十数年前の掲示板で、ひと夏だけ流行った都市伝説があった。
三十人分の魂を売れば、魔法の力を売ってくれる人(?)が居るらしい。
1-Bは、クラスの誰かに売られた。
教室に教師が入ってきて、一時間目の授業が始まった。……いや、正確には、「授業」は始まっていない。
「ねー見て、こいつキモくない?」
「あー、鍵掛けてないとそういうDM来るよねー」
「てか昨日のアイツのストーリー見た?ガチキショくない?」
「おいお前早く金返せよ!」
「そう言えば昨日公園でたむろってたらケーサツ来たwww」
今のこの教室は、授業中だとは到底思えない状態だ。私は机に肘をついて溜め息を吐きながら、ちらりと教卓を見た。
「ううっ、お願いだからみんな真面目に聞いてよぉ……」
若い女の教師が涙を流しながら必死に懇願している。が、誰もそんなのに目もくれない。配布物のプリントで作った紙飛行機や誰かの上履きが飛び交うだけだ。
「ちゃんと授業させてよぉお……」
ついに教師は教卓に突っ伏してしまった。ああ、今日も教師の負けだ。
「みんなもよく飽きないねぇ」
私の背後では、呑気にそう呟きながら机の上にごろごろと寝そべる舞宵。
「こころんは真面目に授業受けたいのにねぇ」
「うっさい」
私は背中をつついてくる舞宵の指を背中で押し返した。
うちのクラスは、いわゆる「学級崩壊」ってやつだ。
まともな授業を最後に受けたのはいつだっただろうか。入学して三日目くらいまでだった気がする。それからは、毎日、毎時間、まるで教室内は動物園だった。
どんなに強面な教師が怒鳴っても、校長が直々に注意しに来ても、誰も耳を貸したりしない。教師達ももうお手上げ状態だ。
むしろ影やTwitterで教師の悪口を言ったり、教師達を盗撮して裏垢のストーリーに載っける子も居る。何をしたって悪化する一方なのだ。
「はぁ……」
入る中学、完全に間違えたな。別に私も真面目に授業を受けたいってわけじゃないけど、こうも毎日騒がれると鬱陶しくなってくる。
脳味噌空っぽなの?猿なの?ほんとに毎日飽きもせずによく騒げるよね。
「はぁ……」
キーンコーンカーンコーン。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。教師が、音も立てずに教室から飛び出していった。誰もそれに気付かずに騒ぎ続ける。私はそんな教師を睨むように眺めて、また溜め息を吐いた。
「そういえばさぁ、あの噂ってマジらしいよ」
給食の時間。各班が楽しそうに会話をしながら昼食を食べていると、斜め前に座っていたクラスメイトがふとそう呟いた。
「部活の先輩が言ってたんだけど、本当に去年この学校のあるクラスが失踪したんだって」
途端にざわざわとざわめく教室。私は無言でコッペパンを頬張りながらそれに耳を傾ける。
確かにそんな噂を聞いたことがある気がする。去年、この学校のとあるクラスのクラスメイトが全員不審死したって……。
私達は今年この中学に入った一年生だし、そのクラスの学年は去年卒業したらしいから、当事者達と面識があったわけじゃない。その噂もただ先輩達が騒ぎ立ててるだけだし、信憑性も何もないからみんなが信じていることに驚いた。
「マジでー?」
そんな中一番大きな声を上げたのは、窓際の前から二番目の席に座っている一際目立つクラスメイトだった。
「あの噂って本当だったんだぁ」
その子はニヤニヤしながら牛乳のストローを噛んで笑う。椅子を傾けてまるでブランコを漕ぐようにギコギコと前後に揺らす。少し傷んだ抜きっぱなしの金髪がそれに合わせて靡いた。
彼女は伊東暁美(いとうあけみ)。いわゆるうちのクラスの『女王様』だ。
彼女はその見た目の通りかなりやんちゃな性格で、未成年飲酒、喫煙の常習犯だ。毎日近所の公園で、バイクを乗り回し高校生と夜遊びをしている。
そして一番厄介なのは、彼女は気に入らないクラスメイトが居るとすぐにみんなを巻き込んで排除しようとする所だ。暁美はその見た目から入学当初から恐れられていたから、誰も彼女には逆らえない。暁美の反感を買ったら終わりだ。その子はクラスメイト全員からハブられる羽目になる。
「まぢウケるんだけど」
暁美がそう言うと、クラスメイト達は「それな」と言って笑いの渦に包まれた。
「え〜、みんなそんな噂ほんとに信じてるのー?」
そんな中、気だるそうな声が教室を静寂に包み込んだ。私は首を左に捻って、隣の班で既に給食を食べ終えているその声の主を見た。思った通り、舞宵が虚ろな笑顔を浮かべながら机に肘をついていた。
「何、舞宵は信じてないの?」
首をぐるりと回して顔にかかった髪を退けながら、暁美は舞宵を見る。
「むしろあんなの信じてる方がびっくりなんですけどー」
舞宵はぷぷぷと笑いながらそう言った。
教室が再び静寂に包まれる。みんな冷や汗を流しながら黙って暁美の次の言葉を待っている。
舞宵、何考えてんの?そんなこと言って暁美が怒ったらどうすんのよ。私はそう目で訴えたけど、舞宵は私の方なんて見てもいなかった。
「……ふーん。ノリ悪」
暁美がそう呟いた途端、教室中のみんなが「あーあ」という顔をした。暁美の機嫌が悪くなったのが目に見えて分かったからだ。
暁美は面白くなさそうにサラダをつつく。一方、舞宵は口を大きく開けて欠伸をしていた。
午後の授業が始まっても、教室の空気は最悪だった。かなりの頻度で暁美の舌打ちが鳴り響き、常に貧乏揺すりのカタカタという音が轟いていた。
