>>267
>確かに人は主観的に世界を捉えています。しかし認識していなかった段差は※主観世界の外※にあり、主観世界に外から作用して調整をもたらしました。つまり主観世界は全てではない。その外があり、それが客観的真実です。
正確には、その外側はわからないのです。
>例えば或る静かな部屋、これは主観世界です。しかし本当に静かなのでしょうか。ラジオを持ち込んでみましょう。すると空間はニュースや音楽で満ち、うるさくなります。静かに※思えた※部屋の空間には、実は音楽やニュースが飛び交っていた。これが客観的真実です。ラジオを持ち込み、主観世界に認識される前から、それは真実でした。主観世界が捉えられるかどうかに関わらず、客観的真実は存在します。
観測の対象が違います。主観の方では五月蝿さについて観測しているのに、客観の方ではラジオ電波について観測しています。比べるに値しません。うるさいかうるさくないかに正解はありません。五月蝿さの判断基準はそれぞれ違うのですから、
>正確には、その外側はわからないのです。
そうですね。ラジオの話の様に、五感の生物より六感の生物は、より正確に世界を認識出来ます。しかし七感の生物は更に正確に捉えます。そうなるとキリがありません。百感の生物の超正確な認識は、五感の生物の認識と全く異なるかもしれません。しかしより正確であり、より客観的真実に近いと言えます。客観的真実は確かに存在します。それを捉えられる精度に問題があるだけです。
>観測の対象が違います。主観の方では五月蝿さについて観測しているのに、客観の方ではラジオ電波について観測しています。比べるに値しません。うるさいかうるさくないかに正解はありません。五月蝿さの判断基準はそれぞれ違うのですから、
いいえ、ラジオの前と後の両方に於いて、空間が静かかどうかを問題にしています。
>質問ですが、新共同訳の聖書はどうですか。悪い聖書ですか?
エホバの名が神、主と書き換えられていることは大きな問題です。
また以下の聖句の通り、トビト記などの外典の追加は危険でさえあります。
啓示22:18
「私は,この巻物の預言の言葉を聞く人たち皆に,次のことを伝えます。これらのことに何かを付け加える人がいれば,神はこの巻物に書かれている災厄をその人に加えます。
細かな点では言えば、ガラテア1:15は幼児洗礼を擁護する為の(意図的な?)誤訳かもしれません。
新共同訳
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、
新世界訳
しかし,母の胎からわたしを分け,その過分のご親切によってわたしを召してくださった神が,
新世界訳(最新版)
しかし,私を母から誕生させ,惜しみない親切によって招いてくださった神が,
しかし誤解を避ける為に言うと、聖書は聖書です。たとえ分かりやすい版、誤解を招く版でも、何も無いよりは助けになります。