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アナタが御懸念されている如く「原典性にこだわる聖書」と「布教に便利な聖書」、そして「政治的な恣意性を有する聖書」とが混在している現状において、
オレが指摘した再編集の可能性を否定する根拠は希薄であるように思われるのですが?
>「新世界訳」という聖書の翻訳は、上記を加味し、深い研究に基づき、聖書原文に忠実なので、私のお勧めです。
ちなみに門外漢としての素朴な疑問なのですが…“聖書原文”というのは紀元何年頃に誰によって編纂されたものをソレと認定しておられるのでしょうか?
サビぬきさん、コメント下さり、ありがとうございます。
>アナタが御懸念されている如く「原典性にこだわる聖書」と「布教に便利な聖書」、そして「政治的な恣意性を有する聖書」とが混在している現状において、 オレが指摘した再編集の可能性を否定する根拠は希薄であるように思われるのですが?
原文の保持性に関しては、一般的に古い写本程、原本に近いと考えて良いと思います。また、誤った写本を写した場合、誤りが継承されてしまう為、複数の写本を比較し、原本に近いものがどれか、推測することも可能です。こうした研究から、信頼出来ると思われるテキストが出来上がります。その後に更に古い写本(死海文書など)が発見され、テキストの信頼性が確認出来、更に裏付けられます。
この過程を経て、例えば神聖四文字が置換されたことは明らかになっています。また結果として僅かではありますが、果たして原本にあったかどうかが疑わしい箇所も具体的に特定が進んでいます。例えばマルコ16:9-20はアレ写、エフ写、ベザ写及びウル訳、シリ訳には含まれていますが、シナ写、バチ写及びシリ訳、アル訳には無く、原本に書かれていたのか疑問視されています。
一方、どの書(聖書は66の書から構成されています)を聖書の正典とするかですが、西暦367年のラオデキア公会議、及び西暦451年のカルケドン公会議で定義されました。しかし、ああでもないこうでもないと公会議で論議されたのでは無く、一般的に当時既に認識され、一致していた理解を公式に定義したのみでした。
聖書外典については、それがイエスと同時代を過ごした人ではなく、かなり後代になって書かれたものであること、また正典の教えと内容が異なっていること(偶像崇拝など)から、それがまがい物であると分かります。
加えて、信仰を前提に話すならば、神は聖書の内容を守られる筈だと確信出来ます。聖書自体が滅茶苦茶にされてしまったのでは、真理を学ぶこと自体が出来ないからです。確かに聖書は難しい書物であり、神の名が消されたりしました。しかし、ここは信仰が試されるところです。真剣に学ぶならば、必ず真理が見出せる様に聖書は作られています。以下の聖句に信仰を置くことが出来ます。
マタイ7:7-8
「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです。
ヤコブ4:8
神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます。
>ちなみに門外漢としての素朴な疑問なのですが…“聖書原文”というのは紀元何年頃に誰によって編纂されたものをソレと認定しておられるのでしょうか?
聖書は66の書で構成されています。それは約1600年の期間を掛けて、王や漁師、収税人など、様々な人々が神の霊感を受け、神の書記として別々の場所で記しました。書かれた概ねの年代、また書いた人物は特定されています。例えば創世記はモーセにより紀元前1513年迄に書き終えられ、啓示の書はヨハネにより西暦96年頃までに書き終えられたとされています。
何を正典とするかは、先述の通りです。