嫌悪感を感じるか感じないか
石鹸で洗おうとアルコール消毒しようとゴキブリ触るのはいややろ
汚いと美しいは、「魅力度」っていう(名前はなんでもいい)一つの価値観に統一できて、
「魅力度」が高ければ高いほど、見たくもない→触りたくない→触れてもいい→触れたい、というような感じになる気がする。
当たり前の話で、どこからが汚いかを一般化するのならば >>2の言っていることであって。
それで結局この一般的な嫌悪感を形成するものは、その社会が広く共通に持つ文化という暗黙のコードに従うものに過ぎないものだと思う。
だから、>>3が提起する疑問に対する回答は、
ある文化を共有する集団、つまり民族にとって、その文化がもたらす「嫌悪感」というものによって、ゴキブリが嫌悪の対象なのか、それとも嫌悪の対象とされないかが、一般的に決まるんじゃないのかと思う。
それが文化的嫌悪だとすると、別に嫌悪もある。文化的嫌悪のより下層部分におそらく生命的嫌悪も存在している。
前にテレビのサバイバル番組で、栄養が摂れるから、生きたイモムシを食べているサバイバーがいた。そのサバイバーの表情はしわくちゃになって、口に含んで食べていた。
その表情が意味するのは、おそらく文化的な嫌悪感であって、生命的嫌悪ではない。
生命的嫌悪は、例えば高層ビルの最上階から、落っこちる寸前にいる時に感じるアレであって、一般的に人間は、自殺志願者では無い限り、そこから故意に落ちるという真似は絶対にしない。
だから、死ぬと分かっているものに関しては、とてつもない嫌悪感で拒絶するけれど、死なないと分かっているものに関しては、拒否反応程度にとどまるんじゃ無いのかと思う。
そういう意味で、文化的嫌悪と生命的嫌悪がある。
てなことがヤング心理学に書いてあった。
で、そこに興味深いのは対人的嫌悪というのもあって、これは文化的嫌悪と生命的嫌悪と違って、その人間に対する嫌悪が、実は自分に対する嫌悪と一致するんじゃないかという議論で、上記二つの嫌悪とは異質なものとなるらしい。
というわけで話が脱線したが、汚いという価値観の境目は、嫌悪感によるもので、嫌悪感の中でも文化的なものに由来するものなんじゃないのかと思われる。