>>233
>だから、サタンに唆されている人間を全て救うことは出来ないんですよね?
神の導きと、サタンの唆しがあります。各自はその両方から、どちらかを選びます。そして各自は自分の選択に対して責任を負います。
コリント第一10:21
あなた方はエホバの杯と悪霊の杯を共に飲むことはできません。「エホバの食卓」と悪霊の食卓に同時にあずかることはできないのです。
ガラテア6:7
何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。
>既に死んだ人間には開かれていませんよね?
開かれています。聖書の教えは以下の通りです。
ヨハネ5:28-29
記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです。
>アダムは年齢から考えて実在しない可能性が高いですよ。第一、塵から作るなんて非科学的です。
聖書にはこう書かれています。
創世記2:7
エホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。
これは科学的に的を得ている記述です。現代科学は人体が水素、酸素、炭素といった様々な元素から成り立っていることを裏づけています。それらの元素はすべて地殻の中に見いだされます。
>あなたの例えが良くわからなかったので、適切な答えかわからないが、額の上の眼鏡を知っているのは外部の観測者であって、額の上の眼鏡は観測者の主観なのです。
しかし観測者でなく、眼鏡を探している本人も、最終的には額の上に眼鏡を見つけます。本人にとって眼鏡が額にあることは意外ですが、やはり本人にとってもそれは事実なのです。つまり客観的絶対事実は存在します。
別の例を挙げます。階段を降りる時、もう一段あると思って躓きそうになることがありますよね。その人は完全洗脳のレベルで、無意識的なレベルでさえ、もう一段あると完全に信じきっています。主観は完全です。しかし現実にはその一段は無く、躓きそうになります。信じ切れれば、その人の事実が変わる訳ではありません。客観的絶対事実が存在します。
>「エホバの食卓」と悪霊の食卓に同時にあずかることはできないのです。
…ちなみに両者の献立表(メニュー)を教えて頂けると助かるんですが?
>神の導きと、サタンの唆しがあります。各自はその両方から、どちらかを選びます。そして各自は自分の選択に対して責任を負います。
要するに、サタンの理論に説得力を感じるものもいるわけだ。ダメじゃん。相対的に考えて、神は完全に遠い。
>開かれています。
良いことというのはキリスト教的なものでしょう? 知らなかったらどうするのか。
>これは科学的に的を得ている記述です。現代科学は人体が水素、酸素、炭素といった様々な元素から成り立っていることを裏づけています。それらの元素はすべて地殻の中に見いだされます。
問題はチリの中にどれほどのものがあるかということと、不要なものがないかということです。もし、塵をそのまま人間にしたら、炭素や水素がやたら少なくてケイ素や金属類がやたら多くなります。ターミネーターなら作れそうですが、普通の人は無理です。
また、900歳も生きることは無理です。
>やはり本人にとってもそれは事実なのです。
本人が主観的に発見したからです。誰も見たことのない、考えたこともないものは、誰かが発見しない限り、存在しないも同然です。なぜか、それは我々が主観的にしか捉えられていないからです。