「……ぇ?」
ギィっと、地響きにも黒板を引っ掻き回す音にも似た音を立てて立ち上がった先輩。
その気迫に眼下に広がる住宅地をデッサンしていた僕の鉛筆が、止まる。
「自分にとって本当に必要なものが、必ず手の届く場所にあるとは限らないだろう」
目の前のキャンバスに向かって何度も何度も頷きながら、まるで半分寝ているように、それでいてハキハキと言葉を紡ぐ先輩。
そんな彼の背に僕はまた声をかける。
「そんなの…ただの妄想じゃないですか」
「妄想でいいんだよ」
背中越しに帰ってきたその声は笑っていた。
「今あるものだけで自分を満たすよりも、ありもしない何かで満たす方がよっぽど素敵じゃぁないか。たとえ空想でも、幻想でも、それで生きていけるなら……その方がいい」
おそらくそれが先輩の信念とか、座右の銘とかいうものなのだろう。堅い意識を感じさせるその言葉に一瞬感動しかけるも、そもそもの話題がマヌケに空を眺め続けることだと思い出した僕は苦笑する。
「で、それが空を眺め続ける事と、どう関係しているんです?」
しかし呆れたのは僕だけではなかった。
その発言を聞くやいなや、先輩は目の前のキャンパスに唾が飛ぶほどの深いため息を吐く。
「キミも分からないやつだなぁ」
椅子をガッと掴んで振り返り、ひそめた眉ごと顔をこちらに突き出す先輩。明らかに不機嫌だと言いたげなその眉を今度はいたずらに釣り上げて、先輩はふてくされたようにそっぽを向いた。
「キミのような奴は毎日空を見上げて、いつか風に乗ってくる荷物に胸を躍らせる経験をしてみればいい! 私の言っていることがよく理解できるだろうさ」
「に、荷物?」
僕は意味が分からず空を見上げた。
意味も分からず空を見上げる。
そこには空が広がっている。以上だ。
とにかく僕と先輩では相容れない価値観のズレがある。どうやら退部も視野に入れたほうがいいのではないか。そんな思惑でこの理解の及ばない先輩の背中を見つめていると、いきなりその背中が「よし」と立ち上がった。
「完成した。見てみるかい?」
正直見たくはなかった。
心底先輩を嫌ったわけでは無いが、嫌悪というものはたちどころに人の態度を変えてしまうものだ。
とは言っても誘われている以上見ないわけにはいかない。僕は先輩の背中を乗り越えてその先にあるものを覗き込んだ。
そこには、空(ソラ)しかなかった。
いや。空だけしか描かれていないという意味ではない。それは紛れもなくこの屋上から見える風景そのもので、だというのに先輩のキャンバスにはここから見えるビルも、街も、木も、森も描かれていなかったのだ。
ただ一面に【ごちゃごちゃ】が……そう表現するほかないようなモノが散らばっていて。
その最奥にぽつりと、空が浮かんでいる。そんな絵だった。
「これは…どういう」
「綺麗なものだろう? 私がここから書いた絵だ」
僕の質問が先輩の声にかき消される。
「何一つ無いが、それを差し引いて余るほどの大空がここからは見えていた」
勘違い、食い違い、相違、ズレ。
疑問が積み重なるそのたび、目の前に居るはずの先輩が遠くなる。
「あの時飛んでいた空はどうだったか。もう忘れてしまったが……」
まるで夢から覚めるように、何かから解放されるように自分の目が心が目の前の人間を正しく認識し始めた。
「とかく懐かしい。あぁ……懐かしいなぁ」
そしてその違和感がようやく形となった時、僕はひどく今更な問いを口にすることになった。
「あなたは…いったい誰ですか」
「先輩さ、キミのね」