>>23
生きる価値がない、それはおかしい文章ですね。基本的人権という言葉をご存知でしょうか。人間が生まれながらに持っている権利です。その中に「生存権」、つまり、生きる権利もあります。あなたの文章は、無意識にでもその権利を侵しています。それはどういうことなのか、今一度考え直してください。
倫理と法学の観念は、一致する部分もあるが、一致しない部分が大半だ。いじめという論題において法学の観点のみで語る方がいささか浅はかというもの。なぜなら既存の枠組みに囚われるからだ。
で、あるならば、生きる価値なし、と断ずる彼の意見を深く分析して、さまざまな思考を通じて総合してみるべきではないか。別段、彼らの人権を実際に侵害したわけではあるまい。
議論の路線からズレないためにも、上記に書いた主張を前提として、この議論について考えてみたいと思う。
そもそも、この『いじめっ子に人権はないという人間について』というテーマだが、>>25などにあるように、その根拠が近代論的な観念が存在していると思われる。つまり、理性や論理を重視をする合理主義的立場である。
ところで現実としては、いかなる卑劣に及んだいじめっ子でも問題無用で、公平性を担保できない法という装置に、自由を回復させてもらえる。それについては、>>30で話した。反証があるのであれば待つ。
さて、法律が厳密に組み立てられた論理だとしたら、やはり>>25にある主張は、近代の合理主義的立場なのではないのだろうか?
近代合理主義の特徴は、物事を抽象化し(その過程で具体的性質をそぎ落とし)、普遍性に価値を置くことである。その一方で、具体的である人間の心を軽視し、人間個々の具体的な性質を無視する傾向がある。
その捨象という傾向が、レモン氏の思想にも若干あるのではないのだろうかと身勝手ながら分析させていただく。というのも、正しいもの = 法 と限定し、他者の非法的な意見を正しくないもの、おかしいものと、真っ向から否定的に捉えていたからだ。
それは論理を最上に位置づけ、感情、心理、衝動など、近代においてはしばしば軽視されてきた(現代ですらあるのかもしれない)具体物を無意識に、優先順位の低い位置に置いてきたからではないだろうか。
ここでもう一つ、法の問題点について指摘しておく。
あらゆる法が欲する平等という概念は、人間の個々具体的な在り方を排除して、人間の共通事項のみを取り出して、点のようになったそれらを並べて、高みから、みんな同じだと宣言するものだ。それが、今日あらゆる法の基底に流れている前提概念だと言えよう。
つまり、法という観点から、いじめっ子、いじめられっ子を議論するならば、権利や自由を中心においてでしか語れない。さらに問題を発展させるのであれば、法は、いじめを始めとする人間関係における人間行為を捉えるだけの能力がない。
というわけで、解決策を提示する。
非現実的かもしれないが、いじめという人間行為を捉えるには、まず、いじめ行為一般について語るのではなく、個々具体的ないじめ行為として分解し、社会学、心理学などでもって一つ一つ分析し、正義論など哲学、倫理、そして何より個々の人間の感情や体験でもって再総合して、初めて理解に至れると思われる。
そんなの不可能じゃないかと思うかもしれないが、そもそも、いじめ行為の是非を決定するには、それほど複雑な問題で、是非を決めるには困難を極める作業であるからだ。