>>191
>論旨に矛盾を感じます。只、反対するのではなく、論理的一貫性を持って議論して頂けると嬉しいです。
どこが矛盾ですか。
>歴史の中で何度も発禁処分、所持や翻訳禁止とされたにも関わらず、今日、世界中のあらゆる人が母語で入手出来る様になっています。聖書はサタンの攻撃を耐え抜いてきた書物です。
それは自由主義、民主主義のおかげです。およそ数千年も悪用され続けている事実は変わりません。
>先日、孫子の件で洗脳を否定されていましたが、今度は洗脳的行為を肯定されるのですか?論理的に一貫した立場で議論をお願いします。論理性を重んじず、只、単純に反論したいだけなのでは、と感じ始めています。
私を侮辱しているのですか。まあいいです、私は洗脳せよとは言っていません。それとも、更生は洗脳とでも?
>言い替えて逃げないで頂きたいです。役に立たない社会的弱者は消えるべきだ、そうお考えなのではないですか?そうであれば明言をお願い致します。
消えることによる苦痛と消えることによる快楽を比べて快楽の方が大きければ消えてもいいと思います。快楽次第です。僕は功利主義者です。言い換えではありません。
>では高度な動物程、自分で移動出来るまで時間が掛かるのでしょうか?本当でしょうか。鳥のヒナは無防備ですが、鹿は直ぐに歩けます。スズメは鹿より高度ななのですか?
ヒヨコも歩きますよ。相対的に考えて防備において鹿が勝るとは思えません。
>巨人はあり得ないのに、恐竜はあり得るのですか?骨密度の観点から、ご説明願えますか?
骨密度が同じなわけないでしょう。肉食恐竜なんかは骨密度が高いはずです。もっと言えば体の構造が全然違います。人間は4mを越えれば静止していても死にます。
>自然には力がありますが、意志がありますか?
なぜ意志がいるのでしょうか。
>で聖書が科学の上を行っている
当時の科学の話ですね。聖書が科学を超えていたのは肉眼で観察していた時代です。上を行っているなら、天動説なんていう怪奇な論はでてこなかったはずです。
>これは物理的ではなく比喩的な意味だということが、文脈から明らかではないでしょうか。
イエスの姿が変わっていたと解釈することはできませんが。教会に行って聞いてきましょうか?
>信仰により迫害され、殉教したとしても、信じていたかどうかは分からない、只の解釈だと言うのですか?やはり論理性は最早どうでも良く、単純に反論したいだけではないでしょうか?では、逆に何をすれば信じていたことが伝わるのでしょうか?
懐疑です。心理学が科学でないように人の心はわかりません。思いと逆のことをすることもあります。だからそれは状況、事柄に基づいた推測でしかないのです。
>どこが矛盾ですか。
神が公正な証明に十分な時間を掛けていることに関して否定的であり、さっさとサタンを処理した方が良いというご意見の一方で、大洪水は強引だというご意見もお持ちの点に矛盾を感じました。
>それは自由主義、民主主義のおかげです。
確かに自由主義は聖書が読める環境を守ってくれて、有り難いです。しかし聖書が絶え間無く続き、拡散出来たのは、信仰によるものです。
>私は洗脳せよとは言っていません。それとも、更生は洗脳とでも?
サタンは洗脳を含め、手段を選びません。対してエホバは公正な手段でのみ対応します。その文脈で「洗脳や嘘などを使う相手にはそれなりの対応をしてもいい」と仰ったので、「洗脳返しもあり」と仰っていると理解しました。
>消えることによる苦痛と消えることによる快楽を比べて快楽の方が大きければ消えてもいいと思います。快楽次第です。僕は功利主義者です。言い換えではありません。
姥捨山に肯定的ですか?
一人の人間を殺し、その五つの臓器を移植することで五人の人間が救えるならば、その殺人は正しいでしょうか?
>ヒヨコも歩きますよ。
スズメのヒナは直ぐには歩けません。ではスズメはニワトリよりも高度なのでしょうか?
>骨密度が同じなわけないでしょう。肉食恐竜なんかは骨密度が高いはずです。もっと言えば体の構造が全然違います。人間は4mを越えれば静止していても死にます。
それは本来4mスペックでない人間が4mに生まれたら、の話ですよね。二足歩行の恐竜スペックはあり得るのに、骨密度の高い4mスペックの巨人は何故あり得ないのですか?
>なぜ意志がいるのでしょうか。
いつか人間が命を作り出せるようになったとしても、そこには意志があって実現したことだからです。
>当時の科学の話ですね。聖書が科学を超えていたのは肉眼で観察していた時代です。
地球が真空に浮いていることが、肉眼で観察出来なかった時代に記されました。
>上を行っているなら、天動説なんていう怪奇な論はでてこなかったはずです。
詩篇104:5
神は地の基をその定まった場所に置かれました。それは定めのない時に至るまで,まさに永久によろめかされることがありません。
上記聖句の誤解釈から生じた説でした。定まった場所は軌道とも解釈が出来ます。この聖句の論旨は地球の恒久性であり、太陽と地球の位置関係ではないと解釈の調整がありました。
>イエスの姿が変わっていたと解釈することはできませんが。
長いので中略して引用します。
ルカ24:15-31
彼らが語り合い,論じ合っていると,当のイエスが近づいて来て,一緒に歩きはじめた。 ところが,彼らの目はイエスを見てもそれとは見分けられずにいた。イエスは彼らに言われた,「あなた方が歩きながら互いに討論しているそれらの事はいったい何ですか」。すると,彼らは悲しげな顔で立ち止まった。クレオパという名の者が答えて言った,「あなたは,外国人として自分ひとりでエルサレムに住んでいるために,近ごろそこで起きたいろんな事を知らないのですか」。
(会話箇所は中略)
彼らは,行こうとしている村のすぐ近くに来た。すると彼は,さらに遠くへ旅を続けるような様子を示された。しかし彼らは,「わたしたちのところにお泊まりください。夕方になるところですし,日はすでに傾いていますから」と言って強いて勧めた。そこでイエスは彼らのところに泊まるため中に入られた。そして,彼らと一緒に横になって食事をしておられた際,イエスはパンを取って祝福を述べ,それを割いて彼らに渡しはじめられた。それを見て彼らの目はすっかり開け,それがだれであるかが分かった。
物理的に視界が遮られてはいません。目の前のイエスがイエスだと気付かなかったのです。
以下の聖句の通り、イエスの肉体が完全に滅びず、復活したのであれば、贖いは成就しません。
コロサイ1:22
神は今やこの方の肉の体により,その死を通して,再び和解させてくださったのです。
ペテロ第一3:18
彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。
>教会に行って聞いてきましょうか?
聖書の教えに反している教会が沢山あります。些細な点ですが、クリスマスのサンタクロース、イースターのウサギなど、聖書ではなく異教に基づく習慣を見れば分かりやすいです。
ルカ16:10
ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です。
>懐疑です。心理学が科学でないように人の心はわかりません。思いと逆のことをすることもあります。だからそれは状況、事柄に基づいた推測でしかないのです。
極論は推測かも知れません。しかし殉教者には強い信仰心があったと考える方が、信仰心が無かったと考えるよりも遥かに妥当でしょう。