他人の意見を聞き入れて納得することを目的に行うのは議論というより質疑応答に近い
但し、その場合は質疑する側と応える側は議題に対しての知識量がそもそも平等な関係ではなく対立する関係性にまでに発展しない
一方、議論とは議題に沿って互いに自己主張のぶつかり合いであり、大抵の場合、声にあげたりネットに書き込む等、何らかの積極的な姿勢でもって自己主張するくらいであるから各々の持つ自身の主張にはかなりの自信を持っているもの
自信があるからこそ、中々、相手の意見を素直に聞き入れられない節がある
まぁその大抵の場合は、どちらも一歩も引かずに延々と自己主張繰り返して行う水掛論に成り果てる
その様子を見てるうちにスレ主も呆れ果てるというか、もういいやって気になってしまうのだろう
他人の意見を聞き入れて納得することを"目的"とした場合、そのような形に近いのかもしれないが、議論においてもその形は取れるのではないだろうか。互いの知識量が一般的に平等というのは有り得ないのだから、それが質疑応答であっても議論であっても関係ないのでは?
自分の意見に自信を持っているからこそ相手の主張を聞き入れられない節があるというのは、一理あるが、自信があるからではなく相手の意見を飲み込みたくない強情さからくるのではないか。それが正であろうが誤であろうが変わらない。
自信がある、つまりは自分の意見が自分にとっては絶対と等しい訳であって、相手の意見が自分にとって認めざるを得ない状況であっても、自分の意見を押し付けてしまうことなのではないか。そういった互いに譲らない抗争が水掛け論を生み出してしまうのではないか。
そこで考えたのだが、例え水掛け論であったとしても、何を視点としているのかはハッキリしている訳だから、如何に認識のズレを相手に伝えることができるのかを重要視したら良いのではないか。