私達クラスメイトは背後で呑気に欠伸をして居眠りしている舞宵を恨んだ。心の目で舞宵を思いっ切り睨み付けてやる。
「じゃあ今日の授業はここで終わりにする。宿題忘れるなよー」
無機質なチャイムの音が鳴り、教師が気だるそうに教室から出ていった。
「……クソ気分わりー、私先に帰るから」
と同時に、ガタンと派手な音を立てて暁美が立ち上がった。そしてそう言いながら学生鞄を背負い、黒板の前を歩いていく。クラスメイト達はそんな暁美を固唾を呑んで見送る。
「……じゃ、じゃあね、暁美!」
暁美の取り巻きのゆみかが慌ててそう言った。
暁美はそれを無視して、教室から出ていくとドアを力いっぱい閉めた。壁にバウンドして大きな音を立て、ドアは半開きになった。
「……」
教室が静まり返る。みんなは無言で帰りの支度を始める。
「まじでやめてほしいよな……」
ボソッと誰かがそう呟いた。
「誰かのせいで暁美ちゃん怒っちゃったじゃん」
また、そんな呟きが聞こえてくる。
「まじで空気読めよ」
また。
私は首を少し捻って後ろの席を見る。
「ふわあああ」
当の本人は大きな口を開けながら机に突っ伏していた。そして目尻に涙を浮かべながらゆっくりと上体を起こす。
「あ、授業終わったのー?」
眠そうに目を擦りながら呑気にそう言うと、舞宵は立ち上がって机の横に掛けてあった学生鞄を手に取った。
「あー、ねむっ」
そしてそう呟きながら、また大きな欠伸をして、半開きのドアから出ていってしまった。
途端に教室はざわめき出す。
「あいつマジで有り得なくね?」
「自分のせいで暁美ちゃんが怒ったって自覚ないの?」
「ほんっと迷惑だよね」
クラスメイト達は舞宵への文句をぶちまける。私はそれを聞きながら、机の中の教科書やノートを学生鞄に押し込む。
舞宵のことだから、自分のせいでクラスの空気が悪くなったり、自分がクラスメイト達に陰口言われてるってことにも気付いてないんだろうなぁ。ノーテンキで羨ましいわ。
「こころちゃんも大変だよね」
前の席に座っているクラスメイトの綾(あや)が体ごと振り返って小声でそう言ってきた。
「いっつも絡まれてんじゃん。めんどくさくないの?」
「あーはは、見てた?」
私は口角を引き攣らせながら愛想笑いを浮かべた。
「めんどくさいよ、正直。」
私はわざと綾から鞄に視線を逸らしてそう言った。
「無視すればいいのにー」
綾はそう言いながら笑うと、満足したのか体を前に戻した。
「……」
確かに、めんどくさいなら無視すればいい話なんだろうけど。
もし、有り得ないだろうけど、もし舞宵の機嫌を損ねたりしたら、兄の存在をバラされそうで怖いんだ。
「ただいまぁ……」
玄関で靴を脱ぎ捨て、私はとぼとぼと廊下を歩いた。
今日も疲れたなぁ。舞宵のせいで暁美がキレちゃったし、いつも以上に余計な気を使った気がする。
「ほんと、余計なことすんじゃねーよ」
溜め息を吐いて、洗面所で手を洗う。
「おかえり、どうしたの、暗い顔して」
洗面所を覗き込んできたお母さんと、鏡越しに目が合う。私は苦笑いしながらタオルで手を拭く。
「後ろの席の子がまじ最悪でさ」
思わず愚痴が溢れ出る。
「空気読めなくて、そのせいでクラスの他の子が機嫌悪くなっちゃって」
私がそう言うと、お母さんは眉を八の字にして苦笑いした。
「あんまり悪口言っちゃダメよ?ムカついたとしてもいじめたりしちゃ絶対だめだからね?」
「はー?そんなのしないけど愚痴くらい良くない?」
「言ってもいいけど、絶対本人に聞かれちゃだめよ。言う相手にも気を付けなさい、本人にバラしたり他の子に言っちゃうかもしれないからね」
「別に舞宵にならバレたっていいし」
あいつはどうせ気にもしないだろうし。
「こころ。」
急に低い声で名前を呼ばれてはっとする。いつもの「ちゃん付け」じゃない。ゆっくりと顔を上げてお母さんの顔を見る。いつもは温厚なお母さんの表情はどこにもなかった。冷たく鋭い視線が、氷柱のように私に突き刺さる。
「他人を傷付けるような子に育てた覚えはないわよ。」
「……ごめんなさい」
心臓がどく、どくと鼓動を刻んでいく音が聞こえる。私はそっと胸に手を当てた。
「そ、そんなに怒んなくたっていいじゃん」
そしてお母さんの視線から逃れるように目を泳がせる。背中を冷たい汗が伝っていくのを感じる。
な、何でここまで怒ってんのよ。普段なら、引きこもりの兄にだって絶対怒んないじゃない。何で兄は怒られなくて私は怒られなきゃいけないの?おかしくない?
「私はね、こころのために言ってるの」
お母さんはそう言いながら短い溜め息を吐いた。
「こころ。友達を傷付けちゃダメ。絶対に、よ。」
お母さんはそう言うと、私に背を向けてリビングへ歩いていった。
「さ。お腹空いたでしょ、何か食べる?」
そう言いながら振り返ってにっこりと笑ってきた。いつものお母さんだった。
「……うん」
私はゆっくりと歩いて洗面所を出て、電気を消した。
夜になっても、ずっと帰宅後の出来事が頭から離れなかった。何でお母さんはあんなに怒ったんだろう。あんなキツい言い方、絶対しないのに。そんなに怒らせるようなこと言っちゃったのかなぁ。
自分の発言や態度を振り返ってみたけど、どれがお母さんの地雷を踏み抜いてしまったのかは全く分からなかった。本当に何が原因だったんだろう。うーん、モヤモヤする。
ベッドに寝そべっていると、壁の向こうからあのカタカタという音が微かに聞こえてきた。あいつ、またパソコンを弄ってるんだ。一日中弄ってるんじゃないの?
