>>260
続きです。
>あくまで観測者や当事者が新たな事実を発見したに過ぎない。 我々は物事を極めて感覚的、主観的に捉えている。その中に絶対的な客観的事実が介入する余地はない。
確かに人は主観的に世界を捉えています。しかし認識していなかった段差は※主観世界の外※にあり、主観世界に外から作用して調整をもたらしました。つまり主観世界は全てではない。その外があり、それが客観的真実です。
例えば或る静かな部屋、これは主観世界です。しかし本当に静かなのでしょうか。ラジオを持ち込んでみましょう。すると空間はニュースや音楽で満ち、うるさくなります。静かに※思えた※部屋の空間には、実は音楽やニュースが飛び交っていた。これが客観的真実です。ラジオを持ち込み、主観世界に認識される前から、それは真実でした。主観世界が捉えられるかどうかに関わらず、客観的真実は存在します。
>確かに人は主観的に世界を捉えています。しかし認識していなかった段差は※主観世界の外※にあり、主観世界に外から作用して調整をもたらしました。つまり主観世界は全てではない。その外があり、それが客観的真実です。
正確には、その外側はわからないのです。
>例えば或る静かな部屋、これは主観世界です。しかし本当に静かなのでしょうか。ラジオを持ち込んでみましょう。すると空間はニュースや音楽で満ち、うるさくなります。静かに※思えた※部屋の空間には、実は音楽やニュースが飛び交っていた。これが客観的真実です。ラジオを持ち込み、主観世界に認識される前から、それは真実でした。主観世界が捉えられるかどうかに関わらず、客観的真実は存在します。
観測の対象が違います。主観の方では五月蝿さについて観測しているのに、客観の方ではラジオ電波について観測しています。比べるに値しません。うるさいかうるさくないかに正解はありません。五月蝿さの判断基準はそれぞれ違うのですから、