>>59
アーリアさん、メッセージ頂き、ありがとうございました。
>さて、となると一つ聞きたいことがあります。
輸血の禁止について、非常に拡大しすぎた解釈だという主張についてどう思われていますか?
以下の聖句の通り、聖書は血を魂が宿っている特別なものとしています。
創世記9:4
その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。
申命記12:23-24
血を食べることはしないように堅く思い定めていなさい。血は魂であり,魂を肉と共に食べてはならないからである。それを食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出すべきである。
レビ記17:14
あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。
上記はイエスが登場する前、いわゆる旧約聖書の話です。イエスが立法を形式(規則)→本質(原則)に変え、律法を成就された後、本質は残り、形式としての律法は廃止されました。以下の聖句の通りです。
マタイ5:17
わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです。
ガラテア3:23-25
信仰が到来する前には律法のもとに警護されており,共に拘禁されたまま,やがて表わし示されることになっていた信仰を望み見ていました。したがって,律法は,わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり,それは,わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした。しかし,信仰が到来した今,わたしたちはもはや養育係のもとにはいません。
ローマ10:4
キリストは律法の終わりであり,こうして,信仰を働かせる者はみな義を得るのです。
エフェソス2:15
この方は自分の肉によって敵意を,すなわち数々の定めから成るおきての律法を廃棄されました。
ローマ7:6
今やわたしたちは律法から解かれました。
しかし、イエスの後も、本当に大切な規則は残されました。以下の聖句の通りです。血を避けないことは、偶像崇拝や淫行と同等の、非常に重大な罪なのです。
使徒15:19-20、29
わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。
聖書の中で、血の扱いはとても重要な問題です。
さて、血を避けるとは、どういう意味でしょうか。食べなければ良いのですか?輸血は良いのですか?例えば医者が或る患者に飲酒を禁止したとします。ではお酒を飲まずに注射で摂取するならば問題ありませんか?原則は何でしょうか?血を避ける理由は、それが魂の宿る特別なものだからです。口からの摂取であろうと、血管からの摂取であろうと、原則は同じです。
これが血を避けるべき聖書的な根拠です。
つまりアナタは「輸血・献血」を全否定する立場におられる方である…という解釈でよろしいのでしょうか?
>つまりアナタは「輸血・献血」を全否定する立場におられる方である…という解釈でよろしいのでしょうか?
>>67では、血に関しての聖書的な見方を説明しました。私が、ではなく、聖書が輸血を否定していると理解出来ます。
私は聖書を神の言葉として受け止めています。それ故に、輸血や献血は聖書の神の言葉に反する行為だと考えています。
何を「血」と考えるかは、また別の問題です。血液分画を行った後、どの成分までを血と捉えるか、ということです。例えば血漿の9割は水分です。水は血ではありません。そういう観点から、「全否定」という表現が適切かは分かりません。しかし、血液の四つの主成分である赤血球、白血球、血小板、血漿は血と捉えています。