十数年前の掲示板で、ひと夏だけ流行った都市伝説があった。
三十人分の魂を売れば、魔法の力を売ってくれる人(?)が居るらしい。
1-Bは、クラスの誰かに売られた。
「え……?」
私が呟くと、橘さんは私の顔を見て瞳孔が開き切った目をぎらぎらと輝かせる。
「こいつ、自分が親父と歩いてる後ろ姿載っけて、モザイクかけて、『同じクラスの橘さんが援交してるとこ見ちゃった』ってストーリー載っけてたんだよ。二人とも似たような体型で黒髪ロングだったからみんな信じちゃったよね」
「何、それ……」
真中ちゃんがそんなことしたの?真中ちゃんをちらりと見たけど、顔を合わせようとしてくれなかった。
「まさか高校まで一緒になるなんて思ってなかったよ。まぁ私もあんたも頭悪かったしそりゃそっか。でも高校にまであの嘘持ち込んでくるとは思わなかったなぁ。お陰様で私は高校でも不登校。あんたは優しいキャラで大人気。何それ、絶対おかしいでしょ」
真中ちゃんは唇を噛み締めながら小刻みに震えている。何も反論しないし、訂正しようともしない。
「高校入ってもまだやってたみたいだね。いつも持ってるブランドのバッグも、財布も、ネックレスも、バイトしてない真中が買えるわけないもんね」
「ちが、それは全部彼氏が買ってくれたやつだから……」
「その彼氏も元は出会い系で知り合ったやつでしょ。」
「そんなの奈那の勝手な想像でしょ!」
「じゃあこれ何?」
タタ、と軽やかにスマホを操作し、またそれを真中ちゃんに見せる。
「あんたの裏垢。バレてないとでも思った?こんなにタグ付けして自撮り晒してたらすぐ分かるっつの」
「……いつから、見てたの?」
「あんたが嘘晒していじめられ出した頃からずーっとだよ」
「何でそこまで……」
「『何でそこまでするの?』??それはこっちのセリフでしょ?」
橘さんがそう叫ぶと、静寂が私達を包み込んだ。零れ落ちそうなほど大きな瞳に涙をたっぷりと溜めて、橘さんは胸を上下させて呼吸する。
「ねぇ何で?友達だったじゃん。何であんな嘘広めたの?」
そう訴える橘さんから、真中ちゃんは目を逸らした。
「あんたが幸せそうに教室で笑ってたの見るだけで吐き気がした。学校を休んだ日の授業がある時間は、今頃真中は友達に囲まれて幸せそうに生きてるんだろうなって思うだけでムカついた。」
橘さんは何度も瞬きする。そのたびに豊富な睫毛からは音が聞こえてきそうだった。透明な涙の粒が睫毛に絡み付く。
「あんたはもっと苦しんで死ぬべきだよ。クラスのみんなが死んだのはあんたのせいなんだからね」
「ちょ、っと……」
私が口を挟むと、橘さんは鼻が真っ赤になった顔を私に向けて睨んできた。
「え、何それ、どういうこと……」
消え入りそうな声で真中ちゃんが呟く。
「今回の事故とか、奈那が何かしたの?」
「教えるかよばーか。」
橘さんはそう言うと、すたすたと病室から出ていってしまった。
「ちょっと待ってよ!」
私は慌ててそれを追い掛けようとしたけど、真中ちゃんを一人残すわけにもいかなくて病室に留まった。
「ごめん真中ちゃん、何かよく分からないけど……」
「何で奈那連れてきたの?」
静かな声で真中ちゃんがそう言う。
「え、っと。駅でたまたま会って橘さんが着いてきたってゆーか」
「私と奈那が喧嘩してるって知らなかったっけ?」
真中ちゃんはそう言って両手で顔を覆う。
「ごめん、そこまでは把握してなかったわ……」
「そっか。でもさっき奈那が言ったの全部デタラメだからね。私は援交なんてしてないから」
真中ちゃんはそう言うと、手から顔を離して窓の方を見た。
「ごめん、今日は帰ってほしい。明日も来なくていいから」
「あ、うん……」
私はゆっくりとドアの方に歩いていく。
「……またLINEする」
返事は返ってこなかったけど、私はそのまま病室を後にした。
廊下を小走りに歩いていき、病院を出る。
「橘さん!」
自動ドアを出ると、出口の前に立っていた橘さんを見付けた。
「……真中のことを信じるか、私のことを信じるかは首藤さんが決めなよ」
橘さんはそう言って歩いていく。
「待てよ、橘さんが言ったのは全部事実なんでしょ?」
「さぁね。優しい真中ちゃんが正しいかもしれないじゃん」
「そりゃ、私だって真中ちゃんがあんなことするような子じゃないって信じたいけどさ……」
真中ちゃんと橘さんが中学の頃から同級生だったって知った時、一瞬真中ちゃんのこと疑っちゃってた。だから真中ちゃんが噂を広めた張本人だったって言われても、割とすんなり受け入れられてしまった。でも流石に援交してたっていうのは予想してなかった。そしてそれが橘さんにバレたから、あの噂を広めたっていうのも。
「びっくりしたでしょ。ごめんね、真中と仲良しだって嘘吐いて」
橘さんは私に背を向けたままそう零す。
「別に騙してたわけじゃないよ。元々は真中と私仲良かったし」
「え……」
そう言えばさっきも「友達だったじゃん」って言ってたっけ。
「真中が援交してるところを目撃しちゃうまでは、真中と私は一番の親友って言えるくらい仲が良かった。真中は家の事情であんまりクラスメイトと遊ばない子だったけど、私とはほぼ毎週遊んでたし。まぁ、それで私は真中のメイク後の顔を知ってたから、あの日街中で見掛けたのが真中だって分かっちゃったんだけどね」
私は黙って橘さんの後ろ姿を凝視した。
「親友だと思ってたから、辞めさせたいなって思って、街で見掛けたこと話しちゃったんだよ。そしたら次の日から私はエンコー少女になった。」
黒いツインテールが風に靡いている。
「昨日の友は今日の敵って感じ?今まで仲良かった友達にもシカトされるようになって、廊下を歩けば知らない他学年の生徒に後ろ指を差されて。高校は私を知ってる人が誰も居ないところに行くぞ!って意気込んでたら、まさかの真中と同じって言う。ウケるでしょ、高校でもまた私はみんなに避けられて生きていかなきゃいけなくなった」
ふわり、と二つの毛束が揺れる。いつの間にか振り返っていた橘さんが、真っ直ぐな瞳で私を捉えていた。
「だから噂の存在すら忘れてくれてた首藤さんは、私にとって希望の光だったんだよ」
大きな大きな瞳が、私だけを映している。
「それにもっと早く気付けていれば、こんなことにはならなかったかもね。クラスメイトが死ぬことも、私が“人殺し”になることも」
橘さんは自虐的に笑った。今度は自分が魔女になることを、もう知ってるんだ。
「私を恨むなら恨んでいいよ。首藤さんは死なないけど、きっと大人になるまでの間“施設”に強制入院させられると思うし。」
「……その“施設”、って何なんだよ」
確か、ゆずはさんがクラスを魔女に売った後、死んだことになってた間は施設に入ってたって言ってたっけ。
「施設は、新人の魔女を養成したり、魔女の情報が外部に漏れないように、情報を持っている子供を管理する場所。」
「何でそこに私が入んなきゃいけないんだよ?」
「管理」って、行動を制限されたりするってこと?私が魔女の情報を漏らさないように?
「それはりんねちゃんが知り過ぎたから。」
橘さんが顔を傾けて私を見た。ドキッと心拍数が一瞬跳ね上がる。
「知り過ぎたら、消されるんじゃないのかよ」
「大丈夫だよ。情報を拡散する危険性がない子は施設に入れられるだけで済むから。漏洩させる危険性のある子は、消されちゃうらしいけどね」
「は?何で弓槻は消されて私は消されないんだよ!」
思わず今自分が居る場所も忘れて叫んでしまった。病院を出入りしていた人達が私達をちらりと見て、そのまま通り過ぎていく。
「しっ、声が大きいよ。
首藤さんは消された方が気が楽なの?だったらそういう手もあるけど」
「違う。どういう基準で弓槻が『情報を漏らす危険性のある子』って認識されて消されたのかを納得出来るように説明してほしいんだよ」
握り締めた両手が小刻みに震える。爪が手のひらの皮膚に食い込んでじわじわと痛みが広がっていく。
橘さんは口を真一文字に結んでじっと私を見続ける。幅広の二重にくっ付いてしまいそうな一直線の眉が、地面と平行になる。
「弓槻さんってうちのクラスの子だよね。そっか、その子もうちのクラスが魔女に売られたことに気付いてたんだ」
「弓槻は私より先に気付いてた。沙里や珠夏が死ぬ前からだよ。」
「え、何で知ってたの?」
「橘さんとアリスさんの取り引きをたまたま見ちゃったんだって。制服と会話しか聞き取れなかったらしいけど、弓槻は不登校だったし橘さんはあんまり学校に来てなかったから、きっと橘さんだって気付いてなかったと思う。」
「え〜、あれ見られてたんだ」
橘さんはくすくすと笑う。今の私にはそれすらもうざったかった。
「弓槻は姉が魔女に売られて死んだと思ってたから、姉の仇だと思って魔女の秘密や犯人についてたくさんの情報を掻き集めてた。まぁ、その姉がクラスを売った本人だったんだけど、弓槻はそれも知れないまま死んじゃったんだよ。でも私以外の誰かに教えたわけでもないし、何で……」
「首藤さんとの会話を魔女の関係者の誰かに聞かれちゃったんじゃない?」
「それは有り得ない。だって学校の中でしか話してなかったし、私以外には誰にも……」
あれ。
「……首藤さん?」
橘さんが私の顔を覗き込む。
とくん、とくん、と、微かな自分の鼓動が聞こえてくる。それに合わせて、額から、首筋から、背中から、冷たい汗がゆっくりと湧き出てくる。
「待って……」
弓槻からうちのクラスが魔女に売られたってカミングアウトされた時、もう一人誰かが隣に居たじゃない。
「……しみず」
しみずが、あの時隣に居た。
『そのしみずちゃん、怪しくないかな。』
『ごめんね。でも私は私情は挟んでないつもりだよ。それにしてもしみずちゃんは怪しいと思う。充分疑われるような言動をしてると思う。』
『しみずちゃんがりんねちゃんに教室に戻らないように言ったのも、友達だから巻き込みたくなかったんじゃないかな。』
電話越しのアリスさんの声が耳の奥に蘇ってくる。
そう言えばアリスさんは、佐藤聖羅に会ってもう一人の犯人がしみずじゃないって分かったら、その時は報告してくれるって言ってたっけ。でもあの日の夜の電話では、その話題については何も触れてなかった。
「嘘でしょ?」
ポロリと自然に口からそんな言葉が零れ落ちた。
まさか、しみずに限ってそんなことないよ。だってもしほんとにしみずだとしたら、クラスメイトが減っていく中悲しんでいたしみずも、爆発事故が起きた時に泣いていたしみずも、全部嘘ってことになる。
そうだ、廊下で話してた時に誰かに盗み聞きされてたかもしれないじゃん。階段の踊り場で話してた時かもしれない。知らない誰かに聞かれてた可能性なんていくらでも考えられる!
「星野さんも魔女についての話を聞いてたってこと?」
無遠慮にはっきりとそう言う橘さん。
「星野さんが魔女と関係ある人だったら、誰かにチクって弓槻さんを殺させることも可能だよね。」
ぐちゃぐちゃと頭の中がかき混ぜられていく。見える景色が二重に、三重になる。
「もしかしてこの前の爆発や勝手に死んでったクラスメイトも、星野さんがやってたりして」
そんな私に気付かず、橘さんは容赦なく言葉を発し続ける。
「星野さん、実は魔女なんじゃないの?」
「待って、それは違う」
私はすぐに声を上げた。やっとはっきりと否定出来ることを橘さんが言ってくれたからだ。
「それは違う。魔女は佐藤聖羅って人だよ。だからしみずは魔女じゃない」
口をウインナーみたいな形にして私は微笑んだ。別に楽しいわけでも嬉しいわけでもない。でも何故か笑顔になってしまった。
「じゃあその佐藤聖羅にクラスを売ったのが星野さんってことかもね。星野さんが佐藤聖羅にチクって、佐藤聖羅がお偉いさんにチクった。決まりだね」
まるで名推理をする探偵みたくほくそ笑む橘さん。私はまた何も言えなくなって黙りこくった。
「でも待って、しみずじゃないかもしれないし……」
「でも星野さんかもしれないよね。」
「っ」
アリスさんよりはっきりした物言いに、私は何も反論出来なかった。
「でも……私はしみずはあんなことしないって信じたい。だって一番一緒に居た友達だし」
「今さっき友達に裏切りられたばっかりじゃん。私も一番一緒に居た友達だった人が一番の敵になったよ。そういうもんでしょ。」
橘さんはにこりと笑ってそう言う。でもその目は笑っていなかった。
「一番一緒に居たとしても、他人より長い時間一緒だったってだけで全てを知ってたわけじゃないでしょ。案外見えないところではすごいことしてたりするんだよ」
その言葉には妙な説得力があった。私は唇を噛み締めて俯いた。
「ま、首藤さんが信じてあげたいなら信じてあげてればいいんじゃないかな。その方が星野さんも嬉しいと思うし。私は星野さんと喋ったこともないから信じてあげられないけどね。」
橘さんはそう言ってゆっくりと歩き出した。
「帰ろ。あんまここにたむろってても迷惑だから」
私は無言で頷いて歩を進めた。
「っ、しみずも、橘さんの噂の話はしてなかったよ」
自分でも何でこんなことを言ったのかは分からないけど、勝手にそんな言葉が飛び出してきた。橘さんは驚いた顔で振り返って、無言でにこりと笑った。
ただ、私の他に「しみずは犯人じゃない」って信じていてくれる人が欲しかった。
「何か騒がしくない?」
橘さんがそう呟いた。確かにサイレンような音がどんどん近付いてくる。私達は何となくその音がする方を見た。
病院の入口の前に救急車が止まり、中から慌ただしい様子の救急隊員が降りてくる。続いて担架に載せられた状態で出てきたのは、どうやら怪我をした女性のようだった。
「ねえ、あの人アリス?だっけ、あの魔女に似てない?」
つんつんと私の肩をつつき、橘さんがそう耳打ちしてきた。びっくりして担架に横になる女性を見る。確かにしなやかな長細い手足はアリスさんに似てる気がした。
救急隊員が運ぶ担架が私達の前を通り過ぎた時、その女性の顔が見えた。
「!!」
白いボブが、風に揺れていた。
「ねぇ、さっきの絶対アリスさんだったよね?」
私は公園のベンチに座りながら頭を抱えていた。一人分の間隔をあけて横に座る橘さんは、無言で砂の地面を凝視している。
「何であんな怪我してたの?」
布のようなものが被せられていたけど、それでも分かるくらい酷い怪我だった。お腹の辺りに、薄らと薄紅色の血が滲んでいたのだ。
「死んだりしないよね?」
足が冷たくなって頻りに貧乏揺すりをする。そんな私をちらりと見て、橘さんが「あのさぁ」と切り出した。
「首藤さん、あの魔女のことムカつかないの?首藤さんのこと殺そうとしてたんだよ?まぁ私が言えたことじゃないけどさ。
でもあんま簡単に信用しない方が良いよ。私だって取り引きの時以来会わないようにしてたんだよ?あの名前だって本名じゃないみたいだし、何か怪しいじゃん」
「そりゃ、私もあの人のことよく分からないけど……」
初めて会った次の日いきなり「遊ぼう」なんて言ってきたり、岡田さんと倉野さんが不審死してから何かと私に頼ってきたり、私にとって敵なのか味方なのか今でもよく分からない。言動もふわふわしてて掴み所がない感じだし、何を考えてるのかも全然分からない。佐藤聖羅との関係もいまいちよく分からないし、きっとアリスさんは私にたくさん嘘や隠し事をしている。分からないことだらけだ。
「でも別に悪い人じゃないと思う。ほんとはあの人も誰かに頼りたいんじゃないの」
見た感じ、アリスさんも過去魔女に三十人を売ったワケありっぽいし。多分戸川さんや橘さんやゆずはさんみたいに、学校か何かのクラスメイトを売ったんだろうな。
「何かみんないじめとかでクラスメイト売るよね。」
ぼそりと呟く。言ってからその“みんな”の内に入ってる橘さんが目の前に居ることに気付いて、後悔した。
「はは。首藤さんって鋭いね」
橘さんはそう言って笑った。そしてぐるりと公園を見渡す。
「ここ、中学の頃は、よく学校帰りに真中と来てたんだよね」
懐かしそうな目で遊具を一つ一つ見回していく。
「私も真中も家に帰りたくなかったから、毎日夜の八時くらいになるまでここで遊んでたんだ」
私は橘さんの足元を見ながら無言でそれを聞く。
「シャボン玉したり、ブランコ乗ったり、その日起きた嫌なこと話し合ったり、家のこと愚痴ったり。」
吹き抜けた風がざぁっと木々を揺らした。硬い葉が擦れ合う音に、どこか懐かしさを感じた。
「あの頃は真中の存在に救われてたけど、それも昔の話だな。今はガチで死/ねって思うもん」
橘さんはそう言って笑ったけど、その笑顔は酷く悲しそうに見えた。私の気のせいかもしれないけど、きっと気のせいじゃない。
「私が次は魔女になるって知った時、実は結構しんどかったんだよね。絶望した、って言うか。でも大嫌いな実家から出られて私の人生めちゃくちゃにしてきた奴らが消えてくれるならそれくらいいいかなって。」
「実家から出る、って、橘さんも施設か何かに入るの?」
「うん。でも首藤さんとは別々になると思う。詳しいことはあんま話せないけどそのうち分かるよ」
橘さんはそう言って少し申し訳なさそうにはにかんだ。
「もうちょっと早く魔女の都市伝説の存在を知ってたら、中学の同級生達を消せたのになぁ」
橘さんは悔しそうに頬を膨らませた。
「首藤さんが苦しんでアイツらがのうのうと生きてると思うと虫唾が走るね」
「ほんとだよ、私の毎日ぐちゃぐちゃにしやがって」
私がそう言うと、橘さんは一瞬目を真ん丸に見開いて、泣きそうな顔で苦笑いした。
「それはほんとにごめん」
私達は何となく視線をずらした。
「私はクラスのみんなは大っ嫌いだったけど、そんなみんなは首藤さんに取っては大事な友達だったんだもんね」
「……そうだよ。でも橘さんがやられてきたこと聞いて、ちょっとはみんなにも非があったんじゃないかって思った。もちろん見て見ぬふりしてた私にもね」
まるで許しを乞ったみたいだ。私ってずるい人間だな、と思った。
「いいの?私が嘘吐いてて真中が正直者かもしれないよ」
「だって証拠見せてきたじゃん。そんなの信じざるを得ないし」
「……私のこと、信じてくれるんだね」
橘さんは潤んだ瞳で私をじっと捉えた。
「……うん。」
ここは真中ちゃんが私を助けてくれたあの公園だった。
戸川さんとむすびが目の前で死んだあの日、私はここで真中ちゃんに救われた。あの時真中ちゃんがこの公園の前を通っていなかったら、きっと私は立ち直れてなかったかもしれない。
でも、きっとさっき聞かされた話や見せられた写真は、どれも紛れもない事実だ。
ごめん、真中ちゃん。私は心の中でそっと呟いた。
私は、真中ちゃんを信じてあげられない。
橘さんは涙で潤んだ目を伏せて、何かをこらえるように口を噤んだ。
「私のこと信じてくれた子なんて初めてだよ。みんな真中ばっか信じてたから、嬉しい」
そう呟いたと思ったら、橘さんはいきなりポケットからスマホを取り出し、画面を操作し出した。
「病院に戻ろう。アリスさん、意識はあるって」
「え、何でそれを橘さんが知って……」
「いいから。行こ」
橘さんはそう言うと、私の手を引っ張って大股で歩き出した。
私はされるがままに着いて行った。
病院に入ると、橘さんは私を待合室に取り残し、受付に向かい何やら懸命に喋り出した。
何を話しているのか聞き取れなかったけど、スマホの画面を見せて何かを説明しているように見える。受付のお姉さんは笑顔で受け答えし、今度は橘さんに何かを説明している。
橘さんはお姉さんに軽くお辞儀をし、小走りで私の元へ戻ってきた。
「アリスさんの病室まで案内してくれるって。」
私は機械的な動きで頷いて、案内のためにやって来た看護師の後に続く橘さんの更に後ろを歩いた。
アリスさんの病室がある階は、偶然にも真中ちゃんの病室と同じ階だった。エレベーターを降りると、見慣れた廊下が広がっていた。
私は歩いているうちにふと違和感を覚えた。あれ。どこまで行くんだろう。そっちは真中ちゃんの病室がある方じゃん……。
ついさっきあんなことがあったんだから、真中ちゃんが居る病室の前を通り過ぎるのは少し気まずかった。もしドアが半開きになってたりしたら嫌だなぁ。さっき出ていく時ちゃんと閉めたっけ。いや、流石に開いてたら看護師が閉めたりしてくれるか。そんなことを考えていると、看護師はぴたりと歩みを止めた。
「え」
私と橘さんは顔を見合せた。
看護師がノックして入っていったのは、真中ちゃんの病室の左隣の部屋だったのだ。
「失礼します。」
私達を病室に押し込むと、看護師はそそくさと出ていってしまった。中にはベッドに横たわるアリスさんと、主治医らしき男性の医者が座っていた。
「びっくりしました。まさかアリスさんが刺されるなんて」
「いきなり悪かったね。家族も友人も居ないみたいだから困ってたんだ。そうしたら君の名前を出したから連絡させてもらったよ」
推定年齢六十歳の白髪の混じった天然パーマの医者は、優しい声色でゆったりとそう言った。
「いい迷惑ですよ。で、誰に刺されたんですか」
橘さんは見下すようにアリスさんを見る。アリスさんはゆっくりと鼻で息を吐きながら笑った。
「奈那ちゃんのクラスの前に受け持ってた学校の子。多分友達が殺された逆恨みでだと思う。」
私は思わず手に持っていたスマホを落としてしまった。カツン、と大きな音が病室内に響き渡る。一気にそこに居る全員の視線が私に集まり、私は慌ててスマホを拾い上げた。
「ああ。奈那ちゃん、りんねちゃんと一緒に居たんだね。」
アリスさんはそう言って、はー、大きく息を吐く。
「りんねちゃんには迷惑掛けないようにしたくて奈那ちゃんに掛けたんだけどな。結局来ちゃったか。」
「やっぱり。この前駅前で私を待ち伏せしてたあの子でしょ。戸川さんの学校の、飛び込み自殺した子の友達。」
そう言う私の声は震えていた。
「私が名前を教えたから?でも“関口アリス”は本名じゃないんでしょ?」
「今どき顔がバレてたら見付け出すなんて簡単だよ。りんねちゃんが『見付け出されて刺されるかもしれませんよ』って言ってたけど、ほんとに刺されちゃったよ。」
「はー、参った参った。」とわざとらしく呟くアリスさん。
「それで、その刺した子は?」
橘さんが尋ねると、医者が椅子に座り直しながら答える。
「もちろん通報されて警察に捕まったよ。街中で刺すんだから、それなりの覚悟はあったんだろうね。今頃処分されてるところだと思うよ。まさか自分が殺されることまでは想像出来てなかっただろうね」
「それにしても探し出したい人をほんとに見付け出すなんてすごいですね。高校生が一人でやったんですかね、どうやったんだろ」
そう言いながら医者と橘さんは笑い合う。
「何で笑ってられるんですか?」
私は思わずそう言ってしまった。だって有り得ない、仮にもこの人は医者でしょ?目の前に怪我人が居るって言うのに。それに何で魔女についてこんなに詳しく知ってるんだろう。
「……君がりんねさん、かな?」
「は、何で私の名前知ってるんですか?」
「この子が運ばれてる間、ずっと君の名前を口にしてたからね。」
そう言ってアリスさんを見る。アリスさんは、恥ずかしそうに頬を少し赤らめた。
「君は色々知っているみたいだけど、この子達とはどういう関係?」
「首藤さんは私のクラスメイトです。」
「へぇ。結局処分されるからと言ってあまり深く関わらせてはいけないよ?情報を漏洩されるかもしれない」
じろりと目を細めて私を見る医者。背筋に悪寒が走った。例えようのない気持ち悪さがあった。
「私のこと何も知らないくせに分かったような口聞かないでくれませんか?」
私は医者を思いっ切り睨み付けた。医者はおどけたように肩をすくめ眉を上げる。くそ、腹立つな。
「それは悪かったね。」
「首藤さんは大丈夫ですよ。それに首藤さんは対象者からは外れてるのでもうじき施設に入ります。情報も盛れる心配はありませんから」
橘さんはそう言うと、長い長い溜め息を吐いた。
「魔女って逆恨みされて刺されたりするんですね。はー、私やっていけるかな」
そんな橘さんを見て、アリスさんはくすりと笑う。
「あの子がよっぽど内田さん――私が殺した子と仲良かったんだと思う。今までは魔女が復讐されるなんて事例なかったもの。行動力がある子だったんだね。」
「感心してる場合じゃないでしょ……」
呆れて私が呟くと、アリスさんは「そうだね。」と言って目を閉じた。
「アリスさんの様態は大丈夫なんですか?」
「うん、傷はそこまで深くなかったし、大きな内臓の損傷もなかったから。」
「普通の女の子は本気で人を刺したり出来ないですもんね。アリスさんがおかしいのがよく分かりましたわ」
小馬鹿にするようにアリスさんを見る橘さん。
「覚悟がないと魔女の仕事は全うできないよ。奈那ちゃんも魔女になったら嫌でもやらないといけないんだからね。そこら辺はちゃんと分かってるのかな。」
珍しくアリスさんが怒っているように見えた。
「何それ。別に私は逃げようなんて思ってないし。勝手な想像で説教しないでくれます?」
橘さんとアリスさんは睨み合う。
「はいはい、怪我人に喧嘩売らない。私はまだ診察の予定があるから戻るけど、暗くなる前に帰りなさい。」
医者はそう言ってモッサリと椅子から立ち上がると、逃げるように病室から出ていってしまった。
病室内の雰囲気は最悪だった。睨み合う二人の間で狼狽える私。あれ、さっきもこんな状況になってた気がする。
「あんたは魔女であることに誇りを持ってるみたいだけど、私はそこまでガチになれないですから。私は自分さえ良ければそれでいいって今までの人生でよぉく分かったので。誰かを助けるために本気になるなんて絶対出来ませんから」
橘さんはそう吐き捨てた。プライドを傷付けられたアリスさんは、無表情のままわなわなと震え出した。
「魔女の仕事を放棄したらどうなるか分かってるのかな。」
「だから別に逃げようだなんて思ってないし!あんたみたいに殺/す相手に情湧いて擦り付くような魔女にはならないってことですよ!」
「奈那ちゃんの魔女になったのが私の運の尽きだったかもな。」
アリスさんはそう言うと、苦しそうに顔を歪ませた。
「いたた。あんまり興奮させないでほしいな。いちお怪我人なんだけどな。」
「ほら、橘さん、あんまエキサイトしないで……」
宥めたけど、橘さんは不機嫌そうな顔をして私を睨み付け、黙り込んでしまった。
「それより、今は奈那ちゃんも危ないってちゃんと分かってるのかな。雫萌高校一年B組を売った子がもう一人居るって、ちゃんと理解してるのかな。」
「へー。今そんなことになってたんだ。私は別に結局みんなが居なくなってくれるなら、アリスさんが殺そーが他の誰かが殺そーがどうでもいいんですけど」
「違う。奈那ちゃんは分かってない。」
アリスさんは静かな声で淡々と喋る。自分を見下ろすスプリンクラーや監視カメラと睨めっこしながら、ゆっくりと瞬きをする。
「もう一人クラスを売った子が居るってことは、奈那ちゃんも死ぬかもしれないってことなんだよ。」
『えっ……』
私と橘さんは同時に呟いた。
橘さんも死ぬかもしれない???
「ちょ、何言ってんすか、橘さんが死ぬって……。」
「よく考えてみて。売られた人は全員死ぬって決まりでしょ。クラスを売ったなら、クラスメイトは一人残さず死ぬ。売った本人を除いてね。」
「それが何で……まさか、」
「そう。もう一人クラスを売った子が居るってことは、必然的に奈那ちゃんも『売られた』ってことになる。」
「はぁ?」
橘さんは首を少し傾けて呆然と立ち尽くしていた。
私は何となく、アリスさんからも橘さんからも視線を逸らした。その結果病室の隅の方に置かれたゴミ箱を眺める羽目になった。
「それで、アリスさんはもう一人のクラスを売った子は知ってるんですか?」
私はゴミ箱を見たまま小さな声で尋ねた。
「……それはまだ分からない。佐藤聖羅は、りんねちゃんに直接会って話せるまで誰にも言うつもりはないって言ってた」
「じゃあ佐藤聖羅に会わせてくださいよ!何かこの前から私と会わせたくないみたいじゃないですか!」
「会ったらりんねちゃんはどんな気持ちになるのかな。そう考えたら簡単に会わせるわけにはいかないって思ったの。」
「は?何それ。優しさのつもりですか?私何回も言ってますよね、何も知らないまま死ぬのが一番嫌だって!」
「知らない方が幸せなことだってあるんだよ。」
「佐藤聖羅が私に会いたくて、私も佐藤聖羅に会いたい。これにアリスさんは無関係ですよね。」
「……それでも私は賛成出来ない。」
「じゃあ勝手に会わせてもらいます。佐藤聖羅のインスタ特定済みなんで」
私はそう言って手に持っていたスマホをくるりと回転させた。そしてインスタのアプリを開いて操作する。
「え。何で知ってるの。」
「ググッたらすぐ出てきましたよ、有名な人なんですね、佐藤聖羅って」
DMの画面に文字を打ち込む。
「……りんねちゃんがいいならもうそれでいいよ。」
アリスさんはそう言って、布団を頭まで被った。
『首藤りんねです。この前はキャンセルしてしまってすみません。良ければ今度会って話しませんか?』
そう送信して、スマホを閉じた。
アリスさんは、布団から顔を出さなかった。
「結局二人とも喧嘩しただけで終わったね」
橘さんはそう言いながら笑った。病院から出ると、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
「で、首藤さんはそのさとーせいらって人に会うの?」
「うん、まだ返事は来てないけど多分会うと思う」
「ふーん。ね、もう一人の犯人が分かったら私にも教えてくれない?」
「うん」
「あんがとー」
私達の会話はそこで途切れてしまった。無言で肩を並べて、赤く染まったコンクリートを同じ歩幅で歩いていく。
「あ、私こっちだから。じゃあね」
「うん」
橘さんは歩道橋の前で立ち止まって手を振ってきた。振り返すと、笑顔になって階段を駆け上がっていった。
「……はぁ」
何か疲れたなぁ。
私は重たくなった足を引っぱたいて、駅への道を歩いていった。
家に着いたら、私は自分の部屋に直行した。病院に行ったんだし手くらい洗わないとな、と思ったけど、洗面所に行く気力がなかった。
部屋に入ってドアを乱暴に閉め、ベッドへダイブする。一日分の疲れがどっと湧き出てきた。
今日は色々あったなぁ。駅で橘さんに会ったと思ったら病院まで着いてくるし、橘さんの噂の根源や真中ちゃんの過去を知ることになって、更にはアリスさんがあの女子高生に刺されて……。
ああ、何かもうしばらくは動きたくないや。真中ちゃんのお見舞いにもしばらく行けそうにないし、数日間は家に引き篭ってよう。
ここ最近は毎日電車を乗り継いで病院まで行ってたからなぁ。長期休み明けは満員電車に乗って学校に行くのが死ぬほどダルいけど、それと同じだ。もう事故が起きて休校になってから何週間経ったんだろう。未だに学校からは何の連絡もない。まぁ、うちのクラスはこんな状態なんだから、そりゃ授業なんて出来たもんじゃないよね。
それに結局橘さんも死ぬかもしれないし。
「……それが一番嫌なんだよなぁ」
だって橘さんが死んだら、今まで死んでいったクラスメイトの死が無駄になってしまうみたいじゃない。橘さんが救われるためにみんなは死んだんでしょ?なのにその橘さんも死んじゃうなら、後は何が残るって言うんだよ。
「もう一人クラスを売った子がいるなら、橘さんも売られたことになる」理論だと、もう一人の犯人も「橘さんに売られた」ってことになる。その子はもう死んでるの?それともまだ生きてるの?
ベッドの隅に転がっていた抱き枕を両手で抱え、真っ白な天井を見上げた。
一体、この都市伝説は何なんだろう。ただの都市伝説じゃないって言うのはもう分かったけど、一体どれだけの人が関わってるんだろうか。
当たり前のように事情を知っていた医者も、アリスさんを刺した女子高生を連行した警察官も、死んだはずのむすびやクラスメイトを「転校した」、「留学した」ってことにして片付けた学校も、きっとみんな……。
「ん」
その時、ポケットに入れたままだったスマホが振動した。ゆっくりと上半身を起こして、ポケットからスマホを取り出す。
画面を見ると、インスタのDMの通知だった。
「あー、忘れてた」
そう言えば佐藤聖羅にDM送ってたんだっけ。疲れ過ぎてすっかり忘れてた。
佐藤聖羅に会うんだったら引きこもれないじゃん……。ぶちぶちと文句を垂れながらDMを開くと、何やらカラフルな絵文字で飾られた長文が送られてきていた。
『きゃーーーーーーっ!!💕
すどうりんねちゃんだよね!?!?話したかったよ〜〜〜ぅ💖💖💖もしかして私のこと探してくれてたのかな!?😳ちょっと恥ずかしい笑笑笑笑🤣🤣
ねねね早速だけどいつ会う?🎶早くりんねちゃん拝みたいんだけど〜〜🥺🥺
アリスにキャンセルにしてほしいってLINEもらった時は超ショックだったんですけど!!😭😭気変わってくれたみたいで嬉しいよ〜〜💘💘
都合いい日あったら教えて?🥺私はいつでも暇してるから🤭てか会ったらプリ撮ろうな👊』
「うわぁ……」
何て言えばいいんだろ。何か、こう……。…………。
もっと怖い人なのかと思ってた。一応仮にも、この人も私のクラスの魔女で、私を殺/すかもしれないんだから。でも見た感じそんな風にも見えないし。それに悪い人ではなさそうだし?
「『私はいつでも都合いいですよ』、っと……」
いよいようちのクラスを売ったもう一人の犯人が分かるんだ。それが誰なのか、知りたいような、知りたくないような。もし知ってしまったら、それからどうなるんだろう。私はその子を責める?それとも責める以前にその子はもう死んでたり?
