>>769
ここからは自分語りが多めに入るので、読まなくても結構です。あくまで参考程度に。
ときに、僕はクリスチャンを名乗り始めてから数年経っていますが、洗礼も教会通いもしていません。
僕の家は元々仏教色がかなり強くありました。そして僕自身幼いころから科学に傾倒し、神など存在するはずがないという無神論者でした。キリスト教の「救いの信念」にだけは少し興味があり、いつか学問知識としてキリスト教について調べてみようか、くらいの軽い気持ちを持っていました。しかし高3のときに祖父が急逝し、僕は頭がおかしくなる一歩前に至りました。いわゆる「半狂乱状態」です。受験のストレスと親族を亡くしたストレスがのしかかり、幻聴、幻覚、不眠と失神を繰り返して死にかけてました。でもどうしても死ぬわけにいかなかった僕は、そのとき偶然観た「GOD’S NOT DEAD(神は死んだか)」という映画で、わらにもすがる気持ちでキリスト教に入信しようと決めました。映画の内容は無神論者の教授とクリスチャンの大学生の話で、終盤の展開は不自然でしたが、途中まではとても良くできていました。あの時映画を見る僕は、映画の中の無神論者の教授と同じ立場でした。「科学的にも神はいるはずがない!ありえない!いや、でも……」という自問自答が、映画鑑賞時に繰り返されました。
最終的にはその映画がきっかけでクリスチャンとしての第一歩を踏み出しました。神様に救いを求めることを決心したのです。
映画を観た翌日に本屋に足を運び、聖書を買いました。クロスもなにも持っていませんでしたが、聖書の中にすべてがあると思いました。祈りの作法も何も知りませんでしたが、毎晩寝る前には「父と子と精霊の御名において」とクロスを切って祈り、朝起きてもまずは祈りました。内容はだいたい「今日も無事一日を過ごせました。ありがとうございます」とシンプルです。神様への愛は言葉にできないので、これくらいがちょうどいいという気持ちでした。
家の近くの教会に行ったことはありますが、教会の玄関に張られた「聖○○降臨会」などのイベントのチラシを見て、どうしても胡散臭く感じたのと、そもそも教会にいるのは自分と同じクリスチャンであって神様ではない、の思いが強く、結局教会に行ったことはありません。教会に行けば同じクリスチャン仲間と出会えるメリットがありますが、仲間に出会うことは運命に任せようと思いました。
僕は聖書と祈りで僕なりに最大限の愛と信仰を神様に捧げています。クリスチャンとして他者を助けることも多々あります。なので、洗礼や教会通いがなくとも、自分は立派なクリスチャンであると思っています。
>>769さんがどのような思いを神様に抱いているのかわからないので、あまりまとまった良い回答になっていないのかもしれません。とりあえず僕がこの一週間で考えたことは詰め込みましたが、もしほかに質問があれば遠慮なくどうぞ。同じ信仰を持つ方とは滅多に出会えない生活をしているので、ぜひともあなたのお力になりたいです。
>>820- お忙しいところご回答ありがとうございます。
形から入るのではなく、魂からの信仰が大切とのお言葉に改めて自分の至らなさに気が付きました。
無意識にも洗礼を受けなければならないと考えに縛りをつけ、心から神様を想えていなかったのではと思うと何とも…
これからは自分なりに出来ることを見つけることから始めてみようと思います。
整理をつけさせて下さりありがとうございました、しゅしゅさん