考えれば考える程、恋慕の類って大罪だと思えてくるんだよな。
人から時間と理性と可能性を奪い、生命における包括的な運命力の掲げる大義へと回帰してしまう。
強制的に本能の幸福度を極限まで上げられ、生いきることに対する個性的な価値感を塗り潰されてしまうのだ。
人は満たされてはならない。
現状、オレには恋慕という名のリアルオカルト的願望などなく、将来的にも独り身が約束されている。
自らその道を選んだ。
しかしそんな意思などとは関係無く、いづれ生物としての運命力がオレの邪魔をしにくるだろう。
本能的な渇望を払いのけることで姿を見せる悪魔的な虚無感や後悔の念
それらを迎撃するために、今から対策をしておかねばならぬな。
マイポリシーのエキセニア茶を片手に、オレは「ふっ…」と笑う。
さて、じゃあなぜオレは人を倒さず馴れ合い、或いは傍観に徹し、ある程度心穏やかでいられるのか考えてみたんだが。
結局、一定以上の幸せを受けていることで心身共にある程度満たされているからなんだろうな。
一定レベルで満たされてさえいれば、人は暴走しない筈だし。
ならば>>953に書いた最後の一文に関しては訂正すべきだなあ。