ無機質なコール音が響くだけだった。
──きっと、彼はまだ寝てるんだ。だから電話に出ないんだ。
しかも彼は、学校のない土曜日にわざわざ制服を着て夜の海に行くような人じゃない。
そう自分に言い聞かせて、なんとかして目の前が真っ暗になってしまわないように必死だった。
お願い、どうか、二階堂優斗じゃありませんように…そう祈りながら。
私は、それまで生きてきた中で一番大きな不安に囚われたまま一日を過ごした。
思い詰めた様子の私に、母は何があったのかと訊ねてきたけど、私はそれに上手く答えることができなかった。
そしてついに、夜になっても二階堂優斗から連絡が来ることはなかった。
何度彼に電話をかけても、聞こえるのは無機質なコール音と、生気を纏っていないロボットのアナウンスだけ。
私が聞きたいのは二階堂優斗の声だというのに。
一瞬、彼の家を訪ねようかと迷ったけどそれはできなかった。
もしそこに彼がいなかったとしたら……そう考えただけで恐ろしかった。そして何より、彼の家族に迷惑をかけるわけにはいかない、と。
明日だ。明日は月曜日。学校に行って、彼に会おう。彼の顔を一目見れば安心できる。きっと大丈夫だ。
私は不安を取り去るように、そう信じて眠りについた。
しかし翌日、二階堂優斗が登校することはなかった。
▼
少年が呼んでいる。
波の音に紛れて、声が聞こえる。
足を止めると、微かに姿が見えた。
少年が呼んでいる。
風の音に紛れて、声が聞こえる。
──あれは誰だろうか。俺はあの少年を知っているだろうか。
少年が呼んでいる。
──七瀬兄ちゃん!
少年は俺の名前を叫んだ。
その途端、大きな波が少年に覆い被さった。
深い青が、一瞬にして一人の命を呑んでいく。攫っていく。奪っていく。
ああ、まただ。また救えなかった。
どうして助けられなかったんだろう。
俺は悪夢の中で、何度もがいているのだろう。
命が沈んでいく瞬間を、ただ見ていることしかできないでいるのだ。
少年の声ももう聞こえない。
この悲劇を、何度繰り返せばいいのだろうか。
──優斗、ごめん。
今度こそ必ず手を差し伸べるから、だからどうか待っていてほしい。
コンコン、と繰り返しドアをノックする音で目が覚める。
誰だ…?
寝ぼけたまま身体を起こすと、開いたドアの隙間から光が差し込んだ。
ゆっくりと開いたドアから顔を覗かせたのは、ここにいるはずのない人物だった。
「え…は…?」
その人物を目にした瞬間、眠気が吹っ飛び、心臓が大きく音を立てて、細胞という細胞が一気に目を覚ましたような気がした。
「──おはよう。もう7時だよ」
優斗!!!
体中が叫んだ。
なんで、なんで優斗が。
俺は咄嗟に言葉が出ず、彼を見つめることしかできなかった。髪型も、顔も、声も、背丈も、紛れもなく優斗だ。
「……どうしたの?」
優斗は不思議そうに訊ねた。
だけど、家に優斗がいるわけないじゃないか。だって優斗は今入院してるんだ。寝たきりなんだ。
これは夢だ。幸せな出来事が起こるのは大体夢の中だ。
どうせ、腕だってつねってみても痛くないんだろ。
そう思いながら軽く腕をつねった。
痛みは…ある。
これは、夢じゃない。
そんな俺を見て、優斗が吹き出した。
「あははっ、珍しい。兄ちゃんが寝ぼけてる」
久々に聞いた優斗の笑い声。くしゃっと笑った顔。
「ありえない…」
「なにが?…ていうか、早くしないと学校遅れるよ」
じゃ、とドアを閉めようとした優斗を思わず引き止めた。
「…び、病院は?」
口をついて出たのはその一言だった。
「病院?」
もしかしたら、俺の知らない間に元気になって、退院してきたのかもしれない。いや、あり得ないけど、もしかしたらあり得るかもしれない。
「なにそれ、なんの話?」
優斗はきょとんとして首を傾げた。とぼけている様子ではなかったし、本当に何も知らないようだった。
「ごめん、なんでもない…」
なんでもないわけない。信じられない。この状況全てが信じられない。
「疲れてるんじゃない?今日はもう休めば」
そう言い残し、優斗は部屋をあとにした。
優斗が出て行った後も、ぐるぐると頭の中が混乱し続けた。
なんだ、これ、本当に現実か?
おかしい。絶対、おかしい。
ハッとなり、スマホで今日の日付を確認する。
[ 5月10日 月曜日 ]
「どうなってんだよ…」
本当なら今日は7月8日のはずなのに。
何度見ても、画面の日付は間違いなく5月10日を示していた。二ヶ月前に戻ったってことか?あり得ない。
こんなに奇妙な朝は初めてだ。