お前のような輩を淘汰するため。
物騒すぎて草
人間や生物の存在の根拠は自己があり自他共に周りに関し影響を与え思考するということが「生きている」存在しているという生きた証明であり、故にその肯定を省略淘汰するということは「生きているという証明」を蔑ろにするのとほかならないと思っている
つまりは考える事を放棄するってことは自分で自分の存在を無いものとして扱っているのと相違ないのではないかってこと
考える先にあるものが何かわかっているわけでもなければ「ループ」という概念に必ず該当するわけでもないのだから、それだけの理由で思考をおざなりにするのは間違っていると思う
君がしているのは考える事をやめ動物のように本能のまま生き死にしているのと違いないと感じた
自身が世に生を望んで生まれてきたとか産まれる前に親を探す、運命なんてものは机上の空論にほかならないとは思うけど
自己価値を見出すには普通に良い例ではあると思う
そもそも物に「なんのために存在したのか・なぜ存在しているのか」というのは「存在価値」を考える前の基盤であり、それから結論に達せられるのが正しい
だから「何故存在しているのか?」という根拠の肉付けが朧げなものでも確かな意見として間違いない
そもそもが誰もたどり着けぬ極地で定まりやハッキリしていることがないのだから理想想像妄想を掲げて主張を生み出すのは間違いではないと思う
ただその運命論とか宿命論で結論付けるのはどうも味気ないと思うけどね
未来が見えないから、先の想像はできないけど「壁」ってやつにぶち当たるのが人生っていうのはあまりにも単純な思考停止でしかないと思う
なにかしらのトラブルやその都度起こりうる障害を次どう活かして何を成すのか不測の事態、事事の解決法
そういったことまで放置してのうのうと余生を過ごすの?それって言ってしまえば運命論とかと相違ないんじゃない?
そんな君にこの言葉を送ろう
僕らにはいつか死ぬという変えられない運命があり、その意味において運命の奴隷だ。しかし、奴隷には二通りいる。どうせ結果は同じと何もしない『眠れる奴隷』と、たとえ運命が決定されていても、そこに至るプロセスを意味あるものにしようと立ち上がる“目覚めた奴隷”とだ。僕は後者でありたい。
難しい議論とは言うけど反論や指摘の余地がる以上はただの対話だとか論争だとかのと変わりないんじゃないの
確かにこっちは凝り固まった概念を掲げて話しているわけではないけど、レスをする人の発言を自分なりに考えて「本当にその考えは正しいのか」って聞いてるのと他ならないのでわ?
そもそも「議論」って自分の感じていることや思っていることを声に出して論じ説明し他者に理解させる行為だと認識しているけど、今までの流れでなにか決定的な問題や支障ってある?
>>18
具体的にはどう淘汰するつもりなの?それが存在価値とかに直結するなら君の人生ってとてつもなく限定的な生き方しかできそうにないね
>>21
その世界対戦が終わったら、ざんねん!わたしのぼうけんはここでおわってしまった!ってなりそうだね