聖書こそが真理か?

葉っぱ天国 > 議論 > スレ一覧 101- 201- 301-キーワード▼下へ
1:伝道者◆zc:2019/01/24(木) 07:25 ID:lE2

聖書こそ真理と確信している者です。

神はいるのか?聖書は神の言葉か?聖書は何を教えているのか?議論しませんか。

42:匿名 hoge:2019/03/14(木) 00:17 ID:DHo

>>41
違和感の正体はそれだ!
ここに書き込む人のほとんどが“聖書を信じてない”から、聖書が正しい前提でレスされても“布教活動”に見えてしまうんだよね。
そこんとこスレ主は理解してるかな?

スレ主は聖書が真理であるという根拠を、議論板の住人が納得できるような形で提示してほしいね。

そもそも聖書を全部読んだことある人がここでは少ないと思う。
知識をひけらかしたいならブログでも書けばいいし、誰かの疑問に答えたいなら質問板の方が合ってる気がする。

もし信者同士で聖書解釈の議論がしたいなら、無神論者や異教徒でも書けるこういう掲示板じゃなくて、信者のコミュニティでやればいいと思う。
ここでそういう議論を期待しない方がいいよ。

43:アーリア◆GM:2019/03/14(木) 00:32 ID:NIs

中川健一牧師が言うには、神はあえて悪魔を放置しており、
その理由については人間が到底判るようなものではないとのことだ。

まあ、上記主張に対する私の感想は控えておこう。

44:ヤキソバ:2019/03/14(木) 01:55 ID:vwM

宗教の話でそれが真理かどうかを話し合うのは正直ナンセンスだと思う
科学では否定も証明もできないし、結局は自分がそれだと思ったらそれが真理だし なにより個人の価値観…

45:伝道者◆zc:2019/03/14(木) 12:42 ID:0.g

投稿頂き、ありがとうございます。

>>40
>聖書を真理だと思う根拠を聖書関連以外の出典でお聞きしたい。

>>41
>スレ主は聖書出典しか答えてないけど、「聖書が正しいかどうか」の議論に聖書を根拠にするのはおかしくね? 聖書が信用に足るかどうかの質問に対して「聖書にはこう書いてあるから○○は正しい」とか言われても理解できん 聖書が真理である理由は何?

>>42
>スレ主は聖書が真理であるという根拠を、議論板の住人が納得できるような形で提示してほしいね。

回答致します。

例えば聖書に書かれた預言が具体的に過去に的中したことから、聖書が特別な本であることが分かります。聖書に書かれた預言が約200年後に成就しています。歴史上の史実として、聖書預言の確かさが証明されました。
>>12

例えばまた、聖書は古い書物であるのに、書かれた当時は人間に知られていなかった筈の科学的に正確な記述があります。
>>27

更にはまた、歴史の中で何度も発禁処分、所持や翻訳禁止とされたにも関わらず、今日、世界中のあらゆる人が母語で入手出来る様になっている特別な本でもあります。
>>29

以上、聖書が人間業を超えた、神からの書物であると思われる点、何点か例を挙げましたが、如何でしょうか。

46:伝道者◆zc:2019/03/14(木) 22:46 ID:IBg

>>42
中川健一牧師が言うには、神はあえて悪魔を放置しており、 その理由については人間が到底判るようなものではないとのことだ。

その理由を説明します。

聖書中、サタンが自分は神より強いと述べたことは一度もありません。神には敵わないことを、サタンは自覚している様です。

サタンが問題にしているのは、神の主権の用い方です。例を見てみましょう。

創世記3:1-5
さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで蛇が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。それに対して女は蛇に言った,「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。でも,園の真ん中にある木の実を食べることについて,神は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。それに対して蛇は女に言った,「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その木から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。

ヨブ1:9-11
するとサタンはエホバに答えて言った,「ヨブはただいたずらに神を恐れたのでしょうか。あなたが,彼とその家と彼の持っているすべてのものとの周りにくまなく垣を巡らされたではありませんか。彼の手の業をあなたは祝福されたので,その畜類は地にふえ広がりました。しかし逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを[見てください]」。

この状況を分かりやすい例で考えてみましょう。或る大臣(サタン)がいます。王(神)に敵わないことは知っていますが、嫉妬心から王の統治のやり方に異議を唱え、挑戦します。残念ながら、多くの国民(天使や人間)はサタンの扇動に乗せられてしまいます。

ここで王がすべきことは、反逆した大臣の即時処刑でしょうか。それでは独裁者になってしまいます。きっと更に多くの国民が「やはり王の統治はおかしい」と内心考えることでしょう。問題の本当の解決にはなりません。

一方、公正な王であれば、大臣にこう言うでしょう。「あなたが思う様にしばらく統治してみなさい。私が正しいことを、あなたが間違っていること、時と結果が万人に証明するでしょう」と。それが公正に証明された後、大臣は取り除かれるでしょう。

正にこれが、大臣(サタン)が一時的に支配することを王(神)が許している理由です。

この解釈が聖書的に正解であるか考察してみましょう。

ヨハネ第一5:19
全世界が邪悪な者の配下にあることを知っています。

確かに現在の支配者はサタンだと聖書は教えています。

申命記32:4
岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる。

確かに神は公正な方と書かれています。

ペテロ第二3:9
エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。

ローマ2:4
それとも,神の温情があなたを悔い改めに導こうとしていることを知らないために,その親切と堪忍と辛抱強さとの富を侮るのですか。

現在、確かに神は辛抱されています。

ヨハネ12:31
今,この世の裁きがなされています。今やこの世の支配者は追い出されるのです。

確かにサタンは取り除かれると聖書に書かれています。つまり、上記の解釈は聖書に即しています。

以上、何故、サタンの存在が一時的に神に許されているのか説明してみました。

47:伝道者◆zc:2019/03/14(木) 23:03 ID:IBg

>>40
>煽りとかでなく純粋な質問なんだけど、キリスト教ってイエスを信じないと地獄に落ちるの?