「……」
私は打ち込んだ文を送信して、DM画面を閉じた。
適当にストーリーを流し見していると、ふと一つのストーリーが目に止まった。
「あれ……」
スマホの画面を指で押さえ、その画面をじっと見る。
「真中ちゃん、ストーリー載っけてたんだ……」
そこにはたくさんの限定フルーツ牛乳のペットボトルの写真に、『心の支え。毎日ありがとう💓』と小さな文字が添えられてあった。
「いつの間に……」
メンションされてなかったから気付かなかった。どうやらこのストーリーは22時間前……昨日私が病院から帰った頃に投稿されたみたいだった。
真中ちゃん、こんなに喜んでくれてたんだ。あ、今日はフルーツ牛乳もグミも渡しそびれちゃったな。橘さんのお菓子と一緒の袋に入れてたし、あのまま持って帰られちゃったかな。
「……ごめん」
本人に届くわけもないのに、私は小さな声で呟いた。
私は真中ちゃんの明るさや優しさにたくさん助けられてきた。クラスメイトが減るたび、どんどん暗く重たくなっていくクラスの雰囲気を戻そうとしてくれてたのも知ってる。沙里や珠夏のお葬式についてたくさん調べ回っていたのも。
ほんとに友達思いで良い子なのに。どうして橘さんにあんなことしたんだろう。
「真中ちゃんの口から、ちゃんとほんとのこと聞きたいよ……」
蛍光灯が眩しくて、腕で目を覆い隠した。
ドンドンドンと突き破りそうな勢いで誰かが私の部屋のドアを叩いていた。凄まじいその音ではっと起き上がり、何度も瞬きをする。
うう、目がシパシパする。またカラコン入れたまま寝てた……。
「何?」
カラコンを外しながらガチャリとドアを開けると、ムスッとした顔の妹が出てきた。
「これ、何か怪しい人が渡してきたんだけど」
そう言って一枚の封筒を差し出してきた。
真っ白な上質そうな紙に、細い黒のボールペンで、綺麗な文字で『首藤りんね様』と書かれていた。
「え、何これ」
「開けない方が良くない?めっちゃ怪しかったよ」
「男だった?女だった?」
「多分女。帽子かぶっててマスクしてたからよく分かんなかったけど。スーツ着た男が運転してる車に乗って帰っていったよ。他にも二人くらい乗ってた気がする」
「えー、何それ」
そう言いながら爪で封筒を開ける。揺すりながら開けた側を逆さにすると、カサリと音を立てて一枚の便箋が顔を出した。
「手紙?」
二つ折りになった便箋を開くと、これまた繊細な文字が並んでいた。
「首藤りんね様、………………、…………、……………………、」
読み進めていき、そのまま視線を一番下の行へ持っていく。
そして私は息を飲み込んだ。喉ちんこごと飲み込んでしまいそうになった。私は噎せて咳き込み、口を抑える。
「……りん姉?」
そんな私を妹は不審そうな目で見てきた。
「待って、これいつ渡されたの!?」
私が叫ぶと、妹は驚いて、
「え、今学校から帰ってきた時家の前に居て……」
私はそれを聞いた途端、階段を駆け下りていた。頭で考えるより、体が真っ先に動いたのだ。
玄関に着くと、靴も履かず裸足のままドアを開け、訳も分からず車道を走る。
どこに居るかなんて分からない。もう車で遠くに行ってしまってるかもしれない。
でも、もしかしたらまだ近くに居るかもしれない!
「ゆずはさん……!」
私はゆずはさんの手紙を握りしめ、住宅街を抜け出した。
ゴツゴツとしたコンクリートの地面が、足の裏の皮膚を容赦なく突き破った。一歩進む度に足が酷く痛んだ。道行く人全員が私をすれ違いざまに見てくる。そりゃそうだ、私だって髪の毛ボサボサでメイクも落ちかけの裸足の女が必死の形相で走ってたら三度見くらいする。それでも私は走り続けた。
「ゆずはさんっ……」
喉の奥が何かが詰まったように痛かった。涙がせり上がってくる。苦しい。息ってどうやって吸うんだっけ。
死に物狂いで走り続けていた脚は次第に動くのをやめ、私は歩道の真ん中に立ち止まった。それらしき車は、もうどこにも見当たらなかった。
ズキズキと心臓の辺りが締め付けられていた。声にもならない嗚咽を漏らしながら、道の真ん中に座り込む。
膝を抱えてそこに顔を埋めると、通行人にじろじろ見られるのも気にならなくなった。私は小さな声で笑って、腕の中で口元をニヤつかせた。
「いっつも、気付いた時にはもう手遅れなんだよ」
無理矢理釣り糸で釣り上げられていたようだった口角は、次第に逆方向に引っ張られ始めた。このまま輪郭を超えて地面に突き刺さってしまうんじゃないか、ってくらい私の口角は引き下がっていた。
「何でいつもさぁ!」
思わず叫んでしまった。はっとして顔を上げきょろきょろと周りを見渡すけど、幸い人は誰も居なかった。
「はぁ…………」
また自分の膝に顔を埋め、涙をぐりぐりと膝小僧に擦り付けた。
ゆっくりと立ち上がって、走ってきた道を戻っていく。
片手に握りしめた手紙を開き、ぐすんと鼻を鳴らしながら改めて読む。
『首藤りんね様
突然姿を消してしまってごめんね。びっくりしたよね。
私はりんねちゃんに生きていてほしいと思っています。なのでそれを相談してみようと思っています。
もしかしたら、私はもうりんねちゃんには会えないかもしれません。売られたりんねちゃんを助けるというのは、実は物凄い違反行為なんです。でも、私はそれでもりんねちゃんには生きて幸せになってほしいです。
私はりんねちゃんが帰った後、家の中を何回も回ってみました。誰も居ない家はすごく広く感じて寂しかったけど、これでもう思い残すことはなくなりました。
りんねちゃんと初めて会った時に言われた言葉、ずっと忘れません。私は家族を不幸にしてしまったけど、私の家族に関わってくれたりんねちゃんには感謝しています。きっとゆずかもお婆ちゃんも幸せだったと思います。
今まで辛いことがたくさんあったと思います。これからはもっと辛いことが待ち受けてるかもしれません。でもどうかそれも乗り越えて、あなたが救われますように。
弓槻ゆずは』
どこかでカラスが鳴いていた。私は何度も瞬きをして、薄らと瞳に滲んだ涙を必死に乾かそうとした。
「何いいこと書こうとしてんだよ、全然響かねーし」
ガラガラに枯れた声を喉の奥から絞り出した。私は湧き出てくる涙を必死に飲み込み、手紙を強く強く握った。涙の跡としわが付いた。
「りん姉!」
道路の向こう側から妹が走ってくる。
「急に飛び出して何してんの!?さっきの人達は何なの?知り合いだったの?」
妹は肩で息をしながら眉を顰める。私は俯いて黙り込んだ。
「バカじゃないの、そんな格好のまま飛び出すとか。どう考えても追い付けるわけないじゃん」
妹はそう言って踵を返した。
「……何かよく分かんないけど、あんまり変なことしない方がいいよ。お母さんが仕事大変なの、あんただって分かってるんでしょ」
振り向きざまにそういう妹。私はそれでも子供みたいに黙りこくった。
「ここ最近は一週間に一回帰ってくればまだいい方だもん。私もあの人のことあんまり好きじゃないけど、余計な苦労掛けるのだけは絶対やめなよ」
そう言ってスタスタと歩いていってしまった。
その後ろ姿をぼーっと眺めながら、私もゆっくりと歩を進める。
そうなんだ、お母さんそんなに帰ってこれてなかったんだ。ずっと部屋に籠りっきりだったから全然気付かなかった。
「でも、向こうだって私のこと全然気に掛けてもくれてないじゃん」
ぽろりと零れた言葉は完全にただの八つ当たりだった。
仕事が忙しいのも、そのせいで疲れてるのも分かってる。それにお母さんを避けてるのは私の方だ。
「……都合良いよな、私って」
鍵が開いたままの玄関のドアを力いっぱい引き、家の中に入る。それが自然に閉まるのを待ち、鍵を閉める。
「はぁ……」
ゆっくりと顔を上げると、階段の前に妹が立っていた。怪訝そうな顔で私を見下ろしている。
「何?」
私がそう尋ねると、妹は無言で部屋に入ってしまった。
「……何なんだよ」
私はイライラして、土埃で汚れた足のままフローリングを踏み荒らした。
階段を駆け上がり、洗面所に直行する。お風呂場に飛び込んで冷たいままのシャワーを足に浴びせた。
ザー、と水滴が足や壁に叩き付けられる音だけが聞こえる。冷たくて足の感覚がなくなってきたところで、私はシャワーを止めた。
床にお尻と脚をベッタリくっつけて座ったせいで服がびちゃびちゃに濡れてしまった。跳ねた水滴が髪の毛先からポタポタと垂れる。
「何でみんな私を置いてくんだろう」
自分で呟いた言葉に自分で身震いした。
もうこれ以上大切な人が消えてくのは耐えられない。
「……」
でもきっと、この先もどんどん私の大切な人が消えていくんだろうな。
「……」
私は湯船の蓋を開け、冷え切った湯船に飛び込んだ。
全身が冷たくなり、筋肉や血液がパリパリと凍っていくような感覚になる。このままお風呂の床が崩れて、知らない海に流れ落ちて、どこかへ行ってしまえばいいのにな。
「ぷあっ」
私は水風呂から顔を上げた。そして一目散に洗面所へ飛び出す。
「さっむ!!」
積んであったバスタオルを何枚も重ねて体に巻き付ける。しばらくぶるぶると身震いした後、私はぼーっと空を見詰めた。
「何やってるんだろうな、ほんと」
バカみたいだ。こんなことして何になるって言うんだよ。
「ははは、はぁ……」
いくら私が頑張ったところでもう何も変わらない。そんなのもう分かりきってるじゃん。
「…………」
濡れた床に寝転び、目を瞑った。そのまま意識はすぅっと沈んでいくかのように消えていった。
あれから数日経った。あの日を境に、私は死んだようにベッドから動けなくなってしまった。この一週間は毎日真中ちゃんの病院へ行ってたから、急に一日中暇になって喪失感に襲われて何もやる気が起きなかったのだ。
あの後、私は自分の部屋のベッドで目を覚ました。びしょ濡れだったはずなのに髪は綺麗に乾いていたし、私服だったはずなのにジャージに着替えていた。寝ぼけながら自分でドライヤーをして着替えてベッドに入ったのかな、と思ったけど、全然記憶にない。妹に「私のこと部屋まで運んでくれた?」って訊いたらすっっごい嫌そうな顔で「は?」って言われたからそれしか考えられない。
「やだなー、夢遊病みたいじゃん」
溜め息を吐いて天井を仰いだ。
「佐藤聖羅に会うのももう明日かぁー……」
あれからしばらくDMでやり取りをして、私と佐藤聖羅は土曜日――明日会うことになっていた。場所は佐藤聖羅の要望でうちの学校になった。何でわざわざ学校で会おうとしてくるのか分からなかったけど、私も久しぶりに学校に行きたい気分だったから満場一致で学校に決まった。
「にしても佐藤聖羅はどうやって校内に入るんだろう」
部活動があるから土曜でも校舎は開放されてると思うけど、関係者でもない佐藤聖羅が無断で入るなんて問題になり兼ねない。そうなったら佐藤聖羅を校内に入れた私も責任を問われたりしそうだよな。そしたら停学処分かはたまた退学処分?それだけは嫌だなぁ。
「……」
私は、ちゃんと高校を卒業出来るんだろうか。
「……みんなと一緒に卒業したかったのにな」
「もうクラスメイトはほぼ残っていない」という事実がリアルに頭の中に浮かび上がってきた。クラスメイトのほとんどはもうこの世に存在すらしていない、という実感が湧いてきて、私はそっと目を瞑った。
憂鬱な気持ちのまま、その日はあっという間に終わってしまった。
翌日。私は約一ヶ月ぶりに制服に腕を通した。ずっと部屋に脱ぎ捨てたまま放置していたから、シワと埃まみれで少し見栄えが悪かったけど、洗濯する気にもなれなかったのでそのまま身に着けた。
家を出て、駅までの道を歩いていく。ホームに入ると、久しぶりに通学に使っていた線の電車に乗り込んだ。本来ならサラリーマンや学生で溢れ返っているぎゅうぎゅうの満員電車だけど、今日は土曜日の午後だからそこまで混んでいなかった。人は疎らで椅子も空いていたから、隅の方に座らせてもらった。
学校に通ってた時のように、イヤホンで好きなバンドの曲を大音量で脳に流し込む。久しぶりだったからか乗り過ごしそうになってしまい、慌てて学校の最寄り駅で降りた。
改札を出てしばらく歩くと校舎が見えてくる。私は思わず一度立ち止まって校舎を見上げた。
「うわ〜……」
何故か緊張感が襲ってきて脚ががくがくと震え出す。
「弓槻とか橘さんって、久しぶりに学校に来た日はこんな気持ちだったのかなぁ……」
だとしたら物凄い勇気を出したんだろうな。私はそんなことを思いながら再び歩き出した。
校門は開いていたので簡単に入れた。玄関でローファーから上履きに履き替え、静かな階段を上っていく。
「てかどの教室に行けばいいんだろ」
佐藤聖羅は「学校」って言ってただけで「どこの教室で会うか」は何も指定してこなかった。もしかしたら新しくメッセージが入っているかも、と思ってDMを開いてみたけど、特に何も届いていなかった。
「はー。」
まぁいいや、先に着いたってことだけ知らせておこう。
ちょっとだけ学校の中を回りたい。爆発事故が起きたあの教室は、今どうなっているんだろう。
私は四階まで階段を駆け上がった。
誰も居ない廊下を歩いていく。あの教室に一歩近付く度、心臓の鼓動はどんどん速くなっていく。何度も深呼吸をしてみたけど効果はなかった。このまま口から心臓が飛び出してきてしまいそうだった。
「……あれ、」
ふと通り過ぎようとした教室に人影が見えた気がした。その教室だけ電気が付いている。そしてその教室は、爆発事故が起きた教室の隣だった。
「何だろ……」
立ち止まって教室の中を覗き込む。確かに二人の生徒が中に居た。見覚えのある長い黒髪の少女が二人。……え?
私は思わず忍者みたいにドアに張り付いた。ガラスの向こう側に居たのは、橘さんと、車椅子に座った真中ちゃんだったのだ。
「何で」
私は思わず小さな声で呟いた。二人は何やら口を動かして喋っている。声が籠っていて会話の内容は聞き取れなかった。
心臓がどくどくと音を立てる。手汗がじっとりとドアに張り付く。息を殺して、耳をすまして、二人の会話を必死に聞き取ろうとした。
「…………」
耳をガラスに貼り付けても何も聞き取れなかった。
「うっわ」
いきなり体が前に傾いた。私はそのまま床に倒れ込んだ。
「いった……」
慌てて肘をついたから肘の骨がじんわりと痛くなった。
「……首藤さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、冷たい目で私を見下ろす橘さんが目に入った。教室の奥では、驚いた表情の真中ちゃんが私を見ている。
「何してんの?」
そこでやっと、橘さんがドアを開けて、体重を掛けていたせいで転んでしまったのだと理解出来た。
「あ、はは……」
私は上半身を起こして愛想笑いを浮かべた。それでも橘さんは不機嫌そうな顔で私を見下ろし続ける。
「何で首藤さんがここに居るの?」
「え、いや、それはこっちの台詞だって」
「……真中に呼び出されたんだよ」
橘さんはそう言って真中ちゃんを見る。
「え……」
「この前アリスさんの病室で話してた会話、全部こいつに聞かれてたって。」
橘さんはそう言って顎で真中ちゃんを指す。
「うそ……」
真中ちゃんを見ると、「やっぱりりんねちゃんも知ってたんだね」って顔をした。
「こいつ、早めに処分しないと面倒なことになるよ」
橘さんはそう吐き捨てた。そして教室のドアを閉める。
「ね、首藤さん。どうしよっか。」
逆光のせいで真っ黒になった橘さんが、私をじっと見据えていた。
心臓がどくどくと小さな音を立てる。私は私を睨むように見詰める橘さんと不安そうな目で私を見上げる真中ちゃんを交互に見た。
「待って、待ってよ!?何で私に訊くんだよ!?」
二人の視線に耐え切れず、私は思わずそう叫んだ。それでも橘さんは黙って私を見詰め続ける。
「処分とか気早すぎだって!会話聞かれてたからってそんなに慌てることないじゃん!」
「情報が流れたら終わり。私もアリスさんも、首藤さん、あなただって処分されることになるんだよ。それに結局こいつも処分されるだろーし。こいつと三人が処分されるくらいなら、こいつ一人が処分される方が断然マシでしょ。」
「いやいやいや、真中ちゃんって口硬そーだし大丈夫でしょ!」
そう言ってちらりと真中ちゃんを見る。
「こいつ全部ネットに流すって。」
そして橘さんがすかさずそう言う。
「……え」
驚いて真中ちゃんを見るけど、何も否定してこなかった。
「嘘だよね、真中ちゃん?他人になんか喋る気なんてないよね?」
口角がふるふると小刻みに震えた。それを無理矢理引き上げて私は愛想笑いを浮かべる。お願い、「うん」って言ってよ!
「喋るよ。ネットにも書き込むし、インスタでも拡散する。」
そんな私の願いを真中ちゃんは簡単に裏切ってきた。私は頭の中がバキバキに割れてしまったような感覚になった。目の前が真っ白になる。頭が痛い。
「だそーです。ほんとに自分勝手だよね、救いようがないね」
橘さんは真中ちゃんを鼻で笑って窓の方へ歩いていく。
「ねぇ真中ちゃん何で?拡散なんてしようとしなければ真中ちゃんは助かるんだよ!?なのに何でわざわざ煽るようなこと言うの?」
「りんねちゃんはおかしいと思わないの?一人の勝手な都合のせいで大量に人が死んで、世間は何も言わない。そんなの絶対おかしいでしょ!」
真中ちゃんはそう喚き散らかした。まるで昔の自分を見ているみたいな気分になった。何も知らなくて、ただ自分は理不尽に死ぬんだと被害妄想していたあの頃の私だ。不快な気持ちになって、私は顔を歪める。
「誰のせいだと思ってんの?」
そして気が付いたら、口から勝手にそんな言葉が飛び出していた。
「元はと言えば真中ちゃんが橘さんの変な噂流したのがいけなかったんでしょ?」
私は顔を引き攣らせて笑う。真中ちゃんは目を見開いて私を見上げる。窓辺の橘さんもちらりと私を見ていた。
「真中ちゃんのせいで今までどれだけ大変だったと思ってんの?真中ちゃんが知らないところで私だけいっつも……」
私はそこで言葉を詰まらせた。喉の奥から何かが込み上げてきたのだ。それと同時に瞳からじんわりと涙が滲み出てくる。
「それは奈那がクラスを売ったのがいけないんでしょ!?」
「だから真中ちゃんがあんなことしなければ橘さんもこんなことしなかったんだよ!」
「でもうちのクラスを売ったのは奈那だけじゃない!もう一人いるんでしょ?その子がクラスを売った原因はきっと私じゃない!」
「他に誰か居たら真中ちゃんの責任はなくなるって言うのかよ!?」
「じゃあ何で私だけこんなに責められなきないけないの?私怪我して脚はもうないんだよ?それだけでもう充分報いは受けたでしょ……」
涙声で真中ちゃんはそう捲し立てた。
「もう充分反省したよ。もういいでしょ?許してよ奈那。」
そしてしくしくと泣き出してしまった。けど、橘さんはそんな真中ちゃんを見下すように睨み付けるだけだった。
「……許さない。私はあんたが死ぬまで稼いだ全財産をくれるって言ったとしても、私が病気になった時臓器を提供してくれたとしても、あんたが死んだとしても、絶対に許す気なんてないから。」
橘さんの声は震えていた。逆光のせいで表情は見えないけど、きっと橘さんも泣いている。
三人の鼻を啜る音だけが聞こえる。私達は互いに視線を逸らし合った。
「……別に私だって元々真中のこと嫌いだったわけじゃないじゃん。」
静寂の末、橘さんがぽつりと呟いた。それを聞いた真中ちゃんは、俯いたままぴくりと体を動かす。
「むしろ好きだったし。てか一番の親友だったし。」
真中ちゃんは眉を顰めて膝の上の拳を見据える。
「それを壊したのはあんたの方でしょ?」
「それはああでもしないと私のことバラされると思ったの!怖かったの!」
真中ちゃんが叫ぶ。
「もしみんなに援交してることがバレたら生きてけなかったんだもん……」
「は?だからって私が生きていけなくなってもいいと思ったの?」
橘さんも負けじと言い返す。
「てかバラそうなんて一ミリも思ってなかったんですけど。あんたの勝手な被害妄想が生んだんだよ、全部全部。」
橘さんは目をたっぷりと涙を浮かべて、精一杯真中ちゃんを睨み付けた。
「私があの日援交してるとこを見たってあんたに伝えたのは、辞めさせたかったからだよ。友達があんなことしてたら辞めさせたいって思うのは普通でしょ」
「余計なお世話だし。」
「は?」
橘さんはまるでゴミでも見るような目で真中ちゃんを見る。
「何?もしかして好きであんなことしてたの?」
「そうじゃなくて!私のことを思ってたんなら気付かないふりしてくれれば良かったんじゃん!盗撮までされてたらそりゃバラされるかもって疑うでしょ!」
「証拠見せなかったらあんたはしらばっくれるつもりだったんでしょ?」
「そりゃそーでしょ、バレたくないし!てか何なの、何でそこまでして止めようとしてきたの?」
「真中が心の支えだったんだよ、当時の私は」
橘さんはそう言ってつかつかと歩いていくと、ずいっと真中ちゃんに顔を近付ける。二つの竜巻みたいな毛束が頬の横にだらんと垂れている。
「だから真中が自分を安売りみたいにしてんのが許せなかった」
真っ黒の小さめな黒目が真中ちゃんだけを捉えていた。橘さんは瞬きもせずに淡々と喋る。
「……そうだね。全部私の自己満足だったかもね。でも結果あんたのせいで私は中高でいじめられる羽目になった。私にも少し非はあったとしてもあんたが9.9割悪いでしょ」
橘さんはそう言うと、ツインテールを振り払って顔を上げた。そしてじろっと私を睨み上げた。
「アリスさんも怪我なんかしてもう使えないし、真中は私が殺/す。どうせこれから魔女になるんだし、別にいいよね。」
綺麗に羅列した下睫毛にふと視線を奪われる。が、すぐにはっと我に返って慌てて首を横に振った。
「いやいや、取り敢えず落ち着こ?勝手なことしない方がいいと思うけど!」
「だってこいつバラすつもりだよ。」
「でもさぁ……!」
「もういいよ、首藤さんは黙ってて。元々一人で全部やるつもりだったし。てか首藤さんは何で休みなのに学校来てんの?」
橘さんは不愉快そうな顔で私を睨み続ける。私は思わずその視線から逃れるように顔を背けた。すると今度は真中ちゃんが視界に飛び込んでくる。それもまた気まずくて、また視線をずらす。
「佐藤聖羅に会う約束だったの。あの人がうちの学校で会いたいって言うから待ってただけ。」
「今から会うの?」
橘さんの目がきらりと光る。
「ねぇ、私にも会わせてよ。もう一人のうちのクラスを売った子、誰なのか知りたい」
らんらんと目を輝かせて橘さんはそう言う。
「別に私はいいけど……。でも約束の時間とっくに過ぎてるしほんとに来るかどうか分かんないんだけど」
教室の時計を見ると、約束していた時間から三十分近く経っていた。スマホを見ても何も通知は来ていない。もしかして私、すっぽかされた?
「じゃあさとーせいらが来る前にこいつ片付けちゃお。」
「いやいや待って?何でそうなるの?」
「だってこのまま帰したら確実にバラすよ、こいつ」
「でも勝手なことしない方がいいって――!」
「動かないで。」
真中ちゃんのその声で、私達はぴたりと動きを止めた。そして同時に真中ちゃんの方を見る。
真中ちゃんは車椅子の向きを窓の方に向けて、橘さんにスマホを画面を突き付けた。
「これ。もし動いたら、これ投稿しちゃうから。」
真中ちゃんはそう言うと、私にも画面を見せてきた。
「っ!」
ストーリーの画面に、魔女についての秘密が事細かに書き込まれていた。
「そうなったら困るんでしょ。だったら帰らせて」
「……脅してんの?」
「そうだよ」
真中ちゃんと橘さんは睨み合う。
「帰らせたらバラさないの?どうせバラすんでしょ?」
「どうせ私は死ぬんでしょ?だったらバラしてから死んでやるから」
「だからあんたがバラそうとしなければいいんだよ!」
橘さんが真中ちゃんに掴み掛かろうとする。
「ほんとに拡散するから――」
ガラッ!勢い良くドアが開き、壁にバウンドして大きな音が鳴った。
「――え」
橘さんが顔を上げるより、私が振り向くより早かった。真中ちゃんの首元に、薄汚れたベージュの縄が飾られていた。
「は」
誰かが真中ちゃんの背後でにんまりと笑っていた。
「はーいそこまで。マナカチャン、だっけ?スマホを捨てな」
男性のようなハスキーな低い声でその人はそう言う。
「だ、誰」
真っ青な顔で真中ちゃんはがくがくと震えた。でもスマホは手から離さない。
「質問する前に人の言うことちゃんと聞きなよ。」
そう言うと、その人は真中ちゃんの手から無理矢理スマホをひったくった。
「私もほんとはこんなことしたくないんだけどねー。自分の手で人を殺/すとか。でもあなたが悪いんだよ、確実な情報をネットに流すのは規約違反だからね。」
その人はにっこり笑って縄の端を真中ちゃんの目元にチラつかせた。
「待って待って待って、違う違う言わない!言いませんから!やめて!」
真中ちゃんは気が狂ったように首を四方八方へ振り回した。
「今更死ぬの怖くなったの?だめだよ、あの世でちゃんと反省しな」
「ごめんなさい、許して奈那!お願い!ごめんなさい!」
その人は必死に許しを乞う真中ちゃんを無視して、ぐっと手に力を込めた。呆然と立ち尽くす橘さんが、口を開けて何かを言おうとした。
「よいしょ!」
そして、その人は力一杯縄を引っ張り上げた。
私は反射的にそれから目を逸らした。ギチギチギチと何かがきつく締め上げられる音ははっきりと聞こえてきた。それに混ざって、たまに聞こえてくる真中ちゃんの苦しげな嗚咽のような声。私は思わず耳を塞いだ。
次第にそれも聞こえなくなり、教室は静寂に包まれた。
「……ははっ」
橘さんが小さな声で笑った。それを合図に、突然教室に入ってきたその人は縄から手を離した。
「うん、もう死んだね」
そう言って真中ちゃんの顔を覗き込み、首筋に手を当てた。
ふー、と溜め息を吐き、その人は真中ちゃんの首から縄を取り除き、机の上に放り投げた。
「あー。自己紹介遅れたね。私が佐藤聖羅です。」
最悪の登場を果たした佐藤聖羅が、にんまりと目を細めて笑った。
「どっちがりんねちゃん?」
佐藤聖羅は私と橘さんを交互に見ながらそう言う。私は無言で手を挙げた。
「こっちの子は?この様子だと、アリスが担当してた方の新人魔女さん、かな?」
橘さんは無言で頷いた。
さっきから黙りこくっている私達を見て、佐藤聖羅は苦笑いしながら頬を掻いた。
「あー。流石に目の前でやるのは刺激強めだったか。ごめんごめん」
佐藤聖羅は苦笑いしながら今度はぽりぽりと頭を掻いた。
私はそんな佐藤聖羅をじっと見詰めた。
佐藤聖羅はまるでインスタの中からそのまま出てきたみたいに綺麗だった。どうせ戸川さんみたいに加工強めで現実とはまるで別人なんだろうな、と思ってたけど全然そんなことなかった。実物も滅茶苦茶に可愛かった。
ちょっと面長気味の輪郭に、派手な柄のフチありの大きなカラコン。二重幅は狭めだけどしっかり平行二重で、涙袋も幅は小さめだけど目の縦幅がとても大きいのが印象的だった。ピンクのアイシャドウが元の目の大きさをよく際立たせている。鼻は真っ直ぐで細長く高さもあり、薄めの唇にとても合っている。顎下まである長めの茶髪のボブは綺麗に内巻きになっており、少し厚めの前髪もきちんと巻かれている。顎には白の不織布マスク。身長は170センチくらいあるんだろうか。更に厚底のヒールを履いているから、185センチくらいあるように見える。
声は男性のようだけど、その見た目は完全に可愛い女性だった。
「さて、取り敢えずこの子が情報を拡散してないか調べてみますか」
佐藤聖羅はそう呟くと、床に転がっていた真中ちゃんのスマホを拾い上げた。画面はついたままだったので簡単に操作出来た。
「うん、うん、うん……。TwitterとLINEとストーリーの履歴とChromeの履歴見る限りは大丈夫そうだね。……あれ」
佐藤聖羅ははたりと指の動きを止め、顎に手を添えて口を窄めた。
「何かメモに書いてあるよ。ナナチャン?ってあなた?」
「え……」
戸惑う橘さんに佐藤聖羅はスマホを渡した。
「何かあなたにメッセージがあったみたいだよん」
橘さんは言われるままにスマホの画面を見た。ゆっくりとスクロールしていく度、橘さんの目は大きく見開かれていく。
「何これ……」
そう言う橘さんの目玉は零れ落ちてしまいそうだった。
「何て書いてあったの?」
私が尋ねると、橘さんは無言でスマホの画面を私に見せてきた。
『奈那へ
今更だけど、どうしても伝えたいことがあるからここに書きます。
まず、あの日嘘の噂を流したりしてごめん。奈那に援交のことがバレてたのがショックで、びっくりして、思わず友達に言っちゃった。言ってすぐ最低だと思ったのに、撤回する前にどんどん広まっちゃって、どうしようもなくなっちゃった。
そんなの奈那に取ってはただの言い訳かもしれないけど、私は毎日毎日後悔してた。どこに居ても何をしても、いつもあの噂のことだけが頭の中に張り付いてた。
ずっと謝りたかったけど、タイミングも分からないし私なんかと話したくないだろうなって思ってずっと言えなかった。だからこの前病院に来てくれた時、少しだけ嬉しいと思ったんだよ。結局私は保身のためにあんな態度取っちゃったけど。
きっとまた面と向かったらムキになって素直に謝れないと思うから文面になっちゃったけど、ほんとにごめんなさい。
もう私のことなんて信じられないかもしれないけど、これだけは信じて。高校にまであの噂を持ち込んだのは私じゃないです。』
全て読み上げて、私は思わず橘さんの顔を見た。橘さんは口を半開きにして小刻みに震えていた。
「高校でもあの噂流したのって、真中じゃなかったの?」
小さな声でそう呟くと、橘さんは真中ちゃんの亡骸へ歩み寄った。
「ねぇ何なの?今日呼び出したのはこれを見せるためだったの?」
勿論、真中ちゃんは何も反応しない。
「誰なんだよ!」
橘さんは近くにあった机をぶん殴った。
「出てこいよ!」
椅子を蹴り飛ばす。
そして、声を漏らして泣きじゃくった。
「あーあ、泣いちゃったよ。ほら、出てこいよだってー」
そんな橘さんを見て、佐藤聖羅が半開きのドアに向かってそう叫んだ。
「……え?」
私と橘さんは同時にドアの方を見た。
「……」
ドアの影から、ゆらりと誰かが現れた。
「……?」
雫萌高校の制服だ。スカートを何回か折っている。体型は私より小柄ってくらい?手足はしなやかで白い。
「……!」
ふわりと揺れるボブが視界に飛び込んできた途端、私の全思考はフリーズした。
「……私だよぅ」
その特徴的な語尾を聞いた途端、頭から血の気が引いていった。私はガタリと音を立てて机に手をついた。
「りんね……」
「ねぇ何で?」
私は乾いた笑いを漏らして天井を仰いだ。
「何でそこでしみずが出てくんの?」
気が遠のきそうだった。
でも、ここにしみずが居るってことが、何よりの証拠だった。
「ほんとにしみずだったんだ」
涙がぽろぽろと零れた。しみずはスカートの裾を握り締め、口を噤んで俯いていた。
「何だよ、もう何なんだよ……」
脳味噌に泡立て器を突っ込まれてぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたみたいな感覚だった。
「これで全員揃ったね。そろそろあいつも来る頃だよ」
佐藤聖羅はにまにまとほくそ笑みながら私達を見回す。
そして慌ただしい足音がどんどん近付いてくる。佐藤聖羅やしみずが入ってきたのと反対側のドアが開いた。真っ白の綺麗な髪が乱れている。
「りんねちゃん……。」
ドアに手を当てて肩で息をするアリスさんが、佐藤聖羅を睨み上げていた。
「……奈那ちゃん。」
アリスさんは拳を机に乗せてしゃがみ込んでいた橘さんを見て目を見開いた。
「その子が来たのは偶然だけど、生き残ってる子はみんな揃ったよ。だらだら長引かせても仕方ないよ、もう終わらせよう、アリス。」
佐藤聖羅はそう呟くと、アリスさんを教室の中に入れてドアを閉めた。
張り詰めた空気の中、そこに居る五人は綺麗な五角形を描いて見詰め合った。
アリスさんと佐藤聖羅が、真中ちゃんの遺体を引き取るようにと誰かに連絡を入れた。私達はその人達が来るのを待ちながら、隣の教室に移動した。
「流石にあそこに長居するのも気分悪いしね」
佐藤聖羅はそう言いながら笑っていた。
私達はそれぞれ椅子に腰掛けた。何となくお互い距離を空けて。
「……りんね。さっき『ほんとに』って言ってたけど、いつから気付いてたの?」
窓際の前の方の席に座ったしみずが、真ん中の列の一番後ろに座っている私に体を向けてそう言ってきた。私は何となくしみずの顔を見れなかったので、黒板を眺めながら答えた。
「爆発事故が起きて割とすぐ。最初にしみずを疑ったのはアリスさんだった」
「そっか。」
しみずはどこか寂しそうな声でそう呟くだけだった。
「爆発事故が起きる前、りんねちゃん達のクラスメイトが不審死していったことがあったけど、あれはもしかしてしみずちゃんがやってたのかな。」
アリスさんがそう尋ねると、しみずは無言でこくんと頷いた。
「……やっぱり。もし聖羅がやってたとしたら、私がやったことにはなってなかったもんね。」
「そうそう、びっくりだよ。まさか自分が売ったクラスメイトを自分で処理しちゃうなんて」
佐藤聖羅はギシッと音を立てて椅子に寄り掛かる。
「何でそんなことしたの?」
私はぶるぶると震える拳をバレないように机の下に隠した。握り締めた手のひらに汗が滲んでくる。……しみずが、あの小さな手でクラスメイト達を殺してたんだ。その事実に震えが止まらなかった。
「……弓槻さんがクラスの誰かが魔女と取り引きしているところを目撃したって言った時、おかしいなって思ったの。だって私が魔女にクラスを売ったのは、入学して間もない時だったから。
だからすぐにもう一人うちのクラスを売った人が居るんだって分かった。きっと私も売られたんだと思ったら、やられる前にやってやろうって思ったんだ」
……やっぱりあの時だったんだ。沙里と珠夏が死んだ日の廊下でのやり取り。あの時、既にしみずは全て気付いてたんだ。
「入学してすぐ、って、何で知り合ったばかりのクラスメイトを売ろうと思ったの?」
声がどんどん震えていく。掠れてしまっていたから上手く聞き取ってもらえただろうか。
「……幼馴染みに会いたかったの。」
しみずは泣きそうな声でそう言った。その声を聞いて、私はやっとしみずの顔を見ることが出来た。
「幼馴染みが施設送りになったの。」
これまた泣きそうな顔で唇を噛むしみずを見て、胸がぎゅっと痛くなった。
いくら非道いことをしてきたとしても、目の前に居るのは紛れもなく私が知ってるしみずだった。
「ネット依存症だった幼馴染みは、興味本位で魔女についての都市伝説を調べ始めた。次第にネットの情報だけじゃなくて、実際に魔女とコンタクトを取ろうとし出した。そこで止めてれば良かったんだけどね。気が付いたら強制的に施設に入れられて、それから連絡は途絶えちゃった。」
「……それだけのために、何の関係もないクラスメイトを売ったってことかよ?」
私がそう言うと、しみずはばっと顔を上げてぶんぶんと首を横に振った。
「何が違うんだよ」
「違くないけど……!」
「『施設送りになった幼馴染みに会いたい』って、そんなのしみずも真相に近付いて施設に送られれば良かった話じゃん。」
「だって怖かったんだもん!無理矢理連れてかれて何されるか分からないし。だったら『魔女』として正式に入る方が良かったんだもん……」
「は、ははっ……」
思わず笑いが込み上げてきた。しみずの「幼馴染みに会いたい」、たったそれだけのためにクラスメイトが大勢死んだんだぞ?
