確かに…身長が五センチも変わらない人が私より10キロは重かったりしましたな。あれはびっくり。
しかし太ってる感じもしないという筋肉のすごさよ。
チャルは華奢なのだなー。
まぁそれくらいの体重であれば女優体重くらいらしいしそれくらいを目指す!
スーパーモデル並みとなると45とからしいけどそれは厳しそうだ。
引き締まった体になりたいけどなにぶん胃下垂が…wwこれを直せば
少しは良くなるだろうかね。頑張るわ!
世間というか、人生というか、社会というか、自分自身に対するストライキなんじゃないかなぁと。
目的はわからんけど。俺の場合は自己嫌悪からの発生だったなぁ。不登校の時期は。
さて、さっきまで花火みたいな…?なんか映像作品を見てたんだけど、
すげえなーあれって。計算しつくされた演出。それも光とその動きだけでなされる
映像美。もう年も年なものでw目を奪われて時を忘れるような体験はさほど
なくなってきたのだけど、今でも何も考えずにそういうものにだけは目を奪われる。時を奪われる。
円を描く規則的な光の羅列というか揺らぎというか。
特に花火なんてものは好きだ。見るだけなら。音に敏感だからあまり近づけないけど
そこそこ遠くで眺めるのは楽しい。昔は花火が近くであると耳を塞いで押し入れの中の
布団に隠れたりしていたが、今はそこまでしなくてもよくなった。
音にはいちいちびびるけど。耳が人より過敏なのがそういうときは煩わしい。
で、花火。本当は火とか光っていうのは破壊のためによく働くものだ。
爆薬なんか典型だ。花火だって死者を出すことだってある。
それが熱の一つも観覧者にもたらさず、ただただ綺麗な存在になっているというのが
なにか愉快で。破壊の象徴ともあろう火が良いように扱われ、無害な面を引き出され
利用されてるに等しい姿が面白くて。だからこその美しさなのか、
どうも見惚れる。いつか俺も、人の時を奪えるような作品を作ってみたい。
そしてそれは、大きな力を持った存在を飼い慣らすことでなされるべきとも思う。
花火のように。いつ暴れるかわからないものを飼い慣らした瀬戸際の美しさで
人の目を時を奪えれば。そんなものが作れたら俺の人生は成ったと言っていいな。
俺にとってのそんなテーマは死そのもので。
だからこそ骨に執心しているのだが、骨だけじゃ静か過ぎる。
もしそれを最大まで際立たせるなら圧倒的な生と同居させて見せるべきで。
骨と花とか。骨をかじる生き物だとか。骨と生殖器とか。生前を思わせるナニカだとか。
それが限界ならば、骨ではなく、生きていないだろう生き物を描写するとか。
肉が剥き出しの生物とか。内臓が溶け落ちた生き物だとか。
生々しさを、生をぶつけるような死に落ち行く瞬間のシーンだとか。
でも、ゾンビ映画が流行って見慣れたような人達にはもう飽きた産物だろう。
ならば、生を、死をぶつけるにはどんな表現が相応しいのか。
映像なのか、静画なのか、彫像なのか。
血を、生死もないような存在を、内臓を、痛みを、グロテスクさを見飽きた
人間が、心底驚くようななにかを作りたい。それが俺の表現の目標。
もっと真に迫った。もっと抉りこむような。
バングラデシュの画家モハマド・イクバルなんていかがかな。
「Unknown Faces」とか神掛かってると思う。
展覧会観に行きたかったな……