>>687
椚ヶ丘中学への受験日は、2月頃だ。それまで、私は必死になって勉強をした。ときどき、薬の副作用などで気分が悪くなって勉強が手つかずになる日もあったりしたけれど、とりあえずは頑張った。
あぐ「ねぇ、海。約束してほしいのだけど」
海「うん?」
数学の難しい問題を終えてひと段落しているとき、あぐりさんが真剣な表情で私に向かって言った。
あぐ「椚ヶ丘に入ったら、E組のみんなと仲良くしてほしいの」
海「E組?」
椚ヶ丘中学校の話は、あぐりさんからよく聞いていた。勉強についていけなくなった生徒たちを集めたクラスがあること、そのクラスに入ったら生徒や教師から差別を受けてしまうこと、そして。あぐりさんはそのクラスに入った生徒の目に光をともしてあげたいこと……。
海「あぐりさんの頼みなら、別に引き受けてもいいよ」
あぐ「そう。よかった……。海の成績なら普通についていけるとは思うのよね。ただ、本校舎のみんなと一緒になってE組の差別をするのは、ね」
海「ムッ。あぐりさん、もしかして私を信用してないでしょ。私は弱い者いじめを嫌うくらいの気持ちはあるよ」
あぐ「あと、もう1つ」
海「『お姉ちゃん』って呼べって? こればっかりはまだ慣れないよ」
あぐ「ああ、そうじゃなくって」
違ったみたいだ。私は首をかしげてあぐりさんの次の言葉を待った。
あぐ「今まで、学校に通ったことがなかったのでしょう?」
海「あ、うん……」
あぐりさんには、私の生い立ちを少しばかり話していた。
私の本名が「如月海」であること、行方不明になったと世間で騒がれている最中に殺し屋として生きていたこと、殺し屋をやめて日本に戻ってきたらこの研究所につれてこられたことを。
あぐ「1年ちょっとの中学校生活かもしれないけれど、全力で楽しんでほしいの」
海「⁉」
思わぬ言葉に私はほうけた。
あぐ「きっと、素晴らしい経験になるから」
海「………」
☆
それから月日は流れて、いよいよ受験日となった。
あぐ「制服がないから、一応妹のを借りてきたわ」
海「妹のって……。妹さんは……私にとっては姉か。今日、彼女は制服ないってこと?」
あぐ「今日は土曜日だからあの子、学校はないのよ」
海「あ、そうなんだ」
私は借り物の制服を着て、椚ヶ丘へと向かった。
柳沢からの許可はしっかりとってある。不安になることと言えば、数学で変なミスをしないこと。こればかりは毎回あぐりさんに注意されてきた。
海「さ、やるぞ!」
☆
合格通知は、なかなかやってこなかった。不合格でも一応、通知は来るらしい。
海「あー、緊張のせいで腹痛い……」
あぐ「大丈夫よ。見直しても平気だったのでしょう?」
海「……でも、点Pがあっちにふらふらこっちにふらふらしててさ〜。もうヤダ……」
もし、仮に私が合格できなかったら、あぐりさんも教師の仕事を続けるのは不可能だろう。柳沢には「学校に通う」と一方的に言っただけで、まだ本命の話はしていない。正直、話したところで聞き届けてはくれないだろうとは、私もあぐりさんもわかってはいたけれど、どちらもあえて口にはださなかった。
☆
現在
海「合格通知が来たのは、三日月になった日……。全ての、始まりの日……」
>>695「絶望の時間」
いつだったか、あぐりさんが言っていた。
あぐ「今度、あかりに会ってみない?」
海「誰それ」
あぐ「あれ、言ってなかったっけ? 妹よ。海と1日違いの誕生日の子」
海「あー」
あぐ「ねぇ、会ってみましょうよ」
海「気が向いたらね」
正直、私は早く雪村あぐりの妹に、雪村あかりに会ってみたいと思っていた。
☆
その日、研究所内が騒がしかったのを、私は今でも覚えている……。
でも、そんなの気にならないくらい。私の気分は高揚していた。
海「ごう、かく……!」
私は小さな部屋で飛びあがるほど喜んでいた。
あぐりさんが来たらいち早く知らせたいと、私はドキドキしながら彼女が来るのを待っていた。けれど、いつまでたっても彼女は現れなかった。
海「様子、見に行こうかな」
あまり部屋からでてはならないと、ここ最近。柳沢に言われていた。でも、少し出るだけならいいのではないかと、私はそっと部屋を抜け出してあぐりさんを探し始めた。
研究所は騒がしかった。研究者たちがあわただしく廊下を走っていて、誰も私に注意を向ける人はいなかった。
そのとき、前方であぐりさんがトボトボと、元気のなさそうな顔で……泣いているような、そんな表情を見せながら現れた。私は急いで彼女に駆け寄った。
海「見て、あぐりさん! 私、合格したよ!」
私はあぐりさんに合格通知を見せて、満面の笑みを浮かべた。彼女は、そのとき何を思っていたのか。突然。
あぐ「急いで逃げてっ!」
海「え?」
あぐ「海はここにいちゃいけない。急いで! 妹が、あかりが外で待ってるから!」
私はあぐりさんの言葉にぽかんとして聞いていた。何が起きたのか、何が起きているのか。まったくわからなかった。あぐりさんは来た道を引き返そうと走りだそうとしていた。私は慌てて彼女の服の裾をつかんだ。
海「ま、待ってください! あぐりさんはどこに行くの⁉」
あぐ「私は……、あの人を――死神さんを助けないとっ!」
え?
しにが、み……。
どうして、あぐりさんの口から「死神」の名が……。まさか、本命の正体って!
体じゅうに刻まれた傷が脈打つかのように痛んだのは、幻だったのか。私は体が震えていた。
海「なん、で……」
あぐ「え?」
あぐりさんは、私が「死神」に殺されかけたという事実を知らない。それなのに。
海「なんで、あぐりさんの口から『死神』の名前が出てくるの……? もしかして、ずっと、だましてたの……?」
あぐ「え?」
海「ウソつき……。ずっと、信じてたのに……」
裏切られたと、ずっと信じていたのに裏切られたと、そのとき私は思った。
海「ウソつきっ! なんであぐりさんは『死神』を知ってるの⁉ ウソつき、ウソつきっ!」
ここにいたら、また殺される……。
そしたら、また「あの日常」に戻る……。
そんなの嫌だっ!
あぐ「海……」
あぐりさんが差し伸べてきた手を、私は振り払った。
海「触らないでっ!」
私はあぐりさんの顔を見られなかった。彼女が今、どういう顔をしているのか、見るのが怖かった。
ただ1つわかっているのは、ここを抜けださないと、またあいつに殺される!
私は彼女の横を通り過ぎ、外へと飛びだした。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……。
でも、走らないと、逃げないと、またあいつに殺される。殺されたら、幸せだった全ての日常が、壊されていく。あっけなく、音をたてることも許さずに。そんなの、嫌だ! 研究所を抜け出すと、誰かにぶつかった。
あか「ごめんなさい!」
声をかけられたけど、かまわず走り続けた。どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも。
どこをどう走ったのか、私は覚えていない。気がついたら、河川敷に来ていた。
海「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
汗びっしょりで、息も上がっていた。正直、疲れていた……。
きっと、逃げていてもやがて発信機で私の居場所など、たどられてしまうだろう。
でも、逃げなきゃ。殺されたく、ないから……。
私はすとんと地面に崩れるように座った。
海「なんで、なんでよ……」