「しみずの勝手な都合に私達を巻き込むなよ!何考えてんだよ、友達だと思ってたのに!」
涙を飛び散らしながら私は叫んだ。
「全部嘘だったんだな。いつもにこにこしてバカみたいに優しくて、自分のせいで死ぬって分かってる奴とつるんで。どんな気持ちだったんだよ!」
「嘘じゃないよぅ!りんねは本当に友達だと思ってた!ほんとはこのクラスを売るって決めてから誰とも仲良くなるつもりはなかったんだよ。だってそしたら悲しいでしょ?でもりんねはひとりぼっちだった私に話し掛けてくれた。」
「私のせいだって言いたいのかよ?」
「違う!嬉しかったんだよ!だからもう手遅れかもしれないけど、りんねだけは絶対に死なせないから!」
しみずは必死にそう叫ぶ。私は頭を抱えて机に伏せた。色んな感情が混ざり合って、相変わらず頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「……待ちなよ。あんたさっきあのタイミングで登場したってことは、私の噂を高校で流したのはあんたってことだよね?」
さっきまで一言も喋っていなかった橘さんが、静かな声でそう言いながらゆらりと立ち上がった。
「ふざけてんの?てかお前誰だよ?」
「待って、噂って何の話?」
ガタンと盛大な音を立てて橘さんは椅子を蹴り飛ばす。
「しらばっくれてんじゃねーよ!私が援交してるって噂、高校にまで流したのお前なんだろ!」
「知らない!そんなの知らないよぅ!」
「じゃあ何でこいつのこと呼んだんだよ!」
橘さんはそう言って佐藤聖羅を睨む。佐藤聖羅は机に頬杖をつきながらにやにやと笑っている。
「あそこでしみずちゃんが登場したら面白くね?って思っただけだよん」
「じゃあ橘さんの噂を広めたのはしみずじゃなかったってこと?」
「何それ、そんな話今初めて知った……」
しみずはきょとんとしながらそう言った。どうやらほんとに何も知らなかったみたいだ。
「マナカチャンだっけ、あの子が許してほしいがために吐いた嘘かもしれないよ。ほんとは全部あの子が広めてたかもしれないし。本人も他のクラスメイトも死んじゃったからもうほんとのことは分からないね」
佐藤聖羅は楽しそうににこにこしながらそう言った。
「ふざ、けんなよ……」
橘さんは虚ろな目で膝からがくんと崩れ落ち、机に額を打ち付けた。何度も何度も硬い音が教室に響き渡る。
「奈那ちゃん。」
アリスさんがそんな橘さんに歩み寄り肩を抱く。
「触んないでよ!」
橘さんはそれを振り払おうとする。
「望んだ通りみんな死んだのに!何でこんなにもやもやするんだよ!後悔なんてしてないはずなのに……!」
橘さんの肘がアリスさんのお腹に当たる。アリスさんは短い呻き声を上げてお腹を抱えて蹲る。
「奈那ちゃん……。」
脂汗を流しながらアリスさんは小さな声で呟いた。
隣の教室から、誰かが喋る声が聞こえてくる。何かを指示し合い、ガラガラと車輪が転がる音がどんどん遠ざかっていく。
「アリスさん、大丈夫ですか?」
私は苦しそうにお腹を抱えるアリスさんに近付いてしゃがみ込んだ。もしかしたら、さっきの橘さんの一撃で傷口が開いてしまったかもしれない。
「大丈夫だよ。ちょっと痛かったけど。」
アリスさんはそう言いながらお腹から手をどけた。血が滲んだりはしていなかった。
「それより奈那ちゃんを……。」
アリスさんは心配そうな顔で橘さんを見る。橘さんは机の脚を握りながらガタガタとそれを前後に動かしていた。
「もうだめだよ、その子は。完全に壊れちゃってる」
佐藤聖羅はそんな橘さんを眺めながら気だるそうにそう言った。
「橘さんは、その噂話が原因でクラスメイトを売ったんだね」
しみずはぽつりとそう言うと、目を閉じて俯いてしまった。
「にしても今回は失敗だったよねー。」
佐藤聖羅がわざとらしい大きな声でそう言った。
「威力弱めだったからかな、数人生き残っちゃったもんね。そのせいでわざわざ病院まで行って処理し直したし。誰だっけー、あの大人しそーな子」
「……それ、華乃ちゃんのこと?」
「そーそー確かその子!」
佐藤聖羅は嬉しそうに私を指差しで手を叩いて笑い出した。
「……だからしみずは華乃ちゃんも生き残ってたって知ってたんだね」
ちらりとしみずを見る。しみずは顔を上げずに静かに唇を噛んだ。
「でもやっぱり一番効率いいのは爆弾なんだよね〜。あくまで『事故』として処理しやすいし。」
そう言って、まるで馬鹿にするようにちらりと横目でアリスさんを見る。
「だからアリスのやり方は気に入らなかったんだよ。一人ずつ殺してたら周りに勘づかれて面倒になるじゃない。だから逆恨みされて刺されたりするんだよ」
アリスさんは無表情のまま唇をわなわなと震わせて佐藤聖羅を睨む。
「売られてない子を巻き込んだあなたにそんなこと言われたくない。」
「はー、まだあんなの根に持ってんの?あれは仕方なかったじゃん。一人や二人死人が増えたところで変わんないでしょ」
「売られてない人を殺/すのはただの犯罪でしょ。それにあなたはそのせいで魔女の権利を失って施設送りになってたはず。どうしてまた魔女に戻ってこれたの。」
「まぁ今回のは特別だからね。私はただの別の魔女の代理だから。
頼まれたんだよ、『自分はこのクラスの魔女にはなれないから代わってくれ』って」
「それがあの人だって言うの。」
アリスさんと佐藤聖羅は睨み合う。それを遠くで見ながら、私は頭の上に大量のはてなマークを浮かべた。
「だって流石に無理でしょ。あの人にだって人の心はあるんだね。でもかわいそー、結局誰が魔女やっても死ぬ結果は変わらないんだからね」
「ちょっと黙って。」
「はいはい。でも結局知るんだから先にバレたっていいでしょ」
「それだけは絶対に言わないでって言ってるでしょ。」
アリスさんは立ち上がり、よろよろとおぼつかない足取りで佐藤聖羅に近付いていく。佐藤聖羅は満面の笑みでアリスさんを見上げる。
「でもさー、知らないのって逆に可哀想じゃん?てかほんとにりんねちゃんは何も知らないの?」
「?何がですか?」
「えー?」
佐藤聖羅はにやけながら私を見る。
「いいこと教えてあげるよ。元々しみずちゃんの担当だった魔女はねー……」
「やめて!。」
今まで聞いたこともないくらいの声量でアリスさんが叫んだ。佐藤聖羅の口元に手を伸ばす。でも遅かった。佐藤聖羅は手が触れる寸前で立ち上がり、軽やかに回避した。
「首藤蘭子(すどうらんこ)。りんねちゃん、あなたのお母さんだったんだよ。」
「え……」
全身から一瞬で全ての血の気が引いていった。
有り得ないほどの速さで心臓が鼓動を刻んでいく。だらだらと嫌な汗が全身を伝っていく。視界がブレる。今私の体は震えてるんだろうか。それすらも上手く認識出来なかった。
「何してんのよ。」
アリスさんは佐藤聖羅に馬乗りになる。ガタン、と盛大な音を立てて二人は床に倒れ込んだ。
「今自分が何したか分かってんの。」
アリスさんは力いっぱい佐藤聖羅の髪を引っ張り上げる。
「きゃーっ!何すんのよ、千切れちゃうじゃない!」
佐藤聖羅は甲高い悲鳴を上げながらアリスさんの腕を掴んで必死に抵抗する。茶色い髪の毛が何本か千切れはらはらと床に散らばった。
「今回だけは絶対に許さない。」
アリスさんは涙を流しながら足で佐藤聖羅のお腹辺りを蹴る。
「りんねちゃんに今すぐ謝ってよ。」
何度も何度も弱々しい力で、爪先で佐藤聖羅のお腹を蹴り続ける。そんなアリスさんを見て、佐藤聖羅は口を歪ませて笑った。
「はっ、何自分が殺/すかもしれなかった奴なんかに情湧かせてんだよ。そんなにあの子が大事?そっかぁー、アリス人から優しくされ慣れてないもんね。ちょっと協力してくれたからってすぐ好きになっちゃうんだ」
佐藤聖羅は煽るようににやにや笑いながらアリスさんの顔を見上げる。アリスさんは歯ぎしりをしながら佐藤聖羅を見下ろす。
「私やっぱりあなた嫌い。……私がクラスを売ったあの時、あなたの爆弾のせいで無関係だった親友が巻き込まれて大怪我したのも、面白がって奈那ちゃんの気持ち弄んだのも、りんねちゃんを傷付けたのも、全部許さない。」
「えー、あんな昔のことまだ根に持ってたんだぁ。許さなかったらどうすんの?私を殺/すの?そしたらあんたも私と同類だよ」
佐藤聖羅はそう言って拳を握り締める。それを見たアリスさんは、一瞬体を硬直させる。
「……ハンデ負ってる女に攻撃なんてしないよ。一応私にも男としてのプライドあるし?」
「は?男?」
私は思わず素っ頓狂な声で呟いた。そんな私を見て、佐藤聖羅は目をキラキラと輝かせた。
「えー、りんねちゃんもしかして気付いてなかったの?きゃー嬉しー!やっぱり私どこからどーみても美少女だよね?」
嬉しそうに笑うその顔はどう見ても女性だったけど、そう言うその声は確かに男性そのものだった。
「てかさー。りんねちゃんほんとに知らなかったの?自分の親が魔女やってるって」
佐藤聖羅は上体を起こしてアリスさんをどける。そしてぼさぼさになった髪の毛を掻き上げながら、ゆっくりと机と机の間を縫うようにして私に歩み寄ってくる。
「それとも知らないフリしてただけ?」
ずいっと佐藤聖羅の顔が目の前に現れる。整った左右対称の白い顔が視界いっぱいに広がる。乱れた前髪が片目を隠している。
私は必死にぶんぶんと首を横に振った。
「ほんとに知らなかったし……」
思わず瞳に涙が滲んでくる。
「てかそれってマジなのかよ」
「うん。だって私が高校生の時、りんねちゃんのお母さんにクラスを売ったんだもん。」
間髪入れずに満面の笑みで佐藤聖羅はそう言った。
「それっていつ……」
「えー。それ言ったら年齢バレちゃうから言わなーい。まー大体五、六年前くらいかな?」
頭がクラクラしてくる。じゃあお父さんが出てった頃には既に魔女になっていたってことじゃん。もしかしてそれが原因でお父さんは出ていったの?いや、もしかしたらそれよりずっと前から?だってお母さんも誰かを魔女に売ってたってことになる。私が産まれる前から、お父さんと結婚する前からだったかもしれない。
「やだ……」
私は自分を守るように頭を抱えた。
「私もまさかこんな偶然が起きるなんて思わなかったな。あの時私を助けてくれた蘭子さんの娘が蘭子さんに売られちゃうなんて。」
佐藤聖羅は恍惚とした表情で宙を見る。
「蘭子さんは私の神様だから……」
そう呟くと、私に視線を戻してくすりと笑う。
「だから私は蘭子さんのお願いを聞いてしみずちゃんの魔女になったんだ。やっぱり蘭子さんって優しいよね、娘を自分の手で殺/すのを拒否したってことなんだから。娘思いのいいお母さんだよね」
佐藤聖羅の笑顔がどんどん近付いてくるような感覚になった。そのまま私の目の中に入り込んできて、脳味噌全体を支配していく。じわじわと広がっていくようなその感覚から逃れるように、私は思わず目を瞑った。
「でも良かった。しみずちゃんも奈那ちゃんもりんねちゃんを助ける気みたいだし、蘭子さんが悲しまなくて済むよ。……でも」
佐藤聖羅はぐるりと首を回転させて振り返る。ずっと俯いて黙っていたしみずを、冷めた目で見る。
「しみずちゃん。君は重大な規約違反を犯してたみたいだね。」
しみずはゆっくりと顔を上げる。
「……え?」
不思議そうな顔で佐藤聖羅を見る。
「何で?って顔してるね。分からないかな、君はクラスメイトに精神的苦痛を与えられたわけでもないのにクラスメイトを売ったよね?」
佐藤聖羅は私から目を離し、今度はしみずに近付いていく。
「この制度が作られた意味を知らなかったのかな?それにしても酷いよねぇ、何も悪くない人を売るのはただの人殺しだよ?」
しみずは有り余ったシャツの袖で口元を抑える。
「運がいいね。奈那ちゃんがもしこのクラスを売ってなかったら、しみずちゃんはもっと大変なことになってたよ。処分なんて生ぬるい、一生苦しみながら死ぬことになってたかもね」
しみずは怯えるようにがたがたと震え出した。そんなしみずを見下ろして、佐藤聖羅はははっと小さく笑った。
「まぁ、私に断りも入れずに勝手にクラスメイトを殺していったんだから、それなりの処罰は受ける覚悟だよね。」
「……」
しみずは固く口を噤む。
「でもよく誰にもバレずにやったよね。魔女の素質はあったんだろうから勿体ないなぁ。」
「ねぇ。」
視界の右端でゆらりとアリスさんが立ち上がった。
「ゆずはちゃんの妹……弓槻ゆずかちゃんを殺したのも、しみずちゃんなのかな。」
アリスさんはだらりと垂れ下がる白い髪の隙間から、しみずと佐藤聖羅を思いっ切り睨み上げた。しみずはそんなアリスさんから視線を逸らし、一瞬躊躇ってから大きく頷いた。
「……!」
私は教室中の空気を全て飲み込んでしまったんじゃないかってくらいの勢いで空気を飲み込んだ。
「何でだよ……」
私は瞬きをするのも忘れて目を見開いた。コンタクトが乾いてズレてくる。視界がぼんやりとする。
「弓槻さんに私のことが気付かれる前に、って思って」
「じゃあ私も殺せよ!あの時隣で聞いてただろ!」
「それは出来ないよ!だってりんねは……」
「何で弓槻だけ……っ」
ぶわっと一気に涙が溢れてくる。私は鼻水を垂れ流しながら髪を掻き毟った。
「全部お前の勝手な都合じゃん。何で私達を巻き込むんだよ。迷惑なんだよ。お前が勝手に一人で施設送りになってれば済んだ話じゃねーかよ」
声が震えた。止めどなく溢れる涙が頬を伝う。しみずの勝手な都合のせいで弓槻やクラスメイトが死んだのも、大切な友達だったしみずにこんなことを言ってしまった自分も嫌だった。
「私もあの時、倒れてさえなければ爆発に巻き込まれてたのに……」
私は涙を拭いながらそう呟いた。
「……りんねの紅茶に薬混ぜたの私だから。りんねが教室から居なくなるように」
しみずはぽつりと呟く。
「……りんねのことは、元々助けるつもりだったの。」
私はもう何も言い返す気が起きなかった。
「あれもそうだったんだな。しみずは『りんねん家は大変だもんね』って言ってたけど、私は家の話なんて一言も話したことなかったもんな。なんで知ってんだろ、って思ってたけど、しみずは全部知ってたんだな……」
私は椅子の上で体育座りをした。膝を抱えてそこに顔を埋める。全てを知っていて私の隣で笑っていたしみずは一体どんな気持ちだったんだろうか。
「お母さんがずっと帰ってきてなかったのもそういうことだったんだな」
頭をガシガシと掻き毟る。度重なるブリーチで傷んだ髪の毛がキシキシと嫌な音を立てる。
「……何でりんねちゃんばっかり……。」
顔を上げると、アリスさんも両手で顔を覆って泣いていた。何同情していい人ぶってんの、お前だってクラスメイトを殺してたくせに。私はしくしくと泣くアリスさんを睨み付けた。
「さ。もう終わらせちゃおう。そっちの方がみんな楽だ」
佐藤聖羅はそう言うと、アリスさんの腕を引っ張って教室の隅へ移動した。教室の真ん中で歪な三角形を描いて私としみずと橘さんが座っている。
「奈那ちゃん、しみずちゃん。お互いをどうするかはもう決まってるよね?」
佐藤聖羅が尋ねると、二人はじっと見詰め合った。先に口を開いたのは橘さんだった。
「……悪いけど、私は星野さんを助ける気はないから」
橘さんが静かな低い声でそう言った。
「てか星野さんはこの先生きてても辛いだけでしょ。だったら死ぬ方がマシだと思うし。でも別にあなたを思ってそうするとかじゃないから。」
そう言う橘さんを見て、しみずは複雑そうな表情で口角を無理矢理引き上げる。
「私は、……私なんかが選んでいいのかな。でも橘さんが私を殺/す選択をするなら、私も橘さんに同じ選択をするよ。」
しみずはそう言うと、一度大きく深呼吸をした。橘さんは黙って次の言葉を待つ。
「だってもし私が死ぬことになったら、幼馴染みに会えないってことでしょ。」
「……ただの八つ当たりで奈那ちゃんを殺/すんだね。」
佐藤聖羅がそう口を挟むと、しみずは苦しげに顔を歪ませて笑った。
「私のせいでたくさんのクラスメイトが犠牲になった。今更一人増えたところで私が罰を受けるのは変わらないもん」
「……どこまでも勝手な人だね。あんたを助ける気なんてこれっぽっちもなくなったわ」
橘さんはそう言うと、佐藤聖羅とアリスさんを見て立ち上がった。
「さ。早くして。それから首藤さんは教室から出てって。」
「な、何、で」
「……親友だった子が殺されるところなんて見たくないでしょ」
橘さんのその一言で、胸の奥に眠っていた感情が一気に目を覚ました。
「待って待って待って二人とも、もっかいよく考えてよ?
しみず、橘さんは何も悪いことしてないよね?みんなが無意味に死んだからって橘さんまで無意味に死んでいいなんてことないじゃん。橘さんを殺さなければしみずの罪は軽くなるかもしれないし……!それに橘さんが死ななくたって幼馴染みに会えるでしょ!
橘さん、前も言ったけどしみずは橘さんの噂なんて一回も口にしたことなかったよ?さっきだって噂話の存在すら知らなかったみたいじゃん!私のこと許してくれたんだからしみずのことも許してあげようよ?
ねぇ二人とも、その場の感情で全部決めちゃわないでもっとちゃんと考えなよ!」
私の声が微かに木霊する。そして訪れる静寂。しみずと橘さんは無言で見詰め合う。
「考え直してよ?」
必死にそう言うけど、二人は私に目もくれない。
「……お願いだからさ、私を一人にしないでよ」
小さな掠れた声でそう言った。
「自分のせいで、ってちょっとは反省してるなら、一人で取り残される私の気持ちも考えてよ」
また涙が溢れてくる。
「お願い、もし二人とも死ぬなら私も殺して」
私は縋るように机に額を擦り付けた。
「……どうするの、二人とも」
佐藤聖羅が二人に問う。しみずと橘さんは、一瞬私を見てから、またお互い見詰め合った。そして私から視線を外したまま、
『ごめん』
二人同時にそう言った。私の頭の中はバキバキに割れた。
「……ファイナルアンサー?」
佐藤聖羅がそう言うと、二人は同時に頷いた。
「……やだやだやだ、やめてよ、やだ!」
私は子供みたいに喚き散らしながら立ち上がった。そして二人に掴み掛かろうとすると、体がぐわんと後ろに引っ張られた。
「アリス!りんねちゃんを外に出して!」
私の服の襟を引っ張りながら佐藤聖羅がそう叫ぶ。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、アリスさんは無言で頷いた。
「やだ!しみず!橘さん!」
私はアリスさんに引きずられながら泣き叫んだ。廊下に連れ出されると、しみずと橘さんの姿は見えなくなった。アリスさんがドアを閉めると、何やらぼそぼそと喋る佐藤聖羅の声が微かに聞こえてくるだけだった。
「アリスさんお願いします、佐藤聖羅を止めてください」
私は何度もしゃくり上げながら必死に懇願した。上を見上げると、真っ赤な目でドアを見詰めるアリスさんが無言で首を横に振っていた。
「……私に恨みがあるわけじゃないのに何で」
何を言ってももう無駄だと頭のどこかでは理解していた。でもそれを認めることは出来なかった。
「死ぬより辛いことがあるの、分かってんでしょ」
こんなこと言ったってアリスさんを追い詰めるだけなのに。でも私は私を殺そうとしないアリスさんに酷く腹が立っていた。
「あんたも元々私を殺/す気だったくせに」
アリスさんの涙が、顎を伝って私の顔の横を落ちていく。
「……ごめんね、ごめんね、りんねちゃん。」
囁くようなウィスパーボイスで、アリスさんは声を零した。
「……行こう。下で施設の人が待ってる。」
アリスさんはそう言うと、私の腕を引っ張って立たせようとした。私はまだ抵抗したくて、わざと力を抜いて立つのを拒んだ。
「りんねちゃん。」
アリスさんはそれでも私を立たせようとした。
「……。」
アリスさんは私の両腕を引っ張って床を引きずった。私はムカついて反対方向に動こうとする。まだ怪我が完治してないみたいだから私の方が有利に決まってる。
「……あれ」
と思ってたけど、体はどんどんアリスさんに引っ張られていく。
「今まで何人の死体を動かしてきたと思ってるの。」
アリスさんは前を向いたままそう呟く。
「りんねちゃんみたいなガリガリの女の子なんて、簡単に抱えられちゃうよ。」
そう言うと、アリスさんは屈んで私の腰に手を回してきた。そして軽々と私を抱き上げる。アリスさんはまだ泣いていた。
「……」
私はもう指先すら動かす気になれなかった。エレベーターに乗り込み、下駄箱を過ぎ、校門を出る。校門の前の車道に黒い車が二台停まっていた。
「……」
私は滝のように流れ続ける涙を飲み込みながら瞼をゆっくりと閉じた。
「……またね」
そう呟くと私は車に載せられ、どこかへ連れていかれた。
電気も付けない真夜中のリビングに、妹とお母さんが向かい合って座っていた。
「……ほんとにいいんだね?ことね。りんねがこの都市伝説のせいで施設に入れられたって分かっててあんたもやるんだね。」
お母さんが、静かな声でそう言った。
「……うん。もう耐えれないの。」
妹は涙を流しながらそう言った。床にはボロボロに引き裂かれた中学のセーラー服が転がっている。妹の手には古びたカッターナイフが握られていた。
「……分かった。でもあんたの担当は他の人に頼むから。それは大丈夫だね?」
「……うん。」
ピンポーン。無機質なインターホンの音が鳴る。
お母さんが一階に降りてドアを開けると、そこには真っ暗闇に浮かぶクラゲのような白い髪の女性が立っていた。
「……お久しぶりです。」
「ごめんね、こんな遅くに」
「いえ。……りんねちゃんの妹さんのためですから。」
その柔らかは話し声は、少しハスキーなウィスパーボイスだった。
リビングへ上がると、妹とアリスさんは目を合わせて軽く会釈し合う。
「……ことねちゃん、だよね。」
アリスさんは泣きそうな顔で笑った。
「……母親から話は聞いています。姉が色々お世話になりました。」
「礼儀正しいんだね。……私があなたの魔女になる関口アリスです。これからよろしくね。」
アリスさんは、妹の小さな手を握って、ぐっと涙を堪えた。
「りんねちゃんが施設から出た時、妹さんも魔女になったって知ったらどう思うのかな。」
小さな声でそう呟き、きっとまた繰り返される悲劇に、アリスさんはそっと身震いした。
「はぁ。やっとかぁ、あの子が退院するの。」
「長かったわね。本当に手の掛かる子だったわ」
「あの子が居なくなるってだけで大分楽になりますよね」
「でもきっとすぐに精神科かどっかに入れられるわよ、あの様子じゃ。」
「ですよねー……」
施設の廊下の隅で、先輩と後輩の二人の女性職員がこそこそと話をしている。
「にしても、この制度が出来てからもうすぐ二十年ですか。こんなとち狂った制度があるなんて、子供の頃は思ってもみなかったですよ。危険な思考を持つ人間を減らすためとは言え、合法的に大量の子供が亡くなるなんて」
「本性を見抜くためにも情報が子供にバレたらいけないからね。
他人を意図的に傷付けたりするような危険な人間は早いうちに処分する、か。子供はこんな制度があるなんて知ったら全員いい子ぶるだろうし、今の時代すぐに拡散したがるからね。」
「にしてもどの子もクラスメイトをまるまる売りに来ますよね。やっぱり見て見ぬふりする子も同罪ですよね〜……」
「学校の全校生徒をまるまる処分してくれって頼んでくる子も少なくないのよ。辞めてほしいわよね、全員殺してたら埒が明かないじゃない。」
「へぇー……。てかネットでも一時期話題になってましたよね、『三十人分の魂を売れば魔法の力が手に入る』って都市伝説。」
「あー。あったわね、そんなのも」
「てゆーか、子供にはこの制度を隠してるのに、売りに来る子はどうやって見付けてるんですかね?」
「子供用の自殺対策の相談センターよ。あれに電話すると、魔女に繋がるって仕組みになってるの。」
「へぇー!そうなんですか……。」
その時、先輩の電話が鳴る。
「……もしもし。え。はい、……はい、分かりました。」
「どうかしたんですか?」
「今日退院するはずだったあの子、外に出た途端車道に飛び出して死んだって。手伝いに行くわよ」
「えー!せっかく退院出来たのに勿体ない……。四年近くここに居たんですよね?」
「この中は色々制限されてて自殺/すら許されないからね。まぁ、私もこんな場所で何年も監禁されてたら頭狂っちゃうと思うけど」
「でもあの子入ってきた時からちょっとおかしくなかったですか?」
二人の女性職員は笑い合いながら建物の外へ出た。
あれ。どこだろう、ここ。何だかとても懐かしい匂いがする。
たくさんの喋り声や笑い声が聞こえてくる。目の前には見慣れた制服。あ。ここ、学校の教室だ。
「りんね!」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには笑顔のクラスのみんなが居た。沙里と珠夏も、むすびも、岡田さんと倉野さんも、綾瀬さんも、真中ちゃんも、橘さんも、しみずも、弓槻も居た。みんながそこに居た。
「……みんな!」
思わず涙が溢れてきた。もう一人ぼっちじゃないんだ。やっとみんなに会うことが出来た。私は満面の笑みで、みんなに駆け寄っていく。
「ただいま!」
-END-
続き
【https://ha10.net/test/write.cgi/novel/1616416336/l2】
誤字などが目立つため修正したものをこちらに載せました。
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
とある魔女の話を書こうと思います。番外編みたいなかんじです。
…………。
ゆっくりと、じわじわと、砂糖が水に溶け込んでいくかのように意識を取り戻した。あ、目が覚めたんだ。そう分かった瞬間、私はこの世の終わりのような絶望感に襲われた。
毎朝こうだ。私は朝目が覚めるたびに絶望する。
毎日こう思う。眠ったまま、もう目が覚めなければいいのに。夜が明けないで、朝なんて一生来なければいいのに。
憂鬱な気持ちのまま、視界だけでも明るくしようとカーテンを開ける。が、外は薄汚いねずみ色に染まっていた。ザァァァ、と、微かに雨粒の音が聞こえてくる。
「……くそが。」
私は頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
リビングに出てくると、床に何かが転がっていた。
……邪魔だなぁ。なんて、口には出せないけど、頭の中でそう言ってやった。もしこれを口に出してしまったら、って考えたら恐ろしくて堪らない。
常夜灯だけが微かにリビングを照らしている。電気、勝手につけたら怒られるかな。シャッター開けたら、うるさいって怒鳴られるかな。
「……。」
考えた結果、私はこのまま朝の身支度をすることにした。
なるべく音を立てないように冷蔵庫を開け、長めに設定した電子レンジは、暖め終わる前に扉を開ける。洗い物と洗濯物は帰ってきたらまとめてやっちゃおうかな。ああ、そうだ、シャツにアイロン掛けないと。それも帰ってきてからでいいかな。
「……ふぅ。」
洗面所に入り、ドアを閉め、洗面台に手をつきながら、私はゆっくりと溜め息を吐いた。
「息止まりそ。」
小さな声でそう呟いた。
「あの人が起きる前に家出なきゃ。」
バシャバシャ、と水を顔に叩き付けるように浴びる。本当に息が止まってしまいそうになったところで、それをやめた。
「……行こ。」
鏡の中に映った自分を見詰めながら、私はゆっくりと頷いた。
「……亜莉紗ぁ」
リビングに出た途端、お腹の底に響くような低い声でそう呼ばれた。途端にびくり、と体が正直に反応する。
「もう学校行くのかぁ?」
気だるげなその声は、欠伸混じりにそう続ける。私はカタカタと震える手をもう片方の手で抑えながら、薄ら笑いを浮かべた。
「……うん。もうそろそろ行かなきゃ。」
「そうかぁ」
私に背を向けているので、目を開けているのか、閉じているのか、どんな表情をしているのか、全く分からなかった。でもそれが救いだった。顔を合わせなくて済むから。
「じゃあ、行ってきます。」
私はそう言うと、すぐさま玄関へ走った。
そしてローファーに踵を突っ込むと、鍵をふんだくって鍵穴に差し込んだ。意味もなくガチャガチャと左右に動かし、ドアを押し上げ、力いっぱい閉めた。鍵を閉めて、それを確認すると、逃げるように家の角を曲がった。
「まぁ、ほんとに逃げてるんだけど。」
そう呟きながら、私は自嘲気味な笑みを零した。
「……今日も、頑張らなきゃ。」
自分にそう言い聞かせて、私は走った。
深夜にもかかわらず一気読みしちゃうくらい面白いです…!!乱入失礼しました!
137:ちゅ:2021/08/23(月) 15:50>>136ありがうございます!