「はぁ……」
いいよな、あいつは一日中好きなことに没頭出来て。私は今日も一日疲れたんですけど。いつも暁美が機嫌悪くしないかずっと気を使って。それだけでも疲れるのに、今日はほんとに機嫌が悪くなったから余計にだ。舞宵のやつ、ほんと、余計なこと言わないでほしい。
「ほんと、疲れたなぁ」
深い深い溜め息をゆっくりと吐きながらそんな言葉も吐き出した。
眠ったら明日になっちゃう。明日になったら、また学校に行かなきゃいけない。
暁美、機嫌よくなってるといいな。
そんなことを思いながら、私は眠りに就いた。
翌日。私はまたあの音で目を覚ました。昨日暁美が不機嫌になったまま学校が終わったことを思い出して、朝から憂鬱な気分になった。
「はぁ……」
大きな溜め息が出る。私はベッドから降りて、半ば蹴るように足でドアを開けた。
「こころちゃん、おはよ」
お母さんがトーストを焼きながら笑顔でそう言ってきた。
「おはよ……」
そう言えば、昨日お母さんに怒られたんだっけ。私はお母さんと顔を合わせないようにして、リビングの食卓に座る。
「先に顔洗いなさいってば〜」
「はいはーい」
あ、良かった、お母さんもう怒ってないっぽい。私は生返事をして、ゆっくりと洗面所に入った。
顔を洗ってリビングに出ると、朝食が並んだお盆を持ったお母さんがにこにこしながら立っていた。
「……まさか。」
「今日もお兄ちゃんの部屋に持ってってあげて!」
「はぁ……」
私はわざとらしく溜め息を吐いて肩を落とした。お母さんの手からお盆を受け取り、精一杯嫌そうな顔をしてから兄の部屋に向かった。
「ほんとに頼むから自分で取りに来てよ……」
私は器用に足でドアを開けて、恐る恐る部屋の中を覗き込む。パソコンに向かってこちらに背を向けた兄が、ビデオを一時停止したみたいにそこに座っている。微動だにしない兄にイラつきながら、私はお盆を床に置いた。
「私が来たからってパソコン弄るのやめるのやめなよ。」
そう吐き捨てて、私はドアを乱暴に閉めた。そして、息を潜めてドアの前に立つ。
床を踏む小さな音が三、四回聞こえてくる。その後、ドアのすぐ向こうでがちゃんという音。お盆を拾ったんだろうか。また床を踏む音が数回鳴り、遠くから机にお盆を置いたであろう音が聞こえてきた。
「……。」
私は自分の足元を睨みながら無言で顔を顰めた。そして、お母さんにバレないようにドアを軽く蹴って兄の部屋を後にした。
「こころか、おはよう」
リビングに戻ると、お父さんがコーヒーを飲んでいた。
「ねぇ、お父さんからも何か言ってよ」
私は自分の朝食が並んだ食卓に腰掛けながらそう言う。
「何か、って?」
「あいつのことだよ。お父さんはおかしいって思ってるよね?」
「うーん……」
お父さんは困ったのか唸りながら黙り込んでしまった。私は納得いかずに食パンを齧りながら続ける。
「……何で?お母さんもお父さんも、おかしいって思わないの?あいつはあんな生活するのが当たり前だと思ってるんだよ?てかお父さんは昔はちゃんと注意してたじゃん!何で最近は放ったらかしなの?」
「別に放ったらかしにしてるわけじゃないよ。お兄ちゃんにもーー洸希(こうき)にも色々あるんだよ。」
お父さんは立ち上がって、ネクタイを結び直しながらそう言う。
「意味分かんない。色々あるからって怠けて生きていいって言うの?」
私はウインナーにフォークを突き刺しながらそう呟く。そんな私を見て、キッチンに居たお母さんが短い溜め息を吐いた。
「こころったら、昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって言ってたのにねぇ……」
「は、はぁ!?」
私は振り返ってお母さんを見る。
「そうだよなぁ、ずーっと洸希の後ろについてってたもんなぁ……」
「はぁぁ!?」
体を前に戻して、遠い目をしながら微笑を浮かべるお父さんを睨む。
「何急に!キモ!私そんなの全然覚えてないから!」
私は目玉焼きを口いっぱいに詰め込んでそれを飲み込んだ。
「ごちそうさま!」
私は勢いよく立ち上がって洗面所に駆け込んだ。歯ブラシに歯磨き粉をつけてシャコシャコと歯を磨く。
「何か、今日は機嫌悪いみたいだね?」
「そう言えば昨日、クラスメイトがどうのこうの言ってたっけ……」
そんな両親の会話が聞こえてくる。ふんだ、私の気持ちなんて分かってくれないくせに。
「……。」
私、間違ってるのかな。
「……ううん、確実にあいつがおかしいよ」
自分にそう言い聞かせて、口に水を含んでうがいをする。
「実際、お母さんやお父さんに迷惑掛けてるもん。」
髪の毛をブラシで梳かしながらそう呟き、私は洗面所を後にした。
憂鬱な気持ちのまま学校に着いた。私は下駄箱で上履きを履きながら、首をぐるりと回した。
「あ、おはよ、こころ」
すると、背後から誰かに挨拶された。その声に思わず肩がびくりと跳ね上がった。
私はゆっくりと振り返って、愛想笑いを顔に貼り付けた。
「おはよー、暁美」
「ん」
私が挨拶し返すと、暁美は満足そうに口元に笑みを浮かべた。そしてスニーカーを脱ぎ、それを靴箱に放り込む。
「こころさぁ」
暁美は上履きをすのこに投げ捨てる。ひっくり返ったそれを足で表に戻しながら、ちらりと私を見上げてくる。
「舞宵のことウザイって思ってるでしょ、ぶっちゃけ」
そう言われた途端、私の視線は魚のように泳ぎ出した。それを悟られないように、壁の上の方に取り付けられた時計を見る。
「あー、あはは」
誤魔化すように笑ってみたけど、暁美は騙されてくれなかった。
「ウザイっしょ、毎日絡まれてんじゃん」
あー、見てたんだ。めんどくさいなぁ。暁美は上履きに足を突っ込んで爪先をとんとんとする。その足元を眺めながら、私は口元だけにさっきの愛想笑いを浮かべる。
「空気読めないよねー。あーいう脳天気なタイプ一番嫌い。見ててイライラするもん。」
暁美はそう言うと、歩いて校舎の中へ入っていく。私は無言でそれを追い掛けた。
「こころもさー、ウザかったら無視しちゃいなよ。」
暁美は振り返ってにこりと笑ってきた。
「……うん」
私はそんな暁美の胸元に視線を固定して、笑顔が張り付いたままの唇を噛んだ。
暁美から数歩遅れて教室に入ると、教室はいつも通りだった。今日も入場無料の動物園だ。馬鹿みたいに手を叩いて笑う声や、大声で何かを叫ぶ声。何だかよく分からない奇声も聞こえてくる。
「あー、こころん、おはよぉ」
自分の席に座ろうとすると、また今日も舞宵が話し掛けてきた。いつものように机に寝転びながら、口を猫みたいにして私を見上げている。
「あー、……」
私はちらりと暁美の方を見た。椅子の背もたれを脇に挟みながら、こちらをじっと見詰めている。
「……」
私はすぐに暁美から視線を逸らして、舞宵を無視した。椅子に座って、机に頬杖をつく。
別に、暁美が怖いわけじゃないけど。ただ、暁美が不機嫌になるのが怖いだけだし。
強がって自分にそう言い聞かせながら、私は指で机を叩いた。
「お前ら、ちゃんと宿題やってきたか?」
一時間目が始まり、教師が教室に入ってきてそう訊いてきた。
「お前ふざけんなよー!」
「あ、そっち飛んでった!」
「きしょ!こっちに飛ばすなって!」
が、誰もそんな教師に見向きもしない。教室には誰かが作った大きなホコリの塊が舞っている。
「宿題、出したの覚えてるか?」
そう言った教師の声は、女子の甲高い叫び声と男子の低い笑い声に掻き消されてしまった。
「宿題やんないと進路に響くぞ……」
教師の声からはどんどん覇気がなくなっていく。
「……前回の続きやるぞー」
どうせ誰も聞いてなかった授業の続きを始め出した。誰もノートを広げてなんかいないのに。誰も机に向かってなんかいないのに。
