>>674「希望の時間」
あぐ「ごはんだけど……」
海「いい……、いらない」
私は口をおさえながらなんとか言葉をしぼりだした。本当は気持ちが悪くて返事なんかできる状態じゃない。胸がむかむかする。
研究員A「この薬品の投与はそろそろよしたほうがよろしいかと……」
柳「本命に投与する場合の計算をしとけ」
A「はい」
首の後ろにある発信機に謎の細胞が入った液体がはめ込まれたのは、それから4か月後。研究所にやって来て1年8か月――3月のことだった。突如として、私の研究は中断となった。本命が手に入ったらしい。
ある日外から帰ってくると、あぐりさんがため息をついて待っていた時があった。
海「どうかしたの?」
あぐ「……柳沢さんに、ここで専属で働くように言われたの」
海「ふぅん」
そういえば、あぐりさんはどっかの中学の教師をやってるっていつだったか言ってたっけ。
海「教師の仕事はどうなるの?」
あぐ「やめることになると思うわ」
海「⁉」
あぐりさんはいつも楽しそうに教師の仕事について話していた。私はそれをただ、適当に聞いていただけだった。あぐりさんが楽しそうにしているのは、悪い気はしなかった。それに、毎回テスト問題を作るのを隣で見ているだけでも、私は当たり前の日常のように思えて、楽しかった……。
海「どうやったら、続けられるの?」
あぐ「え?」
海「だって、あぐりさん。教師の仕事好きなんでしょ?」
あぐ「……好きだけど、仕方ないわ。これは決められたことだから」
あぐりさんらしくない笑い方をされて、私はいささか不満だった。
その夜、私は色々と考えた。
柳沢にお願いしたところで、きっと私の気持ちはあいつには永遠に届かない。あいつにとって、周囲の人間全てがモルモット同然。そんな奴に人間が当たり前に抱いている感情が理解できるはずがない。
あぐりさんはそれが「当たり前の運命」と考えているようで、きっといくら言っても「仕方ない」と続けるだけだろう。
だったら……。
次の日
海「あぐりさん!」
あぐ「? どうしたの、海……」
私はあぐりさんが部屋に入ってきた瞬間、彼女に勢いよく声をかけた。
海「私、あぐりさんが教師をしている学校に行く!」
あぐ「え、えぇ⁉」
海「そうしたらさ、私の監視をするためにあぐりさんは学校に残らなきゃいけないでしょう? 私は勉強できるし、あぐりさんは学校に残れるし、一石二鳥だよ!」
あぐりさんはぽかんとしていた。
あぐ「で、でも。椚ヶ丘は入試もけっこう大変なのよ。受かるのすら難しいわ」
海「そんなの、あぐりさんが教えてくれるでしょ! 私も頑張るからさ!」
あぐりさんの目がうるんで、すぐに笑顔があふれたのはそのときだった。
あぐ「ふふっ。ところで、海。私のことは……」
海「お、お姉ちゃん、ね」
あぐ「そうよ。さ、椚ヶ丘に受かりたいのなら早速勉強を始めましょう」
海「え、今すぐ⁉」
あぐ「当たり前よ」
あぐりさんの笑顔が見られただけでも、私は嬉しかった。
☆
現在
海「あぐりさん……お姉ちゃんに教師の仕事を続けてほしくって、私は椚ヶ丘への受験を決心したんだ。ただ、大好きな人の笑顔が見たくて。受験中は大変だったよ。嫌いな数学はやらなきゃいけないし。お姉ちゃんは私が数学苦手なの知ってて、数学やらせるし。『国語をやりたい』って言っても『この問題が終わってからね』って笑顔で一蹴されたこともあった」
雪村先生の話をしているときの海は、どこか楽しそうだった。
彼女はちらりと茅野に目をやった。
海「あかり……。私はあなたのお姉さんに救われたんだ」
茅「………」
海「……でも、私はそんな彼女を裏切った。最低、最悪の人間なんだ……」
え?
椚ヶ丘中学への受験日は、2月頃だ。それまで、私は必死になって勉強をした。ときどき、薬の副作用などで気分が悪くなって勉強が手つかずになる日もあったりしたけれど、とりあえずは頑張った。
あぐ「ねぇ、海。約束してほしいのだけど」
海「うん?」
数学の難しい問題を終えてひと段落しているとき、あぐりさんが真剣な表情で私に向かって言った。
あぐ「椚ヶ丘に入ったら、E組のみんなと仲良くしてほしいの」
海「E組?」
椚ヶ丘中学校の話は、あぐりさんからよく聞いていた。勉強についていけなくなった生徒たちを集めたクラスがあること、そのクラスに入ったら生徒や教師から差別を受けてしまうこと、そして。あぐりさんはそのクラスに入った生徒の目に光をともしてあげたいこと……。
海「あぐりさんの頼みなら、別に引き受けてもいいよ」
あぐ「そう。よかった……。海の成績なら普通についていけるとは思うのよね。ただ、本校舎のみんなと一緒になってE組の差別をするのは、ね」
海「ムッ。あぐりさん、もしかして私を信用してないでしょ。私は弱い者いじめを嫌うくらいの気持ちはあるよ」
あぐ「あと、もう1つ」
海「『お姉ちゃん』って呼べって? こればっかりはまだ慣れないよ」
あぐ「ああ、そうじゃなくって」
違ったみたいだ。私は首をかしげてあぐりさんの次の言葉を待った。
あぐ「今まで、学校に通ったことがなかったのでしょう?」
海「あ、うん……」
あぐりさんには、私の生い立ちを少しばかり話していた。
私の本名が「如月海」であること、行方不明になったと世間で騒がれている最中に殺し屋として生きていたこと、殺し屋をやめて日本に戻ってきたらこの研究所につれてこられたことを。
あぐ「1年ちょっとの中学校生活かもしれないけれど、全力で楽しんでほしいの」
海「⁉」
思わぬ言葉に私はほうけた。
あぐ「きっと、素晴らしい経験になるから」
海「………」
☆
それから月日は流れて、いよいよ受験日となった。
あぐ「制服がないから、一応妹のを借りてきたわ」
海「妹のって……。妹さんは……私にとっては姉か。今日、彼女は制服ないってこと?」
あぐ「今日は土曜日だからあの子、学校はないのよ」
海「あ、そうなんだ」
私は借り物の制服を着て、椚ヶ丘へと向かった。
柳沢からの許可はしっかりとってある。不安になることと言えば、数学で変なミスをしないこと。こればかりは毎回あぐりさんに注意されてきた。
海「さ、やるぞ!」
☆
合格通知は、なかなかやってこなかった。不合格でも一応、通知は来るらしい。
海「あー、緊張のせいで腹痛い……」
あぐ「大丈夫よ。見直しても平気だったのでしょう?」
海「……でも、点Pがあっちにふらふらこっちにふらふらしててさ〜。もうヤダ……」
もし、仮に私が合格できなかったら、あぐりさんも教師の仕事を続けるのは不可能だろう。柳沢には「学校に通う」と一方的に言っただけで、まだ本命の話はしていない。正直、話したところで聞き届けてはくれないだろうとは、私もあぐりさんもわかってはいたけれど、どちらもあえて口にはださなかった。
☆
現在
海「合格通知が来たのは、三日月になった日……。全ての、始まりの日……」