138:ちゅ:2021/08/23(月) 15:55
私の名前は、関口亜莉紗(せきぐちありさ)。公立の高校に通う高校三年生だ。
「ああ、今日はアイロン出来なかったな。」
そう呟きながら、寝癖でうねった髪をいじくる。顎下までのホワイトブリーチをかけた真っ白のボブが、風に吹かれてゆらりと揺れた。
「……はぁ。」
短い溜め息を吐きながら、重たい足取りで歩を進める。横断歩道の前で立ち止まって、ぼーっと赤く光る信号を見詰める。
「最悪だな。」
自分の手を見ると、カタカタと震えていた。ただ普通の会話をしただけなのに。顔すら合わせてないのに。今朝は何もされなかったのに。体は正直だ。
「……早く家、出たいな。」
そう呟くと同時に、信号が青に変わった。でも、私の足は当たり前のようにそこから動こうとしない。
立ち止まったままでいると、疲れた顔をしたサラリーマンやスマホを見ている大学生らしき女の人が、私を追い越して早足で横断歩道を渡っていく。私は自分の足元を見て、ただそこに立ち尽くした。
「あ。」
はっとして顔を上げたら、信号は点滅し出し、赤に変わってしまった。
「あ……。」
何やってるんだろう。
「……。」
目の前を横切っていく車達を眺めて、私は泣き出しそうになった。
学校に着くと、階段の前に数人の女生徒が固まっていた。
「あ。」
その中に見覚えのある顔を見付けて、私は思わず声を上げた。
「あ、亜莉紗!」
すると相手も私に気付いたらしく、手を振って駆け寄ってきた。
「おはよ、亜莉紗!」
「おはよう。」
彼女はクラスメイトの川嶋(かわしま)レミ。レミは所謂「ギャル」って言うやつだ。ベージュのロングヘアをぐりんぐりんに巻いて、つけまつ毛に派手な柄のカラコンのメイク。指先には狂気になりそうなほど長くて鋭いゴテゴテのネイル。足元にはルーズソックス。
「ねー、亜莉紗は知ってた?」
「何が。」
「卯乃羽、好きな人に告白するんだってよ!」
レミはそう言いながら、口元に手を当ててにやにやする。長い爪がカチャカチャと音を立てた。
「卯乃羽、好きな人居たんだ。」
「らしいよー?聞いたら高一の時からずっと好きだったんだって!」
「高一の、時から……。」
「亜莉紗は誰だと思う?やっぱ五組の石田とかかな?あの二人よく一緒に居るじゃん。」
「えー、私は二年の原だと思う!卯乃羽って面倒見いいし懐かれてたじゃん!」
「私も石田だと思うなー。あれはどう見ても相思相愛でしょ!wてか石田は確実に亜莉紗に気ぃあるよねー?」
「それなー!」
きゃはははと甲高い声を上げて笑う三人。私はとぼとぼとその横をすり抜けて行った。
「亜莉紗ー、親友に彼氏が出来るからって落ち込むなよー!」
そんな私の後ろ姿に、レミがそう叫んだ。
階段を上って、一時間目の授業がある教室に向かう。私の通っている高校は単位制なので、クラスは同じでも受ける授業はみんなバラバラだ。
「あ。」
教室に入ると、一番後ろの席に座っている女生徒と目が合った。
「亜莉紗!おはよ!」
その女生徒生え顔で私に手を振ってきた。
「卯乃羽。」
彼女が卯乃羽ーー関根卯乃羽(せきねうのは)。クラスメイトであり、私の一番の親友だ。
私は机と机の間を縫うように歩いて、卯乃羽の前の席の自分の机に学生鞄を置く。椅子に座って、体を卯乃羽の方に向ける。
「卯乃羽。さっきレミ達から聞いたんだけどさ。」
私は足をぶらぶらと前後に動かしながらそう切り出した。
「好きな人に告白するってほんとなの。」
「えっ」
ちらりと卯乃羽を見ると、卯乃羽は元々丸目がちな目を更に真ん丸にしていた。
あ、やば。やっぱり訊かない方が良かったかも。でもちょっと気になってしまったんだ。卯乃羽の好きな人は誰なんだろう、って。だって、卯乃羽は好きな人が居るなんて話、私には一度もしてくれなかったんだもの。
「……レミ、亜莉紗にだけは絶対言うなってあんなに言ったのに……」
「ん。何か言った。」
「ううん、何でもない」
卯乃羽は長い睫毛を伏せて、机の上で組まれた自分の手を見下ろした。
「……ほんとだよ。今日、ずっと好きだった人に告白するつもり。」
そう言う卯乃羽の口元は綻んでいた。それを見た途端、私の心臓はキュッと痛くなる。
「そうなんだ。」
心臓がドッドッと低く静かに鼓動を刻む。それを悟られないようにと、足の動きが自然と早くなる。
「応援してる。卯乃羽の告白なら断る人誰も居ないと思うし。」
「……そうかな。正直めちゃくちゃ自信ないんだよね。多分相手は私のこと何とも思ってないだろうし……」
そう言って卯乃羽は少し悲しそうな表情になる。
「そんな人居ないって。卯乃羽ほどいい子居ないもん。」
「ほんとー?」
「うん。私、ほんとに卯乃羽には感謝してるから。」
「急に何それ〜?」
そう言いながら卯乃羽はニヤニヤする。私は急に恥ずかしくなって、そんな卯乃羽から視線を逸らした。
自分の揺れる足を眺めながら、高校の入学式の光景を思い出す。
「ねぇ、名前何て言うの?」
高校の入学式が終わり、帰ろうと思って立ち上がろうとした時だった。いきなり後ろからトントンと肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、そう言いながらにっこりと笑う卯乃羽が立っていた。
「関口亜莉紗です。」
元々人見知りで口下手だった私は、吃りそうになりながら小さな声でそう答えた。
「わ!苗字似てるね!私関根卯乃羽って言うの!」
卯乃羽は目を輝かせてそう言った。
「多分席も前後だし、良ければ仲良くしよう!」
満面の笑みでそう言うと、卯乃羽は私の手を握ってぶんぶんと上下に振った。
「うん。よろしくね。」
そんなやり取りをしたのを覚えている。
明るくて積極的な卯乃羽とは、その後すぐに打ち解けられた。卯乃羽のおかげで、他のクラスメイトとも関わりを持てて、友達と呼べる人も何人が出来た。
二年生に上がると、卯乃羽と私はクラスが別々になってしまったけど、三年生に上がってからはまた同じクラスになれた。クラスが離れても、三年生になっても、卯乃羽は私のことを一番の友達だと言ってくれる。きっと卯乃羽が居なかったら、私は高校で孤立していたかもしれない。もしかしたら、友達が一人も出来ていなかったかもしれない。
「でも、私も亜莉紗には感謝してるなぁ。何だかんだ一番仲良くしてくれてるの亜莉紗だし。」
卯乃羽はそう言いながらニヤニヤする。
「取り敢えず、今日の告白は頑張ろーっと!亜莉紗がそう言ってくれるなら間違いないよね!」
「うん。でも卯乃羽に彼氏が出来たら、私とはあんまり遊べなくなりそうだからちょっと寂しいかも。」
冗談交じりにそう言うと、卯乃羽は少し悲しそうな顔で「そうだね」と言った。卯乃羽も、私と遊べる時間が少なくなるのが寂しいと思ってくれてるのかな。ちょっとだけ嬉しかった。
「あ、もう授業始まるね。」
教室に教師が入ってくる。気が付いたら、他の生徒達も教室に集まっていた。
「それじゃあ授業を始めます。気を付け、礼」
『よろしくお願いしまぁす』
出席を取り、一時間目の授業が始まった。
午前の授業が終わり、私と卯乃羽は教室に残りそのままお弁当を食べることにした。
「……。」
学校に来る途中で買ったサラダを頬張りながら、私はちらりと卯乃羽を見た。
「いただきまーす」
律儀に両手を合わせてそう言うと、卯乃羽は手作りのお弁当の蓋を開けた。
告白、いつするんだろう。てっきり今日は一緒にお昼食べられないかと思ってた。
「どうかした?亜莉紗」
じーっと卯乃羽を眺めていると、いつの間にか卯乃羽が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめん。何でもない。」
我に返って、慌てて誤魔化したけど、卯乃羽はお箸をくわえながら不思議そうな顔で私を見詰めてきた。
「そう言えばさ。」
私はそんな卯乃羽の視線から逃れるように話題を逸らした。
「卯乃羽の今日のアイシャドウの色、可愛い。」
「えー?変えたの気付いてくれた!?さっすが亜莉紗!」
卯乃羽は興奮してそう叫ぶ。
「これ良かったから今度亜莉紗にもあげるね。もうすぐ誕生日でしょ?」
「……あ。」
言われて思い出した。そうだ、私、もうすぐ誕生日だ。毎日がそれどころじゃなくて忘れてた。
「亜莉紗にも似合うと思うよ!」
卯乃羽はそう言ってにっこりと笑った。
「あ。」
何故かその顔を見ていたら、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「……あー、目痒っ。」
私はそれを悟られないように、わざとらしく目を擦った。
「亜莉紗も、また落ち着いてきたらメイクしなよ。可愛いんだから」
亜莉紗のその言葉に、また涙が溢れてきた。私は何度も頷きながら、ずっと目を手で隠した。
やっぱり、卯乃羽が、卯乃羽の好きな他の誰かに取られちゃうのが、物凄く寂しくなった。
午後の授業が終わり、私は鞄に筆箱を押し込んで立ち上がった。手にノートと教科書を抱えて、教室を出る。
……卯乃羽、もう好きな人に告白したのかな。午後の授業は卯乃羽とは一緒ではないから、もう告白したのか、まだしてないのか分からない。
LINEで訊いてみようかと思ったけど、そんな勇気はなかった。もし今「成功した」と言われても、素直に喜べない気がしたから。
「はぁ。」
一人で廊下を歩きながら、小さな溜め息を吐いた。
今日は一人で帰ろう。またあの家に帰るのは憂鬱だけど、卯乃羽は新しい彼氏と一緒に帰るかもしれないし。邪魔しちゃ悪いもの。
ロッカーに教科書とノートを投げ入れて鍵を掛け、玄関に向かって歩いている時だった。
階段の前で、背後からパタパタと誰かが走ってくる音が聞こえてきた。
「亜莉紗!」
「っ。」
その声に、私はすぐに振り返った。
「卯乃羽。」
私を追い掛けてきたのは、卯乃羽だった。肩で息をして、何やら疲れ切った顔をしている。
「亜莉紗……」
そう言って卯乃羽は顔を上げた。その目を見て、私は思わず驚いてしまった。卯乃羽の真ん丸の瞳は、涙が浮かんでいるのかうっすらと潤んでいたのだ。
「卯乃羽、泣いてるの。」
もしかして。……卯乃羽、告白に失敗したんじゃないの。
「いや、ごめん、泣いてはないんだけどさ……」
そう言って、卯乃羽は何度も深呼吸をした。顔は真っ赤だし、どこか落ち着きがないし、普通じゃない。
「あ。もしかして、今から告白するの。」
「……当たり〜」
卯乃羽はそう言いながら恥ずかしそうに笑った。
「それでさ、亜莉紗に着いてきてほしいんだけど、いいかな。」
卯乃羽は少し恥ずかしそうにそう言った。私はドッドッと高鳴る心臓を手で抑えて、口角を必死に吊り上げた。
「いいよ、着いてく。」
ほんとは、卯乃羽が誰かと付き合う瞬間はあんまり見たくなかったけど。私はゆっくりと頷いた。
「ありがと」
また恥ずかしそうに笑って、卯乃羽はくるりと体をUターンさせた。
「体育館棟でするんだ。」
そう言ってスタスタと歩いていく。私は無言で卯乃羽の後を追い掛けていった。
体育館棟に着くと、卯乃羽は女子トイレの中に入っていく。
え、え、え。まさかトイレの中で告白するつもりなの。流石にそれはやばいでしょーー
「亜莉紗。」
ドキッと心臓が高鳴る。卯乃羽が、洗面台を指でなぞりながら私の方を見ていた。
「……え。」
ドキ、ドキ、と、頭の中まで響いてくる自分の心臓の音は鳴り止まない。状況が上手く把握出来なかった。
「亜莉紗。単刀直入に言うけど……」
顔を真っ赤にした卯乃羽が、私の顔をじっと見ていた。私は何故か卯乃羽と目を合わせることが出来なくて、視線を泳がせた。
「亜莉紗。私……」
きゃははは、と、更衣室から飛び出していく運動部の女子生徒達の声が遠くの方から聞こえてくる。
「亜莉紗のことが、ずっと好きだったの。」
卯乃羽の口から飛び出してきたその言葉に、私は自分の耳を疑った。
何かの間違いじゃないかと思った。だって有り得ない、卯乃羽の好きな人が「私」だなんて。卯乃羽が私のことを「恋愛として好き」だなんて。レミは、「一年の時からずっと好きだったらしい」って言ってた。ってことは、卯乃羽はずっと私のことが好きでーーってことになる。
「ほんとはずっと隠していくつもりだった。もし告白して亜莉紗が離れてっちゃったらって考えたら怖かったから。でもやっぱり我慢出来なくて……。私の気持ちを隠したまま一緒に居ても、亜莉紗に嘘吐いてるみたいで嫌だったから、告白した。」
卯乃羽は息も吸わずに一気にそう言った。私は半開きになった唇が微かに震えるのを感じながら、同じように震える両手の指を絡ませた。そんな私を見て、卯乃羽は言葉を続ける。
「困らせちゃうのは分かってる!いきなりこんなこと言われたって気持ち悪いってのも……!でも亜莉紗のこと本当に信頼して言ったから!返事がどうであれ、私は受け入れるつもり!」
卯乃羽はそう言うけど、私は頭の中が混乱してしまって返事すらすることが出来なかった。卯乃羽が私を好きでも、私が卯乃羽のことをどう思っていけるのか、分からなかった。
「……ごめん」
卯乃羽はそう言うと、口を抑えて私の横を走って通り過ぎた。私は棒立ちしたまま呆然とそれを見送るだけしか出来なかった。
「……あ!」
トイレの出口で、小さく卯乃羽が叫んだ。
「えー、卯乃羽マジ?」
そして別の声が聞こえてくる。私は思わずバッと勢いよく振り返った。
「え、何、いつから居たの?」
卯乃羽の今にも消え入りそうな声。
「いつから、って……。トイレ入ろうとしたらあんた達が話してたから待ってただけだけど」
「うそ……」
絶望したような卯乃羽の声に呼び覚まされて、私の体は動き出した。五、六歩大股で走って、出口から顔を出す。
「っ。」
そこには、卯乃羽を取り囲むクラスメイト達が居た。みんな運動部に所属するメンバーだった。
「亜莉紗……」
その中の一人が、息を切らして現れた私を見る。ベリーショートの染めてない黒髪に整った中性的な顔立ちの、夢架(ゆめか)。
「盗み聞きした私達も悪いよね。行こ」
そう言って夢架達を引っ張ってトイレの中に入っていくのは、茶髪のロングヘアの綾奈(あやな)。
「待ってよ〜……」
綾奈に続いてトイレに消えていく夢架を追い掛けて走っていくのは、運動部なのを疑いたくなるような、ブルーブラックのボブがよく映える白い肌のモモ。
「……。」
取り残された卯乃羽は、俯きながらその場に立ち尽くした。垂れた綺麗なブロンドの髪の隙間から、絶望に染まった卯乃羽の顔が見えた。
「……帰ろう」
私は卯乃羽の肩を掴もうと思って手を挙げた。けど、卯乃羽は私のことを友達だと思っていないから、安易に触れない方がいいと思って、その手を腰の後ろに隠した。
「……卯乃羽」
私が歩き出しても、卯乃羽はその場から動こうとしない。まるで石の地蔵のように、そこに固定されてしまってるみたいだ。
「……。」
まだ頭の中の整理が出来ない。さっきまでの出来事は、全部夢だったんじゃないかとさえ思う。でも、これは現実だ。卯乃羽が私に告白して、それをクラスメイトに見られてしまった。
「……。」
明日から、どうなるんだろう。
その不安だけが、私の頭の中を埋め尽くした。
「はぁ……。」
溜め息を吐きながら、玄関のドアを開ける。家の中に入ってドアの鍵を閉めて、ローファーを脱ぐ。
結局、卯乃羽に「ごめん、先帰って」と言われて、私は言われるままに先に帰ってきてしまった。
「どうしてこうなっちゃったんだろ。」
ぽつりと呟いてみたけど、その答えは誰も返してくれなかった。
「……学校だけが、私の居場所だったのに。」
ずるずると鉛のように重くなった足を引きずりながら階段を上る。
別に卯乃羽が悪いって言いたいわけではないけど、明日からは、今までみたいに楽しい学校生活は送れないかもしれない。何となくそんな気がして、卯乃羽に八つ当たりしたい気分だった。
今まで学校を私の居場所にしてくれてたのは、紛れもない卯乃羽なのに。
「亜莉紗かぁ?」
二階のリビングに上がると、朝と同じ場所に大きな人影が見えた。
「……ただいま。」
「今日は早かったなぁ……」
大きな欠伸をしながら、その人影がもっさりと動き出す。それを見て、私は体をびくりと跳ねらせ、洗面所へ駆け込んだ。手を洗うふりをしながら、蛇口のレバーを最大まで上げる。
「……腹減ったな」
水の音に混じって、冷蔵庫を開ける音が聞こえてくる。ガサガサと乱雑に冷蔵庫を漁る姿を、鏡越しに睨み付ける。
「……。」
私は洗面所を飛び出し、一階に駆け下りた。
バタンと大きな音を立ててドアを閉め、電気をつけて、私は部屋の真ん中に飛び出した。
「はぁ。」
膝から崩れ落ちるような感覚になり、すとんと床に座り込む。ピンク色のカーペットの毛を握って、無意識にそれを引きちぎった。まるで指で弾かれた人形のように、こてんと床に寝転ぶ。
「……お母さん、何で私を置いて行っちゃったの。」
ぽつりと呟く。脳裏に焼き付いた幼い頃の記憶。どんどん小さくなっていく母親の後ろ姿。
「……あれ。」
ガサガサという音と硬い感触が不愉快で目が覚めた。体を起こそうとすると、全身が痛くてなかなか起き上がれない。
やっとの思いで体を起こすと、私はいつの間にか制服のまま床で寝てしまっていたみたいだった。シャツがごわごわして気分が悪い。
「あのまま寝ちゃってたんだ。」
近くに転がっていた学生鞄からスマホを取り出し、画面をつけると、今はどうやら午前三時を過ぎた頃らしい。
「結構寝てたな。」
帰ってきたのが五時半だから、十時間近く寝ていたことになる。
「……はぁ。」
昨日の出来事を思い出して、憂鬱な気持ちになった。今日は学校休もうかな。ううん、休んだから何て言われるか分からないし……。それに欠時が一個増えただけでも進路に関わるかもしれない。
「……シャワー浴びよ。」
考えれば考えるだけ気分が落ちるだけだ。私は立ち上がって、部屋から出た。
シャワーを浴びている最中も、頭の中には昨日の光景がビデオのように繰り返し流れていた。
「ああもう……。」
切れ掛けのカラーシャンプーのポンプを何度も押す。手のひらに紫色の飛沫が飛び散る。
「はぁ。」
私はそれを髪の毛に刷り込んで、大きな大きな溜め息を吐いた。
朝になり、私はいつもより一時間近く早い時間に家を出た。重たい足取りで校門をくぐる。ちょっと早く来過ぎた気もするけど、遅刻するよりはマシだ。
ロッカーに教科書とノートを取りに行き、階段を上って教室を目指す。一時間は世界史だ。幸い卯乃羽や他のクラスメイトとは誰とも被っていない。
「ふぅ……。」
教室に入ると、先に来ていた二人の女子生徒がちらちらと私を見てきた。この時間に居るってことは、朝練がある運動部の子達だろうか。
「……?。」
気のせいかと思ったけど、私を見てからくすくす笑って、「あの人だよね?」と言っているのが聞こえたから、きっと気のせいじゃない。
嫌な予感がした。
私は鞄を机に置いて、教室を飛び出した。
「告白したとこ見られて逆ギレした先輩ってあの人だよね」
教室を出て壁の影に隠れていると、教室の中からそんな声が聞こえてきた。
「……!。」
背筋がゾクッとした。冷たい嫌な汗が背筋を伝って落ちていく。
「夢架先輩達、朝練の時もまだ怒ってたよね。」
「あの人に嫌われたら終わりじゃない?」
くすくす笑いながら、教室の二人はそう言う。
「……こうなるのかよ。」
私はどくどくと鳴り続ける胸に手を当てて、掠れた声でそう呟いた。
二時間目の授業が終わった途端、私は教室を飛び出してホームルーム教室へ向かった。クラスメイトが集まるのはショートホームルームの五分間しかない。私は卯乃羽が教室に入ってくるのをただただ待った。
何で「私が卯乃羽に告白した」ってことになってるの。夢架達は「卯乃羽が私に告白した」って分かってるはず。きっと卯乃羽に逆ギレされた夢架達が後輩達に愚痴ったことで広まってるんだろうけど、どこで話が拗れちゃったんだろう。そして他に誰がこの話を聞いたんだろう。
心拍数がバクバクと跳ね上がる。足が自然と貧乏揺すりを始めた。
「でさー、その時モモが……あ」
楽しそうに笑いながら教室に入ってきたのは、夢架だった。私と目が合った途端、その表情から笑顔が消えていった。
「なになに、どうしたの?」
続いて入ってきたのは、綾奈。いきなり固まってしまった夢架を見て不思議そうな顔をした後、私を見て同じく黙り込んでしまった。
「……行こ」
夢架が私から目を逸らして自分の席に歩いていく。綾奈も無言でそれに続く。
「待って。」と言いたかったけど、言えなかった。立ち上がろうと思ったけど、体が動かなかった。
心のどこかで、きっと私はこう思っていた。
「私が卯乃羽の代わりになれば、卯乃羽が影で笑われることもない」って。このまま間違った噂が一人歩きしてくれれば、卯乃羽がこれ以上傷付くこともないかもしれないじゃない。
心臓がどくどくと脈打つ。頭の中の血液が脈打つような感覚になる。
冷たい汗が、顎先からぽたぽたと机に滴った。
その日、卯乃羽は学校に来なかった。ホームルームにも、授業が被っている午後の数学にも、姿を現さなかった。
きっと昨日の今日で来るにも来れなかったのかもしれない。
早く知らせてあげなくちゃ、もう卯乃羽は学校に来ても大丈夫だ、って。
別に私は平気。だってあと一年もしないうちに卒業出来るんだもの。
きっと耐えられる。私なら、大丈夫。
だって、私には卯乃羽が居るんだから。
「……え。」
家の前に数台のパトカーが停まっており、私はその場に立ち尽くした。
「あ。娘さんですかね」
玄関付近に立っていた警察官が私に気付き、こちらに歩いてくる。
「何かあったんですか。」
と尋ねつつ、何となく予想は出来ていた。
「お父さんがさっき窃盗しちゃってねー……」
ほら。やっぱり。私は口元がにやけそうになるのを必死に堪えた。
「あー。そうですか……。」
「その際に暴行もしちゃったからしばらく帰ってこれないけど、他にご家族は?」
「居ません。てか、あの人も家族じゃありません。」
「……え?」
「私は元々一人で暮らしてたし、元の生活に戻るだけです。あの人が勝手に転がり込んできただけなんで。」
……私は一か月前まで、この家で一人暮らしをしていた。中学二年生の時、父親と離婚した母親が買った小さな一軒家だ。
高校一年生の冬まで、私はここで母親と二人で暮らしていた。母親はパートで働き、高校生になった私は秋葉原のコンカフェでバイトをして生活費を賄っていた。
が、そんな生活も長くは続かなかった。母親が、私の前から姿を消したのだ。正確に言うと、この家と娘である私を捨ててどこかに行ってしまったのだ。
「ごめんね、亜莉紗。」
そう言って、多額のお金を置いて、母親は消えてしまった。
それだけならまだ良かった。母親と二人暮しの時も、母親はほぼ家に居なかったから、一人で暮らしていくのはそこまで苦じゃなかった。むしろ自分の面倒だけを見ていればいいから気が楽だった。コンカフェの給料は良かったし、少しだけど貯金も出来た。
でも。そんな私の生活を、あの人がぶち壊した。
「新しい嫁に追い出された。」
そう言って私の家に転がり込んできたのは、あの父親だった。
私と母親を捨て、若い女と一緒になったあの父親が。
「本当に悪かったと思ってる。亜莉紗がこんな目に遭ってると思わなかった。」
そう言いながら何度も謝ってきた。憎んでいた父親が頭を下げてきたのは、悪い気分ではなかった。でも、せっかく築き上げた私だけの居場所を邪魔されたくなくて、私は追い返そうとした。
「あいつも俺と同格だろ。お前を捨てて逃げたんだから。」
それを察してか、父親はそう零した。父親は分かっていた。まだ私が母親を好いているのを。
「……勝手にすれば。」
私は何も言い返せなくて、父親を家の中に入れてしまった。
それから、あいつは働きもせずに家に居座った。毎日、私が受験生になった時のために貯めていた貯金を切り崩して酒を買い飲み漁った。
一度、そんな父親にこう言ったことがあった。
「高三の生活費とか受験の費用とか出してくれるの?」
これが起爆剤となった。父親は持っていた酒瓶で私をぶん殴った。頭から血が流れ、私はその場に倒れ込んだ。
「親に金を払ってもらうのが当たり前だと思うなよ!お前はもう自分で稼げるんだから今までの教育費を返してると思ってーー」
などと、ガミガミと屁理屈を並べられた。殴られたのに、不思議と痛みや恐怖心はなかった。
「あの女の代わりに面倒見てやってんだから感謝しろよ。」
そう言いながら背中を蹴られ、父親は自分の部屋ーーだと思い込んでいる母親の部屋に入っていった。
「……。」
額を触ると、ぬるりとした生暖かい感触があった。触れた指を見ると、赤い液体が指の指紋の模様に浮かび上がっていた。
「……。」
背中が冷たくなる。と同時に、視界が曇りガラスのようにぼやけてしまった。
「……。」
一気に恐怖心と痛みが襲ってきた。殴られた頭と蹴られた背中が痛い。そして怖い。殺されるかと思った。
「でも、ほんとのこと言っただけじゃない。」
本人の前では絶対言えないそれを、私はぽつりと口に出した。驚くほど声が震えた。それが何故か滑稽に思えて、寝そべりながら口角を吊り上げて笑った。
「居なくなってよ、早く。」
あいつ、新しい嫁に追い出されたって言ってたっけ。確か窃盗をして捕まり掛けたとか。
……あーあ、誰か早く捕まえてくれよ。
ずっとそう思いながら、私はあいつと共に生活してきた。
「だからやっと。やっとなんだよ。」
警察官を撒いて家の中に入った途端、笑いが止まらなくなった。ドアに背をつけて、私は綻ぶ口元を手で押えた。
「やっと私の居場所を取り戻せた。」
嬉しい。もうあいつに怯えなくていいんだ。毎朝目が覚めた時に恐怖に襲われることも、家に帰ってくるのが憂鬱になることもない。いつあいつの逆鱗に触れるか恐れながら生きていかなくてもいいんだ。
「はぁ……。」
ずるずるとドアに背をつけながら座り込んだ。あ、やば。涙が止まんない。
「うぅ……っ。」
私は一頻り泣いた。今まで流せなかった分の涙を全部流した。
その夜、私は卯乃羽にLINEを送った。
『今から電話出来ないかな。』
数分待った後、卯乃羽から返信が来た。
『うん。掛けていいよ』
私はすぐに電話を掛けた。
『……もしもし』
「卯乃羽。」
電話越しの卯乃羽の声は、いつもより元気がないように感じられた。
『……亜莉紗、今日は学校行ったの?』
やつれた声で卯乃羽はそう言う。
「うん。行った。」
『そっか……。』
卯乃羽は長い長い溜め息を吐く。
『亜莉紗。私さぁ』
「うん。」
『高校辞めようかなって思ってるんだ』
「えっ。」
私は思わずスマホを落としそうになった。それを慌てて両手で抑えて、耳元にあてがう。
「うそ。」
『……マジ。てかもう学校居れないでしょ。』
「何で。そんなことないって。」
『亜莉紗には分からないよね。同性が好きな気持ちを何でずっと隠してきたか分からないでしょ?』
「それは……。」
『だから告白することなんて絶対誰にもバレたくなかった。なのにあいつバラしやがって……』
「待って。『あいつバラしやがって』って、卯乃羽誰かに告白すること話したの。」
私の問いに、卯乃羽は小さな声で「うん」と答える。
『多分そいつがレミ達にバラしたんだと思う。まじ最悪……』
卯乃羽はまた長い溜め息を吐く。
「それって、誰なの。」
私は問うたけど、
『……ごめん、それは言えない』
何故か卯乃羽は答えてくれなかった。
何でだろう。その人物を私に知られたらまずいのか、それともただ単に知られたくないだけなのか。
「……取り敢えず、これだけ言っとく。学校では、“私が卯乃羽に告白した”ってことになってるから。」
『……え?』
「ほんとに何でか分からないけどね。だから卯乃羽はこそこそする必要ないよ。明日から学校来ても大丈夫だから。」
『何それ、何で……』
「分からない。けど多分、夢架達が誰かに愚痴って、それが広まる間に話が拗れたんだと思う。」
『そん、な……』
電話の向こう側で、ガタンという音が聞こえてくる。
「安心して。私は今更卯乃羽の方から告白してきただなんて言わないから。」
『……何、で』
「……卯乃羽が傷付くところなんて見たくないから。 」
『何、それ……』
卯乃羽の声が微かに震えている。
『何それ。そんなの私だって見たくない!亜莉紗がやってもないことでこそこそ言われるなんて絶対嫌だから!』
卯乃羽は涙声でそう叫ぶ。
『私からちゃんと言うから。』
「言うってどうやるの。あの噂を知ってる人達を集めて一人一人に説明するつもりなの。そんなの絶対無理。」
『でも、じゃないと亜莉紗が……!』
「私なら大丈夫。卯乃羽が居てくれるならね。」
『……私、何があっても絶対亜莉紗のそばに居るから』
「……うん。」
そうして、私達は電話を切った。
長い長い一日だった。
でもきっと、明日からはもっともっと一日が長くなる。そんな気がした。
翌日。私は複雑な気持ちで目が覚めた。
朝起きて、家に誰も居ない幸福感。これからの学校生活への絶望感。その二つが同時に襲ってきた。
「……ふぅ。」
久しぶりにストレートアイロンを取り出して髪の毛に熱を通す。寝癖が目立つボブが綺麗な内巻きになった。
朝食を食べ、制服に着替え、今日は久しぶりにメイクもした。と言っても、唇に薄い色のティントを塗っただけだけど。
「……行ってきます。」
誰も居ない家に向かってそう言い、私は玄関のドアを閉めた。
「あーりさちゃん」
「え……。」
トン、と視界に白くて細い脚が現れたと思ったら、誰かに名前を呼ばれた。驚いて顔を上げると、にこにこしながら私の顔を覗き込んでくる女の子が目に入った。
「え、と。」
その子は見慣れた制服を着ている。……同じ学校の人だ。
「一緒に学校行きましょ?」
その子はそう言うと、笑顔のまま私の腕を引っ張った。
「えっ……。」
私はされるがままにその子に着いて行った。
「へぇー、亜莉紗ちゃんって学校の最寄り駅に住んでるんですねぇ!私反対側の最寄りから来てるから知らなかったぁ」
「何なんですかいきなり……っ。」
私は何とか腕を振り払おうとしたけど、物凄い力で掴まれていてなかなか解けない。が、不思議と腕は痛くなかった。それに、気のせいか私の歩くペースに合わせてくれてる気がする。
「あの、あなた誰なんですか。いきなり私の家まで来て何のつもりですか。」
「あー、そっかぁ、私は亜莉紗ちゃんのこと知ってても亜莉紗ちゃんは私のこと知らないんですよね。ごめんなさい、いきなり馴れ馴れしくしちゃって」
その子はそう言うと、パッと私の手を離した。そして、赤信号になった横断歩道の前で立ち止まり、体をくるりとUターンさせてこちらに向ける。
「加藤玲亜(かとうれいあ)ですっ!亜莉紗ちゃんと同じ高校の、夜間学校の生徒です!」
「夜間、の……。」
加藤さんはにししと笑いながら頷いた。
「そうそう。うちの高校、定時制だから夜間もあるでしょ。私はそっちの生徒なんです。だから普段は会うことはないんだけど……」
そう言いながら人差し指を口元に添える。ぷるぷるの葡萄色の唇に、アーモンド型のピンクと黒を基調としたネイルがよく映える。私は加藤さんの全身をぐるりと見回した。
薄いココアピンクのツインテールに、ぱつんと綺麗に切り揃えられた前髪。メイクはぷっくりと仄かにピンク色を帯びたキラキラの涙袋に、真っ黒のアイラインとカラコンが印象的だ。制服は指定のリボンではなくピンク色のリボンで、グレーのオーバーサイズのカーディガンを合わせている。制服なのに網タイツ……。学校に行くのに厚底のヒール……。それにそのリュック、十万円近くするブランドの奴じゃない。ネックレスも五万円以上する惑星型のモチーフの物だった。
「私、亜莉紗ちゃんと仲良くなりたいんですっ!」
