個性を認めろとか、多様性を訴えるその本人にこそ他に対して寛容ではない場合が多い気がするんだよな。
フェミ―とかさLGBTなんかでよくメディアに露出してくる一部の人間とか見てて思うんだけどさ。
わかるよ
多様性と称して自分とは相容れない人、自分を嫌う人を排除する奴いるよね
かといってマイノリティを排斥しようとするのも違うと思うんだよな。
意見の押し付け合いではなく相互理解ができたら一番理想なんだけど、マジョリティマイノリティ双方がいがみ合っているようじゃ難しいかね。
無論、双方全員がそんな連中ばかりではないということはわかっているが。
多様性って言うと遵守すべき素敵なものみたいな印象が付きまとうけどつまるところ「いろいろあるで」ってだけだからね。
例えば食文化なら特定の文化域で一般にゲデモノと思われるのものを食べるのが食文化ならそれを「うわ無理だわ」と反応するのもまたその人の食文化。決して「認めましょう受け入れましょう拒否してはいけません」って話ではないのよね。ここを勘違いして腫れ物扱いこそが正しい対応だと思ってる人が多い。だから多様性って聞くと個人的にはモヤっとするわ。
言うまでもないけど拒絶が行き過ぎて人格否定にまで転化したらダメなんだよ。
「○○を食べるあの民族は我々より格下の蛮族だから○○しても構わない」という思考に至るならそれはただの人権侵害だからさ。
まあこういう最悪のケースとごっちゃにしてちょっと渋い顔されただけでギャーギャーさわぐ連中がいるからモヤっとするんだけど
>>5
その思考になる人達が一定数いるからダメなんだよね
その思考をいいように利用して被害者ぶってる奴らが害悪すぎる
○○を否定されたって言うのから自動的に自分自身が否定されたって思ってる人をよく見かけるし
いやさ、マイノリティーとして出てくる人こそゴチャゴチャ条件付けがうるさいなぁって思う時が合ってさ、よほど寛容性が無いと思う時があってね。それでして多様性を訴えるわけでしょ、ならば自分を受け入れきれない状況が存在していることまで含めて受け入れろよって話なんだよね。
8:スカラムーシュ:2020/09/03(木) 23:27 ID:ZHo >>7
論理がヒドいw
多様性の考え方に状況が含まれるわけないだろ。
喧嘩腰は良くないと思う
10:ノート:2020/09/04(金) 00:57 ID:s/2 >>8
ごめん、個人的にあまり興味の無いとこへの突っ込みだったからどう反論した方がいいかわかんねぇやw
もう少し詳しく書いてくれる気があれば聞くけど書く気ある?
>>9
まぁそういうスタイルの人もいるからさ。でももう少し詳しい内容を書いてくれた方が読む側としてもねぇ。
受け入れないのも多様性って言うやつは自分が排除される立場になったら掌返して受け入れろって抗議しそうだよな
12:「」:2020/09/04(金) 01:15 ID:OOg「多様性なんて認めなくていい」という人の居場所もないと多様性は担保されない
13:ノート:2020/09/04(金) 01:30 ID:s/2 >>11
少しお話でもしますか?気が進めば付き合ってくださいよ。
多様性を理由にして相手に「自分を受け入れろ」と迫った場合、別の局面で自分が「逆に他者を受け入れなければならない」立場になったならば、これをどうするんだろうか?そういう疑問でね
俺の場合はさ、多様性ってのには当然「自分が受け入れられない場合も含みますよ」っていう考えをしててね、そうすると確かに君が言うように他者から否定もされるんだけど、同時に自分も相手を否定することもできるんだよね。
一人二人の少数な対象を相手にするなら常に受け入れるという多様性の解釈を採用してもいいけどさ、これが扱う対象の量が量ならば通用しなさそうって思うんだよな、
ましてLGBTとかフェミ関係の話になると俺はそもそも触れ難く計量が困難な対象として見ててさ、そこで多様性をもって寛容であれとするにしてもその多様性には否定されるという場合も含めておいた方がいいんじゃねぇかなぁ〜ってそう思うんだよね。
>>12
って事は僕の考えを寛容的に見てくれてるって事でしょうか?
そうだったら嬉しい限りですよ。
>>11
受け入れない=排除 みたいな極端な構図に捉えがちな人が多いがそれはちがうと>>5で論じています
>12
時間的観点を除いた意見のため、そうはならない。
多様性が認めるべきではないという意見を形式的許容することは問題ない。しかし、実質的許容として、その意見を現実に反映したとなると、結局のところ多様性が確立されないことになるから全く実用性に欠けるパラドクス。このパラドクスがその意味として効力を持つのは、多様性を認めるべきでない、という意見を反映するか否かという選択肢を選ぼうとしている(実際には選ぶことができないのだが)止まった時間においてのみである。したがって時間という観点を排した現実性に乏しい意見。
付け加えて言うと、実用性の観点を重視するのであれば、例えば政治学領域やらドイツ文学領域やらと、特定領域を定めて、各々の領域で多様性を認めるべきか否かを学問的検証のもとで、論証していくべきだ。もちろん、特待領域については、それが命題的である以上は、自由に細分化してもよい。一方で、過去の論証で多様性を認めるべきだったものは、現在では多様性を認めるべきでないとする可能性も十分にある。
というわけで結論としては、多様性を認めるべきか否かは各領域において、議論し続けるべきで、それを過去・現在・未来では内容が大きく変わることも覚悟しなければならない。
誰も排除=人格否定なんて言ってないんだけよなあ
18:匿名:2020/09/05(土) 01:50 ID:T8A そもそも個性を認めないのも個性だろって言うなら結局個性を認めろってことでしょ?
個性を認めないという個性を認めろ!って言ってんだからもうエンドレスよ
>>17
>>15に対して仰っているならズレているのでもう一度読み直して見てください。
>>18
それが極端だといっています。なぜ 受け入れない=受け入れないという個性を受け入れろ になってしまうのでしょうか。それは二元論です。>>4-6で議論されていたのはそういった排他的な思想では無いはずです。