叔父や学校の方針からキリスト教に興味をもち、自分も入信したいと思うようになったのですが家族は宗教そのものに対する拒否感が強く、特定の宗教に入信したり日曜日に教会に出かけるだけでもいい顔をしません。
自分がまだ未成年ということもあり無理に洗礼を受けることもできませんし家族が余計に宗教嫌いになってしまったらと思うと行動に移すこともできずにいます
そして成人したとしても家族に黙って洗礼を受けるのに抵抗があり、どうしても一歩踏み出せません。
きっかけとなった叔父にも会って話をしたいのですが、自宅から遠い地に住んでいるというのもあり会えないし関わらせてもらえません。
以前先生が洗礼を受けずとも神を信じ愛しているのならば受けているのと同じこと、無理に洗礼を受けなくとも問題ないとお話をして下さったのですがいざ人にクリスチャンかと聞かれるとはっきりそうだと答えられない。
答えて良いのかもわかりません。
家族のことや先生のお話のことを考えると洗礼は受けなくても良いのではと思うのですがどうしても悩んでしまいます
どうすればいいのでしょうか
拙い文で申し訳ありません
え、名前がせから始まるあいつか……?
ファーストフードは食べない主義なので(^q^)<結構です
>>765
基本ココアの人狼は参加しないです(^q^)あまりにも時間が掛かるので。桃栗で少人数でサクッとやる感じのほうが好きでしゅ(^q^)
>>767
得点率は確か92%でした(^q^)
だいたい9割でしゅ(^q^)
>>768
数学、次に英語。どう勉強すればいいかわからない人が多いと感じました(^q^)
それを指導するのも家庭教師の役目です(^q^)
>>769
だいたいの事情はわかりました。
少し考える時間を頂けますか。僕はまだ人生の四分の1しか生きていない青二才なので、あなたの先生より優れたアドバイスを出せるかはわかりませんが、自分なりに良く考えてからお返事したいと思います。
ちなみに僕はクリスチャンと名乗っていますが、洗礼は受けたことありませんし教会にも行っていません。詳細はまたお返事に付随させていただきます。
今週末までには返事できるよう頑張ります(^q^)
>>769さん、キリスト教についてのご質問は今夜お返しできそうです。大変お待たせして申し訳ない(^q^)<メンゴ
>>769さん
すみません、やはり明日夜までお待ちしていただけますか。想像以上に時間がありませんでした(^q^)<ごめん…
>>769さん、大変お待たせして申し訳ない。とてもデリケートな質問ゆえ回答に四苦八苦していましたが、自分なりに考えがまとまったので、お返事させていただきます。
内容量が多いので二つに分けさせていただきました。
ご家族が宗教に対して不賛同でいらっしゃるとのことで、さぞかしあなたは苦しい思いをしていると思います。お疲れさまです。
>>769さんは、自分は洗礼を受けていないから正式にクリスチャンと名乗るには心の抵抗がある、と悩んでいるのですね。
そもそも洗礼とは、イエス様との一体化、そして従属化への第一歩のために行う儀式のようです。全身を水に浸すことがいわゆる「一体化」を象徴しています。ですから、水を浴びることそのものが目的ではないのです。洗礼によって自身の罪が洗い流される、と誤認している方もいますがそんなことはありません。罪がなければ洗礼を受けられないのでは、罪人以外はクリスチャンになることができなくなってしまいます。
そして洗礼は「イエス様への従属化」と先に書きましたが、洗礼は「自分はイエス様に従います」という表しになります。「イエス様の命令なので自分は洗礼した。自分は本当にイエス様を信じ従う者なのだ」という確信を得ることができます。
でも、これはあくまでも洗礼を受けた本人の心持ち次第なのです。
キリスト教は「信仰と恵みによる救い」をモットーとしています。信じる者は救われるのです。洗礼を受けていないからクリスチャンではない、とはいえないのです。それに、今ある肉体は仮の器でしかなく、あなたが死んでから神様の元へ向かうのはあなたの魂だけです。肉体を清めようと、心の底から神様を信じていないのではクリスチャンとは言えません。
形から入るのではなく、魂からの信仰を大事にしてみてはいかがでしょうか。
後半に続きます。
ここからは自分語りが多めに入るので、読まなくても結構です。あくまで参考程度に。
ときに、僕はクリスチャンを名乗り始めてから数年経っていますが、洗礼も教会通いもしていません。
僕の家は元々仏教色がかなり強くありました。そして僕自身幼いころから科学に傾倒し、神など存在するはずがないという無神論者でした。キリスト教の「救いの信念」にだけは少し興味があり、いつか学問知識としてキリスト教について調べてみようか、くらいの軽い気持ちを持っていました。しかし高3のときに祖父が急逝し、僕は頭がおかしくなる一歩前に至りました。いわゆる「半狂乱状態」です。受験のストレスと親族を亡くしたストレスがのしかかり、幻聴、幻覚、不眠と失神を繰り返して死にかけてました。でもどうしても死ぬわけにいかなかった僕は、そのとき偶然観た「GOD’S NOT DEAD(神は死んだか)」という映画で、わらにもすがる気持ちでキリスト教に入信しようと決めました。映画の内容は無神論者の教授とクリスチャンの大学生の話で、終盤の展開は不自然でしたが、途中まではとても良くできていました。あの時映画を見る僕は、映画の中の無神論者の教授と同じ立場でした。「科学的にも神はいるはずがない!ありえない!いや、でも……」という自問自答が、映画鑑賞時に繰り返されました。
最終的にはその映画がきっかけでクリスチャンとしての第一歩を踏み出しました。神様に救いを求めることを決心したのです。
映画を観た翌日に本屋に足を運び、聖書を買いました。クロスもなにも持っていませんでしたが、聖書の中にすべてがあると思いました。祈りの作法も何も知りませんでしたが、毎晩寝る前には「父と子と精霊の御名において」とクロスを切って祈り、朝起きてもまずは祈りました。内容はだいたい「今日も無事一日を過ごせました。ありがとうございます」とシンプルです。神様への愛は言葉にできないので、これくらいがちょうどいいという気持ちでした。
家の近くの教会に行ったことはありますが、教会の玄関に張られた「聖○○降臨会」などのイベントのチラシを見て、どうしても胡散臭く感じたのと、そもそも教会にいるのは自分と同じクリスチャンであって神様ではない、の思いが強く、結局教会に行ったことはありません。教会に行けば同じクリスチャン仲間と出会えるメリットがありますが、仲間に出会うことは運命に任せようと思いました。
僕は聖書と祈りで僕なりに最大限の愛と信仰を神様に捧げています。クリスチャンとして他者を助けることも多々あります。なので、洗礼や教会通いがなくとも、自分は立派なクリスチャンであると思っています。
>>769さんがどのような思いを神様に抱いているのかわからないので、あまりまとまった良い回答になっていないのかもしれません。とりあえず僕がこの一週間で考えたことは詰め込みましたが、もしほかに質問があれば遠慮なくどうぞ。同じ信仰を持つ方とは滅多に出会えない生活をしているので、ぜひともあなたのお力になりたいです。
あばばばばば、書き上がった文を読み返せば読み返すほど狂信者っぽいので追記です(^q^)
キリスト教の教えを信じ従うのはもちろん大切ですが、それ以前に自分は人間であることを忘れないでください。
例えば「神の教えによると人を殺せば殺すほど良い!だから殺す!」は人の道を外れて神を盲信しすぎています。人の社会で生きていく以上全てを信仰に委ねてはいずれ人間として破綻します。
物事の善し悪しを判別するときには、必ず自分の判断も入れて考慮してください。