加藤さんはそう言うと、バッと深く頭を下げた。頭の両サイドで括られたツインテールが暴れ狂う。
「良ければ、お友達になってください!」
そう言ってリボンの指輪が煌めく手を差し出してきた。
「……え、ええ。」
困り果ててしまった。いきなり家の前で出てくるところを待ち伏せされて、いきなり「友達になってください」だなんて。まずどうやってうちの住所が分かったの。それに学校で会えばいいものをどうしてわざわざうちまで来たの。それに。
「……私が、『あの噂の人』だからなのかな。」
「……えっ?」
顔を上げた加藤さんは、きょとんとした顔で私を見上げた。
「あ。ごめん、何でもな……。」
「実はそうなんです!私、あの噂から亜莉紗ちゃんに興味持ったんです!」
「……え。」
加藤さんは漆黒の大きな目をキラキラと輝かせてから、またにこりと微笑んだ。
「実は……、私も亜莉紗ちゃんと同じ人が好きなんですっ!」
そして、顔を真っ赤にしてそう叫んだ。
「……え。」
思考が一瞬フリーズした。
「それって……。」
「そうです、関根卯乃羽ちゃんが好きなんです、私も……!」
両手で赤くなった頬を抱え、加藤さんは恥ずかしそうにそう言った。
「……え。」
きゃー、と目を不等号のようにしてその場で飛び跳ねる加藤さんを呆然と見詰める。
……何だか、めんどくさいことになりそうだ。
「ふんふんふふふーん♪」
隣で鼻歌を歌いながらスキップして歩く加藤さんを尻目に、私は無言で地面を睨みながら歩いていた。
この子、何を思って私と友達になりたいなんて言ってるんだろう。だって、彼女の中で私は「恋のライバル」だ。同じ人が好きな者同士で、普通なら友達になりたいなんて思うわけない。
……もしかして、私が卯乃羽に告白したんじゃないって気付いてるとか?ほんとは卯乃羽が私に告白したんだって知ってるとか……。
ううん、それじゃもっと友達になりたいなんて思うわけない。「好きな人の好きな人」なんて、邪魔でしかないじゃない。
「……。」
よく分からない。
「あ、そろそろ学校着きますね。じゃあ授業頑張ってね、亜莉紗ちゃん!」
「え。」
いきなりそう言って立ち止まった加藤さんを見て、私も思わず足を止めてしまった。
「私まだ授業じゃないので!近くのカラオケで時間潰そっかなって思います!」
「あ、そっか。」
夜間の授業が始まるのは午後五時半だ。今からだと十時間近く時間が空いている。それにしても、十時間近く一人でカラオケするつもりなんだろうか。
「何か付き合わせちゃってごめんね。」
私は敢えてそれには突っ込まないでおいた。
「いいんです!私が勝手に亜莉紗ちゃん家まで行っちゃっただけですし……。はっきり言って迷惑でしたよね?」
そう言いながらチワワみたいな目で私を見上げてくる加藤さん。一応迷惑な自覚はあるらしい。
「全然大丈夫。それじゃ。」
「あ、待って!」
校門に向かって敷地の塀沿いに歩いていこうとすると、そう叫んだ加藤に手を掴まれた。
「私と会ったこと、卯乃羽ちゃんには言わないでください!」
「……え。」
「私と知り合ったことも、私の存在を知ってることも、全部秘密にしてくれませんか……?」
潤んだ瞳で私を見上げながら加藤さんはそう言う。
「……それはどうしてか訊いてもいいかな。」
「卯乃羽ちゃんの大切な亜莉紗ちゃんに近付いたと思われるのが嫌なんです。……計算高いみたいじゃないですか。」
「それ、どういう……。」
「取り敢えずっ、絶対に私の名前も話題も出さないでください!」
加藤はそう言うと、キッと鋭い目で私を見上げてきた。……気のせいだろうか、睨み付けているように見えた。
「……お願いしますねっ」
と思っていたら、パッとにこにこした笑顔の加藤さんに戻った。
「それじゃ!」
加藤さんは律儀にお辞儀をすると、手を振りながら走って行ってしまった。
「はぁ……。」
一気に全身の力が抜けてしまった。加藤さんか……。変わった子だったな。
「……あ。」
スマホの画面を見て、私は声を上げた。やば、あと十分で授業が始まる。
「急がなきゃ……。」
気分はあまり乗らなかったけど、私は走って校門をくぐった。
今日の一、二時間目は体育だった。私は体を動かす気になれなかったので、生理だと嘘を吐いてサボっている。
体育館の隅で体育座りをしながらレポートを書いていると、入口から誰かが入ってきた。
「すんませーん、遅刻しましたぁ」
靴下のままぺたぺたとこちらに歩いてくるのは、制服姿のレミだった。
「あれ、亜莉紗も見学?」
「ん。」
私がこくりと頷くと、レミは「ふーん」と言いながら私の隣に座った。すると体育の教師がこちらに向かって歩いてくる。
「川嶋、見学か?レポート用紙は?」
「あー、忘れました」
「取りに行ってこい」
「へいへーい」
レミはだるそうに立ち上がると、のそのそと出口に向かって歩いていった。
驚いた。てっきりレミには真っ先に避けられると思っていたから。
レポート用紙を取りに行って戻ってきたレミは、また私の隣に落ち着いた。
「ねー亜莉紗」
レポート用紙に学年、クラス、出席番号と名前を書きながら、レミはそう口に出した。
「あんた、よくあのタイミングで卯乃羽に告白しようと思ったよね。」
「……え。」
「だってあの日、卯乃羽が好きな人に告白するって言ってた日じゃん。あれ聞いて焦ったの?それにしてもやばいでしょ」
……あ。私は必死に頭の中で答えを捻り出そうとした。でもいい具合の嘘が思い付かなくて、笑いながら誤魔化すしかなかった。
「そうなの。卯乃羽が誰かと付き合い始めたらもうチャンスないと思って。」
思ってもないことを言ったものだから、口角が変な風に震えてしまった。けど、レミはレポートに集中していたのでそんな私の顔なんて見ていなかった。
「何か……。亜莉紗って思ってたんと違ったわ」
レミはレポートを書き殴りながら淡々とそう言う。心臓が凍り付いてしまったみたいだった。頭の中が冷たくなり、それが指先へ、足先へとじわじわ広がっていく。
「あんま友達困らせることしない方がいーよ。」
暑くもないのに汗がだらだらと流れ出る。私は誰も見てないのに口角を吊り上げるのに必死だった。
「はは。」
こういうことか。
卯乃羽は、こうなるのが怖くて、「学校を辞める」なんて言ってたんだ。
体育の授業に卯乃羽は来なかった。ああ、今日も休んでるのか。やっぱり気まずくて来れないのかな。そりゃそうだよね、「告白された側」だって行きづらいに決まってる。
「でも、そんなに悪いことなのかな。」
別に、好きになったのがたまたま同性だったってだけじゃない。私が色々言われたりするのは、実質卯乃羽が色々言われているみたいで嫌だ。
「……ふぅ。」
体育の授業が終わり、生徒達が着替える中、私は一人でホームルーム教室へ向かった。レミは、いつの間にか体育館から居なくなっていた。
じんじんとお腹の底が痛くなる。何故か涙が零れそうになった。
「……頑張ろう。」
自分にそう言い聞かせて、階段を一段一段、ゆっくりと上っていった。
ホームルーム教室に着くと、まだ誰も来ていなかった。が、すぐに他のクラスメイト達が次々と入ってくる。
「お前昨日の写真見た?あいつの顔やばくねー?」
そう言ってゲラゲラ笑いながら男子達が入ってくる。
「ねーお前らうるさい!」
それに続いて、夢架と彩奈とモモが入ってくる。
「……」
それから、他のクラスメイト達もぞろぞろと教室に入ってきた。
けど、レミと卯乃羽は、ホームルームが始まっても教室に入ってこなかった。
「それじゃあ、ホームルームを終わります」
結局、ホームルームが終わっても、二人は来なかった。
卯乃羽は単に学校に来てないだけかもしれないけど、レミは確実に私を避けてホームルームに来なかった。レミはいつも遅刻と早退とサボりばかりしているから、今日のもただの気まぐれかもしれない。でも何故か、そうは思えなかった。
「……。」
私は、真っ先に一人で教室を出た。
誰も私に話し掛けてくれるクラスメイトは居なかった。
四時間目の授業が終わり、鞄に筆箱を詰めながら、私は小さな溜め息を吐いた。今日は午後の授業を取っていない曜日なので、いつもより早く帰れる。学校で一人ぼっちでお昼を食べなくてもいいし、気が楽だ。
今日は帰ったら勉強しよう。推薦入試狙ってるから、次のテストでもいい成績を取らなきゃ。
そう思いながら階段を降りていると、下から二人の女子生徒が上ってきた。卯乃羽に告白された日の朝、階段の前でレミと一緒に居たギャル達だった。
すれ違いざまに、二人は私のことをちらりと見て、すぐに視線を逸らして通り過ぎていった。
「あの子でしょー?この前レミと喋ってた子」
「この前あの話聞いた途端見るからにテンション下がってたしそういうことだよね」
頭上からそんな会話が聞こえてきた。私は足を止めずに階段を降り切った。
「……。」
足先が冷たくなった。心臓がキュッと痛くなる。
私は走って玄関を飛び出した。
「はぁっ、はぁっ……。」
じりじりと照り付ける初夏の日差しが私を突き刺した。暑いわけではないのに汗が止まらなかった。本気で走っていたわけでもないのに、心臓がバクバクと鳴り止まない。
「うぅっ……。」
私は歩道側に背を向けて、学校の塀に顔を向けた。目に涙が溢れてくる。それはすぐに決壊したかのように零れ出した。
「卯乃羽……。何で来てくれないの。」
涙は止まらなかった。むしろどんどん溢れてきて収まる気配はない。
「……。」
とにかく、今日はもう家に帰ろう。
帰って、早く一人になりたい。
「……よし。」
鏡に映った自分の目を見詰めながら、私は大きく頷いた。鏡の中の私も、頷きながら同じように私の目をじっと凝視してきた。
「大丈夫。行ける。」
自分にそう言い聞かせるように呟いた。何度も深呼吸をして、必死に気持ちを落ち着かせようとする。
「……行こう。」
私は洗面所を出て、リビングの電気を消した。
今日は月曜日だ。土日を挟んで、状況が変わってるかもしれない。
そうだ。みんなあんな噂なんてもう忘れてるかもしれないじゃない。大丈夫、きっとみんな今まで通り接してくれるはず。
「……行ってきます。」
私はローファーを履き、玄関のドアを押し開けた。
真っ白な太陽の光が、私を出迎えてくれた。
学校に着き、一時間目の授業が始まる。今日は現代文だ。卯乃羽と被っている授業だったけど、やっぱり卯乃羽は来なかった。
卯乃羽、いつまで来ないつもりなの。それともほんとに学校辞めるつもりなのかな。
「……。」
ついイライラしてしまう。
卯乃羽は何も悪くないってことになってるのに。
せめて私のそばに居てよ。ずっとそばに居てくれるって言ってくれたじゃない。
私は肘をついて頭を抱えながら、シャーペンを何度もカチカチと鳴らした。
ホームルームの時間。クラスメイト達が教室に集まっても、先週と同じく、誰も私に話し掛けてくることはなかった。誰も私に目もくれない。まるで私なんてそこに存在していないようにさえ思えてきた。
こんなの初めてた。今までは、誰かしら周りに人が居たのに。
……あれ。何だろう、この違和感。ちくりと胸の辺りが痛くなった。
誰かが私のことを悪く言ってるわけではないのに。みんな、あんな話なんてすっかり忘れてしまってるのが見て分かるのに。誰も、私を見て何かを耳打ちし合ったりしていないのに。
……いや、だからだろうか。“誰も私を見たり私の話をしていない”から辛いのかもしれない。今までは周りに恵まれて生きてきたから、それが急に変わってしまったのが耐えられないのかもしれない。
でもどうして。仮に私が卯乃羽に告白したとして、それを見られて逆ギレしたからと言って、どうしてみんなここまで私を避けるの。
――ああ、違う。その瞬間、私は理解してしまった。
今までは卯乃羽が居たんだ。卯乃羽が居たから、みんなは卯乃羽と一緒に居る私とも仲良くしてくれてたんだ……。
「……ははっ。」
微かに開いた唇から乾いた笑いが漏れる。そんな私の声を聞いたクラスメイトは、誰も居なかった。
あれから、何日経ったんだろう。中間テストも終わり、制服も夏服に変わり、いよいよ受験に向けて準備をしなくちゃいけない時期になった。
あれから何も状況は変わらなかった。卯乃羽はずっと学校を休んでいるし、相変わらず私は空気みたいな存在。学校で話し掛けてくるのは教師くらい。そろそろ面接の練習もしなくちゃいけないのに、家でも学校でも一言も言葉を発さない日が何日も続いたせいで、声の出し方も忘れてしまった。
早く卒業したい。最近はそればっかり考えてしまう。
私も、逃げられるなら卯乃羽みたいに逃げてしまいたい。
「……大学、諦めようかな。」
自分の部屋のベッドに寝そべりながら、私はぽつりとそう呟いた。
高校二年生の時から進学に向けて頑張ってきたけど、何かもう何もかもが面倒に思えてしまった。またコンカフェのバイトを始めて、しばらくはそれで生活していくのもいいかもしれない。今すぐ高校を辞めてそうしてもいいかもしれない。
「疲れたなぁ……。」
明日も、学校に行かなくちゃ。
ごろりと寝返りを打つと、ベッドのシーツに体が沈んでいく。目を瞑ると、そのままベッドを突き抜けて、床も突き抜けて、どこまでも沈んでいってしまうような感覚になった。
「……ん。」
うるさい。遠くで何かがずっと鳴り続けている。
私はむくりと体を起こして、目を擦りながらスマホの画面を見た。
やば。結構寝ちゃったな。勉強しなきゃ……。
ピンポーン。ピポピポピンポーン。
「っうるさ……。」
私の目覚まし代わりになった音の正体は、どうやらインターホンらしい。誰かが連打しているのか、間も空けずに鳴り続けている。
「誰……。」
何か通販で買ったっけ。それとも宗教の勧誘か何かかな。……もしかして、あいつが戻ってきたとか。
「……。」
私は部屋から出て、音を立てないように玄関へ歩いていった。
「……。」
「あいつだったらどうしよう」と思って、居留守しようかと思ったけど、私は恐る恐るドアを開けた。そこにたっていた人物を見て、私は思わず目を丸くして叫んだ。
「あ。」
ドアが開いたことに気付き、その人物は顔を上げた。
「亜莉紗ちゃん!」
「加藤さん……。」
ドアの向こうに立っていたのは、加藤さんだった。私は慌てて髪を撫でて寝癖を整える。
「急に押し掛けてごめんなさい!ちょっと相談したいことがあって……。」
もじもじと恥ずかしそうにそう言う加藤さん。
「相談したいこと、って何かな。」
「卯乃羽ちゃんのことについてなんですけど……」
卯乃羽について……。私はついその名前に反応してしまった。
「家の中で話そ。入って。」
「うん……」
加藤さんはこくりと頷くと、階段を上って家の中に入った。
「お邪魔します……」
厚底のヒールを脱ぎ、十センチほど身長が縮んだ加藤さんを、部屋に招き入れた。
「座ってて。今お茶持ってくるから。」
「あ、はい!」
私は肉球型の座椅子に加藤さんを座らせ、部屋を出て階段を上った。
こんなことならもっと片付けておけば良かった……。と今更後悔したけど、急だったから仕方ない。
「お待たせ。」
私はペットボトルの麦茶とコップを二つ持って、部屋に戻ってきた。
私が部屋に入ると、加藤さんは立ち上がって、
「ありがとうございます!」
と言い、カップを持ってくれた。
「麦茶しかなかったけど大丈夫かな。」
「はい!わざわざありがとうございますっ」
麦茶をコップに注ぎ、私達は向かい合って座った。
「あの……。亜莉紗ちゃん、あれから卯乃羽ちゃんからLINEの返信来ましたか?」
「いや、そもそもLINEしてない……。」
「そうですか……。」
加藤さんは口元を手で隠しながらうーんと唸った。
「じゃあ私にだけ返信してくれてないわけじゃないのかな……」
加藤さんはぽつりとそう呟く。
「何かあったのかな。」
「あ、ただ単に卯乃羽ちゃんから返信が来なくて。あれから学校にも行ってないみたいだし、心配で……。」
「あー……。」
気まずい。まるで私のせいで卯乃羽が学校に行けなくなったんだと言われているみたいだ。私は加藤さんから視線を逸らした。
「亜莉紗ちゃんは学校ちゃんと行けてるんですか?」
「私は、まぁ。」
「……なら良かったです!」
加藤さんは満面の笑みでそう言う。
「亜莉紗ちゃんが居るなら、卯乃羽ちゃんも行けばいいのに。こんなことで単位落としたりしたら勿体無くないですか?」
眉を八の字にさせて加藤さんはそう言う。きっとこの子に悪気があるわけではないんだ。でも、どうしても、私が卯乃羽に告白したこと――すなわち「卯乃羽が私に告白したこと」を下らないことだと思っているように見えてしまった。そりゃそうだ、彼女はそのことを知らないんだから。好きな人が他の誰かに告白されるなんて、プラスに捉えることなんて無理だもの。
「……そうだね。」
結局、この子が家に来てまで私に会いに来たのも、「私のため」じゃなくて「卯乃羽のため」だった。
惨めな気持ちになった。違うのって言いたかった。ほんとは、私が卯乃羽に告白したんじゃないの。
「お願いがあるんですけど、亜莉紗ちゃんから卯乃羽に連絡してもらうことって出来ないですか?……亜莉紗ちゃん?」
ずっと下を向いて黙り込んでる私の顔を、加藤さんがじっと覗き込んできた。
「……分かった、好きにして。」
こんな言い方しなくても良かったのは分かってる。加藤さんは何も悪くないってことも。でも、今はそんなことまで気を使う心の余裕がなかった。
「じゃあ、今ここで電話してみてください!」
「……え。」
加藤さんは身を乗り出して、私の手を包み込むように握ってくる。
「卯乃羽ちゃんに、電話してください。今、ここで。」
漆黒の瞳でじっと私を捉える加藤さんをちらりと見上げる。口角は不自然に吊り上がっている。が、その目は笑っていなかった。何故だか背筋がぞくっとする。
「……分かった。」
スマホをベッドの上から手繰り寄せ、LINEを開き、卯乃羽とのトークを開く。加藤さんは目をらんらんとさせながらその様子をじっと見詰めてきた。
「……。」
呼び出し音が数回繰り返される。その間もずっと加藤さんは私を見詰めていたので、息が詰まってしまいそうになった。早く出て、卯乃羽。
『……もしもし』
「卯乃羽。」
三十秒近く待った後、卯乃羽は電話に出てくれた。加藤さんの目を見ると、加藤さんはスマホを持った私の手を握り、自分の方に引き寄せた。そして画面をタッチする。
『……亜莉紗?』
卯乃羽の声が部屋中に響き渡る。……スピーカーをオンにしたんだ。
「あ、卯乃羽……。ずっと学校来てないけど、大丈夫なのかな。」
取り敢えずそう尋ねてみる。
『ごめん、行こうって思ってるんだけど、やっぱ行く気になれなくて……』
「もう三週間くらい来てないし、テストも受けてないでしょ。専門行くんじゃなかったの。」
『担任からも電話来た……。まじであんなことで進路ドブに捨てるって笑えるよね』
はははと乾いた笑いを漏らす卯乃羽。
『ごめん。亜莉紗にはほんとに迷惑ばっか掛けちゃってる。私のせいできっと嫌な目にたくさん遭ってると思うし……』
「……。」
『もし。もしまた、私が学校に行けるようになって、みんなの誤解も解けたら……』
加藤さんが、じっとスマホの画面を見詰めている。
『告白の返事、聞かせてくれないかな。』
私は思わず手に持っていたスマホを落としそうになった。その手元だけをただ見詰めて、微かに体を震わせる。
ドッ、ドッ、と静かに心臓が鼓動を刻む。鋭い視線が全身に突き刺さるのを感じた。
「……どういうこと?」
加藤さんが、目を真ん丸に見開いて、私を見詰めていた。
心臓が暴れ狂う。私は加藤さんの顔を見ることが出来なかった。スマホに固定された視線が左右にぶれる。
『……亜莉紗?今なんか声聞こえたけど誰か居るの?』
スピーカーから、卯乃羽の声だけが聞こえてくる。他の音は全てシャットアウトしてしまったみたいだった。
静まり返った部屋の中、私は冷や汗を流しながらゆっくりと口を開いた。
「……あ。」
が、その先の言葉は出てこなかった。いや、言えなかった。
「……!」
加藤さんが、中腰になって私の肩を掴んだのだ。ギリギリと音を立てて加藤さんの指が皮膚に食い込む。痛みで顔を歪めて、やっと加藤さんの顔を見ることが出来た。見上げると、長く垂れたツインテールの毛先の上に、物凄い形相で私を見下ろす加藤さんが居た。
「私が居ること、絶対に言うな。」とでも言いたげだ。私は痛みと恐怖で、無言で何度も頷いた。
「誰も居ないよ。私、今一人暮らしだし。」
やっとの思いでそう言うと、加藤さんは手を離してくれた。肩を擦りながら加藤さんを見ると、満足そうな顔で目を細めて微笑んでいた。
『そっか。ねぇ、亜莉紗。』
まだ何か言う気なの。私は今すぐにでも電話を切ってしまいたい気分だった。お願いだからこれ以上余計なことは言わないで。
『こんなこと言ったら重いかもだけど、私、ほんとに亜莉紗が好きだから。』
そんな私の願いも虚しく、卯乃羽は小さな声でそう言った。
『告白の返事、考えといて。』
ブツッ。卯乃羽のその言葉を遮るように、電話が切れる音がした。加藤さんが、スマホの画面をタップして電話を終了させたのだ。
「……」
私は、無言でスマホの画面を見詰めた。画面には卯乃羽とのトーク画面が表示されていた。意味もなくそれを凝視する。
地獄みたいな空気の部屋に、加藤さんと私の呼吸音だけが聞こえていた。最悪の状況だ。私は心の中で卯乃羽を恨んだ。
「……ははっ」
唐突に、加藤さんが口をウインナーみたいにして笑った。
「はー、まじウケる」
私はそんな加藤さんの口元に視線を固定して口を噤んだ。
「ほんとに面白いですね、亜莉紗ちゃんって。」
「……え。」
どうして今私の名前を出されるのかが理解出来なくて、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。ゆっくりと視線を上に持っていき、加藤さんの顔を見る。
「……。」
加藤さんは、笑顔だった。二重幅と涙袋に囲まれた目を細めて、真っ白の歯を見せて笑っていた。何でこの状況で笑っているのかが理解出来ずに、私はそんな加藤さんの顔をじっと見詰めてしまった。
「私、帰りますね!」
いきなりそう言って、加藤はすくっと立ち上がった。
「え。」
「卯乃羽ちゃんが元気なことも知れましたし!ありがとうございます、私が掛けてたら絶対出てくれなかったので。」
「え……。」
「お邪魔しましたっ!」
加藤さんはそう言うと、勝手にドアを開けて部屋から出ていってしまった。
「あ、待って。」
私は慌ててそれを追い掛ける。
部屋を出ると、玄関で靴を履く加藤さんの後ろ姿が見えた。
「……それじゃ、またね、亜莉紗ちゃん!」
身長がプラス十センチになった加藤さんが、にこりと振り返って玄関のドアを開けた。
「ああ、またね……。」
私はドアを抑えながら手を振って、加藤さんを見送った。
ばたりとドアを閉め、鍵を閉める。私はまだ暴れている心臓にそっと手を当てた。
「……。」
靴を履いている加藤さんの表情が、全身鏡に映っていた。
「……。」
加藤さんは、笑いながら鏡越しにずっと私を見ていた。
「……はぁ。」
私は、黒板を眺めながら溜め息を吐いた。と同時に、大きな欠伸が出る。うう、目がしぱしぱする。昨日の夜、ちゃんと眠れなかったせいだ。
加藤さんが帰った後も、夜になっても、ずっと昨日の加藤さんの顔が頭から離れなかった。私を見ながら笑っていた加藤さんの顔が、目を瞑ると瞼の裏に浮かび上がってくるのだ。
絶対、私が卯乃羽に告白したんじゃなくて、卯乃羽が私に告白したんだってバレたよね。ずっとそれを望んでいたはずなのに、素直に喜べなかった。
きっと加藤さんは、私を邪魔者だって思ったはず。きっと、今までみたいに私と友達になろうなんてもう思ってないんだろうな。
「……はぁ。」
……友達が出来ると思ってたけど、やっぱり無理だったなぁ。
「関口さん。」
ホームルーム中、名前を呼ばれて私は顔を上げた。教卓の前で担任が手招きをしている。
立ち上がって教室の前に行くと、担任が一枚のプリントを手渡してきた。
「これ、進路指導部の先生からです。そろそろ面接の練習をした方がいいって言ってたので、書いてある日にちの中から日程を決めておいてください。」
「分かりました。ありがとうございます。」
私はプリントを受け取って、自分の席に戻ろうとした。
「あ、ついでにこれ配ってもらってもいいですか?次の授業の準備をしなくちゃいけなくて」
担任は腕時計を見ながらそう言う。
「はい……。」
プリントの束を受け取ると、担任は「よろしくお願いします」と言ってそそくさと教室から出ていった。
私は廊下側の列の一番前の席に座っていたクラスメイトにプリントを渡そうとした。
「これ、後ろに回して。」
「……。」
プリントを目の前に差し出しても、無反応だ。そのクラスメイト――相澤さんはスマホを弄っているので、気付いてないのかもしれない。
「相澤さん。プリント、後ろに回して。」
今度ははっきり名前を呼んでそう言った。ちゃんと聞こえているはずだ。そう思ったけど、やっぱり無反応だった。
「……。」
私は隣の列に移動する。
「大島くん、これ後ろに回して。」
「ははっ、お前それぜってーさぁ……」
輪になって談笑していた大島くんは、私をちらりと見て、一瞬黙り込んだ。
「……はいはい」
そして私の手からプリントを引ったくり、輪の中の男子達に配った。
「なー、プリントだって」
そして他のクラスメイト達にも配っていく。
「えー、何それ」
スマホを弄っていた相澤さんが顔を上げる。
「プリントだってよー」
相澤さんは席を立って、大島くん達の輪の中に入っていく。
「ありがと」
大島くんが相澤さんにプリントを渡した。
「……。」
その様子を見て、私は教室の前で立ち尽くした。
……これ、相澤さんは、本当にただ私に気付かなかっただけなのかな。
「あー、授業だりー」
ぞろぞろとクラスメイト達が教室から出ていく。みんな、後ろのドアから出ていった。……まるで私が教室の前に立っているから、それを避けて通るかのように。
「……。」
私の、思い過ごしだよね。
思い過ごし、なんだよね……。
心臓がぎゅっと痛くなった。
三時間目が始まっても、私はまともに教師の話を聞くことも出来なかった。
何で急に無視されるようになったの。今まではこんなこと絶対なかったのに。
最近だって、みんなから私に話し掛けてくることはなかったけど、事務的な用事で私が話し掛けたらみんな普通に反応してくれた。それなのに、いきなりどうして。
目の奥がじーんとして涙が出てきそうになる。私は喉の奥をきゅっと締めてそれを必死に堪えた。
何でなの。この土日で何かあったっけ。私、誰とも会ってないし誰にも何もしてな――
「あ。」
加藤さんが、家に来たじゃない。
加藤さんに、「卯乃羽が私に告白した」ってバレたんじゃない。
……まさか。
心臓が静かに鼓動を刻む。私は机の上でぎゅっと手を握り締めた。
「……学校、行きたくない。」
ザアアア、と遠くの方から雨の音が聞こえてくる。薄暗い部屋の中で、私は毛布にくるまりながらぽつりと呟いた。
そろそろ起きて学校に行く準備をしなくちゃいけない時間だ。起き上がって、部屋を出て、リビングに行って、顔を洗って、ご飯を食べて……。
いつものようにそれをこなしていけばいいだけなのに、何故か体が動かなかった。もぞもぞと布団の中で芋虫のように蠢くことは出来ても、体を起こすことが出来なかった。
あれから、「学校に行きたくない」と思い始めるまで時間は掛からなかった。今までとは違う、みんながあからさまに私を避けている中学校に居るのは、物凄い苦痛だった。
「もう嫌だなぁ……。」
ほんの一ヶ月弱でこんなに生活が変わってしまうなんて、想像もしたことなかった。
「学校、行かなきゃ……。」
私は精一杯の力を振り絞って起き上がった。
やっとの思いで学校に着くと、足取りは更に重たくなった。足にバーベルでも括り付けられてるんじゃないかってくらい、足を動かすのが辛くなった。
何とか足を動かして校舎に入ると、ロッカーから教科書とノートを取り出す。それを鞄に入れて、ロッカーの鍵を掛けている時だった。
「……ねぇ、やっぱりあいつおかしくない?」
聞き慣れた声が、ロッカーの裏側から聞こえてきた。
「それは私も思ってた……」
私は動きを止めて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「やっぱモモもそう思う?」
その声は、夢架とモモのものだったのだ。
何の話をしてるんだろう。「やっぱりあいつおかしくない?」。「あいつ」って誰。分からなかったけど、何故だかこの会話が自分と無関係だと思えなかった。
「流石に怖くない?ここまでやるって相当だよね」
「亜莉紗のこと嫌ってたのかな?でもあの二人って接点なかったよね」
私の、名前。
「取り敢えずめんどくさいことにはなりたくないから、亜莉紗と関わるのはやめよ。」
「そうだね。」
私はロッカーの前で立ち尽くした。そんな私の横を、スマホを見ながら歩いていた彩奈が通り過ぎる。
「あ、彩奈おはよ!」
「何の話ー?」
「んー、いや、ほら……」
「ああ……」
夢架達は声を小さくして会話を続ける。
「にしてもさー、私達巻き込むのもやめてほしーよね。」
「卯乃羽と亜莉紗は私達が嘘吐いてるって分かるじゃん。まぁ、分かったとこで亜莉紗は何も言えないだろうけど」
「卯乃羽にバレたら厄介じゃない?だって卯乃羽って亜莉紗のこと好きだからあの日告白してたんでしょ。絶対亜莉紗守るためにほんとのこと言うじゃん。そしたらあいつはどうするつもりなんだろうね」
「まー、あの子のことだから色々考えてんじゃない?玲亜は計算高いし」
……玲亜。玲亜って、加藤さんの下の名前だ。
「もうこの話やめよ!早く授業行こうよ」
「そうだね。行こ」
三人が歩き出す。私はロッカーに額をくっ付けながら、呆然と自分の足元を見ていた。
「……あ」
足音がピタリと止まる。私はゆっくりと顔を上げて、右側を見た。
「……亜莉紗」
夢架達が、私を見ていた。
「やば、今の聞かれてたんじゃない?」
彩奈がぽつりとそう呟く。
「亜莉紗!」
夢架が小走りで私へ近付いてくる。それに彩奈とモモも続く。
「今の、絶対誰にも言わないでよ。」
私をじとりと睨み付けながら、夢架は冷たい声でそう言った。
「……全部、加藤さんが指示したからこうなったってことなのかな。」
私は掠れた声でそう尋ねた。
「玲亜に言ったら許さないから。」
夢架は、私の質問には答えてくれなかった。そして、踵を返して歩いて行ってしまう。
「あんまり余計な詮索しない方がいいよ?」
夢架に続きながら、苦笑いした彩奈がそう言う。
「……待ってよ。」
私は一番後ろで二人を追い掛けていたモモの肩を掴んだ。
「……ごめん、亜莉紗。」
モモはちらりと振り返ると、そう言って私の手を振り払った。
「……待ってよ。」
さっきより小さな声で私はそう呟いた。三人を追い掛けて廊下に出たけど、三人は階段を上っていって、もうその姿は見えなかった。
「……やっぱり、加藤さんが。」
手に持っていた教科書やノートが、床にバサバサと落ちた。それを拾う気にもなれなくて、私は壁に背中をつけて凭れる。
「でも、どうして。」
私が卯乃羽に告白したって嘘の噂を流したのは、加藤さんだったのかな。夢架達が卯乃羽に逆ギレされたのを怒って流した噂が、どこかで拗れただけだと思ってたけど、違ったのかな。
でも、もしそうなら、彼女は私の家に来た日より前から本当のことを知ってたってことになる。
「……まさか。」
私は口元を抑えて絶句した。
「……卯乃羽……。」
私は胸のポケットからスマホを取り出し、震える指で画面をスワイプした。
『……もしもし、亜莉紗?
