>>695「絶望の時間」
いつだったか、あぐりさんが言っていた。
あぐ「今度、あかりに会ってみない?」
海「誰それ」
あぐ「あれ、言ってなかったっけ? 妹よ。海と1日違いの誕生日の子」
海「あー」
あぐ「ねぇ、会ってみましょうよ」
海「気が向いたらね」
正直、私は早く雪村あぐりの妹に、雪村あかりに会ってみたいと思っていた。
☆
その日、研究所内が騒がしかったのを、私は今でも覚えている……。
でも、そんなの気にならないくらい。私の気分は高揚していた。
海「ごう、かく……!」
私は小さな部屋で飛びあがるほど喜んでいた。
あぐりさんが来たらいち早く知らせたいと、私はドキドキしながら彼女が来るのを待っていた。けれど、いつまでたっても彼女は現れなかった。
海「様子、見に行こうかな」
あまり部屋からでてはならないと、ここ最近。柳沢に言われていた。でも、少し出るだけならいいのではないかと、私はそっと部屋を抜け出してあぐりさんを探し始めた。
研究所は騒がしかった。研究者たちがあわただしく廊下を走っていて、誰も私に注意を向ける人はいなかった。
そのとき、前方であぐりさんがトボトボと、元気のなさそうな顔で……泣いているような、そんな表情を見せながら現れた。私は急いで彼女に駆け寄った。
海「見て、あぐりさん! 私、合格したよ!」
私はあぐりさんに合格通知を見せて、満面の笑みを浮かべた。彼女は、そのとき何を思っていたのか。突然。
あぐ「急いで逃げてっ!」
海「え?」
あぐ「海はここにいちゃいけない。急いで! 妹が、あかりが外で待ってるから!」
私はあぐりさんの言葉にぽかんとして聞いていた。何が起きたのか、何が起きているのか。まったくわからなかった。あぐりさんは来た道を引き返そうと走りだそうとしていた。私は慌てて彼女の服の裾をつかんだ。
海「ま、待ってください! あぐりさんはどこに行くの⁉」
あぐ「私は……、あの人を――死神さんを助けないとっ!」
え?
しにが、み……。
どうして、あぐりさんの口から「死神」の名が……。まさか、本命の正体って!
体じゅうに刻まれた傷が脈打つかのように痛んだのは、幻だったのか。私は体が震えていた。
海「なん、で……」
あぐ「え?」
あぐりさんは、私が「死神」に殺されかけたという事実を知らない。それなのに。
海「なんで、あぐりさんの口から『死神』の名前が出てくるの……? もしかして、ずっと、だましてたの……?」
あぐ「え?」
海「ウソつき……。ずっと、信じてたのに……」
裏切られたと、ずっと信じていたのに裏切られたと、そのとき私は思った。
海「ウソつきっ! なんであぐりさんは『死神』を知ってるの⁉ ウソつき、ウソつきっ!」
ここにいたら、また殺される……。
そしたら、また「あの日常」に戻る……。
そんなの嫌だっ!
あぐ「海……」
あぐりさんが差し伸べてきた手を、私は振り払った。
海「触らないでっ!」
私はあぐりさんの顔を見られなかった。彼女が今、どういう顔をしているのか、見るのが怖かった。
ただ1つわかっているのは、ここを抜けださないと、またあいつに殺される!
