いじめる側が100%悪いけど、自衛するに越したことはない。
犯罪者が悪いけど、犯罪に巻き込まれないように鍵をかけたりSEC〇Mつけたり、できる対策を取るのと同じ。
財布を出しっぱなしにして盗まれたら、盗む方が悪だけど、そのままにしなければ狙われなかったというのも明白。
いじめも犯罪だというのならば、防犯意識がある方が回避しやすいのも間違いではないと思ってる。
いじめや犯罪が絶対的に悪いけれども、議論したところで加害者志向の人がゼロになる訳では無いと思うから、無くならないのであれば対策する、というのも世渡り方法の一つでは無いかと考えてる。
それは、必要性の観点で言えば、「実用」の分野に限定される。
そして、それを万人に適用させようとするならば、「実用をしていなかった、もしくは少なかった奴にも問題がある」という論理が曲がり通るのと(現に実例がある)、いじめっ子を無くす動きには全く繋がらないので、メタ的な意味で、問題がある。
そもそも、いじめを減らさずに、自衛の必要性を迫られる社会なんてものは、問題がありまくり。
そして、いじめを減らす提案すらせずに、ただ自衛しようというのは、無思考そのものだ。
そもそも、いじめを無くす動きというのも、強めなければ、減らない。なので減らすには、例えば、いじめというのは、格差が大きければ大きいほど、増えるという相関関係が既に統計上出ている。これは、アメリカであろうが、イギリスであろうが世界的に共通している現象。
それから、「議論したところでとか」トンマなこと言ってるけど、議論がなかったら、改善も解決もしないんだが?社会合意や危機感は、国民の間にも(したがって、政府の間にも)、何も形成されなくないかと批判しておく。
教育の社会構成主義の立場からすると、「いじめを無くすことはできない」というのは合意だが、いじめを無くすことはできない、だから自衛しよう、だから議論をやめよう、というクソ論理を否定して、別の解答を出している。
それは、例えばいじめが起こったとしても、そのいじめを止めるような人間に、子供たちを育てるという教育だ。今の日本の、共同体(過程を含む)の崩壊、上から教育、自己責任教育、学校の機能低下(日本型学校主義より)では、個々の原子化、孤立化、傍観主義が進んで、それはほぼ困難だと言われている。
つまり、いじめを減らす方法、あるいは、いじめが起きたとしても、それを自己浄化する作用を持ち得る社会を作る方法は、いくらでもあるのに、現状に対しての処方箋もなしに、世渡り方法を提示するのは、一般論、社会論を扱う議論としては、ズレているような気がする。もちろん、悪いと言っているのではないが、あまりに不十分で問題があるということ。