「ここはこの公式を当てはめて……」
そう説明する教師の顔には明らかな疲労が見えた。くまが浮かび上がった虚ろな目元も、だらしなく開きっぱなしの口元も、見るに堪えない。
「美沢さん」
そんな教師をぼーっと眺めながらクラスメイト達の奇声をBGMに放心していたら、視界の右側からにゅっと腕が伸びてきて、とんとんと机を叩かれた。
「……?」
私は右側を見た。すると、隣に座っていたクラスメイトが同じようにこちらを見ていた。
「あれ、掛け算と足し算っていうのをちゃんと意識すれば理解しやすいよ」
少し恥ずかしそうに微笑みながら、その人はそう言ってきた。私はどうしていきなりこんなことを言われたのか理解出来ずに、頭に大量のはてなマークを浮かべた。
「あ、ごめん。ずっと熱心に黒板の方見てたから、授業ちゃんと受けたいのかと思って」
そう言って苦笑いしながら頬を掻くその子を見詰める。
彼は葉山賢人(はやまけんと)。マッシュヘアーの、黒くて太い縁のメガネを掛けたクラスメイトだ。いつも文庫本を読んでいて、一人で行動することが多い印象だけど、だからと言って友達が居ないわけではないらしい。少し変わった子だけど、彼の陰口は一度も聞いたことがないし、読書している時以外は常に周りに人が居る。
葉山くんから話し掛けてくるなんて珍しい。入学してからずっと隣の席だったけど、会話なんてしたことなかったのに。
「いや、別に」
私がぶっきらぼうにそう言うと、葉山くんは嫌な顔一つせずに、
「そっかぁ。僕と同じなのかと思ったんだけど違ったね。」
「葉山……くんは授業受けたいの?」
私が尋ねると、葉山くんはにこにこしながら恥ずかしそうに小さく頷いた。
「うん。実はね。」
「ふーん……」
まぁ、確かに見るからに勉強好きそうだし。
「まぁ、今習ってるところは小学生の時に塾で習ってるし、そこまで困らないんだけどね」
「やっぱ頭いいんだ、いつも難しそうな本読んでるもんね」
「そんなことないよ。ただ親が医者になれってうるさいだけでさ」
どこか寂しそうな表情になる葉山くんを横目で見る。
「まぁ、僕もなれたらいいなって思ってるから別にいいんだけどね!」
「すごいじゃん、親の期待に答えようとして、それが自分の夢でもあるって。」
何の気なしににそう言うと、葉山くんは目を輝かせて私をじっと見詰めてきた。
「……何?」
「いや、美沢さんって素敵なこと言うなって……」
「は?何それ」
「そういう風に考えられるの、素敵だと思うよ」
そう言う葉山くんの視線から逃れるように私は彼から視線を逸らした。
「……別に、思ったこと言っただけだよ」
何だか恥ずかしくなって、私は黒板を見ながら頬杖をついた。
「こーころん」
休み時間、トイレに行こうと思い立ち上がろうとすると、背後からつんつんと背中をつつかれた。振り返ると、案の定口を猫みたいにした舞宵が机に寝そべりながら私を見上げていた。
「……何?」
視線を前に戻して尋ねると、見てもいないのに私の顔を覗き込んでくる舞宵の姿が目に見えた。
「葉山といい感じじゃ〜ん」
「は!?」
私は思わず勢いよく振り返った。周りにクラスメイトが居ないことを確認して、胸を撫で下ろす。
「こころんが男子と話すなんて珍しいよねーん。葉山、他の男子と違って大人びてるし、こころんとは相性いいかもねん」
「…………」
私は机の下で拳を握り締めた。それをわなわなと震わせて、同じように震える唇を強く噛んだ。
「でも意外だな〜、こころんってあんな風に照れるんだね。こころんが顔真っ赤にしてるとこなんて初めて見たよぉ……」
くすくすと舞宵は楽しそうに笑う。
「……んたって、ほんとに……」
「ん?何か言った?」
ブチッ。私の中で、何かが音を立てて切れた。
「あんたって、ほんとにデリカシーないよね。普通そういうこと言う?頭おかしいんじゃないの?」
「…………ええ。」
ぽかんと口を真ん丸に開けた舞宵が体を起こした。
「な、何で怒ってるの、こころん……」
「人を馬鹿にするのもいい加減にしたら?」
「私、馬鹿になんてしてない……」
「自覚ないんだ、へぇ。あんた頭の病気なんじゃない?空気も読めないし、絶対そうでしょ」
私はそう吐き捨てると、勢いよく立ち上がって椅子を乱暴に蹴った。椅子の脚が床と擦れる音は、クラスメイト達の話し声に掻き消された。
「…………」
マジで最悪。気分悪い!
「……はぁ。」
私は溜め息を吐いて、早足で教室から出た。
ムカつく感情で埋め尽くされた頭の片隅に、何かが引っ掛かっていた。
さっきの、舞宵の焦ったような顔。まるで、ほんとに私が何で怒ったのか理解出来ていなかったみたいだった。
いつも私のことを弄ってくるのは、わざとじゃなかったってこと?ほんとに天然であんな風にウザ絡みしてきてたっての?
何か、舞宵のことが、よく分からない。
「こころ、一緒に帰ろう」
「……え」
ホームルームが終わり、帰ろうと思って立ち上がった時だった。いつも一緒に帰っているクラスメイトの千優(ちゆう)の隣に、暁美が立っていた。
「今日は暁美も一緒に帰りたいんだって!三人で帰ろ!」
「う、うん……」
千優にそう言われて、私はぎこちなく頷いた。
「行こ。」
口元に笑みを浮かべた暁美が、くるりとUターンした。
私はドアに向かって歩いていく二人の背中を追い掛けた。
教室を出る際、ちらりと舞宵の方を見た。舞宵は机に突っ伏していた。どうやらまだ寝ているみたいだ。
「…………」
別に、私が気にすることないじゃん。
ノーテンキな舞宵が、私のあんな一言で傷付くわけないもん。
「ねー、私思うんだけどさぁ……」
帰り道、細い道を縦に並んで歩いている時だった。先頭を歩いていた暁美が、空を見上げながらぽつりと呟いた。
「舞宵って絶対ガイジだよね」
そう言って、暁美は私達に同意を求めるように振り返る。暁美のすぐ後ろを歩いていた千優が、一瞬間を空けてから、
「だよねー!」
と言った。
「私も思ってた。あの空気の読めなさはそうとしか思えないよね」
千優がそう続けると、暁美は満足そうに目を細めて笑った。
「こころは?」
そして、そのまま後ろを無言で歩いていた私を見てくる。
「っえ」
私ははっとして顔を上げた。千優と暁美が私の方を振り返りながら歩いていた。
「あー……」
私はそんな二人と視線が合わないように、道端に落ちている葉っぱを見た。
「絶対こころは舞宵のオキニだもんね。一番分かってるんじゃない?」
「いっつも二人で喋ってるよね、こころと舞宵って」
二人はそう言いながら勝手に盛り上がっている。私は上の前歯で下唇を噛み締め、声を絞り出すようにして呟いた。
「そんなこと、ないよ」
私がそう言うと、千優と暁美は顔を見合わせて、
「ふーん、そっかぁ」
あまり面白くなさそうにそう言った。
……何か、ダメだ。
二人が、うざったくなっちゃった。
「ただいま……」
鍵を開けて家の中に入って、私は鞄を廊下に投げ捨てた。靴を脱いで、それを揃えもせずに、鞄を足で蹴りながらとぼとぼと廊下を歩く。
「おかえり、こころちゃん……って、何してるの?鞄蹴らないの!」
リビングから出迎えてくれたお母さんが、呆れたような口調でそう言ってきた。
「んー」
私はまともな返事をする気にもなれなくて、適当にそう言った。
「ちゃんと手洗いなさいね、それからシワになるからすぐに着替えなさい」
鞄をソファに置いて自分の部屋に向かおうとすると、すぐさまお母さんがそう叫んだ。
「はぁ……」
私はそんなお母さんの言葉を無視して、ソファに倒れ込んだ。
「こーこーろーちゃーん?」
ぬっとお母さんが私を見下ろしてくる。私はクッションを抱き抱えてそこに顔を埋めた。
