>>193
>イエスの姿が変わっていたと解釈することはできませんが。
長いので中略して引用します。
ルカ24:15-31
彼らが語り合い,論じ合っていると,当のイエスが近づいて来て,一緒に歩きはじめた。 ところが,彼らの目はイエスを見てもそれとは見分けられずにいた。イエスは彼らに言われた,「あなた方が歩きながら互いに討論しているそれらの事はいったい何ですか」。すると,彼らは悲しげな顔で立ち止まった。クレオパという名の者が答えて言った,「あなたは,外国人として自分ひとりでエルサレムに住んでいるために,近ごろそこで起きたいろんな事を知らないのですか」。
(会話箇所は中略)
彼らは,行こうとしている村のすぐ近くに来た。すると彼は,さらに遠くへ旅を続けるような様子を示された。しかし彼らは,「わたしたちのところにお泊まりください。夕方になるところですし,日はすでに傾いていますから」と言って強いて勧めた。そこでイエスは彼らのところに泊まるため中に入られた。そして,彼らと一緒に横になって食事をしておられた際,イエスはパンを取って祝福を述べ,それを割いて彼らに渡しはじめられた。それを見て彼らの目はすっかり開け,それがだれであるかが分かった。
物理的に視界が遮られてはいません。目の前のイエスがイエスだと気付かなかったのです。
以下の聖句の通り、イエスの肉体が完全に滅びず、復活したのであれば、贖いは成就しません。
コロサイ1:22
神は今やこの方の肉の体により,その死を通して,再び和解させてくださったのです。
ペテロ第一3:18
彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。
>教会に行って聞いてきましょうか?
聖書の教えに反している教会が沢山あります。些細な点ですが、クリスマスのサンタクロース、イースターのウサギなど、聖書ではなく異教に基づく習慣を見れば分かりやすいです。
ルカ16:10
ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です。
>懐疑です。心理学が科学でないように人の心はわかりません。思いと逆のことをすることもあります。だからそれは状況、事柄に基づいた推測でしかないのです。
極論は推測かも知れません。しかし殉教者には強い信仰心があったと考える方が、信仰心が無かったと考えるよりも遥かに妥当でしょう。
>物理的に視界が遮られてはいません。目の前のイエスがイエスだと気付かなかったのです。
そうですね。そこは私の誤解釈でした。
>以下の聖句の通り、イエスの肉体が完全に滅びず、復活したのであれば、贖いは成就しません。
イエスの死後の処理からして肉体が無くなるとは思えません。火あぶりにされたわけでもないでしょう。
>聖書の教えに反している教会が沢山あります。些細な点ですが、クリスマスのサンタクロース、イースターのウサギなど、聖書ではなく異教に基づく習慣を見れば分かりやすいです。
了解です。
>極論は推測かも知れません。しかし殉教者には強い信仰心があったと考える方が、信仰心が無かったと考えるよりも遥かに妥当でしょう。
人の感じ方はそうでしょう。私はどちらにもつきません。答えはわからない。だと思います。