【諸行無常】

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46:鵺 ◆HP66:2008/04/21(月) 23:36 ID:vos

>>45

ふむ、誰にも構われない事は哀しい事なのですか?
「if」としての「かも知れない」と言うのは、確かめ様が無いですね。

「助けて」をどう解釈するかは人に寄りますが、
その「流れ」を追い駆ける事で、輪郭は見えて来ます。
あの方は「自演行為」「重複レス」も行っていましたし、
消されたレスには、卑猥な言葉も書き込んでいました。
それら全てを飲んだ「流れ」で「助けて」と仰るのは、
「虫が良い」と言わざるを得ません。
不器用ならば不器用成りの表現方法は幾らでもあるのですから、ね?

「暴言」「中傷」は方法や手段であって、「荒らし」そのものの要素ではない。
言ってしまえば「形に表し易い」だけで、原因は至ってシンプルです。
自らの「思い通りに成らない」と「癇癪を起こす」幼児のそれなのですから。
この場合、「何を言っても逆効果」に成るのは明白なのです。
その矛先の向きが変わるだけで、言葉は用を成さない。
麻痺した思考では、会話は不可能なのです。

僕にも「知り合い」は結構居ますが、
「尊い」や「好き」かどうかは僕には良く分かりませんね。
出会いや別れは、偶然と必然の連続性から成り立ちますから、
一期一会であるのならば、それを憂う意味は僕にはありません。
人はそれを「感傷」と言うのですから。

僕には僕の人生があり、その人にはその人の人生があります。
無論、アイラさんにはアイラさんの人生がある訳です。
それをどうこう言うつもりは僕にはありませんし、その資格も無い。

ですが―――そうですね。お節介を言わせて貰えるのならば、
人と人の関係性に「傷」は付き物だと思われます。
言ってしまえば、あなたが「離れた」事で、誰かが「傷付く」事もあるのです。
「助けて」の件であなたが仰った様に、その意味の捉え方は千差万別なのです。
「離れる」=「見捨てられた」と言う解釈も成り立ってしまうと言う事。

「誰にも構われない事は哀しい」と思考するのならば、
例え誰かを傷付ける事に成ろうと、自分が傷付く事に成ろうと、
その「怖さ」から逃げていては何も変わりませんし、成長もしない。

「絆」と言うのは無傷で成るモノではなく、
互いが傷を負いながらも、「信」を深め合う事ではないのですかね?


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