「だめでしょ、クッション汚れちゃうじゃない!」
お母さんはそう言って私の背中を軽く叩いた。私はクッションの影からそんなお母さんを見上げて、駄々っ子のように口を尖らせた。
「疲れたんだもん」
「もー……。……学校で何かあったの?」
そう言って、しゃがんで私と目線を合わせるお母さん。私はそんなお母さんを見て、首を横に振った。
「別に。ただクラスのみんなが幼稚過ぎて疲れただけだよ」
「こころちゃんもまだ子供じゃないの」
「違うんだって!アイツらほんとにレベル低いの!毎日毎日飽きもせずにさぁ……」
「あんまり悪く言っちゃだめよ、思っても外で言うのは辞めなさいね?」
「言わないよ、そんなこと言ったらハブられるもん。」
「…………。こころちゃん、学校で嫌な思いしてるわけじゃないのよね?」
いきなり深刻そうな顔になるお母さん。
「こころちゃんだけじゃなくて、クラスの誰かが嫌がらせされてたり、いじめがあったりしてないのよね?」
「何、急に……」
「中学生になって二ヶ月になるけどまだまだ心配なの。何かあったらお母さんに相談するのよ?」
「……分かったよ」
私がそう返すと、お母さんは満足そうににっこりと笑って立ち上がった。
「よし。じゃあ着替えて手を洗ってきなさい!」
そしてまた私の背中を、今度はかなりの力でバシッと叩いてきた。
「いったぁ!……もー」
私はじわじわと痛む背中を擦りながら、お母さんの後ろ姿を思いっきり睨み付けた。
……でも、何だかんだ私のことを心配してくれてるんだよね。いつも学校でのことを気に掛けてくれてるし。
でも、言えないな。学級崩壊してて、まともに授業も受けられてないなんて。
それに、舞宵のことだって言えない。きっと、私やクラスメイトが舞宵に冷たくしてるなんて言ったら、お母さんは悲しんじゃう。
「……」
学校で舞宵に放ってしまったあの言葉が頭から離れなかった。その後の舞宵の顔が、目を瞑ると瞼の裏に浮かび上がってくるのだ。
「……明日、謝ろうかな」
クッションに埋めた口元で、ぽつりとそう呟いた。
翌日。学校に着くと、何やら玄関が騒がしかった。
「すぐ体育館に集まれ!」
ロッカーで上履きに履き替えて校舎内に入ると、廊下に立っていた教師が、通る生徒全員にそう呼び掛けていた。
「すぐ体育館に行け、急げー!」
当然私もそう言われたから、教室ではなく体育館へ向かった。
「何だろうねー」
後ろを歩いていた先輩達が声を潜めてそう呟いていた。
体育館に入ると、既に先に来ていた生徒達で溢れ返っていた。ざわざわとざわめく人混みの中を掻き分けて、自分のクラスの列を探す。
「おはよ、こころちゃん」
クラスの列に入ると、前に立っていた綾が振り返って挨拶してくれた。
「おはよう。何かあったの?」
私が尋ねると、綾は首を傾げて、
「まだ何も言われてないんだよねー」
「ふぅん……」
「何か先生達やけに焦ってたよね。何なんだろうねー?」
その時だった。目の前で笑っていた綾の顔が消え、パッと視界が真っ暗になった。
「え!?」
途端に生徒達はざわめき出す。その声に混じって、微かに何かの音が聞こえてくる。
「……カーテン、閉めてる?」
誰かのその声で、やっとカーテンが閉められたせいで真っ暗になったのだと分かった。でもどうして?わざわざカーテンを閉めたの?
「えー、静かに!」
舞台から、聞き慣れた校長の声が聞こえてきた。そしてパッと目の前が明るくなる。電気を付けたのか。私は目が慣れるまで目を細めて、やっとはっきりしてきた視界で舞台の方を見た。
その後ぐるりと体育館の両端を見回すと、何やら暗い顔をした教師達が並んでいた。
「皆さんに、悲しいお知らせがあります」
校長の声が、マイクを通してスピーカーから大音量で流れてくる。私達は固唾を飲んで校長の次の言葉を待つ。
校長はハンカチを取り出して、額に浮かび上がった脂汗を拭い、ゆっくりと口を開いた。
「一年三組の担任の前橋先生が、昨日お亡くなりになりました。」
一瞬の静寂の後、体育館内は途端に再びざわめき出した。
「え?」
「前橋先生が……?」
「何で?」
「病気だったとか……?」
「でも前橋先生まだ若いし元気だったじゃん……」
ざわざわと周囲でそんな声が飛び交う中、私達の列だけは誰一人言葉を発さなかった。
だって。前橋先生は……。
「うちらの担任じゃん……」
綾がぽつりと呟いた。
「えー、亡くなられた理由に関しては、先生のご家族が公開しないでほしいと仰っていたのでー……」
その先の言葉は何も頭に入ってこなかった。気が付いたら集会は終わっていて、舞台から校長の姿は消えていた。
「早く教室戻れー!」
教師達がそう呼び掛けると、他の学年やクラスの生徒達は出口に向かって歩き出した。
が、私のクラスだけは、誰一人その場から動こうとしなかった。
みんな、頭の中では理解していたのかもしれない。前橋先生は、自分達のせいで死んだんじゃないかって。
「……死ぬとかマジだる」
そう思っていたら、背後からそんな声が聞こえていた。
振り返らずとも分かった。声の主は暁美だ。
「え、何?急病とか事故とかでしょ?何みんな暗い顔してんの?」
暁美は笑い混じりにそう言う。
「てか新しい担任誰になると思う?岡村とかだったらだるくない?」
暁美は笑いながら自分の前に立っていたクラスメイトの肩を叩く。
「あー、はは……」
そのクラスメイトは視線を泳がせて口角を引き攣らせた。そんなクラスメイトを見た暁美の顔からどんどん笑顔が消えていく。
「……何?みんなほんとにだるいよ。」
そしてそう吐き捨てると、すたすたと出口に向かって歩いていってしまった。
「……ま、待って暁美!」
ゆみかが慌てて暁美の後を追い掛ける。
「おい、お前らも早く教室に戻れ」
隣のクラスの担任が、体育館に残った私達に駆け寄ってくる。
「ショックなのは分かるが……」
そう言って、隣のクラスの担任は私達の背中を押す。
「……行こ」
誰かがそう言うと、クラスメイト達はゆっくりと歩き出した。私もそれに従って歩く。
「……」
体育館を出る時、ちらりと隣のクラスの担任を見た。
「……」
私には、はっきりと見えていた。
さっきあの教師は、あの言葉の後に、「お前らのせいで死んだんだぞ」と呟いていた。
「……」
やっぱり、ただの急病や事故なんかじゃない。前橋先生が死んだのは、私達のせいだ。
「えー、新しい担任が決まるまで、僕がこのクラスも受け持つことになった。ショックだろうが、どうか気を落とさずに、な。」
隣のクラスの担任は、教卓の前でそう言うと、教室から出ていった。あれからすぐに全員が教室に戻り、一足遅れて隣のクラスの担任が教室に入ってきたのだ。
どうやら新しい担任が決まるまではあの人が担任になるらしい。別に嫌だとかそういうわけではないけど、さっきの言葉が頭から離れてくれなかった。
「このクラスのせいで前橋先生が死んだ」ってあの人が思ってるのなら、まるで私達は「人殺し」だと思われているみたいじゃない。
……いや、それは間違いじゃないけど。
でも、私は学級崩壊に参加してない。なのにみんなと同じだと思われてるのなら屈辱だ。
「私は違うもん……」
机の下で、ぎゅっと拳を握り締めた。
授業後のホームルームが終わり、クラスメイト達は各々教室から出ていった。
結局、タイミングも掴めなくて舞宵に謝れなかったや。私は暗い気持ちのままごそごそと机の中を漁っていた。
「……あれ。」
机の中に入れておいたはずの生徒手帳が見当たらなかった。毎日、朝学校に来たら教科書やポーチと一緒にここに仕舞ってるのに。
制服のポケットの中を探してみても、やっぱり入っていない。もしかして、どこかに落とした?