私は彼女の横を通り過ぎ、外へと飛びだした。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……。
でも、走らないと、逃げないと、またあいつに殺される。殺されたら、幸せだった全ての日常が、壊されていく。あっけなく、音をたてることも許さずに。そんなの、嫌だ! 研究所を抜け出すと、誰かにぶつかった。
あか「ごめんなさい!」
声をかけられたけど、かまわず走り続けた。どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも。
どこをどう走ったのか、私は覚えていない。気がついたら、河川敷に来ていた。
海「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
汗びっしょりで、息も上がっていた。正直、疲れていた……。
きっと、逃げていてもやがて発信機で私の居場所など、たどられてしまうだろう。
でも、逃げなきゃ。殺されたく、ないから……。
私はすとんと地面に崩れるように座った。
海「なんで、なんでよ……」
海「なんで、なんでよ……」
ずっと信じていたのに、どうして、あの研究所にあいつがいたんだ……。
☆
1週間後
ここ1週間、私を追ってくる者は現れなかった。でも、きっと時間の問題だろう。
行くあてもないまま、道を歩く。町は夜だからかすごく静かだった。こんな時間に外を出歩いていたら補導されるだろう。私はなるべく人目のつかないところを歩くことにした。
途中の道で公園を見つけた。あの少年と会った公園ではなかったけれど、私はふとあの頃に戻りたいと思った。いや、小1の夏休み。もしも時を戻せるのなら、あの頃に戻りたい。
近くで車が止まった。
海「?」
車のドアが開かれた。
海「⁉ お前……」
柳「やぁ、久しぶりだね」
そこから現れたのは、白装束をしている柳沢だった。片眼が義眼になっていた。いったい何があったのやら、いや。今はそんな状況じゃない。
私は後退した。後ろに人の気配はない。あのときみたいに、ヘマをするわけにはいかないんだ!
柳「お前に帰る場所はあるのか?」
海「………」
柳沢の言葉に、ギクリとした。でも、私は逃げなきゃいけない。あいつと、「死神」と対面するくらいなら。
柳「あぐりが死んだ」
海「え……?」
あぐりさんが、何だって。
海「なんで……」
柳「奴が……『死神』があぐりを殺した」
海「⁉」
「死神」が、あぐりさんを?
柳「そこでだ。私と協力して奴を倒さないか?」
海「……居場所は、わかるの?」
柳「おそらく、椚ヶ丘中学校だろうな」
⁉ 椚ヶ丘、だって……?
柳「さぁ、どうす……」
海「断る」
柳沢の言葉をさえぎって、私は続けた。
「死神」があぐりさんを殺したなんて、そんなことあるはずない。あるはずが、ないんだ。
何故なら……。
海「『死神』は私の獲物だ。お前のような奴と協力もごめんだ」
柳「私から逃げられるとでも思っているのか?」
海「逃げるさ。どんな手を使っても」
私はウェストバッグから催涙ガスのボールを取りだした。気配は、していた。
海「ここで、捕まるわけにはいかない!」
地面にボールをたたきつけてガスを爆発させた。
A「な!」
柳「チッ」
周囲に5人。殺し屋の雰囲気ではなかったけれど、人がいる気配はしていた。
私は走りだした。
☆
あぐ「海、中学校生活を全力で楽しんで」
何言ってんのさ、あぐりさん。
そう言おうとしたけれど、声にでなかった。話せなかった。
あぐ「それとね、海。もう1つ……」
あぐりさんの横腹に、血がにじんでいた。顔も、よく見たら泥だらけになっている。周囲の景色が変わっていく……。壁も天井も壊され、空には不自然な形をした三日月が浮かんでいた。
あぐ「あかりを、助けて……」
そう言って、あぐりさんは目を閉じて崩れ落ちた。
海「あぐりさん!」
そこは、異臭がした。
海「くさっ!」
鼻につく匂いをかぎ、初めてここがどこだか気がついた。
海「そうか。下水道に逃げ込んだのか」
柳沢から必死に逃げて、地下なら電波も届きにくいだろうと思って下水道に逃げ込んだ。そこで力尽きて、寝ていたんだ。
私は、涙を流した。涙を流すなんて、いつ以来だろうかと。そんなことを思いながら私は泣いた。
「死神」があぐりさんを殺すなんて、ありえない。何故なら、殺し屋「死神」はかつて殺し屋だった「死神もどき」と違って、関係のない人を殺すなんて、ありえないから。それに、もし仮に「死神」があぐりさんと接触していたのなら、彼はわかっただろう。あぐりさんの、あの温かな優しさに。きっと……。
海「うっ、うっ、うあああああああああああああああああああああ!」
あぐりさんが、私を裏切ったんじゃない。あぐりさんの言葉を聞いて全てを信じられなくなった私が、彼女を裏切ったのだ。
海「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
誰に言えばいいのかわからない、「ごめんなさい」という言葉を、私は何度も何度も口にしていた。