……亜莉紗、どうしたの?大丈夫?』
「卯乃羽……。」
カタカタと手が震える。私は何とかトイレに辿り着き、一番奥の個室に潜り込んだ。
「卯乃羽。お願い、学校来て。」
自分でもびっくりするくらい低い声が出た。掠れていたし、ちゃんと聞き取ってもらえただろうか。
『……何か、あったの?』
卯乃羽はそんな私の声を聞いて、心配そうにそう尋ねてくる。
「私が卯乃羽に告白したことになってたの、ただの話の拗れじゃなかった。」
『……え、それって……』
「加藤さん――加藤玲亜が、夢架達にそういうことにしろって言ったみたいなの。」
ガタン。スマホのスピーカーから、耳を劈くような雑音が聞こえてきた。卯乃羽がスマホを落としたんだろうか。
『待ってよ、加藤玲亜って……玲亜のことなの?』
「加藤さんには知り合ったことは絶対卯乃羽には言うなって言われたけど、それも何か悪意があったからかもしれない。それに……。」
『待って待って待って、亜莉紗、玲亜と会ったの?いつ?』
「……卯乃羽が学校来なくなってすぐ。朝家を出た時、加藤さんが家の前で待ってたの。」
『え。え。待って、頭が追い付かない。』
卯乃羽は明らかに狼狽えている。やっぱり、加藤さんがあんなに自分と私が知り合ったことを隠したがったのには、何かわけがあったんだ。
「この前休日に電話した時も、加藤さんが家に来てたの。卯乃羽と連絡つかないから、私から卯乃羽に電話を掛けてくれって言われて。卯乃羽が私に告白したってバレた時、すごいびっくりしてたけど、あれも演技だったのかも。」
『待ってよ、待って……』
消え入りそうな声で卯乃羽はそう言う。私は思わず黙り込んだ。
『話が違うじゃん、玲亜……』
「……卯乃羽、何か知ってるの。」
私はスカートをぎゅっと握り締めながら唇を噛んだ。
「何か知ってるなら、全部話して。」
卯乃羽に訴え掛けるように、両手でスマホを持ちながらそう言った。卯乃羽は数秒の沈黙の末、
『……分かった。全部話す。』
小さな声を絞り出すようにしてそう言った。
『……玲亜と私は、高校一年生の春に知り合った。私は高校に入学する前からSNSで同じ学校の人と繋がってたんだけど、その中に玲亜も居て、DMでやり取りしてた。
話してるうちに仲良くなって、玲亜の方から『卯乃羽ちゃんの授業が終わったら会いませんか?』って言ってきて、私達はリアルでも仲良くなった。何回か会った後、休日に遊びに行ったりもした。
これは後から知ったんだけど、玲亜は私の他にも昼間登校の生徒とたくさん関わりを持っていて、私達の学年の中では結構有名人だった。まぁ、玲亜は可愛いし、いい意味で入学当初から目立ってたし、コミュ力も高かったし。でも、それだけじゃなくて、玲亜は影で恐れられていた。
一年の夏休み明け、玲亜とトラブルがあった子が、学校を辞めたんだって。理由はよく分からないけど、多分玲亜が友達を使って攻撃したから、それに耐えられなくて辞めちゃったんじゃないかって噂が流れてた。
他にも、玲亜は地味めの大人しい子をすごい嫌ってたり、影で色んな子の悪口を言ったりしてたから、みんな玲亜に逆らえない風潮が出来てた。
そのせいで、玲亜は夜間の生徒達からはハブられてたんだって。ハブられてたってよりかは、避けられてたって言った方が正しいかも。みんな玲亜に関わったら自分まで攻撃されるかもしれないって思って、そっと距離を置いたんだと思う。私も、玲亜が攻撃的な性格なのは知ってたけど、それでも友達だし普通に接してた。玲亜がみんなに避けられて病んだ時も、相談に乗ったりしてた。
……それは二年になっても、三年になっても変わらなかったんだけど、それがいけなかったのかもしれない。私も玲亜と距離を置くべきだった。
……この前、玲亜が私に告白してきたの。』
「え……。じゃあ、卯乃羽は加藤さんの気持ちに気付いてたってことなの。」
『そう。でも、玲亜は『私の本当の友達は卯乃羽ちゃんだけだ』って言ってきたから、多分恋愛として好きだったわけではないと思う。ただ、私が他の友達と仲良くするのが嫌だから、『恋人』になれば自分が特別になれると思ったんだと思う。
でも、私は、『私には好きな人が居るから』って言って断っちゃった。玲亜に『誰?』って訊かれたら、正直に『同じクラスの亜莉紗って子』って言っちゃったの……』
卯乃羽の声が徐々に震え出す。語尾は消え入ってしまいそうなほどだった。
『こんなこと玲亜に言っちゃったら、亜莉紗が攻撃されるなんて目に見えて分かるのに。何で言っちゃったんだろ。ほんとに私バカだよね。』
そう言って、卯乃羽は自虐的に笑う。
『そしたら、玲亜は『その子に告白してくれたら、私は諦める』って言ったの。もし私の告白が成功したら、勝ち目もないし流石に引き下がるしかないって。逆にそうしないと諦めがつかないからって言われた。
だから私は亜莉紗に告白したの。ほんとはずっとこの気持ちは隠していくつもりだった。ほんとは告白したかったけど、もし失敗して、今の関係が壊れたらって考えたら怖かったから。でももししなかったら、きっと玲亜は亜莉紗に攻撃する。そう思ったから、するって約束したの。ちゃんと玲亜の言うことを聞けば、亜莉紗に危害が及ぶことはないって思ってた。
そして、いつの間にかレミ達に、私が好きな人に告白することをバラされてた。きっと私がその場しのぎで約束したんじゃないかって疑ってたんだと思う。
それだけならまだ良かったよ。でも、もしかしたら……』
泣きそうな卯乃羽の声が、頭の中に直接流れ込んでくるような感覚になる。
『夢架達が私達の告白を聞いたのも、偶然じゃないかもしれない。玲亜が、偶然を装って目撃するように仕込んだのかもしれない……』
卯乃羽は何度も鼻を啜る。私は無言でそれを聞いていた。
私はゆっくりと目を瞑って、ゆっくりと大きく息を吸い、それをまたゆっくりと時間を掛けて全て吐き出した。
何だ。そういうことなんだ。
「じゃあ、最初っから私が居なければ全部解決してたんじゃん。」
はー、と天井を見上げて溜め息を吐く。目には薄らと涙が浮かんでいた。
「私が卯乃羽から離れていれば、加藤さんは満足してたってことでしょ。」
『……亜莉紗、それは違うよ』
「何が違うの。どうして正直に私が好きって言っちゃったの。加藤さんがそういう人だって、卯乃羽は気付いてたんでしょ……。」
声が馬鹿みたいに震える。スマホを持った指先が冷たい。脚が無意識に貧乏揺すりをしていた。
『全部全部私が悪いよね。ごめんね、亜莉紗……』
「……何で、学校に来てくれなかったの。加藤さんのしてたことを知らなくたって、私が一人ぼっちになってるってちょっとは想像出来たでしょ。」
ぎゅうっとスカートを握り締める。「ずっとそばに居る」って言ってくれたくせに、私が一番辛い時に隣に居てくれなかった卯乃羽に、物凄く腹が立った。
『ごめん。ごめん、亜莉紗……』
卯乃羽は泣いていた。
「……卯乃羽が来なくなってから、ほんとにしんどかった。卯乃羽が来てくれさえしてれば、ここまで辛くなかったと思う。」
『亜莉紗……』
「卯乃羽、告白の返事だけど、今してもいいかな。」
私は壁に凭れながらそう言った。卯乃羽が息を飲む音が聞こえてくる。
『……うん。』
卯乃羽の返事を確認すると、私はゆっくりと息を吸った。
「卯乃羽。私――」
ダァン!私はその音に思わずスマホを落としてしまった。スマホは床をカシャカシャとスピンしながら壁にぶつかり、跳ね返って私の足元に戻ってきた。
『……亜莉紗?』
床に落ちたスマホから、小さな卯乃羽の声が聞こえてくる。私は目を真ん丸に見開いて、ゆっくりと音のした方を見た。
「……。」
ドアの向こうに人の気配を感じる。それも一人じゃない。
私は無言でぶるぶると震えた。スマホを拾わなきゃ。今すぐ通話を切らなきゃ。そう思ってスマホに手を伸ばそうとすると、すぐさま二発目が飛んでくる。
ダンダンダン。立て続けにそれは鳴り響く。その音に合わせてドアが揺れ動く。私は頭を抱えて息を殺した。
「居るんでしょー?関口さーん」
ドアの向こう側からそんな声が聞こえてくる。私はゆっくりと顔を上げてドアの方を見た。
「早く出てこないと玲亜もっと怒っちゃうよー?」
「きゃはははっ」
複数の笑い声がそれに続く。
『……亜莉紗、亜莉紗!』
スマホからは卯乃羽の声。私はゆっくりとスマホに手を伸ばし、それを拾い上げた。そして通話終了のボタンを押した。
「……。」
ギィィ、と、立て付けの悪いドアが軋む音がトイレに響いた。私はぼさぼさになった髪の隙間から、ドアの向こうから現れた女子生徒達を見上げた。
「やっと出てきた」
私を見下ろすのは、レミとよくつるんでいるギャル達だった。
「何でこうなってるのか、分かるよね。」
真ん中に立っていた女子生徒が、にこりと微笑みながら私の腕を掴んできた。
「玲亜が話したいって。空き教室行こっか」
私は無言で女子生徒達の足元を睨んだ。腕を引っ張られ、転びそうになりながらそれに着いて行った。
……何か、もう、何でもいいや。
だらりと垂れ下がった反対側の手で、スマホをポケットに仕舞い込んだ。
「玲亜ー、連れて来たよー」
私が連れられてきたのは、薄暗い空き教室だった。もう一時間目が始まっているので、どこかの教室から授業をしている教師の声が聞こえてくる。
「おっそ。」
聞き慣れた声が、気だるそうにそう言う。何度も聞いてきた声だけど、どこかいつもより低く感じる。
「亜莉紗ちゃん。久しぶりですね。」
私はゆっくりと顔を上げる。私の手を握っていた女子生徒が、突き放すように手を離した。
「みんなありがとう、もう授業行ってもいいよ」
加藤さんがそう言うと、私をここまで連れてきた女子生徒達は無言で教室から出ていく。去り際に、「あの子終わったね」と言う会話が聞こえてきた。
「亜莉紗ちゃん、私との約束、破っちゃったんですね。」
ドアの方を見ていたら、加藤さんが静かな声でそう言った。機械的に首を動かして加藤さんを見ると、にこにこしながら、面白そうに私を見ていた。窓際の席に座り、逆光で全身が黒く見える。
「卯乃羽ちゃんに愚痴っちゃうなんて酷いですよ……」
加藤さんの表情が歪む。どんどん笑顔が消えていき、目は見開かれ、歯を堅く食いしばっている。
「ムカつくので、死んでもらえませんかぁ?」
そう言いながらガタンと椅子を蹴倒して加藤さんは立ち上がった。思わず体がびくりと反応する。そんな私を面白がるように、加藤さんはにやりと笑う。
「ははっ。何もほんとに死/ねって言ってるわけじゃないんですけどね。この学校から、……卯乃羽ちゃんの前から消えてくれればいいんですよ。まぁ、それが出来ないって言うんならほんとに死んでほしいんですけど」
加藤さんは早口でそう言う。そして不愉快そうに爪でコツコツと机を叩く。
「私、亜莉紗ちゃんなんかよりずっと卯乃羽ちゃんが大好きなんです。なので卯乃羽ちゃんが好きな亜莉紗ちゃんがすんごい邪魔なんですよね。」
「……私も卯乃羽のことは好き。でもそれが、『卯乃羽が私のことを好きな気持ちと同じ“好き”』ではないって、加藤さんだって分かってるでしょ。」
私は眉間に皺を寄せ、目を細めて加藤さんを見る。曇りガラス越しみたいに加藤さんの姿がぼやける。そのせいで表情が読み取れない。
「私は、卯乃羽の告白は断るつもりだった。それでもし卯乃羽が離れていくとしても。」
コツ、コツ、コツ。加藤さんは無言で机を叩き続ける。
「卯乃羽が私に告白して成功したとしたら、加藤さんは本当に諦めるつもりだったのかな。……もしそうなら、どうして卯乃羽の告白を邪魔するようなことをしたのかな。」
「……」
机を叩く音がぴたりと止まる。私は途端に心拍数が跳ね上がるのを感じた。言わなきゃ良かったと後悔したけど、もう遅かった。
「ねぇ、亜莉紗ちゃんって、今まで誰かと付き合ったことはありますか?」
突然そう言い出した加藤さんは、机を触りながらその手元を見て立ち上がった。
「……ない。」
「じゃあ、誰かを好きになったことは?」
「……ない。」
「じゃあ、失恋したこともないってことですよね。」
加藤さんはどこか悲しそうな顔で笑った。
「じゃあ、私の気持ちなんて理解出来るわけないですよね。」
加藤さんがつかつかとこちらに向かって歩いてきた。不揃いに並んだ机を器用に避けながら、私に近付いてくる。
目の前に加藤さんの顔が現れた途端、私は思わず体を硬直させた。加藤さんの顔から目が離せなかった。
「分かったような口聞かないでもらえます?」
私は背後にあった机に尻もちをついた。ガタンと派手な音が教室内に響き渡る。
「うざい。初めてあんたの顔を見た時からうざかった。卯乃羽ちゃんを好きなわけでもないのに卯乃羽ちゃんに好かれてるあんたがうざかった!」
捲し立てるように加藤さんはそう叫ぶ。私は瞬きもせずに加藤さんを見上げることしか出来なかった。
「今すぐ消えてください。」
次の瞬間、左頬に衝撃が走った。刹那私の体は右に倒れ込む。そして左頬に熱と痛みを感じ、殴られたんだと気付くのに少し時間が掛かった。
「はぁっ、はぁっ。」
途端に息が荒くなる。過去の感覚が呼び覚まされた。父親に殴られた時のあの感覚が。その感覚はすぐに恐怖に塗り変わっていく。私は潤んだ目で加藤さんを見上げた。
「あー、やっと殴れた。一発殴んないと気が済まなかったんですよね。あ、もちろんこのことは卯乃羽ちゃんにチクんないでくださいね?もし次卯乃羽ちゃんにチクったら……」
加藤さんはぐいっと私の腕を引っ張る。無理矢理立たされた私は、腫れた頬の内側を噛まないように歯を食いしばった。
と思ったら、今度は右頬に衝撃が走る。左に吹き飛んだ私を、面白そうな顔で加藤さんは見下ろす。
「こんなんじゃ済みませんから。」
私は埃まみれの床に寝そべり、じんじんと痛み出す両方の頬を交互に触った。熱い。頬に触れる指に感覚はあるのに、頬には感覚がない。
「あー、あんたを見てると虫唾が走る。」
ぐっとお腹に加藤さんの厚底がめり込んだ。すぐに脇腹が潰れるような感覚になり、踏まれているのだと気付く。そして背中を一蹴りされると、私はごろりと仰向けになる。
「死/ね。死/ね。死/ね」
ゴッゴッゴッ。体の内側から鳴る奇妙な音に、私はただじっと無言で耐え続けた。もうどこを蹴られてるのか、殴られてるのか、それすらも上手く認識出来なかった。
「早く消えろ。お前が消えたところで誰も何も困んないんだから」
「……うぅっ。」
ぶわっと涙が溢れてくる。どれだけ殴られても決して出てこなかった涙が、加藤さんのその一言で溢れ出した。
そんなの私が一番分かってる。私が居なくなっても、誰の生活も何も変わらないって。この数週間で、それは痛いほど理解出来た。
「もう、嫌。」
そう呟くと同時に、ガラッと派手な音を立てて、教室のドアが開いた。
「亜莉紗!」
ガタガタと机がぶつかり合う音がどんどん近付いてくる。見上げると、目を見開いて驚いている加藤さんが目に入った。
「あんた、何してんの!?」
息を切らしながら、加藤さんのツインテールの片方を掴み上げるその人を見た途端、意識が遠のき始めた。
「亜莉紗に何したのよ!」
そう叫んだその人は、
「……卯乃羽ちゃん?」
数週間ぶりに卯乃羽の姿を見た途端、私は意識を失った。
「調子はどうですか?どこか痛むところはありますか?」
看護師が血圧計を私の腕に巻き付けながらそう尋ねてきた。
「……。」
無言で窓の外を眺める私を見て、看護師さんはふうっと溜め息を吐いた。
「腕、きつくないですか?」
「……。」
私は無言でゆっくりと頷いた。
「……うん、ちょっと低めだけど大丈夫だね。もうちょっとで朝食持ってくるので、何かあったらナースコールで呼んでください」
そう言って、看護師は病室から出ていった。
……あの日、目が覚めると、私は病院のベッドの上に居た。空き教室で加藤さんに殴られまくった後、卯乃羽が教室に入ってきたところから記憶がない。後から主治医になった医者に聞いたけど、どうやら卯乃羽が教師を呼んで、教師が呼んだ救急車で運ばれてきたらしい。
加藤さんは退学処分になったと聞いたけど、卯乃羽がどうなったのかは分からない。あれから学校に行けるようになったのか、不登校のままなのか、それすらも分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことは、卯乃羽と加藤さんが付き合うことになったってことだけだ。
『私、玲亜と付き合うことになったから、もう連絡してこないでね』
入院してから届いたのは、そんな卯乃羽からの一通のLINEだけだった。
ベッドの上で目が覚めた私には、もう何も残っていなかった。友達も、将来も、生きる意味も、何もかも。
ただただ、絶望と喪失感だけが、私の頭を埋め尽くしていた。
「亜莉紗ちゃん、ちょっといいかな?」
いつものようにベッドの上に横たわりながらぼーっと天井を眺めていると、病室のドアが開いて看護師が入ってきた。私は首だけ動かしてそちらを見る。
「亜莉紗ちゃんに会いたいって人が居るんだけど、大丈夫かな?」
「……そんな人、居るんですか。」
私がそう言うと、看護師は苦笑いしながら頷いた。
「亜莉紗ちゃんに会いたがってる人、実はたくさん居るんだよ。今日はその中の一人が来てくれたの。ちょっとでいいからお話してくれないかな?」
「……。」
私は無言で体を起こした。「私に会いたがってる人がたくさん居る」なんて目に見えて分かる嘘なのに、少しだけ期待してしまった。
「佐藤さん。よろしくお願いします。」
看護師はそう言うと、一歩下がって病室から出た。代わりに入ってきたのは、背の高い女の人だった。
「こんにちは、亜莉紗ちゃん。」
茶色のボブを揺らしながら、その人は付けていたマスクを顎まで下げる。
「……。」
私は思わずその人の顔をじっと見詰めてしまった。
ちょっと面長気味の輪郭に、派手な柄のフチありの大きなカラコン。二重幅は狭めだけどしっかり平行二重で、涙袋も幅は小さめだけど目の縦幅がとても大きいのが印象的だった。ピンクのアイシャドウが元の目の大きさをよく際立たせている。鼻は真っ直ぐで細長く高さもあり、薄めの唇にとても合っている。顎下まである長めの茶髪のボブは綺麗に内巻きになっており、少し厚めの前髪もきちんと巻かれている。身長は170センチくらいあるんだろうか。更に厚底のヒールを履いているから、185センチくらいあるように見える。
まるでモデルみたいだ。こんなに綺麗でスタイルのいい人、初めて見た。
「私は佐藤聖羅。関口亜莉紗ちゃん、よろしくね?」
少し――いやかなり低めのハスキーボイスで、
その人はそう言った。
看護師がドアを閉めたのを確認すると、佐藤聖羅はベッドの脇に置いてあった椅子を、私の前に運んできて、そこに腰掛けた。
「よっと。」
目線の高さが同じになると、ますます見入ってしまう。本当に綺麗だな、この人。コンカフェで一緒に働いてた人でも、こんなに可愛い人は居なかった。
「いやー、会えて嬉しいよ、亜莉紗ちゃん。」
佐藤聖羅はそう言いながらじっと私の顔を見詰めてきた。私は恥ずかしくなって思わず視線を逸らす。髪の毛はプリンになってるし、黄ばんでるし、くまもあるし、ブサイクって思われちゃうかな。
「こんなに可愛い子の担当が出来るなんて光栄だなぁ。」
が、そんな私の心配を他所に、佐藤聖羅はそんなことを言う。
「『え?』って顔してるね。あんたかなり可愛い部類だよ。裸眼なのに黒目は大きいし、目自体もすごくでかい。二重も幅広で平行だし、涙袋もナメクジだし。それ、ほんとにすっぴん?学校で影ではモテてたんじゃない?」
にまにましながら、佐藤聖羅は膝で頬杖をつきながら私の顔を覗き込んでくる。
「……あの。あなたは一体何なんですか。何で私に会いたいなんて思ったんですか。私達、知り合いでも何でもないですよね。」
私はシーツをぎゅっと握り締めて尋ねた。佐藤聖羅は眉毛を八の字に吊り上げて驚いた表情になる。
「ああ、そうだったね。ちゃんと君に用事があってここに来たんだった。
亜莉紗ちゃん、率直に言うけど――」
佐藤聖羅の表情が一変する。黒目の半分が上瞼に隠れ、まるで睨み上げるように私を見る佐藤聖羅。その表情を見ると、一瞬ドキリとしてしまう。
「君をこんな目に遭わせた人達を、私は殺そうと思ってます。」
にんまりと口を三日月みたいにして佐藤聖羅は笑った。
「……は。」
私はぽかんと口を開けて固まってしまった。何、「殺そうと思ってます」???。
「え、ちょ、っと。意味分かんないんですけど。」
「そのまんまの意味だよ。私は、君を虐めたり、君に暴行した奴らを殺/すために君に会いに来たんだ」
「いや、それは分かるんですけど、殺/すって何で――」
「簡単な話さ。人を虐めたり危害を加えるような危険な思想を持った人間は消えるべきだからだよ。」
「でも、殺/すなんてそんな……。」
脳味噌の処理が追い付かない。この人は何を言ってるの。全然理解出来ない。
「うーん、言い方が悪かったね。『殺/す』って言うよりは、『処分する』って言う方が正しいかも。取り敢えず君は深く考えなくていいんだよ。これは別に君のために復讐してあげるとかそういうのじゃないからね。彼女らが生きてると、私達が困るんだよ。」
「でも、何もそこまでしなくても――」
「何か勘違いしてないかな、亜莉紗ちゃん。君の意見はどうでもいいんだよ。それとも何、君が暴行を受けたのは、君がドMか何かで、自分を暴行するように誰かに頼んだのかな?」
「そんなわけないじゃない。」
私は手首に浮かび上がる黄色みを帯びた青あざを見詰めながら、声を絞り出すようにしてそう呟く。
「ふざけたこと言わないでください。誰が好きであんな目に遭うと思ってるんですか。」
全身がわなわなと震える。そんな私を見て、佐藤聖羅は鼻で溜め息を吐く。
「ごめんごめん。でもそれが問題なんだよ。だから協力してくれないかなぁ。」
佐藤聖羅は両手を擦り合わせて、それをこれ見よがしに私の目の前に持ってくる。……何か腹立つな、この人。
「協力って、何をすればいいんですか。」
「君をこんな目に遭わせた人の名前を全部言ってくれれば、後は全部私がやるから。」
「……言ったら、処分するんですよね。」
「うーん、そうだねぇ」
「……それって、私が殺したってことになる気がするんですけど。」
「大丈夫だよ!私が殺/すんだから亜莉紗ちゃんは気にしなくても!」
「……私が言わなければ、その人は死なないってことですよね。」
ガタン。椅子の倒れる音が病室内に響いた。私は目の前に現れた佐藤聖羅の顔を凝視して固まった。
「ごちゃごちゃうるせーな。さっさと言えばいいんだよお前は……」
低い低い声で佐藤聖羅はそう言う。派手なカラコンの柄に吸い込まれてしまいそうだった。目を零れ落ちてしまいそうなほど見開いて、佐藤聖羅は続ける。
「お前の意見なんてどうでもいいんだよ……。強いて言うなら、自分に害を与えたと思わない人の名前は出さなければいいんだよ。まぁ暴行した奴は確実にアウトだけどね。それに……」
佐藤聖羅は顔を上げ、口角を片方だけ吊り上げてほくそ笑んだ。
「君が暴行される原因を作った奴が居たとしたら、そいつもかなぁ。」
ドキリ。心臓が凍り付いた。鼓動が一気に早くなる。それを悟ってか、佐藤聖羅は猫なで声で続ける。
「亜莉紗ちゃん、君がこんな酷い目に遭うなんてあってはならないことなんだよ。君を傷付けた奴らは罰を受けるべきなんだ。亜莉紗ちゃんはそいつらの名前を言えばいい。それだけなのに何でそんなに悩んでるの?」
佐藤聖羅がじっと私を見詰めている。私はシーツを睨み付けながら、静かに唇を噛んでいた。
「……私の口から言わなくても、調べれば分かるじゃないですか。」
「君の口から聞かないと意味がないんだよね。判断するのは君だから。」
「……何、それ。ちゃんと分かるように説明してください。人を殺したら、あなただって罰を受けることになるんですよ。」
「私は罰は受けない。私は『魔女』だからね。」
「魔女……?。」
「そう。でもこれ以上は喋れないなぁ。まぁ、どうしても聞かないと納得出来ないって言うなら……」
佐藤聖羅は目を細めてにやりと笑う。
「亜莉紗ちゃんも魔女になるって言うのなら、教えてあげてもいいけど?」
「私も、魔女に……?。」
私は顔を上げて佐藤聖羅を見た。にまにましながら見下ろす佐藤聖羅の顔は、物凄く不気味に見えた。本当に「魔女」みたいだった。
そもそも、「魔女」って何なの。「魔女」なら、人を殺しても罰せられないって言うの。そんな作り話みたいな話、有り得ない。
佐藤聖羅はふっと不敵に笑うと、椅子を立ち上げて、再びそこに腰掛けた。
「魔女になって私達に協力してくれれば、亜莉紗ちゃんはもう何の苦労もしなくて済むよ。進学するために勉強しなくてもいい。生活費の心配もしなくていい。全部向こうが準備してくれるからね。」
「そんな馬鹿みたいな話……。」
「ま、決めるのは亜莉紗ちゃんだからね。また会いに来るから、それまでに決めといてよ」
佐藤聖羅はそう言うと、鞄からスマホを取り出した。
「LINE交換しよ。話す気になってくれたら連絡してよ」
「……。」
私はあまり乗り気ではなかったけど、机の上からスマホを手に取り、LINEを開いた。佐藤聖羅がQRコードを表示し、それを私が読み込んで、私達は友達になった。
「じゃーね。元気になったらデートでもしようね!」
佐藤聖羅はそう言うと、立ち上がってドアに向かって歩き出した。
「……最後に一つだけ。」
佐藤聖羅はドアの取っ手を掴みながら、ちらりと背中越しに私を見た。
「今日の話、絶対誰にも話しちゃだめだよ。」
ぎらりと光る目が私を捉えた。まるで蛇に睨まれた蛙のように、私の全身は硬直する。
「……じゃあね!」
パッと笑顔に戻った佐藤聖羅は、ドアを開いて、病室から出ていった。
「……魔女って、一体何なの。」
一人病室に残された私は、手に持っていたスマホをぎゅっと握り締めた。
その日の夜、私はベッドに寝転びながらただひたすらスマホを弄った。
「『魔女 人殺し 無罪』……。『魔女 仕事』……。」
佐藤聖羅が言っていた言葉を思い出して、思い付く限りの単語で検索を掛けた。でも、それらしき検索結果は何も出てこなかった。出てきたのは誰かが書いたネット小説やら、アニメの公式サイトやら、作り話ばかり。
「やっぱりデタラメなんじゃ……。」
私は溜め息を吐きながら天井を仰いだ。やっぱりあの人がおかしい人だったんだ。そりゃそうだよね、私を酷い目に遭わせた人に復讐しても無罪になるなんて、そんな都合のいい話があるわけない。
「……それに、私はそんなこと望んでない。」
彼女が死んだところで、私のこの傷達がなかったことにはならない。この傷達が治っても、きっと頭の中にこびり付いた痛みや感覚は一生忘れることは出来ない。彼女が居なくなったところで、元の生活に戻れるわけじゃない。
「だったら、何やったって無駄。」
私はごろりと寝返りを打ち、スマホを枕の横へ置いた。布団を頭まで被って、真っ暗になった視界で脚をもぞもぞと動かした。
「……戻れたら、一番いいのに。」
加藤さんに暴行される前に、加藤さんと出会う前に、卯乃羽に告白される前に、……卯乃羽が私を好きになる前に戻れたらいいのに。
「殺/すなんてしなくていい。ただそれだけでいいのに……。」
目の奥から涙が溢れてくる。
「元の生活に戻りたい……。」
その日、私は涙を流しながら眠りに就いた。
叶わない願いを誓いながら。
「やっほぉ〜!久しぶり!」
「……。」
目を漫画みたいにアーチ型にしてにこにこ笑いながら現れた佐藤聖羅を、私はじっとりと睨み付けた。
「……何でまた来たんですか。」
呼んでもないのに。てかLINEすら送ってないのに。
「心変わりしてくれたかなって思ったから来ちゃいました!全然LINEくれないからわざわざ会いに来てあげたんだよ」
「は。そんなの頼んでないですし。」
自分勝手な人だな。LINE送ってないってことは、心変わりしてないってことなんだってば。
「この前も言ったけど、君の意見は割とどうでもいいんだよね。問題なのは君が実際に暴力を奮われたことと、君の心に出来た傷なんだよ。」
「私の心に傷なんて出来てませんから。帰ってください。」
「いーや、出来てるね。自分で気付いてないわけじゃないんでしょ?この前君を見てたら一発で分かったよ。腕の痣を見ながら震えてたじゃないか」
「分かったような口聞かないでくださいよ。元々あなたは無関係でしょ。」
「無関係だよ。でも仕方ないでしょ、私が亜莉紗ちゃんの担当に選ばれちゃったんだから。私だってこんな可愛げのない奴の担当なんてやりたくなかったわよ」
「……。」
ぎりりと歯を食いしばる。シーツを握り締めながら、私は佐藤聖羅の足元を睨む。
「じゃあもう会いに来なくていいですよ。あなたはやりたくなくて、私も頼んでない。だったらもう私達が会うメリットは何も無い。」
「そうはいかないんだよねー。私らのわがままが通用するほど甘くないんだよ。ま、取り敢えずさ、私の話を聞いてよ。」
佐藤聖羅は小さな鞄からスマホを取り出す。微笑を浮かべながら画面を操作し、その後私を見てにたりと笑う。
「じゃーん、これ何でしょう!」
そう言って得意げにスマホの画面を私に見せ付けてきた。
私はその画面を見て硬直した。頭の中が真っ白になった。ギギギと首を動かして、佐藤聖羅の顔を見る。
「びっくりしたー?会ってきちゃった、加藤玲亜ちゃんに」
「な、な、何で。」
その画面には、佐藤聖羅のLINEの友達欄に表示された、加藤さんのプロフィールが映っていた。
「な、何であなたと加藤さんが……。」
視界がブレる。佐藤聖羅が笑ってるのか真顔なのか、はたまた全く別の表情をしているのかも認識出来なかった。何で加藤さんと佐藤聖羅が繋がってるの。
「画面の通り、友達になったんだよ。あと、彼女、今入院してるから。」
「……は。」
加藤さんが、「入院してる」?。
「私を雇ってる人達が経営する病院に入ったから、簡単に会うことが出来たよ。にしてもモンスターみたいな子だよね、加藤玲亜って。」
「な、何で加藤さんまで入院してるのよ……。」
「うーん、病院って言っても、彼女が入ったのは『精神科』なんだよね。」
佐藤聖羅はわざとらしく口を尖らせ、顎に手を添えながらそう言う。
「せい、しん、か……?。」
言葉が詰まる。どうして加藤さんが精神科に入院してるの。
「彼女、やっぱり精神を病んじゃってたみたいでね。だから亜莉紗ちゃんを陥れたりに暴力奮ったりしちゃったんだってさ」
「な、何でそんなことあなたが知ってるんですか。」
「加藤玲亜と面会したんだよ。ちなみにこの後も会いに行く予定。」
「うそ……。」
佐藤聖羅はスマホをくるくると回しながら得意げに話す。
「他にも色々調べさせてもらったよ。加藤玲亜や君の周りの人間についてもね。」
病室内をゆっくりと練り歩きながら、佐藤聖羅は窓の方を見て微笑を浮かべる。
「君のクラスメイトは酷い人ばかりだね。特に澤井夢架や高橋綾奈は薬物をやってたそうじゃないか。それを加藤玲亜に知られて彼女の言いなりだったらしいね。」
「……。」
「川嶋レミもなかなかいい性格してるね。澤井夢架達から聞いた亜莉紗ちゃん達の話を学校中の友達に広めたらしいよ。まぁこれはまだ可愛い方だよね。」
「……。」
「後は関根卯乃羽かな。好きな人が自分を庇って苦しんでるって言うのに、自分は学校を休んで好きな人を見捨てたそうじゃないか。その好きな人は亜莉紗ちゃんなんだってね。モテモテだね、亜莉紗ちゃん。」
「見捨てたなんてそんな言い方しないでよ。私は見捨てられてなんかない……。」
声が上ずる。そんな私を見て、佐藤聖羅はおかしそうに苦笑いをした。
「もう期待を抱くのはやめなよ。君が苦しむだけだよ。」
ベッドの横に戻ってきた佐藤聖羅は、まるで哀れむように私を見下ろす。その視線が堪らなく不愉快で、それから逃げるように佐藤聖羅から視線を逸らした。
「そんなのあなたに何が分かるんですか。私達の何が。」
「だって関根卯乃羽は、加藤玲亜と付き合い始めたんでしょ?」
「それは……っ。」
「君に告白までしたのに、随分と気が変わるのが早いよね。」
「……。」
それはきっと、私がきちんと返事をしなかったからだ。卯乃羽は「もしまた、私が学校に行けるようになって、みんなの誤解も解けたら、告白の返事、聞かせてくれないかな」って言ってた。私が入院する前、まだ卯乃羽は学校に来れてなかったし、みんなの誤解も解けてなかったけど、きっと卯乃羽は待てなかったんだ。そりゃそうだよね、告白して一ヶ月以上返事が来なかったら、諦めて別の人を好きになるに決まってるじゃない。
「だから、仕方ないんです……。」
私は震える声でそう呟いた。
「ふーん。ま、他人の恋愛事情につべこべ言うつもりはないから私は黙ってるわー。」
佐藤聖羅は興味無さそうに頭の後ろで手を組んだ。
「さ、話を戻そうか。
私は今から加藤玲亜に会いに行く。亜莉紗ちゃん、それに同行してくれないかな?」
大きな瞳で、佐藤聖羅はじっと私を見詰める。
「……断ったら、どうするんですか。」
尋ねてみると、佐藤聖羅はうーんと唸った後、
「そしたら素直に引き下がるかな。ま、同行した方が亜莉紗ちゃんに取ってメリットになると思うけどね。」
「……それは、どうしてですか。」
「単純な話さ。このまま加藤玲亜に会うことを拒み続ければ、君が何の真実も知れないまま一生苦しみ続けることになるからね。」
佐藤聖羅は八重歯を見せながらそう言う。
加藤さんに会わなかったら、私が一生苦しみ続けるって言うの。意味が分からない、私は加藤さんに会って得るものなんて何もない。
「結果を言うと、彼女の処分はもう決まったのさ。」
「……え。」
「彼女は完全な黒だ。だから彼女は近々処分されるんだよ」
「え、え……。」
戸惑いを隠せない私を見て、佐藤聖羅は興味なさそうな顔でスマホの画面を操作し出した。
「だから加藤玲亜が死ぬ前に色々聞いといた方がいいと思って。ほら、催促されてるからはやく決めてよ」
「待って、待ってよ……。」
「何も直接彼女と顔を合わせろって言ってんじゃないよ。君は病室の外から会話だけ聞いてればいいよ。私が全部話すように誘導するから。」
佐藤聖羅はイラついているように見えた。片足で貧乏揺すりをしながら、冷たい目でスマホの画面と私を交互に見る。
早く決めなきゃ。直接顔を合わせるわけじゃないなら行ってもいいかな。でも、加藤さんの声を聞いても正気で居られるか分からない。もし加藤さんが怒鳴り出したりしたら、あの日の光景を思い出してしまうかもしれない。ずっとしまい込んでいた恐怖の感情が、また呼び覚まされてしまうかもしれない。
でも。佐藤聖羅は、もし私が加藤さんに会わなければ、「何の真実も知れないまま一生苦しみ続けることになる」って言ってた。それは一体どういうことなのかな。佐藤聖羅は、その「真実」を知ってるんだろうか。
「その耳でちゃんと聞きな、亜莉紗ちゃん。」
佐藤聖羅はそう言いながらスマホを鞄にしまった。
「……さ、どうする?」
ドッドッと心臓が低い音で鼓動を刻む。私は膝にかけてあった布団を端の方に避けた。
「……おっけー、そうこなくっちゃ」
ベッドの柵を下ろしてベッドから降りる私を見て、佐藤聖羅は満足そうに微笑んだ。
「……。」
車に揺られて約十分。私は、隣で窓枠に肘をつきながら窓の外を眺める佐藤聖羅をちらりと見た。その後、斜め前の運転席に座るスーツ姿の男性を見る。
この人は一体誰なんだろう。佐藤聖羅が連絡したら、すぐにこの人が病院まで黒塗りの車を走らせてきた。その車に乗り込んで、加藤さんが入院している精神科に向かっているところだ。
さっきから誰も何も言葉を発していないので物凄く気まずい。運転手のスーツの男性は、真っ黒のサングラスを掛けていて厳つい雰囲気だし、ずっと無言でガムを噛んでいて何だか怖いし。佐藤聖羅は薄ら笑いしながらずっと流れていく景色を眺めているし。私はそんな二人を交互に見ながら、最終的に視線を自分の足元に落ち着かせた。
「……そろそろ着きますんで」
「は、はいっ。」
いきなり運転手の男性が低い声でそう言ったので、私は思わず返答してしまった。佐藤聖羅がぷすっと含み笑いする。私は恥ずかしくなって顔を上げられなかった。
「じゃ、また迎えに来ますんで呼んでください」
「ありがと〜」
私と佐藤聖羅を病院の前に降ろして、黒塗りの車は走り去っていった。
「さてと」
佐藤聖羅はうーんと伸びをし、病院の建物を見上げる。
「行きますか、亜莉紗ちゃん。」
「……はい。」
私の返事を聞くと、佐藤聖羅は満足げににこっと笑った。そして病院の中に入っていく。
中に入ると、狭い通路が向こうまで続いていた。普通の病院のような受付や待合室はない。ただただ、細長い廊下が続いているだけだった。
私はごくりと唾を飲み込む。佐藤聖羅はそんな私をちらりと振り返って、また前を向いた。
「ここは普通の病院じゃないからね。『病院』って言うよりかは『施設』って言った方が正しいかな。