「だるっ……」
溜め息を吐いて立ち上がる。学生鞄を机の横から引ったくって肩に提げて、教室を出た。
「あ、こころちゃん!」
「綾」
廊下に出ると、友達と喋っていた綾が小走りでこちらに歩いてきた。
「さっき二組の担任……早川先生がこころちゃんの生徒手帳拾ったから取りに来いって言ってたよ!」
「あ、ありがとう……」
げ、よりによって隣のクラスの担任に拾われるなんて。
「じゃーね!」
そう言って、綾は友達と一緒に階段を降りていった。
「……はぁ。」
受け取りに行かなきゃだよね。何だか気まずいからわざわざ会いに行きたくないなぁ……。
私は肩を落としながらとぼとぼと職員室へ向かった。
職員室の前に来ると、私は立ち止まって何度か深呼吸をした。大丈夫だって、早川先生にあの呟きを聞いてたことはバレてないんだから、向こうは何とも思ってないって。自分にそう言い聞かせて、私は大きく頷いた。
コンコン。軽く二回ノックをして、職員室のドアを少し開ける。
「失礼しまー……」
そのまま入ろうとすると、何やら声を潜めて会話をする教師達の声が聞こえてきた。
「……やっぱりこっちで対処し切れませんよね。」
「まさかうちの学校でまたこんなことになるなんて……」
あ、何か大事な話をしてるっぽい。今入っていかない方がいいかな?
「まさか二年連続でこんなことが起こるなんて。」
が、私は思わず聞き耳を立ててしまった。一体何の話をしてるんだろう。
「それで、いつになるんですか?そして今回はどのタイミングで処分するんですかね?」
「去年は三年だったから修学旅行中に起きた事故として処理出来たけど、今年は一年だからそんなイベントもないですしね……」
「校内で爆弾なんか使われたら堪らないですよね〜」
はははと様々な高さの笑い声が沸き起こる。
「でも、こんな事例滅多にないんじゃないですか?まさか大人が売るなんて。」
……「事故」?「爆弾」?「売る」?何だかさっきから妙なワードがいくつか出てきている。
去年の三年生に起きたことが今の一年生に起きるってこと?でもそれって一体何?事故や爆弾が関係してるってこと?
「いや〜、にしてもあのクラスはかなり問題が多かったから、こちらからしても有難いですね!」
「あーいう頭の悪いガキはほっといてもしょうもない問題ばかり起こして何の役にも立ちませんからね。早めに殺しておくのがベストですよね〜」
「ほんと、住みやすい世の中になりましたね!」
ドクン。心臓が大きく脈打った。
何、何?「あのクラス」って、「問題が多かった」って、うちのクラスのことじゃない……?
自分の鼓動がどんどん早くなっていくのを全身で感じた。私は胸元のシャツを握りしめて、頬を伝う汗の雫を凝視した。
教師達のあの口調、異常だ。只事じゃないなのかもしれない。
やだ、やだ。何かよく分からないけど、すごいやだ……!
「あの、せんせーーむぐぅっ」
何とかこの空気を壊したくて、ドアを開けて職員室に入っていこうと立ち上がった時だった。私は誰かに口を塞がれて、後ろに倒れ込んで尻もちをついた。
「いた……っ」
私は自分の口を覆っている手を掴んで、必死に抵抗した。
「しっ!」
振り返ると、そこには今まで見たこともないような顔をした舞宵が居た。
何で舞宵が……。と言おうとしたけど、隙間なく口を塞がれていて言葉を発することが出来なかった。
舞宵は眉を顰めて、ドアの数センチの隙間から職員室の中を覗き込んだ。
「音立てないように立って。逃げるから」
そう言って、舞宵は私の口を塞いだまま立ち上がった。私も釣られて立ち上がると、舞宵は私の腕を引っ張って走り出した。
「……っ舞宵!」
私は廊下の真ん中に来た辺りで、舞宵の手を振り払った。
「何?どういうことなの?」
「それは後で!とりま学校出るからっ」
舞宵はそう言って、廊下を走って階段を駆け下りていった。
「……一体なんだってのよ……」
私はそんな舞宵を小走りで追い掛けた。
「はぁっ、はぁっ……」
涙目になりながら、私は肩を上下させて息を整えた。校門を出て、左に少し歩いたところにある公園のベンチにて。
「……どういうことなのよ、舞宵……」
私はゆっくりと顔を上げて、ベンチに腰掛ける舞宵を睨んだ。
「何なの?……何なの?」
鼻の奥がツーンと痛くなって、目の奥から涙が溢れてくる。私は鼻を啜りながらそれを制服の袖で必死に拭った。「先生達、何の話してたの?」
「……先生達は、前橋先生の話をしてたんだよ。」
舞宵は夕焼けに染まった赤い空を見上げながらそう言った。
「でも、じゃあ、何で『処分』とか『殺/す』とか言ってたの?それも、私達をみたいな……」
「こころん!」
いきなり大声で名前を呼ばれて、私は思わず肩を跳ねらせ黙り込んだ。舞宵を見ると、目を真ん丸に見開いてるくせに口元は真一文字に結んでいた。
「何、その顔……」
「落ち着いて、こころん。」
舞宵は立ち上がって、私の肩にそっと手を載せる。
「こころん。こころんは何も聞いてない。職員室にも行ってない。……だよね?」
そう言って、にこりと微笑む舞宵の顔が視界を埋め尽くす。
ザアッと音を立てて、木の葉が擦れ合う。カラスが鳴きながら飛び立ち、空がだんだんと暗くなっていく。
「…………舞宵は何を知ってるの?」
「……かーえろ、こころん」
私の質問に、舞宵は答えてくれなかった。
家に帰って、私はすぐに部屋に駆け込んだ。
ドアを閉めて、そこに背をつけてゆっくりと床に座り込む。ファンシーな色のジョイントマットの上にぺたりとお尻と脚をくっつける。
胸が跳ね上がるように息をする。何度も深呼吸をしようとしたけど、呼吸が整わない。
みんなどうしちゃったの?みんなおかしいよ!前橋先生が亡くなってみんなおかしくなっちゃったの?
