>>219
>神の王国とキリスト教国とは別物です。以下の聖句の通り、「復活後」に神の王国があります。
ではキリスト教は何の効果も無いという事ですね。神の王国こそが万能である。しかしキリスト教は万能ではない。キリスト教を国教としている国が成功していないからです。
さてそうすると、以下の文言が問題となります。
>論理的説得力さえあれば万人が信じるわけではありません。しかし事実より明白な説得力はありません。それでも信じない者は、やはり信じません。心は鈍くなったり、頑なになったりするからです。
そしてこうも言っている。
>イエスは答えて言われた,「きわめて真実にあなたに言いますが,再び生まれなければ,だれも神の王国を見ることはできません」。
誰も神の王国を見る事は出来ないという。ならば事実として存在する事は出来ない。誰も確認出来ないからです。であるならば明白な説得力は無い事になる。
>一方、神の王国は、全ての問題を解決します。神に従順で、神の統治を支持すること、これが最善だと聖書は教えています。
聖書の言葉は事実を示していません。よって聖書の教えは紛い物となります。
>ではキリスト教は何の効果も無いという事ですね。
偽りのキリスト教を全否定する訳ではありません。利他主義など、聖書の一部の教えは継承されましたから。
しかし多くの教義が異教的思想や習慣にすり替えられてしまいました。紛い物となり、聖書真理やキリスト教徒に関して、多大なる誤解や混乱を招いています。
>神の王国こそが万能である。しかしキリスト教は万能ではない。
万能という語が適切かは分かりません。神の王国は全てを解決します。しかし、そこに至るには聖書の教えを当てはめ、自己変革が必要です。つまり受け身だけで成立するものではなく、能動的な努力も必要です。
>キリスト教を国教としている国が成功していないからです。
彼等が成功していないから世のキリスト教が万能でない、という論旨ではなく、世のキリスト教の大半が聖書に即していない、よって神の王国と比較するのは間違っている、という論旨でした。
>誰も神の王国を見る事は出来ないという。ならば事実として存在する事は出来ない。誰も確認出来ないからです。であるならば明白な説得力は無い事になる。
神の王国は将来実現されるものです。ですから今は見ることが出来ません。存在することが出来ないのではなく、将来に存在する様になる、というのが聖書の教えです。
その実現を信じるかどうかは、信仰に関わることです。聖書は信仰を以下の様に定義しています。
ヘブライ11:1
信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。
盲信でなく確信であることを示しています。沢山の考察や検証、実感を経て、確信に至ることが出来ます。