7月も良かった。6月もよかった。だが、9月。9月がいけない。
9月になってから生きている実感がない。
車窓から眺める興味のない風景のように、あっという間に月日が流れていく。
あれからもう4ヶ月経とうとしている。
酷い毎日だ。悲しい。だけど涙すら流れない。
やれやれだ。
──やれやれ──
本当はそんな言葉じゃ収集付かないくらい切羽詰まってるのかもな。
僕は僕に失望した。
まさか4ヶ月も進展がないままやり過ごしただなんて。
生き恥だ。
恥?何を誰に恥じるというのだ?
最長記録かもしれない。こんなに最低な状態が続いたのは。
今迄の僕は、たとえ何か悩みを抱えてもそれを解決するか、折り合いをつけて抱え続けていくか、
あるいはカウンセラーさんや知人に話して、悩みを共有してもらうなりして、
一応生きてきたはずだ。
小さい頃から普通ではない生きづらさ(あるいは自分自身への不甲斐なさ)を感じてはいたものの、
一応、自分の人生に何らかの意味を見出すことができたし、
常にブレなかったはずだ。
つまり、現実感があった。
生きている実感。
これが夢の中でないと、あるいは自分が世界5秒前仮説のように今さっき生まれてきた偽りの存在ではないと、
常に断定できた。
あるいはそうだと仮定してもそんなことは問題にならないくらい、
毎日が新鮮な驚きと発見に満ちていた。
どんな些細な出来事も大切に記憶していた。
悲しいことも。やり切れないことも。嬉しいことも。ドキドキすることも。
辛いことの分幸せも多かった。
いや違う。幸せは多くはなかった、だが深かった。
不幸に対して幸せの量はあまりにも不釣合いで、僅かだった。
だけど、そんなことは当たり前なのだ。
元来人間という生き物は幸せになれるようにはできていない。
だと言うのに、全ての人々が幸せを求める。
だから不幸なことが幸せなことに比べて圧倒的に多いのは当たり前なんだ。
そんなことは何も問題ではない。
「生涯ただ一度でも心の底から幸福だと思える瞬間があれば、
その人生全てを肯定しなさい。」
たしかそんな言葉だったと思う。
ニーチェの言葉だ。
僕が本当に心底救われた言葉だ。
つまり、ずっと幸福でなければ不幸であるということではない。
禍福は糾える縄の如しではなく、実際には幸せより遥かに不幸の方が多くて、まるで僕たちの人生は無意味なように思えてしまうけど、
幸せより不幸が多いのは当たり前で、それを受け容れて、幸せを大切にしていける人間こそが、人生に意味を見いだせる。
ずっと幸福でなければそれ以外の期間は不幸かと言われれば、そんなことはないんだ。
よくわからない地点に文章が帰結してしまったけど、
今日はそんなことを考えた。
気持ちを吐き出せて良かった。
普段は、ほら言語化するの苦手だから、
たまにこうやってスラスラ言葉が出てくる日があると、
堰を切ったようにそれまで溜まっていた心の水がどばあっと溢れてくる心地よさがある。
少し春樹じみた文章も快い。(僕は村上春樹はそんなに好きじゃないけど。)
闇のような不安はまだ心の大部分を支配してはいるけど、
少なくとも、今日はこれで良いと思える気がする。