「だって、だって、『殺/す』なんて普通じゃない……」
絶対に私の考え過ぎなんかじゃない。あれは、私達のクラスに向けて言ってた。
「私、殺されるの?」
明日、学校に行くのが怖い。
私は震えながらその夜を過ごした。
翌朝。私は兄のキーボードを叩く音で目が覚めても、布団から出なかった。
ああ、いつもならこの時間はリビングでご飯を食べてるのに。でも今日はとてもそんな気分になれなかった。
目が覚めた瞬間、昨日のことは全て夢だったかもしれないと思った。そう思いたかった。でもやっぱり現実で、教師達の会話が鮮明に脳裏にこびり付いていた。
……そう言えば、舞宵は何であんなことを言ったんだろう。「こころんは何も聞いてない。職員室にも行ってない。」って、まるで舞宵も教師達の会話を知ってるみたいだった。
それに、私の質問には答えてくれなかったし。絶対舞宵は何か知ってるのに。
「……相変わらずよく分からないよ、舞宵は」
「こころちゃーん?」
部屋のドアの向こう側で、くぐもったお母さんの声が聞こえてきた。げ、いつもの時間に起きてこないから起こしに来たんだ。
「こころちゃん、開けるわよー」
そう言って、お母さんは私の返事も待たずにガチャリとドアを開けて部屋に入ってきた。
「起きなさい、こころちゃん」
電気のスイッチを押しながらお母さんはそう言ってきた。私は布団にくるまりながら「んー」と生返事をした。
「遅刻しちゃうわよ?……ショックなのは分かるけど」
「……え?」
「担任の前橋先生、亡くなったんですってね」
あ、お母さんも知ってるんだ。そりゃそっか、担任が亡くなったんだもんね。
「悲しいわよね、私も大好きだった高校の先生が一昨年亡くなったって聞いた時は悲しかったわぁ……」
悲しんでるふりしとこ。そうすれば休ませてもらえるかも。
「ほんとにショックでお腹痛い……」
「じゃあ今日は休むの?」
少し怒ってるような口調でお母さんはそう言う。
「休みたい……」
私は布団の中で体をもぞもぞと動かした。
「そう。じゃあ仕方ないわね……」
お母さんははぁっと短い溜め息を吐き、私の布団に手を掛ける。
「お母さんが車で連れてってあげるから準備しなさい!」
布団が剥ぎ取られ、仮病でお腹を抱えた私が露になった。
「…………」
笑顔のお母さんと目が合った。
……だめだ。行かないとこの圧力で殺される。
私は諦めて体を起こした。
今日はいつも以上に足取りが重かった。まるでダンベルでも足に括り付けられているかのようだった。
「はぁ、キッツ……」
学校に着くまでに何度溜め息を吐いたんだろう。吐きすぎて息が上がってきた。
「…………」
学校が見えてきた。足がより一層重たくなってきた。
いつも通り。いつも通りに過ごせばいいんだ。
「……」
あれ。私、今までどうやって普通に過ごしてたんだっけ。教室では何をしてたんだっけ。そうだ、誰かと喋って、普通に笑って、ーーでも、それってどうやってたんだっけ。
「っ……」
だらだらと嫌な汗が湧き出てくる。シャツがじっとりと背中にくっ付くのを感じた。気持ち悪い。言い表しようのない不快感が全身を襲ってきた。
「大丈夫、大丈夫だから」
自分に必死にそう言い聞かせるけど、心拍数がどんどん上がっていき、足元がふらついてきた。
耳鳴りもする。目の前が何だかぼやけて見える。
「ちょっと、大丈夫?」
あれ。何か地面が目の前にある。
あ、私、倒れてる?いつの間に?どうして……。
「誰か先生呼んできて!」
すぐ近くで誰かがそう叫んだ。それなのに、異様に遠くの方から聞こえてくるように感じた。
「ちょっと、大丈夫ー?」
あ、保健室の先生だ。やば、周りにどんどん人が集まってくる。恥ずかしいのに全身に力が入らなくて立てなかった。
「貧血かしら?」
保健室の先生が、そう呟きながら私の腕を掴み脇を潜った。そしてそのまま立ち上がり、私を支えてゆっくりと歩き出す。
じろじろと生徒達に見られながら、私はぐったりと先生に身を任せた。
保健室に着くと、私はすぐにベッドに寝かされた。
保健室の先生は溜め息を吐いて肩をぐるぐると回し、カーテンを掴みながら私の顔を覗き込んだ。
「一年三組の美沢さんだよね?」
私は無言でこくりと頷いた。
「担任……は、そっか。えーと、代わりの先生に言っとくから休んでなさいね。ちなみに朝ごはんはちゃんと食べた?」
「食べたけど、いつもより少なめでした……」
「そっか。まあ、ただの貧血だと思うから安静にすれば良くなると思うよ。治ったら教室戻っていいから」
先生はそう言うと、シャーっとピンクのカーテンを閉めた。
……保健室から先生が出てくると、室内は静寂に包まれた。
保健室の独特な匂いが鼻を掠める。私は腕で目を覆って仰向けになった。
何か、体が頭に追い付いてくれないや。昨日起こった出来事を、まだ受け入れ切れないよ。貧血になったのも、きっと昨日のアレが影響してるんだ。
担任の死と、教師達の異様な会話。……思い出したくもない。
……もし、あそこで舞宵が止めてくれなかったら、私はどうしてたんだろう。
あれ、何だろう。何かすごく嫌な予感がする。
ガラッ!