ここは色んな理由で普通に生活を送らせるのは危険と見なされた人達が入る施設なの。」
「『施設』……。」
「そう。ま、表向きは病院ってことになってるけどね。関係者は立ち入れないようになってるけど。亜莉紗ちゃんは特別なんだよんっ」
佐藤聖羅はそう言いながら廊下を突き進んでいく。すると、突き当たりにエレベーターの扉が見えた。佐藤聖羅は上りのボタンを押す。
「えーと、何階だったっけなー」
佐藤聖羅は、スマホを取り出して確認しながらそう呟く。そのまますぐに到着したエレベーターに乗り込んだ。
「四階押して、亜莉紗ちゃん」
私は言われるままに四階のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まり、ゆっくりと上昇し出した。
四階に辿り着くまでの数秒間、私達は無言で扉の上の光る数字を眺めていた。私の心臓は、ずっとバクバクと踊り狂っていた。
ポーンと言う音と共に、エレベーターの動きは止まった。開いた扉の向こうには、無数の部屋がずらりと並んでいた。
「さ、行こう。」
私の後ろに立っていた佐藤聖羅が、私を追い越して歩いていく。
「病室のドアを開ける前に、ドアの影に隠れてね。」
私はそれに無言で頷いた。
佐藤聖羅が一歩歩を進めるたびに心臓が飛び出してしまいそうになった。まるでスローモーションになったみたいに時間の流れが遅くなったように感じた。
大丈夫。加藤さんに会っても、私は大丈夫だ。もうあれから一週間経ってるんだもの。こんなことにいつまでも怯えてたら仕方ないでしょ。
そう自分を励ましながら歩いていると、こつんと佐藤聖羅の背中に鼻をぶつけてしまった。
「った。」
「あ、ごめんごめん。着いたよ、亜莉紗ちゃん」
振り返った佐藤聖羅が小声でそう言う。左側にある白いドアを見ると、手書きで「加藤玲亜」と書かれた白いプレートが貼ってあった。
「じゃ、そこの椅子に座って聞いてて。ちゃんと加藤玲亜からは見えない位置になってるから動かさないでね。」
律儀に椅子まで用意してくれてたみたいだ。私は無言で頷いてそこに腰掛ける。
佐藤聖羅がコンコンと二回ノックをする。中からは何の返事も聞こえてこなかったけど、佐藤聖羅はガラリとドアを開けた。私は太ももの上で揃えた自分の手元を見ながら、じっと息を押し殺した。
「こんにちは、玲亜ちゃん。」
佐藤聖羅はドアを開けたまま、病室に入っていった。相変わらず心臓が暴れ狂っている。
「……何でドア閉めないんですか?」
くぐもったそんな声が聞こえてくる。私はバッと顔を上げて、病室の方を見た。
「いやー、換気した方がいいと思って。窓も目隠しされてて開けれないでしょ?」
佐藤聖羅はさらりとそれっぽい嘘を言う。この人、相当慣れてるな。
「……あ、そ。また色々質問責めしに来たんですか?」
病室の中から聞こえてきた不機嫌そうなその声は、確かに加藤さんのものだった。
「そんな露骨に嫌がらなくてもいいじゃないか。こんな何もない病院で一日中一人じゃ君も退屈でしょ?」
佐藤聖羅は苦笑いしながらそう言う。ちらりと病室の中を見ると、加藤さんのベッドの端っこと佐藤聖羅が見える。どうやら加藤さんの頭はこちら側にあるらしく、見えているベッドは足側らしい。足が動いているのか、シーツがたまに波打っている。
「まぁ、それもそうですね。何で面会もしちゃだめなんですか?」
「規則が厳しいんだよね、ここの病院は。」
「……家族はいいとして、せめて彼女にくらい会わせてくれてもいいじゃないですか。」
「ははは。身内以外と面接させる方が難しいよ」
佐藤聖羅は面白そうに笑う。……「彼女」って、卯乃羽のことだよね。二人が付き合い始めたって言うのは本当なんだ。
震える自分の手を見て、私は顔をぐしゃりと歪ませた。やっぱり本当だったんだ。やっぱり私が居なくなって正解だったんだ。私が居なくなった途端、こんなに簡単に解決するなんて。
「さて。今日は君に訊きたいことがあって来たんだ。単刀直入に言うけど……」
一瞬、佐藤聖羅の目付きが鋭くなる。
「玲亜ちゃん、君はどうしてあの日、被害者の女の子に暴行しちゃったのかな?」
その後、目を細めてにこりと笑う。
加藤さんは何て答えるんだろう。私はごくりと唾を飲み込みながら、加藤さんの返事を待った。
「何でそんなことあんたに言わなきゃいけないんですか?」
「一応、私は君の“カウンセラー”だからね?」
あ、そういう設定だったんだ。
「早めに話した方がいいと思うよ?君が正直に答えるまで帰らないからね。」
佐藤聖羅はそう言って笑顔で圧をかける。諦めたのか、加藤さんは短い溜め息を吐いて、嫌々答えた。
「……ムカついたからですよ。ただ単に、あの子がムカつくからです」
「へぇ?普通はムカついただけであんなに殴ったりしないよね、相当だったんだ。」
「はい。存在自体がムカついたんですよね〜」
まるで鈍器か何かで胸元を思いっきりぶん殴られたような感覚になった。冷や汗が太ももや手のひらに溢れた。……分かってはいたけど、私、加藤さんにこんなに嫌われてたんだ。
「それはどうして?君とあの子は元々面識なかったんだよね?」
探りを入れるかのように佐藤聖羅が問う。
「まあね。私は一方的に知ってましたけど。だから私から近付いたんです」
「ほほう、君は元々その子のことが嫌いだったってことかな?」
「はい。……その子は、今の彼女の好きな人だったんですよね」
一瞬間をあけて、加藤さんが答える。
「今は彼女は私だけを見てくれてるけど、ずっとそいつのことが好きだったので」
「へぇ〜。じゃあ君にとってその子は『恋のライバル』……いや、『邪魔者』だったんだ。」
「……何で言い直したんですか?」
加藤さんにそう訊かれて、佐藤聖羅は煽るかのように目を見開いてははっと笑った。
「だって君は元々はその『彼女』の眼中に居なかったってことだろう?ライバルですらないじゃないか!」
低い笑い声が病室内に響いた。ちょっと、何煽ってんのよ。そんなこと言われたら、加藤さんの地雷を踏むに決まってるじゃない。私は固唾を呑んで病室内を見る。
「……まぁ、それはそうですね。でも結果が全てでしょ、彼女は最終的にあいつじゃなくて私を選んだんだからいいんです」
予想に反して、加藤さんは落ち着いてそう言った。その声を聞いても、怒っているようには感じられなかった。
「君をあそこまで暴力的にさせたのは『彼女』の好きの対象が君じゃなかったからなのかな?」
「……まぁ、そうですね」
「うんうん……。好きな人を他人に取られるのって、結構しんどいもんね。」
「そうなんですよ!それにあいつは恋愛したことないらしいんです。好きな人が他の誰かを好きな気持ちも分からない。なのに卯乃羽ちゃんに好かれてるのがほんとに許せなかったんです!」
じりじりと全身の肌に汗が滲み出してくる。体の内側から響いている心臓の音をBGMに、耳からは二人の会話だけが聞こえてくる。
「私の方が卯乃羽ちゃんを好きだったのに、私じゃなくてあいつが選ばれるなんておかしいでしょ?」
そう言う加藤さんの声は震えていた。……泣いているのかもしれない。けど、それを聞いた佐藤聖羅は、しめしめと言わんばかりにほくそ笑んでいた。
「うんうん、そうだねぇ。辛かったんだね、玲亜ちゃん。」
そう言って加藤さんの枕元に移動し、どうやら背中を撫でたみたいだ。そしてすぐに定位置に戻ってくる。
ぐすんと鼻を鳴らしながら、加藤さんは涙声で続ける。
「……私、ほんとに卯乃羽ちゃんが好きだったんですよ」
佐藤聖羅は無言でそう話す加藤さんを見下ろす。
「私、こんな性格だから、友達が一人も出来なかったんです。入学してすぐの頃は、みんな私と仲良くしてくれました。……でも、私の内面を知った途端、みんな私を避け始めました。
私、ずっと前からこんなんだったから、中学の時もみんなに避けられてたんです。気に入らない子が居ると、すぐ排除したくなっちゃって、攻撃しちゃうんです。
……初めてだったんですよ、一緒に悪口を言う以外で仲良くしてくれたのは、卯乃羽ちゃんだけだったんです。」
思わず聞き入ってしまった。加藤さんは、自分の性格や周りに避けられていることを自覚してたんだ。
「私のことを理解してくれたのは、卯乃羽ちゃんだけだったんです。
なので、ぽっと出の亜莉紗ちゃんなんかに取られるのが許せなかったんです。」
そうか。彼女にとって、私は「ぽっと出」なんだ。私と卯乃羽はずっと友達だったけど、「ぽっと出」なんだ。
「あの日、夢架達に卯乃羽ちゃんの後をつけるように言って、告白の現場に立ち会わせたのも私です。亜莉紗ちゃんを孤立させるために嘘の噂を流すように言ったのも私。多分、私ビョーキなんです。」
早口で加藤さんはそう言う。佐藤聖羅はそれを聞きながら、口を猫みたいにして眉を八の字にした。
「一応自分が病気な自覚はあったんだね。じゃないとこんなとこに強制入院されないしね。うん、君はビョーキだ。」
佐藤聖羅はうんうんと一人で納得したように何度も頷く。
「どんな理由があるにしろ、他人を傷付けようと思ってしまうのは病気なんだよ。昔はそういう人がたくさん居たから問題が絶えなかったんだ。でも今の時代は大丈夫。君もきっと救済されるから。」
にたりと目と口を三日月みたいにして佐藤聖羅が笑う。その笑顔を見た時、背筋がぞくっとした。
「君も辛かったんだね。でももう大丈夫だよ、私が救ってあげるから。
……で、だ。他にもあの子――関口亜莉紗ちゃんを虐めたりしてた人達が居たら教えてくれないかな?」
どきりと心臓が凍り付く。私は病室から視線を逸らして、冷や汗が浮かび上がる自分の手のひらを見る。
「……いっぱい居ますよ。彼女、人気者の卯乃羽ちゃんの隣に居たからみんな優しくしてたけど、ほんとはあんな子誰も興味なかったんですよね」
「おおっとぉ、……くくっ、あんまり悪く言わない方がいいよぉ?」
佐藤聖羅は笑いを抑え切れずに所々で吹き出しながらそう言う。何笑ってんの、と思ったけど、それ以上に加藤さんの発言がショック過ぎた。
「みんな影では嫌ってました。特に彼女のクラスメイトは……」
「名前を聞いてもいいかな?」
「夢架と、綾奈と、モモです。まぁ、モモは多分夢架達に合わせてただけだと思いますけど。二人はいつも亜莉紗ちゃんを見るとイライラするって言ってました」
「へぇ……。小耳に挟んだんだけど、川嶋レミちゃんは?」
「ああ、レミは違います。レミはバカなんで、私が流させた嘘の噂をバカ正直に信じちゃっただけです。元々はレミはイツメン達と居ても、レミだけは亜莉紗ちゃんの悪口は絶対言わなかったですし」
「ふーん。他のクラスメイトは?」
「あとは知らないです。男子達はそもそも興味なかったみたいですし。……卯乃羽ちゃんは、言わずもがなです。」
「そうかそうか、ありがとう。」
「こんなこと聞いて何になるんですか?」
「まぁね。っさ、今日はもう帰ろうかな。」
佐藤聖羅はそう言ってちらりと私を見た。一瞬目が合ったけど、すぐに逸らしてしまった。
「たくさん話してくれてありがとう。次会う時の参考にさせていただくよ。」
意味深な言葉を残して、佐藤聖羅はこちらに向かって歩いてくる。
「……佐藤さん」
加藤さんに小さな声で呼ばれ、佐藤聖羅は振り返る。
「ん?」
「……私の話、聞いてくれてありがとうございました」
そう言われると、佐藤聖羅は眉毛を吊り上げて加藤さんを見た。
「……もちろんだよ。私は君のカウンセラーだからね」
そう言って、佐藤聖羅は病室から出てきた。
「じゃあ、またね。玲亜ちゃん」
佐藤聖羅はそう言うと、病室のドアを閉めた。
「行こう。」
小声でそう言いながら、佐藤聖羅は私の腕を引っ張った。長い長い廊下を歩き、エレベーターに辿り着く。
エレベーターに乗り込んだところで、佐藤聖羅がいきなり大きく息を吐いた。
「っはー、疲れた!」
壁に寄り掛かりながらそう叫ぶ。
「いやー、ただのめんどくさいメンヘラだったね!てかヤンデレ?分かんないけどさー、泣かれてもこっちは困るんですけど!自分で撒いた種だろー?」
佐藤聖羅は駄々っ子みたいに地団駄を踏む。そのたびにエレベーターがガタガタと揺れる。
「ほんと自分勝手だよね。よく今まで売られなかったと思うわ、あの子」
「売られる?。」
「あー、いや何でもない」
一階に着いたエレベーターから降り、私達はまた長い通路を歩いて病院から出た。
「お迎え呼ぼっか。……の前に。」
ぐいっと佐藤聖羅が私の頭を掴んで無理矢理自分の方に向けた。私は驚いて目を見開いた。
「もう決まったよね?誰を処分するか。」
ギラギラと光る瞳が私を捉えた。私は何とか佐藤聖羅の手から逃れようとしたけど、がっちりホールドされて動かすことも出来なかった。せめて視線だけ外して、私は小さな声で答える。
「そんなの、誰も処分しないに決まってるじゃないですか。」
「……はぁ〜?」
素っ頓狂な声を上げながら、佐藤聖羅は私の目を凝視してきた。
「あんた正気?もしかしてあの子が泣いちゃったから同情してんの?『玲亜ちゃんが反省してるなら許してあげてもいいかなっ』ってか?」
ぐぐぐと佐藤聖羅の指が頭皮に食い込む。爪が長くて痛い。
「優しさのつもりかもしれないけど、あの子またいつかやらかすよ。またあんたみたいな怖い思いする人が出るんだよ?」
「そんなのその人が処分してって頼めばいいでしょ。私は加藤さんに死んでほしいわけじゃない……。」
佐藤聖羅は無言で私の顔を見る。が、すぐに視線を逸らして舌打ちをし、突き放すように私の頭から手を離した。
「ふーん、あ、そ。じゃー私はどうでもいいや。勝手にしたら?」
冷めた目で私をチラ見し、佐藤聖羅はスマホを取り出して操作し出した。そしてそれをおもむろに耳に宛てがう。
「あー、もしもし?迎え来てもらえるー?」
どうやらさっきのスーツの男性に電話を掛けているらしい。
「はいはーい、なるべく早く頼むねー?こいつと居ると反吐が出そうだから」
佐藤聖羅はそう言うと、スマホを耳から話して鞄にしまった。
「私、自分は傷付いたくせに他人を……ましてや加害者を気遣って自己犠牲する精神の奴大嫌いなんだよねー。
もうあんたと会うことは一生ないかな。バイバイ、関口亜莉紗。」
感情の籠っていない声でそう言うと、佐藤聖羅は私から十歩ほど離れて建物の壁に寄り掛かった。
数分後、到着した黒塗りの車に乗り込んでも、佐藤聖羅は一言も言葉を発さなかった。
私はただただ自分の足元を見詰めた。さっきの加藤さんと佐藤聖羅の会話が、頭の中を駆け巡っている。
……別に、私は加藤さんを気遣って彼女を処分しない選択をしたんじゃない。普通に考えて、傷付けられたからその人を殺してくれって頼む方がおかしいじゃない。
……この人はそれが当たり前みたいに言ってるけど、人を殺/すのは当然じゃない。悪い人だからって、簡単に死んでほしいなんて思わない。
「……もうすぐ着きますよ」
運転手の声ではっとして窓の外を見ると、私が入院している病院が見えた。
「その子降ろしたらそのまま私ん家向かって」
佐藤聖羅は冷たい声でそう言う。
「……じゃ。足元気を付けて。」
病室の前で降ろされた私は、走り去っていく車の後ろ姿をぼーっと眺めた。
「……。」
その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと眺めていた。
「……はぁ。」
しとしとと静かに雨が降っている。灰色の窓を眺めながら、私は溜め息を吐いた。
あれから、もう三日ほど経っている。もちろん佐藤聖羅は会いに来てないし、連絡も取っていない。
もう一生会うことはないって言われたけど、ほんとにもう私に会う気はないんだろうな。何か地雷踏んじゃったみたいだし。佐藤聖羅は、傷付けられたら復讐することこそが正義だと思ってるみたいだった。
……あそこまでキレるなんて相当だよね。過去に何かあったんだろうか。私みたいに、誰かに傷付けられたりしたんだろうか。もしそうだとしたら、佐藤聖羅はその加害者をどうしたんだろう。
私、佐藤聖羅について何も知らないな。年齢も、どこに住んでるのかも、学生なのか、何の仕事をしているのかも。「加藤さんのカウンセラー」って言うのは、きっと加藤さんに近付くための嘘だと思うし。ほんとに、なんにも知らない。
逆に、佐藤聖羅は私のことを何でも知っていた。私の名前も、私が入院することになった経緯も、通っている学校も、周りの人や人間関係すら把握されていた。
一体何なんだろう。彼女の目的は何なのかな。私が「私を傷付けた人達を殺して。」って言えば、彼女は満足だったんだろうか。
でも、いくら考えても、何でそうなるのかが分からなかった。私を傷付けた人が居なくなったところで、佐藤聖羅に何のメリットがあるって言うの。他人の復讐を肩代わりしたって、何の得もないじゃない。
あ、もしかして、後から多額のお金を請求されるとか。「代わりに殺してあげましたよね?」って言われて、実家まで差し押さえられちゃうかも。危なかった、怒らせてでも断って良かった。
……でも。私はちらりと枕元に置かれたスマホを見た。
ここに入院してから、唯一会いに来てくれたのが佐藤聖羅だった。誰もLINEの一つもくれない中、佐藤聖羅は二回も私に会いに来てくれた。
「……ちょっとは、嬉しかったんだけどな。」
自虐的に笑う。理由は飛んでもなかったけど、「私に会いに来てくれた」と言う事実が嬉しかった。他の理由だったら、もっともっと嬉しかったのに。
「……ふふっ。」
急に馬鹿らしくなって、私はボフっと枕に顔を埋めた。手探りでスマホを手に取り、画面をつける。
「……久しぶりにインスタでも見るか」
既読がついちゃうからストーリーは見ないようにしよっと。クラスメイト達は私のことを嫌ってるか興味無いかの二択だし、私に見られてもいい気分しないよね。……あ、嫌なこと思い出したな。
そうか、私、みんなに嫌われてたんだなぁ。卯乃羽がそばに居てくれたから、私にもついでに優しくしてくれてたんだよね。
「……。」
画面の上の方に並んだストーリーには、たくさんのアイコンが並んでいた。どれも友達や恋人とのツーショットや、誰かに撮ってもらった後ろ姿や、二つでペアになるペアアイコンだ。きっとそれらをタップすれば、青春を謳歌しているクラスメイト達のストーリーが出てくるんだ。
「……。」
やっぱり見ないでおこう。
「あれ。」
ふと、DMに新着の通知が来ていることに気が付いた。通知欄には新しいフォロワーのアイコンもある。
何気なくDMをタップすると、私は思わず眉を顰めた。
「何これ……。」
一番上に表示されているアイコンと名前を見て、私は絶句した。
『Leia♡』と言う名前の横には、卯乃羽と加藤さんのツーショットのアイコンが表示されていた。
Leia……れいあ……玲亜。やっぱり、これは加藤さんのアカウントだ。でもどうして。加藤さんと私は、インスタは繋がってなかったはず。
「……あ。」
通知欄を開いて、私は納得した。
十日前に、加藤さんからフォローされていた。
「……ほんと、これ見よがしに見せ付けやがって。」
馬鹿らしくなって私は思わず笑ってしまった。DMには、遡っても遡っても、加藤さんのストーリーが延々と表示され続けていたのだ。
十八時間前と三時間前に投稿されたストーリーを見ると、背景に紛れさせて気付かれないようにしてるけど、きちんと私がメンションされていた。
そのストーリーの内容は、両方とも卯乃羽とのツーショットだった。片方は犬のエフェクトで撮った自撮りで、もう片方はプリクラだった。
何これ。私への当て付けなのかな。
「……こんなにアピらなくたって、もう卯乃羽は加藤さんのことが好きなんでしょ。」
スマホを握った指に力が入る。爪が白っぽくなって、画面がギチギチと音を立てる。
もういいよ。卯乃羽は私とは絶縁したんだから、自慢してこないでよ。もう私は関係ないじゃん。二人が幸せならそれでいいでしょ。なのに何で更に私をこんな気持ちにさせるの。
私はスマホを壁に投げ付けた。バキッと音を立てて、スマホは床に落ちる。
「はぁっ、はぁっ、……うう……。」
シーツを蹴り飛ばしてベッドから降り、スマホを拾いに行く。
「……。」
無言で見下ろしたスマホの画面はバキバキに割れていた。
「もうやだ……。」
ガン、ガン、ガン。一定の間隔で病室内に鳴り響く音は、私が足でベッドの柵を蹴っているのが原因である。
「ふざけんなよ。絶対分かっててやってんでしょ。」
ガリガリと頭皮を掻き毟る。根元が黒くなった汚く黄ばんだ白髪がはらはらとシーツに散らばる。
「もう満足したでしょ。何でここまですんのよ。」
ガンガンガン、ガリガリガリ。
「関口さん、他の患者さんの迷惑になるから静かにしてくれないかな?」
いつの間にか開いていたドアから看護師が顔を覗かせていた。くまの酷い目でそれを見て、私はうんと頷いた。が、足は止まってくれない。
「……ふぅ。また拘束かな。」
看護師はそう言って溜め息を吐くと、後ろに控えていた複数の看護師や医者と共に病室に入ってきた。私の足は拘束器具で固定され、動かせなくなった。
「また暴れたら今度は手もだからね。」
そう念を押されて、私はまた無言で頷いた。それを確認した看護師達は、病室から出ていってしまった。
「……はぁ。」
私は手に握ったままだったスマホをぼーっと眺めた。ついたままの液晶には、加藤さんとのDMの画面が表示されている。
「……。」
私がこんな風になってしまったのには訳がある。
『ありさちゃん、ストーリーみてくれたんですね!』
そんなDMが来たのが始まりだった。私が加藤さんのストーリーを見てしまったから、閲覧の部分に私が表示されてしまったんだと思う。
『やっと見てくれて嬉しいです!明日からもメンションするので良かったら見てください♪』
まるで何の悪気もないような文体の裏に潜んだ加藤さんの本性を私は分かっていた。私に見せ付けるためだけに、毎日私にメンションしてストーリーを載せているのだ。
昨日はレミ達との写真に『学校帰りのみんなに久しぶりに会ってきた!あの子どうしてるかなーって話で盛り上がった笑』という文字が添えられていた。一昨日は、夢架と彩奈とモモとのグループLINEのスクショ。今日はと言うと、また卯乃羽とのツーショットだった。加藤さんが卯乃羽に抱き着いて、それを鏡越しに撮ったものだった。
『大好きな親友♪』と書いてある。あ、一応付き合ってるってことは隠してるんだ。確かに傍から見れば、ただの仲良し過ぎる友達同士だ。
「……。」
ふつふつとお腹の底から熱いものが湧いてきた。あ、またこの感覚。卯乃羽と加藤さんのツーショットを見るたびに、この感覚に襲われるようになった。夢架やレミなど私のクラスメイトと加藤さんが仲良くしている様子を見ると、毎回のようにメンタルがバキバキに砕け散ってしまうような感覚になった。私は彼女達と友達になれなかったのに。私だけ、誰とも友達になれなかったのに。
もう、嫌。何も見たくない。なのに毎日インスタを開いてしまう。加藤さんのストーリーを、一つも欠かさず見てしまう。
「もう嫌、死にたい。」
ふと口に出したその言葉は、ずっと言わんとしてきた単語だった。ついに口から零れてしまったのがおかしくって、私はとち狂ったように一人で笑った。
「はははっ、はは……。」
指が勝手に動く。まるで全力疾走した後のように息が上がる。スマホの画面が地震のように大きく揺れる。
「……。」
Googleの検索欄に浮かんだその文字を見下ろして、私は今にも閉じてしまいそうな力の入らない瞼でゆっくりと瞬きした。
もう、何もかもが限界だった。
『自殺 方法』
ずらりと出てきた検索結果を一つ一つ見る余裕もなかった。私は咄嗟に1番上に出てきた項目を押す。
『子供用こころの健康相談ダイヤル』
もう深く考えることも出来ずに、私はそれをタップした。
『もしもし、こころの健康相談ダイヤルです。』
発信音の末、若い女性の声が出た。
『どうかされましたか?』
その柔らかい声色に、私は思わず泣き出しそうになった。
「……あの。」
びっくりするくらい声が震えた。私は何度も深呼吸をし、やっと言葉を発することが出来た。
「もう何もかも嫌で消えてなくなりたいです。」
今までどんなに辛くても誰にも弱音を吐かなかった私が、顔も名前も知らない相手にこんなことを打ち明けるなんてバカみたいだ。心の中でそう自嘲した。
『そうなんですね。こちらもあなたの力になりたいので、まずお名前を教えてもらってもいいかな?』
「……関口、亜莉紗です。」
『関口亜莉紗ちゃんね。関口、関口……ああ。』
何やら電話の向こうの女性はそう呟く。
『関口亜莉紗さんですね。担当の者に代わります』
「え、担当って……。」
その返事は返ってこなく、保留のメロディが流れてくる。
「担当の者」って誰なんだろう。そもそも何の担当?。
プツリ。保留のメロディが鳴り止み、私ははっとしてスマホを耳に近付けた。
『もしもし。』
スピーカーから、低い声が聞こえてくる。
「……っあ。」
私は思わず口を抑えた。何故か涙が溢れてきて止まらない。零れ出しそうになる嗚咽を必死に我慢して、私は目を瞑った。
『……久しぶりだね、亜莉紗ちゃん。』
佐藤聖羅のその声は、気味が悪いくらい優しい声だった。
がらりと病室のドアが開き、息を切らした佐藤聖羅が入ってくる。
「ごめん、待った?」
「いえ、まだ電話切ってから十分しか経ってないです。」
「ははっ……。全力疾走で来たからね。まー走ったのは私じゃなくて車なんだけど。」
佐藤聖羅はそう言うと、ドアを閉めてこちらに歩いてくる。隅の方に置いてあった椅子にどかりと腰掛けた。
「はー、エレベーター待てなくて階段で来たから疲れたぁ。」
そう言いながら、佐藤聖羅は私の方を見る。
「……思ってたより落ち着いてるみたいで安心したよ。」
そして少し苦しそうに笑った。
「……もう怒ってないんですか、この前のこと。」
私はそんな佐藤聖羅の顔を見れずに、自分の膝辺りのシーツを眺めながらそう尋ねる。はぁっと大きな溜め息の音が聞こえてきて、一瞬言わなきゃ良かったと後悔した。
「そうも言ってられないでしょ。まさか亜莉紗ちゃんから電話が来るなんて思ってなかったし」
「何であなたが出たんですか。あれ、子供用の自殺防止のためのダイヤルですよね。それに私の『担当』って……。」
「ずっと言ってたじゃん、私はあなたの『担当』なの。もっと言えば、『担当の魔女』なのよ」
そう言えばことあるごとに担当担当言ってたっけ。
「で、その『魔女』って何なんですか。」
「おおっと、それはまだ話せないな。先に私の質問に答えてくれる?」
佐藤聖羅はオーバーリアクションでそう言う。まるで芝居してるかのように手を私の方に突き出してくる。
「……質問に寄りますけど。」
「ま、私の質問に答えてくれないなら君の質問にも答えないまでだからね」
意地悪く笑いながら佐藤聖羅は言った。
「で、何なんですか。」
「君が自殺防止用のダイヤルに電話したってことは、『誰かさん』に精神的苦痛を与えられて辛いってことでいいんだよね?」
「……はい。」
私が頷いたのを見て、佐藤聖羅はしめしめと言わんばかりにほくそ笑む。
「うん。で、君はそいつらをどうにかしてほしいって思ったんだよね?」
「……はい。ほんとは私が消えれば全部解決すると思ってるんですけど……。」
「あーはいはい、そういうのいいから。君が消えられないなら、あいつらが消えてくれないと解決しないことだよね?」
「…………はい。」
「君は死ぬ必要ないんだよ。君は何も悪くない。何で被害者はずっと苦しむのに加害者はのうのうと生きていけるの?おかしいと思わないかい?おかしいんだよ、そしてそんな時代はもう古い。」
いつの間にか、目の前に佐藤聖羅の顔が現れていた。私は目を満月のようにかっ開いて、瞬きすらしない佐藤聖羅の目を凝視した。
「加藤玲亜達を処分しよう、亜莉紗ちゃん。」
にこり。そんな効果音が聞こえてきそうなほど清々しい笑顔だった。今にも崩れそうな積み木のようだった私の精神に、佐藤聖羅の言葉は甘すぎたんだ。
「……はい。」
涙で霞んだ視界で、佐藤聖羅は悪魔みたいな顔で笑った。
夕日が病室をオレンジ色に染めていた。そんな中、佐藤聖羅はずっとスマホを弄っている。
「……そう言えば加藤さん、退院したんですね。」
ふとそう呟くと、佐藤聖羅は顔を上げずに答えた。
「ああ。彼女、この前私達が行った後外出許可が出たんだよ。君の判断が遅かったから、危険人物から外されたんだよね」
「卯乃羽とプリ撮ったり、学校に遊びに行ったりしてました。みんな、私が暴力奮われても何とも思わないんだなって分かって、ちょっと悲しくなりました。」
自虐気味に笑う。夕日のオレンジが赤に変わり、焼けるように私の右頬を照らした。
「……彼女が退学した理由、学校側が隠蔽してるんだよ。
だから加藤玲亜は、他人に暴力を奮って辞めさせられたことを関根卯乃羽以外の生徒達に知られていない。何も悪くないってことになってるんだよ。……許せないでしょ?」
「みんな自主退学か何かだと思ってるんですね。……だからみんな普通に会ってたんだ。」
「私に暴力を奮ったと知った上で仲良くしている」ってわけじゃなかったんだ。……これは知れて良かったかも。でも。
「加藤さんは退学しただけで後は何も変わらない。友達も居るままだし、好きな人とも両思いになれた。」
喉の奥から硬くて重いものがせり上がってくるような感覚になった。それが涙として目からボロボロと零れ落ちる。
「私は何もかも失ったのに。学校生活も、友達も、大切だった人も、将来も、普通に過ごしてた日々も、全部失った。私はもう元には戻れないのに。」
「……亜莉沙ちゃんは、これから色んなものをまた手にすることが出来るよ。」
佐藤聖羅の顔が、半分だけ真っ赤に染まった。
「でも、彼女はもうこれ以上何も手にすることが出来ない。」
涙が滝のように流れ続ける私の頬を、佐藤聖羅が指で拭った。
「君には、これからたくさんの幸せが待ってる。だから……」
口角が勝手に下がる。私は我慢出来なくなり、嗚咽を漏らして泣き出した。
「私達の『仲間』になってよ、亜莉沙ちゃん。」
止めどなく流れる涙を飲み込みながら、私はゆっくりと大きく頷いた。
この時、もうとっくに壊れてしまった私の心に寄り添ってくれたのは、佐藤聖羅だけだったから。
私は、佐藤聖羅の「仲間」になることを決意した。
めっちゃ良かった!
小説出せると思う!
夜中の3時だけどずっと読んでましたぁw
>>181
ありがとうございます!とても嬉しいです🥲🥲
「亜莉紗ちゃん、今日の体調はどうだい?」
翌日、朝一番に佐藤聖羅がやって来た。私は朝食を食べている最中だった。まだ八時なんですけど。
「まぁまぁです。処方された薬飲んだら気分も落ち着きました。」
「あー、そう言えばそうだったね。」
佐藤聖羅は少し気まずそうに視線を泳がせた。
「『鬱病』って、診断されたんだっけ。」
カチャン。お箸をお盆に置いて、私は黙り込んだ。そんな私を見て、佐藤聖羅は慌てた様子で私の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ!私だってこう見えて色々あるし!誰だってなっても仕方ないものなんだから!」
わははと軽快に笑う佐藤聖羅。
「……ずっと気になってたんですけど、佐藤さんってもしかして男の方なんですか。」
ぼそりと呟くように尋ねる。佐藤聖羅は笑顔のまま固まり、笑い声もぴたりと止めてしまった。
「…………バレてたんだね。」
そして、どこか寂しそうな目をして、苦しそうに笑った。
「そう。私は男。体も、心も、正真正銘の男だよ。」
真っ白な朝の日差しが病室を明るく照らす。背中がじりじりと熱くなるのを感じながら、私は佐藤聖羅のお腹辺りに視線を固定した。
「じゃあ何でこんなカッコしてるのって思うよね?……好きな人が、可愛い女の子が好きだったからなんだよね」
「それって。」
「そ。私は同性の友達が好きだったんだ。だからその子の好みの女の子になるように、髪を伸ばしてメイクを覚えて服もレディースの物を買い揃えた。まぁ、それでも彼は振り向いてくれなかったんだけどね」
佐藤聖羅は茶色の髪の毛をくるくると長い指に巻き付けながら喋る。
「……心が女の子だとか、女の子になりたいとか、そういうわけじゃなかったんだ。ただ好きな人の好きな人になりたいってそれだけだったのに、気持ち悪がられてみんなにいじめられたよ。」
こんな寂しそうな目をして話す佐藤聖羅を初めて見たから戸惑いを隠せなかった。いつもヘラヘラしてて、でもたまにすごく怖くて、本当は何を考えてるのか分からない人だと思ってた。簡単に人を殺そうと言うような人だから、自分は悲しいとか、苦しいとか、そういう感情を抱かない人なのかなと思ってた。でも今の佐藤聖羅の表情を見たら、そうじゃないってことが分かる。もしくは、そうなってしまったのには、深い理由があったのかもしれない。
「……ま、私顔も可愛かったしスタイルもいいし、可愛い格好しない方がもったいないでしょ?だから失恋した後もハマっちゃったのよね〜」
そう言いながらモデルみたいにポージングを決める佐藤聖羅。それを見て、私は思わずくすりと笑ってしまった。そんな私を見て、佐藤聖羅は苦笑した。
「ごめんね、亜莉紗ちゃんも友達との恋愛絡みでこんなことになっちゃったのにね。ま、だからこそほっとけなかったって言うのはちょっとはあるかな」
佐藤聖羅は顎に着けていたマスクを鼻の上まで被せる。
「ほんとはあんまり良くないの、本人が望んでないのに無理矢理説得して処分しようとするのは。まぁ、その話はまた後でするけど。
亜莉紗ちゃん、ご飯食べたら出掛けられる?今日は亜莉紗ちゃんに会わせたい人が居るんだ。」
「私に会わせたい人……?。」
「そ。実はね、この一週間で、もう一人私が受け持った子が居るの。」
私はチャウダーをスプーンで口に運びながら首を傾げた。
「君と同い年の女の子なんだけど……」
「同い年の……。」
「そ。君と同じような境遇だったから心配しなくていいよ。もしかしたら友達になれるかもね?」
一瞬胸が高鳴った。
私と同じような目に遭った同い年の女の子に会えるんだ。
……ちょっと、楽しみかも。
電車に揺られて三十分ほど。私と佐藤聖羅は、一軒のアパートに辿り着いた。
「はー、やっぱ車呼べばよかったかな?」
そう言いながら、ボストンバッグをずるずると引きずるようにして階段を上っていく佐藤聖羅の背中を追い掛ける。
「よいしょっと。あ、そこ壊れ掛けてるから気を付けて」
その時私が踏もうとした段は、よく見ると老朽化が進んでいてヒビが入っていた。
その段を飛ばして上っていくと、佐藤聖羅は一室の前でポケットをまさぐっていた。
「ここ私の家なんだー。ボロっちくてごめんね?」
そう言いながらポケットから鍵を取りだし、古びた鍵穴にそれを差し込みぐりぐりと回す。がちゃりと音がし、ドアが開いた。
「ただいまー」
そう言いながら先にボストンバッグを玄関に放り込み、佐藤聖羅が家の中に入っていく。私も恐る恐る足を踏み入れた。
「お邪魔、します……。」
ギィィと低い音を立ててドアを閉め、鍵も閉める。少しカビ臭い空気が鼻をかすめる。
「散らかっててごめんね?」
「いえ……。」
ビールやらチューハイやらの空き缶が詰め込まれたビニール袋がそこらに転がっている。そんな廊下を歩いていくと、狭っ苦しい小さな部屋に辿り着く。その部屋の隅の方に、女の子が座っていた。
「やっほ、待った?」
佐藤聖羅がそう言うと、その女の子は顔を上げて、
「いえ……!」
首を横に振った。
「……わぁ。」
私は思わずその子に見蕩れてしまった。
つやつやの黒い髪の毛が真っ先に目に入った。その次に、ぱっちりと大きな、でも切れ長気味の、豊富な睫毛に包まれた目。溶けて消えてしまいそうなほど白い肌に、少し赤らんだ桜色の頬。お人形みたいだ。
「あ、あなたが関口亜莉紗さん……?」
名前を呼ばれてはっとする。その子は優しい目で私を見上げていた。
「はい、あなたは……。」
「私は弓槻ゆずはです。あなたと同じ、聖羅さんにクラスメイトを売った者です。」
「あ、よろしくお願いします……。」
「売った」?。その言葉にふと違和感を感じたけど、私が軽くお辞儀をすると、弓槻さんも律儀に返してくれた。
「同い年だしタメでいいかな?亜莉紗ちゃんって呼んでもいい?」
少し恥ずかしそうに笑いながら弓槻さんはそう言う。
「あっ、は……うん。私もゆずはちゃんって呼ぶね。」
「何かもどかしいなー、君達を見てると」
そんな私達のやり取りを眺めながら、佐藤聖羅は冷蔵庫を漁っていた。
「今日は大事な話をするために二人を集めたんだから、仲良くするのは後でね!」
そう言いながら冷蔵庫を閉め、手にビールの缶を持ちながらこちらに来た。
「さて……」
私達は三角形を描くようにして座り向かい合った。
「これから君達はどうするのか、一緒に話し合おうか。」
小説の途中ですが宣伝させてください!
