虹さん。そうですね、体の・・と言うと誤解を招きそうですが相性が良かった事は間違いないと私も思います。
そして、血霧忍大量虐殺などは決してオビト自身の意思じゃありませんが、オビトはイタチ以上の自己犠牲者なので仮面による殺戮全てが彼自身の意志という事で片付けられたのも神・岸本の想定内かと思います。
イタチやサスケについても同様の解釈です、トビは“イタチの真実”を話す事でサスケの憎しみの矛先を里一点に向けさせます。そして、サスケが人質にされた香燐に構う事なくダンゾウを仕留めた時、彼はこう発言しました、「そうこなくては」と。
それに勝てる見込みの無いダンゾウが最後に言い放った台詞、「忍の世の為、木ノ葉の為、お前らは決して生かしておかぬ!」。(言うまでもないやも知れませんが)「お前ら」とは周辺の描写からして写輪開眼者即ちうちは一族の事だと思います。
「ヒルゼン、次はワシの番のようだ」、ダンゾウからしたらばまさにあのカガミ進言による囮作戦の犠牲となる順番そのものじゃないでしょうか(ヒルゼン以前に死亡のカガミ自身&トリフは名乗りを挙げてないので除外します)。
みなさんこんばんは〜
>>374 /ugさん
自己犠牲、narutoのキャラには多いですよね。
ただ個人的にはオビトよりイタチの方が自己犠牲的だったかなと思っています。彼は本当に木の葉も、そして一番大切なサスケも両方を想って動いていましたから。
オビトとマダラは自身が悪役になる事で結果的には他を団結させたことになりますが、自身の勝手な考え(現実世界に意味はない、幸せは無限月読にあるという決めつけ)で皆を犠牲にしてきた部分もありますし、あくまで自分が成すと言う自己中心的な考えも強かったので自己犠牲的ではないのかななんて思いました。
その点最後の方のサスケは自身が悪になることで他が平和へと動くと見越して行動を実行しようとしていたので、彼ら兄弟は自己犠牲的でしたよね。
なるほど、ダンゾウのセリフが囮作戦の犠牲順番を指していた可能性もあるかもしれませんね。
単純に見ればヒルゼンのようにたとえ自分が死んでも、里を守るため里に仇なす敵を倒す、という風に受け取れますよね。
それだけダンゾウも里を想い、ヒルゼンの事を意識していたと言うことですよね。
アシュラとインドラ、柱間とマダラ、ヒルゼンとダンゾウ、オビトとカカシ、そしてナルトとサスケなど光と闇が対をなしてお互いが活きる姿を描いているのがnarutoですね。