>>198
>定まった場所は軌道とも解釈が出来ます。
それって…“詩”という形式をとる事によって無限の拡大解釈が可能な聖句(?)とやらを用いた詭弁に過ぎませんよね?
これをダウンサイジングして例えれば、運行中の山手線の車輌内で仁王立ちした乗客が
「私はこの場所を一歩も動いていません。」と言い張るが如き、無意味な主張だと思います。
>それって…“詩”という形式をとる事によって無限の拡大解釈が可能な聖句(?)とやらを用いた詭弁に過ぎませんよね?
聖書は神からの音信であり、科学書でも百科事典でもありません。その音信の中で、箇所によって科学に触れる内容の記載が登場しますが、場合によっては必ずしも明瞭でない場合もあります。そもそも聖書は科学を説明する意図で記された書物ではないからです。
例えば小説で置き換えてみると分かります。その中には科学に触れる内容が登場することがあります。しかし科学的には明瞭でない場合もあるでしょう。その小説が書かれた意図は科学を説明する目的ではなく、科学的記述は副次的なものだからです。