このスレに載せていた小説を修正したものをこちらに載せています!今更新している話も少しずつ修正してこちらに載せていきます。
このスレは下書きみたいなもので、誤字脱字を修正したり文を付け足したりしているので、ぜひこちらも読んでくださると嬉しいです!
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
「これからどうするか……?」
ゆずはちゃんが小首を傾げる。佐藤聖羅はカシャリと爽快な音を立ててビールのタブを開ける。
「そ。君達が本当に心から傷付けられたと思った人の名前を改めて聞こうと思ってね。あ、その辺にあるジュース飲んでいいよ、冷えてないけど」
佐藤聖羅が指差した先には、カップ麺やらコンビニ弁当やらのゴミに埋もれたペットボトルがあった。……遠慮しとこう。
「あとはどうやって処分するかを軽く説明しとこうかな。私はなるべく自分の手で人を殺/すことはしたくないんだよね。だから手っ取り早く爆弾使ってドカーンとやりたいんだけど……」
ビールを一口飲んで、佐藤聖羅はふうっと溜め息を吐く。
「それをやるにも色々許可を貰ったりしなくちゃいけなくて面倒なんだよね。あと二年もすれば売られた子を処分するための専用の施設の設備が整うらしいけど、それまで待ってもらうわけにもいかないし」
「それじゃあ、やっぱりみんなを消してもらうのは無理なんですか?」
ゆずはちゃんがそう尋ねると、佐藤聖羅は少し不機嫌そうな顔になる。
「人の話は最後まで聞こうね、ゆずはちゃん。」
じろりと睨まれて、ゆずはちゃんは「すみません……」と小さな声で呟いて俯いてしまった。
「ゆずはちゃん。まずは君に訊こう。
君が売ったのは、井口サトミら42名のクラスメイト全員……だよね?」
ゆずはちゃんはこくりと頷く。
「うん。で、亜莉紗ちゃんは、今回の事件に関わったクラスメイト達――加藤玲亜、関根卯乃羽、澤井夢架、高橋綾奈、松下モモ、川嶋レミ。そして川嶋レミの友人二人だね?」
私は俯きながら頷いた。
「うん。早速だけど、二人まとめて明日決行しようと思ってる。」
そう言って佐藤聖羅は交互に私とゆずはちゃんの顔を見る。
「明日、ゆずはちゃんは家庭科の時間を狙って、亜莉紗ちゃんは学校の教師と協力して全員を一つの教室に纏めて決行する。加藤玲亜も何か理由を付けて学校に呼び出すつもりだ。そこで教室一つが消し飛ぶ程度の威力の爆弾で仕留める。」
「教師、に……。」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
教師は、生徒達が死ぬって言うのに協力してくれるってことなんだろうか。
そんなの有り得るのかな。だって校内で人が死んだら大問題だ。それに人が死んでも黙認するって言うの。むしろ佐藤聖羅と協力するなんて、殺人に加担するみたいだ。
「……思うことは色々あるだろうけど、深く考えないでよ。時期に分かるから。」
佐藤聖羅はビールを一気に飲み干しながらそう言った。
「じゃあ、そういうことだ。
明日、君達の人生が大きく変わる。今まで苦しい思いをしてきた分、これからは救われて幸せが訪れるよ。」
にこりと笑った佐藤聖羅が立ち上がる。私とゆずはちゃんは、そんな佐藤聖羅を見上げてから顔を見合せた。
「話は終わりだ。また連絡するよ。気を付けて帰ってくれ」
「あ、はい……」
私とゆずはちゃんは立ち上がって、玄関に向かう佐藤聖羅を追い掛ける。
「あ、亜莉紗ちゃんはそのボストンバッグも持ってってね」
「え。」
「君、今日で退院だから。」
「えっ……。」
何それ、そんなの聞いてない。
「まぁ、でも帰っても荷物はそのままにしといた方がいいと思うよ。」
「?。」
その言葉もよく理解出来なかったけど、私はボストンバッグを抱えて玄関に走った。
「じゃあね。」
一礼して、佐藤聖羅に見送られて、私とゆずはちゃんはアパートを後にした。
しばらく無言で歩いていたけど、ゆずはちゃんは「あの」と小さな声で切り出した。
「亜莉紗ちゃんがどんな経緯で佐藤さんに頼んだのか分からないけど、……お互い幸せになれるといいよね」
悲しそうな顔ではにかむゆずはちゃん。私はその顔を見て、ゆっくりと頷いた。
「最初は人を殺させるなんて考えられないと思ってたけど、やっぱり無理だった。あの子達と私が共存するなんて不可能だって分かったんだよね。」
「それ、分かる。みんなが消えるか、私が消えるか、どっちかじゃないと絶対無理だった。」
ゆずはちゃんの黒髪が風に靡く。
「そして、私はみんなが消える方を選んだ。」
その瞬間、びゅうっと風が強くなった。
夕日が、重たく眩しい。
「……あ。」
今、一瞬だった。靡いたベージュの髪の毛が、一瞬だけ視界に入った。
どこかで見たその色と形状に、私は思わず足を止めた。が、振り返ることは出来なかった。
だって。だって、その髪は……。
「……亜莉紗?」
背後から名前を呼ばれ、私の体は石のように硬直してしまった。
それでも振り返れなかった。
「……レミ。」
ただ、私はその名前を口にした。
微風が私の頬をくすぐった。ゆずはちゃんが、私とレミを交互に見ている。
「亜莉紗!お前入院したって聞いたけど大丈夫なのかよ?」
背後から、レミがそう訊いてくる。私は震える手をもう片方の手で抑えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……もう、退院したから。」
小さな声でそれだけ言った。声も馬鹿みたいに震える。
「そっか。じゃあ明日から来いよ。みんな待ってるから」
「……そんなの嘘。」
即座に私はそう言う。否定されたのが癪に触ったのか、レミの声色が変わる。
「嘘って何だよ?」
レミのイラついた声に、私の心臓はバクバクと心拍数を上げた。
「みんな心配してんだよ!夢架も綾奈もモモも!」
「そんなの信じない。」
あの三人が、私の心配なんてしてるわけないじゃない。
嘘だと知りながら、加藤さんに指示されて私が卯乃羽に告白したってことにしたあの三人が。
「……卯乃羽が誰より心配してんだよ!」
「……。」
一瞬の静寂。私は口を開けたけど、声は出なかった。
「卯乃羽は、最近ずっと暗い顔してんだよ。やっと学校来れると思ったら亜莉紗が居なかったからなんじゃねーの?」
レミの言葉に、私は口を噤んだ。
「……あんな言い方しちゃったけど、亜莉紗が卯乃羽を好きでも卯乃羽は困ったりしてないから。卯乃羽が好きなら、卯乃羽のそばに居てやれよ!」
レミのその言葉が、深く深く心臓に突き刺さった。
「……何、それ。好きなくせに、そばに居てくれなかったのは卯乃羽の方でしょ。」
わなわなと体が震える。今にも涙が零れてきそうだった。
「何で一番辛かった時にそばに居てくれなかったのよ!。」
自分でもこんなに大きな声が出るんだとびっくりした。
どこかの家から、カレーの匂いがする。ざわざわと木の葉が擦れ合う音がする。
「……亜莉紗。良くなったんならまた学校来てよ。……それと」
ゆっくりと振り返る。何故か、今振り返らないといけないんじゃないかと思った。
「誕生日、おめでとう。明日だったでしょ?」
レミはそれだけ言って、にこりと笑った。そして振り返ると、小走りに歩いて行ってしまった。
……そうだ。偶然にも、明日は私の誕生日だったんだ。
がくんと膝から崩れ落ちる。そしてぼそりと何かを呟く。
「亜莉紗ちゃん?」
ゆずはちゃんが、そんな私の肩を持つ。
「……私、やっぱり出来ない……。」
さぁっと血の気が引いていく。
「やっぱりレミを殺/すなんて出来ない……。」
ガァガァとカラスが飛び去っていく。
ボストンバッグみたいに重苦しい夕焼けが、沈んでいく。
「私、何てことしようとしてたんだろう。」
目の前に今も同じことをしようとしているゆずはちゃんが居るって言うのに、私はそう呟いて地面を叩いた。膝がコンクリートに擦れる。赤い血が皮膚を破るようにして滲み出る。
「消えるべきなのは、私を傷付けたのは……レミじゃない。レミ達は関係ない。」
ぐっと手の中にある砂利を握り締めた。
黒く変わっていく空を見上げて、私は決心した。
家に着いてすぐ、私は佐藤聖羅に電話を掛けた。
「もしもし……っ。」
『おっ、亜莉紗ちゃん、どうしたー?』
スマホのスピーカーから、呂律の回っていない佐藤聖羅の陽気な声が聞こえてくる。……完全に酔ってるな。私は震える手で必死にスマホを掴みながら、
「あのっ、さっきはあんな風に言っちゃったけど、取り消させてください。」
泣き出しそうな声でそう言った。
『……それは、どういうことかな?』
佐藤聖羅の声色が変わる。また怒らせてしまうんじゃないかと思ったけど、言わなかったら絶対後悔すると分かっていたから、私は喋り続けた。
「やっぱり、私はレミを殺/すなんて出来ません。レミは加藤さんが吐いた嘘を信じただけで、何も悪くない。
処分されるべきなのは、加藤さんと夢架達だけです。」
『ふぅん……。今名前は出なかったけど、関根卯乃羽はどうなんだい?全ての諸悪の根源だろう?』
「……卯乃羽は。」
唇を噛み締めて、私は自分の指先を見た。
「……卯乃羽も、処分されるべきじゃないです。」
喉の奥が締め付けられるような感覚になった。涙がせり上がってくる。
『……それが、君の答えなんだね?』
佐藤聖羅は、静かな声でそう言った。
「……はい。」
涙が止まらない。私は鼻を大きく啜って、目を瞑って顔を上げた。
「卯乃羽も、やっぱり大切な友達なんです。」
やっぱり、卯乃羽を処分するなんて出来ない。確かに私があんな目に遭って、精神を病んでしまった原因は、元を辿れば卯乃羽だった。でも。
「卯乃羽は、やっぱり殺せないよ。」
裏切られても、やっぱり卯乃羽は大切な友達だったから。
涙が出そうになるのを必死に堪えて、私は大きく深呼吸をした。
『分かった。君がそう言うなら、川嶋レミ達と関根卯乃羽は対象から外すことにする。確かに、直接危害を与えたわけでもないのに処分するのもおかしなことだからね。』
「……はい。」
『話はそれだけかな?色々準備をして疲れたから寝たいんだ。』
「はい、すみませんでした。……ありがとうございます。」
『うん。明日、必ず君を救ってあげるからね。』
佐藤聖羅はそう言うと、大きな欠伸をして電話を切った。
私はぎゅっとスマホを握り締めた。スマホの微熱が指の中に伝わってくる。
「……私も」
私も、明日学校へ行こう。
翌日。私は久しぶりに制服に腕を通した。
アイロンを掛ける時間と気力がなかったからシャツはしわしわだ。ネクタイも上手く結べなかった。スカートも変な折り目がついている。
酷い格好だけど、せめて髪の毛だけでも綺麗にしよう。私は白金になった髪の毛にアイロンで熱を通した。
「……行ってきます。」
誰も居ない家に向かってそう呟き、私はドアを閉めた。
学校に向かう途中、私の心臓は踊り狂いっぱなしだった。心臓が胸を突き破って飛び出してきてしまいそうだった。
今日は、一時間目は体育だ。レミと卯乃羽と被っている。二人と顔を合わせることになるかもしれない。
「……やっぱり休めば良かったかな。」
でも、家でただ待ってるだけなんて出来ない。
そうだ、佐藤聖羅はいつ決行する予定なんだろう。「今日」とは言ってたけど、詳しい時間や場所は教えてくれなかった。
……教室一つが消し飛ぶのか。その中に、加藤さんや夢架達が入っていて、四人は……。
……人が死ぬのを分かっていながら、その現場に立ち会わそうとするなんて、私もおかしいのかな。佐藤聖羅はおかしい人だと思ってたけど、案外私もどこかがおかしいのかもしれない。
「だから、私は佐藤聖羅の仲間になろうなんて思ったのかもね。」
自虐的に笑うと、ふわりと風が吹いた。私は横断歩道を渡りながら、込み上げてくる感情をぐっと押し殺した。
「……え。」
学校に着いて、私は呆然と立ち尽くした。
「何で……。」
校門が閉まっていた。そして、校門に張り紙が貼ってあった。
『本日は休校です。』
「どういうことなの……。」
私はスマホを取り出して学校のホームページを見た。
「あ。」
ホームページのトップに、『臨時休業のお知らせ』の項目があった。
「……まさか。」
私はLINEを開いて、佐藤聖羅に電話を掛けた。
数回呼出音が鳴り、佐藤聖羅はすぐに出てくれた。
『もっしー?あ、亜莉紗ちゃん?』
「あの、今学校に来たんですけど、休校ってもしかして……。」
『そうだよーん、一日で処分して片付けもするって約束で今日だけ特別に休校にしてもらったんだよーん』
「え、あの、じゃあ、もう……。」
『落ち着きなよ。まだこれからだから。せっかく来たんだから亜莉紗ちゃんもおいでよ?校門開けたげる。待ってて』
心臓が再び暴れ出す。これから。これから加藤さん達は死ぬんだ。……私のせいで。……私の、目の前で。
「やっほ!」
校舎から佐藤聖羅が出てきて、慣れた手付きで校門を開けてくれた。
「いやー、まさか来てくれるなんて思ってなかったよ!あ、休校になったの知らないで来ちゃったのかな?」
私はこくりと頷いた。
「そっかそっか。でも良かった、これから君も同じことをするんだから、目に焼き付けといてもらわないとね」
「?。」
「ああ、まぁいいや。さ、行こう。もうみんな集まってるから。」
佐藤聖羅に腕を引っ張られて、私は校舎の中に入った。
階段を一段上るのがこんなに苦痛だなんて。まるで足を誰かに押さえ付けられてるみたいだ。一段上がるだけで息が切れそうになる。
そんな私を数段先から見下ろして、佐藤聖羅はにこりと笑う。
「ちょっとだけ休憩しよっか、亜莉紗ちゃん。」
「うわぁ、さっきから思ってたけどこの学校結構汚いね……」
佐藤聖羅は廊下の隅に転がっている虫の死骸を見て顔を顰めた。
「私汚いところ苦手なんだよね!どっか綺麗な教室とかってないの?」
あなたの家も結構汚かったですよね……と言い掛けたけど、私はそれをぐっと飲み込んで、
「食堂なら綺麗かも……。」
「おし!じゃあ食堂に行こー!」
私達は、食堂で一回休憩することになった。
食堂に着くと、佐藤聖羅と私は一つの机に向かい合うようにして座った。
「ふぅ。実は二日酔いで体調悪いんだよね〜……」
佐藤聖羅はそう言いながらぐったりと机に寝そべった。
「しかも夜通し準備してたから寝てないし。でもあんまり待たせたら怪しまれちゃうかもしれないしなぁー……」
佐藤聖羅はそう言いながら大きな大きな欠伸をする。
「退学した加藤玲亜まで呼び出されるなんて、彼女達は自分がしたことが原因で呼び出されたんだって薄々気付いてるだろうしね。あんまりゆっくりは出来ないけど……」
そう言いながら、佐藤聖羅は寝そべったままちらりと私を見る。
「亜莉紗ちゃん、やっぱり立ち会うのはやめとくかい?」
「……私は。」
「離れたところでもいいから見ていてくれた方が、君のためにもなる。爆弾って言っても、威力は最低の物を用意したから君が巻き込まれる心配もないからね。」
「……。」
黙り込んでしまった私を見て、佐藤聖羅はやれやれとでも言いたげに体を起こした。頭の後ろで手を組みながら、気だるそうにまた欠伸をする。
「そろそろ行こうか、さっさと終わらせた方が君も楽だろう?」
佐藤聖羅はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。私も一足遅れて立ち上がる。
重たい足取りで食堂を出て、階段を上って、三階に着いた。
「あそこの教室だから。」
そう言って佐藤聖羅が指差したのは、私が加藤さんに暴行されたあの教室だった。
「じゃあ、私は行ってくるから。亜莉紗ちゃんはここで見てて。」
私が頷く前に、佐藤聖羅は小走りにあの教室に向かって歩いていく。私はストンとその場にしゃがみ込んで、口を手で抑える。
涙が溢れてくる。悲しいのか、悔しいのか、嬉しいのか、苦しいのか、自分が今抱いてるこの感情が何なのかが分からなかった。それが堪らなく気持ち悪かった。
「でも、やっと。」
やっと、わたしの苦しみは終わるんだ。
やっと私は解放されるんだ――
次の瞬間、体が大きく揺れた。
と同時に、鼓膜を突き破るかのような大きな音。
「……!。」
あの教室のドアがビリビリと何度も振動する。ガラスは真っ黒に染まり、少し距離を置いた場所で佐藤聖羅が立っていた。
「やっ、たの……?。」
私は瞬きもせずにあの教室を見た。
「……ははっ。」
乾いた笑いが、ウインナーみたいな形をした口から漏れた。
「はは、はははっ、はは……。あ。」
その時、胸ポケットに入れていたスマホが振動した。
「え……。」
驚いてスマホを取り出し、ホーム画面を見る。
「え。」
そこに表示されていた通知を見て、私は固まった。
「何、で。」
画面には、卯乃羽からのLINEの通知が表示されていた。
『ありさ、おたんぎょうひおめたとう』
「何、で……。」
私はスマホの画面を見ながら愕然とした。何でこのタイミングで卯乃羽からLINEが来たの。爆発してすぐ、どうして。
「ただの、偶然……?。」
私は震える指でその通知をタップした。
ありさ、おたんぎょうひおめたとう……亜莉紗、お誕生日おめでとう?
「う、卯乃羽……?。」
私は首を動かして教室の方を見た。相変わらず中は真っ黒で見えない。佐藤聖羅が誰かと電話をしている。
と、その時。卯乃羽とのトーク画面に、新しいメッセージが表示された。
「!。」
そこに表示された文字を見て、私は目を見開いた。
「『すき』……?。」
その文字を見た瞬間、弾き飛ばされたように体が勝手に動き出した。私は廊下を走った。そして佐藤聖羅の肩を掴む。
「どうかした?亜莉紗ちゃん」
佐藤聖羅は電話を切って、不思議そうな顔で私を見る。
「あの、あの、今、卯乃羽からLINEが来て……。」
ぶるぶると震える手でスマホの画面を佐藤聖羅に見せる。
「ずっとLINEなんて来なかったのに、何でこのタイミングで来たのか分かんないんですけど……。」
「へぇ、亜莉紗ちゃん今日誕生日なんだ!お誕生日おめでとう!」
「いや、そうじゃなくて……。」
「あ、こっちでーす!」
佐藤聖羅は私の話を聞かずに、階段から現れた数人の男性に手を振る。まるで消防隊のような服装で、担架を二人がかりで持っている。
「もう入っても大丈夫だと思いまーす」
佐藤聖羅がそう言うと、消防隊員達は佐藤聖羅に一礼して、教室のドアを工具でこじ開ける。
中から黒い煙が溢れ出す。
「あんまり見ない方がいいかもね。」
そう言って、佐藤聖羅は私の体を窓の方に向けた。
ガチャガチャという音と、消防隊員達の掛け声のような声が聞こえる。窓のガラスには、薄らと担架で運ばれていく何かが映っていた。
「……あのー」
しばらくして、一人の消防隊員が、私の肩を持ちながら一緒に窓の方を向いていた佐藤聖羅に話し掛けてきた。
「聞いてた話より一人多いみたいなんですけど……」
「え?」
佐藤聖羅は目を真ん丸にして振り返る。
「予定では、四人でしたよね?」
「はい、そうですけど……?」
「中に、五人いたんですよ。」
「え……っ!?」
佐藤聖羅の顔が真っ青になる。私も、全身の血がサーっと抜けていくのを感じた。
まさか。まさか。まさか。
「すぐに救出して!」
佐藤聖羅が怒号を飛ばす。
「早く!」
消防隊員は慌てて教室の中へ入っていく。
「担架持ってきて!早く!」
そんな声が、真っ黒な教室の中から聞こえてきた。
「嘘……。」
私は廊下の手すりを握って座り込んだ。足にも腕にも力が入らない。
「嘘、ですよね。」
そして、ゆっくりと顔を上げて、佐藤聖羅を見上げる。
「私、頼んでませんもん。」
呆然と教室を見詰める佐藤聖羅の綺麗な横顔が霞む。
「卯乃羽は、違いますもんね。」
バタバタと担架を抱えた消防隊員が戻ってくる。そして教室の中に駆け込んでいく。
「だから……。」
私はゆっくりと教室の方を見た。
「何で……。」
二人の消防隊員が、担架を持って教室から出てくる。走っていく消防隊員達の後ろ姿を見詰めて、私は声にならない声を漏らした。
一瞬だけ、スマホを握った血にまみれた手が見えた。
あれから一年の月日が経った。
今でも、あの日のことを考えない日はない。
せっかく入れさせてもらった大学も、すぐに辞めた。
だって、卯乃羽は未来を奪われたのに、私だけ大学生になるなんて、おかしいでしょ。
「卯乃羽。」
ガラガラとドアを開け、病室の中に入る。
「今日はすごく天気がいいよ。カーテン開けよっか。」
私はそう言って、窓のカーテンを開ける。真っ白な太陽の光が射し込んでくる。
「……私ね、今度魔女になるんだ。」
振り返って、ベッドの角を見る。
「卯乃羽をこんな姿にしたあの人と同じ『魔女』に、私もなるんだよ。」
じんわりと目の奥が熱くなる。ゆっくりと顔を上げて、たくさんのチューブに繋がれたその体を見る。
「……ごめんね、卯乃羽。」
私はそう呟いて、机の上に封筒を置いて病室を出た。
あの日の爆発に巻き込まれて、卯乃羽は大怪我を負った。何とか一命は取り留めたけど、脳に重い障害が残ってしまった。一年経った今でも、とても人と会話を出来るような状態ではない。
あの日、どうして卯乃羽が教室に居たのかは結局分からなかった。けど、佐藤聖羅は、私達が食堂に居る間に、閉め忘れた校門から入ってきてしまったんじゃないかって言ってた。LINEの履歴を見たら、加藤さんが卯乃羽を呼び出したやり取りが残っていたらしい。
佐藤聖羅は、その後「売られてない無関係の人を巻き込んだ」として、魔女の権利を剥奪されたらしい。午後、ゆずはちゃんのクラスを処理した後、どこかへ連れて行かれてしまった。あの日から、佐藤聖羅とは連絡が取れていない。
それから、私はすぐに施設に入れられた。半年の間、魔女になるための訓練をした。ゆずはちゃんも一緒だった。
佐藤聖羅からきちんと説明を受けないままクラスメイトを売った私達は、この先のことを聞いてショックを受けた。まさか今度は、自分が他人が売った人達を処分することになるなんて。
厳しい訓練を受けている間も、私はずっと後悔に溺れて生きていた。
爆発の直後に届いた卯乃羽からのLINE。きっと意識を失う前、最後の力を振り絞って私に送ったんだろう。
そして、きっと、卯乃羽は、私を守るために加藤さんと付き合ったんだ。加藤さんと付き合えば、もう加藤さんは私に危害を加えようとしない。きっと卯乃羽はそれを分かっていて、わざと私を突き放したんだ。
「……そうだよね、卯乃羽。」
そう訊いたこともあったけど、卯乃羽は焦点の合わない目で天井を見上げるだけで、答えてはくれなかった。
「……あなたが戸川水純ちゃんだね。」
「はい……。」
私が初めて受け持ったその子は、とても内気でおどおどしている子だった。
どうやら、学校中の生徒に虐められているらしい。私と目も合わせようとせず、腕には自傷行為をしたのか、薄汚れた包帯が巻かれている。彼女が今までどんな目に会ってきたのか、それを見れば一目瞭然だった。
この子も、いずれ魔女になるんだ。私みたいに、何も知らないまま。ただ救いを求めていただけなのに、最後はただの人殺しになってしまうんだ。
「……私が、あなたの魔女になる、関口アリスです。」
そう思いながら、私は口元に微笑を浮かべた。あの人の表情を真似をするかのように。
「……これから、よろしくね。」
-番外編 END-
番外編も面白かったです〜!!お疲れ様です〜!!質問なんですが続きや違う作品を書く予定ってありますか、、?
195:るるの:2021/09/29(水) 18:03 >>194
ありがとうございます!
今第二章みたいな感じで本編から一年後の話を書こうと思っています!
だらだらした小説なのに最後まで読んでいただけて嬉しいです……!
>>195
いえいえ〜、!
続き楽しみにしてます!!🙌
第二章を書いていこうと思います。本編から一年後の話です。
↓この小説の誤字などの修正、話の追加などをした小説です。良ければ合わせてお読みください。
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
カタカタカタカタ。
「……うるさ」
カタカタカタカタ。
「……うるさいなぁ」
カタカタカタカタカタ……。
「うるさいっつってんだろ!」
私は思いっ切り壁を蹴り飛ばした。踵に鋭い痛みが走る。おかげで目が覚めてしまった。
「せっかく寝てたのによー……」
ぼさぼさの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き毟りながらゆっくりと体を起こす。カーテンの隙間から真っ白な太陽の光が差し込んでくる。
「……朝かー」
ぼーっとしながら窓の外を眺める。
いつもこうだ。私は毎朝あの音を目覚まし代わりに起きている。
「お母さん、おはよー」
大きな欠伸をしながらリビングに出ると、お母さんがキッチンで目玉焼きを焼いていた。ベーコンの香ばしい匂いがリビング全体に広がっている。
「お腹空いたぁー」
そう呟きながら食卓に座ると、
「こころちゃん、先に顔洗ってきなさい」
すぐさまお母さんがそう叫ぶ。
「へいへい」
めんどくさいなぁ、と思いつつも、私は立ち上がって洗面所へ向かった。
顔を洗って化粧水と乳液を付けてリビングへ戻ると、お母さんが手招きしてくる。
「なに?」
駆け寄っていくと、お母さんがそっと耳打ちしてきた。
「これ、お兄ちゃんの部屋まで運んでくれない?」
そう言って朝食が並べられたお盆を押し付けられる。
「はぁ?何で私が?」
「ね、お願い!昨日ちょっと口喧嘩しちゃって気まずいのよ。今日だけでいいから!」
「やだやだ絶対無理!あいつキモイもん!」
「お兄ちゃんに向かってそんなこと言わないの!」
「お母さんだってあいつにうんざりしてるから口喧嘩なんかしたんでしょ!」
お母さんは、普段は絶対誰かと言い争ったりしないのに。
「……いいから。ほら、手離すよ」
「わわ、っちょ」
私は反射的にお盆を持った。お母さんはほんとに手を離したから、あと少し遅れてたら床にご飯が散らばってたところだった。せっかくお母さんが作ったご飯なのに。あいつは自分で取りにすら来ないんだ。
「……分かったよ」
私は短い溜め息を吐いて、ぺたぺたと廊下を歩いた。
兄の部屋の前に立つと、あのカタカタと言う音がよりはっきりと聞こえてくる。
「入るよー」
ノックもせずに足でドアを開ける。すると途端にあの音は止まってしまった。
「うえ……」
ホコリ臭い空気が立ち込めた部屋に片足だけ突っ込む。
「朝ごはんだって。」
電気も付いてない、シャッターも開いていない真っ暗な部屋。ダンボールや漫画本などが散らばった床。その奥にはぼんやりと光を放つパソコンのモニターと、その前に座る猫背でストレートネックな醜い兄。
「ねぇ、聞いてんの?」
パソコンの前に座って、こちらに背を向けている兄にイライラしてくる。私はわざとらしく足踏みをした。それでも兄はだんまりだった。
「お前さー、せめて自分で取りに来いよ!」
私はそう叫んでがちゃんと音を立てて床にお盆を置いた。
「さっさと出てけよクソゴミ野郎が」
私はそう吐き捨てて勢い良くドアを閉めた。
「きめーんだよ……」
言い表しようのない不快感に胸がムカムカしてきた。本当に意味が分からない。視界に入れたくないから部屋からは出てこないでほしいけど、うちからは出てってほしい。
まじでムカつく!
私の名前は美沢(みさわ)こころ。ごく普通の中学二年生だ。
別に普段からこんなに荒んだ性格をしているわけじゃない。これにはちゃんと原因があるのだ。
私の兄は、引きこもり――いわゆるニートだ。
中学生の頃からクラスで浮きまくりだった兄は、高校でも浮きまくり大学受験にも失敗した。そして就職活動もせず、高校を卒業してからはずっと部屋に閉じ籠っている。
毎日毎日、朝寝て夕方起きる生活。起きている間はどうやらオンラインゲームやネット掲示板に張り付いているらしい。兄と私の部屋は隣同士だから、嫌というほどキーボードを叩く音が聞こえてくる。
いじめられたせいか元々なのか知らないけど、兄は異常なほど他人を恐れている。さっきみたく私が部屋に入ったり部屋の前を通ったりすると途端にキーボードを叩くのをやめる。「遊んでませんよ」アピールなのかもしれないけどバレバレだ。四六時中パソコンを弄ってるのが恥ずかしいって自覚があるならちょっとは離れればいいのに。
そして私が一番腹が立つのは、あいつは自分より弱いと見なした人に対しては強く出ようとするところだ。あいつはお母さんに対してだけ明らかに当たりが強い。体格のいいお父さんと気の強い私からこそこそ隠れるストレスを全てお母さんにぶつけようとしてる。きっと昨日の口喧嘩の原因も、兄が先に暴言を吐いたからに違いない。
お母さんは「大丈夫」って顔をしてるけど、大丈夫なわけない。何で何も悪くない、むしろ迷惑掛けられてるお母さんが我慢しなくちゃいけないの?あいつが家から出てけば全て解決するのに!
「行ってきまーす」
お母さん特製の目玉焼きとトーストを平らげて歯を磨き、学生鞄を掴んだ。
「行ってらっしゃい」
お母さんが見送りに来てくれる。
「今日も学校楽しみだなぁー」
私は兄の部屋の前を通る時、わざと大きな声でそう言ってやった。
玄関を出てエントランスに出ると、管理人のおじさんが掃除をしていた。
「おはようございます」
そう言って軽く頭を下げると、おじさんは帽子の鍔をくいっと上げて、
「おはよう、行ってらっしゃい」
そう言ってにっこり笑ってくれた。
「行ってきまーす!」
私は自動ドアを出て階段を駆け下りた。
坂道を登って歩いていく。真っ白な朝日がコンクリートの道をてらてらと照らしている。私は横断歩道の前で立ち止まった。
「はぁ……」
そして大きな大きな溜め息を吐く。隣で腕時計を見ていたサラリーマンがちらりと私の方を見た。
「朝から疲れるなぁ……」
気分は最悪だった。ただでさえ学校に行くのが憂鬱なのに、朝っぱらから兄と顔を合わせるなんて最悪すぎる。まぁ『顔』は合わせてないんだけど。
兄への当て付けで「学校が楽しみだ」なんて言っちゃったけど、本当はちっとも楽しみなんかじゃない。むしろ学校になんて行きたくないくらいだ。でももし本当に不登校になったら、兄と同類になってしまいそうで怖い。そんなちっぽけなプライドだけが毎日の糧だった。
私のクラスは、まるで動物園だ。
「……」
無言でドアを開けて教室に入る。廊下にまで響き渡る猿みたいな笑い声がより一層大きくなる。耳を塞ぎたい気持ちを抑えて、自分の席まで歩いていく。
「あ、おはよー、こころん」
背中をつんつんとつつかれ、思わず肩がびくりと跳ね上がった。少しツンとした癖のある声。舌っ足らずな喋り方。私はロボットみたいにぎこちなく首を回して背後を見た。
「あーはいはい、おはよ」
机に突っ伏しながらにやにやと私を見上げるその子に苦笑いをする。
「あれー?あんま元気なくない?もしかして生理?」
気だるそうな横に長いたれ目で、まるで私の心の中を覗き込むように見上げてくる。
「違うっての」
私はそう言って椅子を動かしてそこに腰を下ろす。
「あー、もしかしてお兄さんと何かあったんでしょぉ」
ぎく、と体が硬直する。それと同時に、お腹の底から熱いものがふつふつと湧き上がってきた。
無言でおでこに皺を寄せていると、「あっちゃー」とわざとらしく呟いてから両手を合わせてきた。
「ごめーん、図星だった?」
バカにしてんの?私は心の中でそう叫びながら乾いた笑い声を出した。
「別に」
私はそう言って体を前に向け、机に肘をついた。
私の後ろの席のこいつは、宮下舞宵(みやしたまよい)。胸あたりまである内巻きの髪はいつもぼさぼさで、いつもふわふわした笑顔を浮かべている変な子だ。体育は一年中「生理です」って言ってサボってるし、授業中はいつも寝てるし、不真面目な奴だ。
こいつは何かと私にちょっかいを掛けてくるけど、それには理由がある。
こいつは、私の兄の存在を知っているのだ。ずっと兄の存在が恥ずかしくて隠していたのに、ある日突然「こころんのお兄さんってさ……」と打ち明けてきたのだ。何がきっかけで兄のことを知られたのかは未だに分からない。
「こころん、お兄ちゃんは大切にしないとだめだぞぅ」
机に身を乗り出して私の耳元でそう囁く舞宵についイラッとしてしまう。周りをぐるりと見回すけど、みんな各々の談笑に夢中で聞こえてなかったみたいだ。ふぅっと溜め息を吐いて胸を撫で下ろす。
「誰かに聞かれたらどうすんのよ」
振り返ってぎろりと舞宵を睨み付ける。舞宵は「うわ、怖っ」と言ってわざとらしく口元を手で隠した。
「そんな睨まないでよ、聞こえないように小声で言ったんじゃん」
そう言って机に腕を投げ出しごろんとそこに寝そべる舞宵を見て、私は眉を顰めた。
確かに、舞宵は兄のことをいじってはくるけど、他の誰かにバラそうとはしてこない。むしろ誰かに聞かれたりしてバレそうになったら、私より先に誤魔化すくらいだ。
「…………」
口を猫みたいにして私を見上げる舞宵を見て、私は大きな溜め息を吐いた。
こいつ、ほんとに何がしたいの?