こんにちは(・∀・)ノ
甘えさせていただきますね。
そうだったんですか。他板にも…。それは知りませんでした。
誰にも構われない事は哀しい事です。
そんな人が優しさに触れた時、自分の気持ちに気付く事もあると思うんです。
爆発したのは自分の惨めさを呪ったのかも知れない。成り済まして攻撃したのは自分に対してかも知れない。解りませんね。その人でないと。
どこかの板で「助けて」と書いていました。その意味は読む人によって捉え方が違うと思います。
私は二つ意味を考えました。
辛いから「助けて」
もう一つは。
成り済ましで「助けて」
荒らし行為ですね。
私も荒らしになり得るものを持っています。
「暴言」 「中傷」
私には「仲間」がいます 尊い人達です。大好きです。会えてよかったと思ってます。
でも私は心のどこかで出会わなければよかった。
と思う事があります。
私は本当はいない方がいいのかなとかマイナス思考になるんです。
昔から私は自分から離れましたから。
傷つけられるなら離れよう。今も変わりません。
いつも後悔するんです。 鵺さんは人との付き合い方はどうですか?
あの、私は前レスは読んでいません。
今の自分の思いを言いたいのでごめんなさい。
(前レスとはこのスレッド1からの事です)
いつも自分を蔑んでいないと不安なんです。
ふむ、誰にも構われない事は哀しい事なのですか?
「if」としての「かも知れない」と言うのは、確かめ様が無いですね。
「助けて」をどう解釈するかは人に寄りますが、
その「流れ」を追い駆ける事で、輪郭は見えて来ます。
あの方は「自演行為」「重複レス」も行っていましたし、
消されたレスには、卑猥な言葉も書き込んでいました。
それら全てを飲んだ「流れ」で「助けて」と仰るのは、
「虫が良い」と言わざるを得ません。
不器用ならば不器用成りの表現方法は幾らでもあるのですから、ね?
「暴言」「中傷」は方法や手段であって、「荒らし」そのものの要素ではない。
言ってしまえば「形に表し易い」だけで、原因は至ってシンプルです。
自らの「思い通りに成らない」と「癇癪を起こす」幼児のそれなのですから。
この場合、「何を言っても逆効果」に成るのは明白なのです。
その矛先の向きが変わるだけで、言葉は用を成さない。
麻痺した思考では、会話は不可能なのです。
僕にも「知り合い」は結構居ますが、
「尊い」や「好き」かどうかは僕には良く分かりませんね。
出会いや別れは、偶然と必然の連続性から成り立ちますから、
一期一会であるのならば、それを憂う意味は僕にはありません。
人はそれを「感傷」と言うのですから。
僕には僕の人生があり、その人にはその人の人生があります。
無論、アイラさんにはアイラさんの人生がある訳です。
それをどうこう言うつもりは僕にはありませんし、その資格も無い。
ですが―――そうですね。お節介を言わせて貰えるのならば、
人と人の関係性に「傷」は付き物だと思われます。
言ってしまえば、あなたが「離れた」事で、誰かが「傷付く」事もあるのです。
「助けて」の件であなたが仰った様に、その意味の捉え方は千差万別なのです。
「離れる」=「見捨てられた」と言う解釈も成り立ってしまうと言う事。
「誰にも構われない事は哀しい」と思考するのならば、
例え誰かを傷付ける事に成ろうと、自分が傷付く事に成ろうと、
その「怖さ」から逃げていては何も変わりませんし、成長もしない。
「絆」と言うのは無傷で成るモノではなく、
互いが傷を負いながらも、「信」を深め合う事ではないのですかね?