体罰とは±αの匙加減により、単純に暴力に直結してしまう場合とそうではない場合もあり得るというところまでは皆さんも周知している通りであり、その意味では『体罰反対論者と体罰賛成論者のどちらが必ずしも正解とは言い難い案件である』というのが答えだと俺は思う
暴力行為は犯罪である
犯罪の成立には加害者と被害者の両者が存在し、被害報告(届)を警察署へ訴え出ることが必須条件である
分かりやすい例題をあげるのなら…
部活顧問の教師が指導した通りに動けなく練習効果が得られないことを理由に叱咤激励の意思で部員の生徒達を殴ったとしよう
これを犯罪と呼ぶには、加害者は部活顧問教師、被害者は部員と成り、被害報告を然るべき処へ訴えでた場合に体罰という暴力行為が犯罪として成立する
以上が体罰問題を客観的に捉えたものであり、体罰反対論者の言い分の主旨になる
一方で、これを体罰賛成論者の言い分に客観的に変えることも可能
例えば、部活顧問教師は手をあげてしまったことには変わりないが、殴られた部員達に、部活顧問教師の叱咤激励の思いに共感し練習を励むことで著しい成果を生み出すことが出来て、其れを当人達が有り難く思っている
体罰指導を受けたとは自覚していないケース
このようなケースでは、加害者は居ても被害者が不在となり、当然ながら訴えでるような被害報告もあげないので暴力行為はありながらも犯罪は成立しない
これは体罰を単なる暴力行為(犯罪)として扱わない体罰賛成論者の言い分の主旨となる
この例題のαは当然ながら叱咤激励の部分にある
勿論、各々の体罰実例には各々のα部分はあるものだし、αの捉え方は各々の自由
体罰反対論者vs体罰賛成論者の言い分の骨組みは上記で示した通りだし、α部分の具体例は各々に違うものだからそこからは濃いグレーに成るか?薄いグレーに成るか?だけでしか議論出来ないので議題解決の糸口は見つからないとしか言えない
でも体罰の+αを「生徒の感謝」や「被害意識の欠如」においてしまうと、それは体罰を行ったあとに判明するもので予見が困難なため、体罰を受けたくない生徒の利益をとって「体罰は行ってはいけない」という結論に傾かない?