「はっ!? ちょい、安部野にぃ……それ……!」
「ああ、この怪我ですか? いえ、先日ちょっとした揉め事に巻き込まれましてね……」
片原拓也が暴力事件を起こした、というデマである筈の噂。しかし、生徒達の目の前にいるのは正に暴力の被害を受けたのであろう安部野。この矛盾した状況に、生徒達は困惑していた。一方、罪を擦り付けられた文芸部の二人も目を丸くし、驚きを隠せないという様子だ。
「……と、というか……何? アンタ私の邪魔すんの?」
「邪魔という訳ではありませんが、その様な尋問は如何なものかと。容疑者の言い分も聞かないというのは少し横暴ではありませんか?」
璃々愛は少々分の悪そうな顔をする。これでは文芸部を葬り去ってしまおうという会長の意向が台無しになってしまうではないか。何とかしてこの厄介な男を先ずは退けなければならない……。
璃々愛が思考を巡らせていた時、生徒達が一斉に道を開けた。コツ、コツという足音が廊下に響き渡る。黒く長い髪が艶目かしくゆらりと揺れた。
「あらあら、何の騒ぎかしら?」
「……! かいちょー……」
そう、女王のお通りだ。
「安部野君、怪我は大丈夫だった? 大変だったわね、まさか交通事故に遭うなんて」
「……えぇ。まあ」
百合香は安部野の顔を覗き込み、いかにも心配そうに声をかける。だがその言動一つ一つには、余計な事を言うなという強い牽制の意味が込められていた。
安部野も今、全てを打ち明けようとする事はなかった。ここで会長の怒りを買っても何一つメリットは無い。まだ焦る必要はないのだから、あくまで自分は誠実な生徒会の一員として行動しておくべきなのだ。少なくとも今は。
「あまり無理はしないで、早く治すのよ。……それで、璃々愛ちゃん。ちょっと良いかしら?」
璃々愛は相変わらず居心地の悪そうな様子だった。それでも下を向かまいと、周囲を睨み付けるかのように強く見る。百合香はそんな璃々愛の方に歩み寄ると、小さく耳打ちをした。
璃々愛の表情は途端に変貌する。何か言いたそうにする璃々愛に向け、百合香は人差し指を口元で立てた。その「静かに」という合図を受け取った璃々愛は、急に俯き大人しくなってしまう。
彼女は一度周りに軽く礼をすると、璃々愛を連れて廊下の奥へと歩いていった。璃々愛は文芸部員達を一瞥すると、会長に着いて歩き出す。
辺りはしばらく静まり返っていた。
少なくともこの一件で文芸部員達への疑いが晴れた訳ではない。いや、疑いというのは語弊がある。彼女達に向けられたのは既に『反逆者』を見る目であったのだ。
「……余計な事考えるからこうなるんだよ。大人しくしてりゃ平和に暮らせるのに」
「白野さん、戸塚さん!」
誰かのその声に被せるかの様に、大人びた声が響き渡る。二人が声の方に視線をやると、アデラ・ヴァレンタインが駆け寄ってくるのが見えた。
(>>123の直後、>>124と同時期くらいの話です)
「白野さん、戸塚さん! お二人とも大丈夫ですか!?」
「はい、大丈夫です。ええと……アデラ先輩、でしたっけ」
デマの真偽とその出所は曖昧にしたまま、百合香が璃々愛を連れて消えた後。未だに緊張冷めやらぬ恵里と亜衣の元に駆け寄ってきたのは、黒や茶ばかりの人混みでは一層目立つ天然の金。英国からの留学生アデラ・ヴァレンタインの名は、別学年の生徒の間でも有名だった。
アデラは二人の体や顔色を観察し、怪我や精神的ダメージが見受けられないことを確認すると、ほっと安堵の息をつく。それから未だに騒々しい周囲を見渡してから、パンパンと手を叩いた。恵里と亜衣に侮蔑的な目線を向けていた生徒たちの注目がアデラに移る。
「皆さん。学園が貶められるような情報が流れてお怒りなのは分かります。しかし感情に任せて、何の根拠もなしにお二人を責めるのはおやめください」
「で、でもアデラちゃん! 確かに文芸部の一年がデマを流したって、生徒会が……」
「生徒会の証言なら全て鵜呑みにすると? いくら信頼しているからといって、彼女たち名義の情報が常に正しいと判断するのは軽薄ですよ!」
「はあ? お前、会長が嘘ついてるっていうのか!?」
「そのような色眼鏡がいけないと言うんです。風花先輩が嘘つきかどうかは今の論点ではありません」
飽くまで問題は生徒たちの先入観であり、百合香を悪者に仕立て上げる意図はない。アデラが置いた前提は、しかし無意識下で百合香を妄信している生徒たちにはぬかに釘であった。彼女がいばら率いる風紀委員会の一員であるため炎上こそしないものの、彼らとアデラの間に剣呑な空気が漂い始める。そんな一触即発な二者の間に、挟まれる口があった。
「残念ですね、ヴァレンタインさん。僕たちがあなたの信頼に値しない存在だったとは」
「安部野先輩まで何を言っているんですか? 問題はそこではないと言っているでしょう。それにあなた……」
「ええ、存じております。全面的な信用を置いていただけないのは生徒会として非常に遺憾ですが、それはそれ。他者からの情報を頭から信じ切ることの是非については、僕も同意しましょう」
生徒会である椎哉が口にしたのは、不敬に対する叱責ではなく、意見の限定的な賛同。アデラの言動を反逆だと定義するものとばかり思っていた生徒たちは、彼の予想外な対応に思わず耳を疑った。一斉にどよめく生徒たちを一瞥し、椎哉は言葉を続ける。
「進学校の生徒である以上、皆さんは利発な方々であるはずです。それなら得た情報の信憑性を自分の力で調べ直すことなど、造作もないでしょう。まさか事実確認なんて初歩的なことを怠るなど、白羽学園生として恥ずかしい真似はいたしませんよね?」
学園の名前を引き合いに出され、生徒たちの大多数が言葉を詰まらせた。自分たちに反抗的なアデラの言い分を支持したのは気に喰わない。しかしここで彼に反論すれば、自分が事実確認もできない愚者だと主張することになる。そうなれば白羽学園に、延いてはその生徒会長である百合香に恥をかかせかねない存在だと、他の生徒に見なされてしまうだろう。
剣呑な様相が鳴りを潜め、気まずい静寂がその場に満ちる。やがて椎哉の論破は不可能だと断念した生徒たちは、一人また一人と人混みから離れていった。悪意に満ちた視線から解放され、恵里と亜衣はようやく緊張を解く。だが一方アデラは椎哉に、傍からでも分かるほどの疑いの目を向けていた。
「安部野先輩。あなたは一体何がしたかったんですか」
「何が、といいますと?」
「風花先輩と文芸部一年のみなさん、どちらを支持するつもりだったのかということですよ。風花先輩の味方であれば、そんな怪我だらけの顔で結城さんを止めなければ良かった。文芸部の味方であれば、その怪我が片原さんによるものだと説明すればよかった。なのにあなたはそのどちらも行わず、曖昧な物言いでその場しのぎをしているようにしか見えませんでした」
(続く)