合理性とは、自己の発展に寄与する理念の一つで、その考え方の実態としては、最短の努力で最大の結果を出すということにある。
そこで、学生における合理的判断に必要なものは何か。それは至って単純。周りに嫌われる勇気を持つこと。
社会とは、人間を構成員とするネットワークであり、この実態からして単なる主観の集合に過ぎない。そこで、多くの人間の一致した主観、即ちモラルや道徳というやつがある。それらは正式な用語では、道徳規範と呼ばれる。敷衍すれば、法規範で定められてはいないが感情的に守らなければならないルールが存在するということだ。例えば、人に親切にされたら、親切にしなさい、とか。
合理的判断に際しては、こうしたルールを守る必要は一切ない。ただそこには、法(制限)を遵守すること、権利を認識すること、この二点で十分だ。制限とは、定められた自由である。自由が具体化したものが権利なのだから、権利とは自由範囲である。
しかしながら、時として、他者のその自由範囲を侵そうとするのが、モラルや道徳、個人の感情論である。そこには、守らなければならないという法規範性は働いていない。つまり、守る必要はない。時間は貴重であり、自己の発展に努める最大の要素かつモチベーションをも構成材料である。時間はいかなる大金を支払おうとも買うことはできない。したがって、時間を確保したいのならば、モラルを破る必要に迫られる。さらに言えば、他者と大きく異なった生活を送ることになる。ゆえに目立ちやすく、他者からも冷たいやつだと嫌われやすい。
しかし、考えてみてほしい。彼らは、自分の人生にとって必要不可欠な存在なのだろうか。小学校、中学校、高校とあるけれど、おおよそその12年間は、長いと感じるかもしれない。たが、自分の能力が最大に発揮され、社会的な目に晒される空間は、仕事世界に出てからである。そこで学生時代の怠惰を後悔してももう遅い。何らかの運気が巡ってこない限り、負け犬ルート、勝ち組ルートが確定する。そこのルートを決定付けるのは、学生時代の合理的判断の持続にこそある。それを妨げようとする輩は、全員敵だ。だから、答えはノーだ。ただし、例外がある。人間の幸福度を決定付けるのは、人間関係が大半であることを忘れてはならない。そこで幼馴染という存在がいたとしたら、それは大切にした方が良い。なぜなら、合理的判断の持続は大きなストレスを伴うからである。