その時、保健室のドアが勢いよく開けられた。私はその音に驚いて弾かれるように起き上がった。
「だ、誰?」
自分の鼓動が耳のすぐ近くで聞こえる。まるで全力疾走した直後かのように息が上がる。
「先生?」
ドクン、ドクン。呼吸がだんだん浅く早くなって苦しくなってくる。
「……こころん?」
が、その声を聞いた途端、私は胸を撫で下ろして安心した。
「何だ、舞宵かよ……」
私はベッドから降りてカーテンを開けた。ドアの前に舞宵が立っていた。
「びっくりさせないでよ、ほんとに……」
「こころん、具合悪いの?」
舞宵はこちらに歩いてきながらそう尋ねてきた。
「ん、さっきまでヤバかったけどもう平気かも。授業もう始まってるよね、あんた何でここに居んのよ」
私がそう言うと、舞宵は隣のベッドに腰掛けてじっと私の顔を見てくる。
「……何よ」
思わず私は舞宵から視線を逸らした。
「誰にも何も訊かれてないよね?」
舞宵はバカ真面目な顔でそう言ってくる。
「何、それ」
まだ鼓動が速くなってくる。
「誰かに何か訊かれて、正直に答えたりしてないよね?」
「だから何っーー」
「美沢ー?」
私が言い掛けた時、また保健室に誰かが入ってきた。
私と舞宵はすぐに口を閉じた。そして舞宵は目を真ん丸に見開いて私を見た。そして、
「わっ」
私は、舞宵にベッドに押し倒された。
何するの、と言うより、舞宵がカーテンを閉める方が早かった。
「どうかしたんですか?先生」
どうやら保健室に入ってきたのは早川先生みたいだ。
「いや、美沢が倒れたって聞いたから来たんだが……、お前は何でここに居るんだ、宮下?」
呆れた声色で舞宵にそう言う早川先生。
「親友が倒れたって聞いたから心配して来たんですよぉ」
わざとらしい猫なで声で舞宵はそう言う。いつあんたと私が親友になったって言うのよ。
「で、美沢は?寝てるのか?」
「はい、まだ具合悪いみたいで眠ってます」
舞宵は、「眠っています」を強調してそう言った。……これ、空気読んで寝てるフリしてた方がいい感じ?
「そうか。……」
謎の沈黙。私は静かに鼓動を刻む胸元を手で抑えた。
「宮下、お前は早く教室に戻れ。ただでさえ居眠りが多いんだから進路に響くぞ」
「はぁい」
舞宵はだるそうに返事をし、早川先生と保健室から出ていく。二人分の足音が遠ざかっていくと、私は体を起こした。
「……」
よかった、早川先生、何ともなかった。私のことを心配してわざわざ様子を見に来てくれたんだ。寝てるフリしちゃったけど、ちゃんとお礼言えばよかったかな。後で言いに行こう。
何か、いつも通りの先生を見たら調子が戻ってきた。私も教室に戻ろう。
私はベッドから降りて、保健室を後にした。
「ぎゃはははっ……」
教室に近付くにつれ、クラスメイト達の笑い声も大きくなっていく。昨日担任が死んだって言うのに、悲しんだのは昨日だけか。状況は何も変わらないみたいだ。私はそれに思わず溜め息を零しながらも、教室の後ろのドタを開けた。
ガラッ。派手な音を立てて開けたが、笑い声のせいで、誰も私が教室に入ってきたことに気付いていなかった。
「……」
てくてくと歩いていき、自分の席に座る。そこでやっと、隣に座っていた葉山くんが私を見てきた。
「美沢さん、倒れたって聞いたけど大丈夫なの?」
そして心配そうにそう言ってきた。
「あ、うん。もう大丈夫」
私は淡々とそう答えて、黒板に視線を移した。
……別に、舞宵に言われたことを気にしてるわけじゃないけど。ただ、他のクラスメイトにもそんな風に思われたら嫌だってだけだし。
葉山くんのことは嫌いじゃない。けど、好きでもない。
ただ少し喋っただけなのに、あんなふうに言われたら気にしちゃうじゃない。
「……」
そう言えば、舞宵はまだ教室に戻ってきてないの?後ろの席は空席のままだ。教室に入る時に見回してみたけど、舞宵の姿はなかった。
おかしいな、私より先に保健室を出てったのに。アイツ、さてはどこかで道草食ってるな?
ほんと、不真面目な奴。
休み時間になって、トイレに行こうと教室を出た時、ドアの前でバッタリと舞宵と鉢合わせた。
「あ」
思わず小さな声を上げて舞宵を見て、私はぎょっとした。舞宵は何か思い詰めた表情で下を見ていたのだ。
「……あ」
ゆっくりと顔上げて私の顔を見た途端、舞宵はふにゃりと表情を和らげた。
「こころん、やほ〜」
「や、やほ……」
いつもみたいなマイペースな舞宵に何故か私は安心した。そのまま教室に入っていく舞宵を見ながら私は教室を出た。
トイレを済ませて洗面所で手を洗っていると、何やら鏡に動く人影が映った。私はゆっくりと顔を上げてその影を見る。
「暁美……」
後ろに立っているのは暁美だった。
にっこりと笑顔を貼り付けながら私の背後に近付いてくる暁美。
「こころ、話があんだけどさあ」
暁美はそう言ってじろりと鏡越しに私を睨み付けてくる。
な、何?もしかして舞宵と喋ってるところを見られたとか?暁美は明らかに舞宵をハブにしたがってるし、きっとよく思わないんだ。
「ま、舞宵とは別に仲良くしてたわけじゃないしっ……!」
「今度はウチのクラスだよ、こころ」
私達は同時にそう言った。そして言い終わった後、目を真ん丸にしてお互いを直に見詰め合った。
「え……?」
今、暁美は何て言った?「今度はウチのクラス」???
「何のこと?」
私が尋ねると、暁美は汗をだらだらと垂れ流しながら顔を近付けてきた。息も荒い。こんなに焦っている暁美は初めて見た。
「だからあの噂だよ。去年三年生のとあるクラスが失踪したってやつ。」
ドキン、と心臓が凍り付きそうになってしまった。私も暁美に釣られるように汗を垂れ流している。
「昨日、他校の大学の先輩から聞いたんだけどさ。今いじめとかそう言うのを取り締まるのにヤバいほうりつ?があるんだって」
あ、暁美、自分がいじめをしてるって自覚はあったんだ。つい私はそんなことを考えてしまった。でも待って、法律?
「それが失踪と関係あるの?」
この先を聞いてしまってもいいんだろうか。ドクドクと異様な速さで刻まれる心音を聞く限り、聞かない方がいいのかもしれない。
「……いじめをされて傷付いた被害者は、加害者を殺せるんだって」
「……は?」
「だからっ!前橋に殺されるんだよ私達っ!」
「え……」
静寂が辺りを包んだ。が、すぐに休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。暁美は無言で私の横をすり抜けて走って行ってしまった。
「やっぱり……?」
トイレに取り残された私は、バクバクと踊り狂う心臓を必死に沈めようと抑えた。
「やっぱ、昨日のはガチだったんだ」
昨日の職員室での教師達の会話と、暁美の言ったことがぴったり重なった。
私ーーいや、私達は、死ぬことになるんだ。