多くのキリスト教会では地獄の存在を教えています。これには二つの理由があります。

1.信者拡大の為、教義に妥協を施し、ギリシャ哲学など、魂は不滅とする非聖書的な考えを取り入れたから。
2.それに基づき、聖書の翻訳を改ざんし、地獄という訳語を当てはめたから。

キリスト教会が何を信じていようと、聖書には本当は何と書かれているか見てみましょう。

マタイ10:28
体をころしても魂をころすことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

エゼキエル18:20
罪を犯している魂 ― それがしぬのである。

魂は不滅ではないと聖書に書かれています。

伝道の書9:5-6
死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。

死者は意識がなく、罰せられることも苦しむことはない、と聖書に書かれています。

>人を裁くのに悪魔を裁くことはできないの?
>>42
をお読み下さい。

>全知全能じゃないの?
神は全知全能です。

48:伝道者◆zc:2019/03/14(木) 23:05 ID:IBg

訂正です。

>人を裁くのに悪魔を裁くことはできないの?
>>46
をお読み下さい。

49:サビぬき。◆ps:2019/03/15(金) 00:40 ID:a92

>>45

>例えば聖書に書かれた預言が具体的に過去に的中したことから、聖書が特別な本であることが分かります。

ちなみにこれまで2000年前後の永い歳月を費やした現在の時点で、
聖書に記載された「預言」というものが何件くらいあって、
関係者の間ではそのうちの何件が的中したとカウントされているのですか?

例えばもしもこのオレが今『東京都港区に積雪50センチの大雪が降ります』と予言したとして
それが図らずも30年後に現実になったとしても、その事に何の意味があるのでしょうか?

それから100年後の人々は、オレを神がかった預言者としてあがめ奉ってくれるのか知らん?

50:伝道者◆zc:2019/03/15(金) 07:56 ID:IBg

>>44
>宗教の話でそれが真理かどうかを話し合うのは正直ナンセンスだと思う
科学では否定も証明もできないし、結局は自分がそれだと思ったらそれが真理だし なにより個人の価値観…

ヤキソバさん、コメント頂き、ありがとうございます。

確かに聖書は宗教の本です。科学書でも医学書でも歴史書でもありません。

でも聖書の中にも科学に関した記述、医学に関した記述、歴史に関した記述があります。それぞれの記述に関して、科学者が、医学者が、歴史家が検証することは可能です。

例えばノアの日の大洪水の際、神がノアに与えた造船指示に関して、箱舟の仕様の一部が聖書に記録されています。以下、聖書から引用します。

創世記6:14-16
あなた自身のために,やに質の木の材で箱船を造りなさい。その箱船の中には仕切り室を造る。それを内側も外側もタールで覆わねばならない。そして,あなたはそれをこのように造る。すなわち,箱船の長さは三百キュビト,その幅は五十キュビト,その高さは三十キュビト。あなたはその箱船のためにツォハル[屋根,もしくは窓]を造り,それを上方,一キュビトに仕上げ,また箱船の入口をその側面に付ける。あなたはそれに下の階と二階と三階を造る。

創世記はモーセによって紀元前1513年に「書き終え」られました。つまり上記の文章は、少なくとも今から3532年前に書かれたということです。(そして写本研究により、聖書は素晴らしい精度で代々写本され、原本の内容が保持されてきたことも明らかにされています。)

上記の箱舟の仕様は、かのタイタニック号に匹敵するクラスの大きさで、3532年前の人類が持っていなかった設計知識です。今日、船の設計技師は箱舟のスペックがあらゆる面で非常に適切であること、何故それが3500年以上も前に書かれた書物に記録出来たのか、驚いています。

このことは人間業を超えた力が聖書に働いていること、つまり聖書は神からの書物である可能性を示唆する一例です。

また聖書は道徳が書かれた本でもあります。その道徳基準は世間の発想からすると意外なものが多いですが、当てはめて実践する時、その教えが本当に有効であると味わい知ることで、各自が自ら検証出来るでしょう。

神はいるのか、悪は何故あるのか、世界の目的とは、人生の目的や存在理由とは何か等々、形而上学的な論理構造も、聖書の教えは非常に優れています。

聖書の教えは心に響き、凶悪な犯罪者を善人に変化させることも出来ます。悲しんでいる人に慰めや希望も与えます。

それらのことを「総合的に」勘案する時、正にこれこそが真理であると確信することが出来ると私は感じています。

51:伝道者◆zc:2019/03/15(金) 15:50 ID:IBg

>>49

サビぬきさん、コメント頂き、ありがとうございます。

>ちなみにこれまで2000年前後の永い歳月を費やした現在の時点で、 聖書に記載された「預言」というものが何件くらいあって、 関係者の間ではそのうちの何件が的中したとカウントされているのですか?

整然と整理番号が振ってある訳ではないので、何件の預言があるか、人によって解釈が異なると思います。

一文に複数の出来事の記述があるのを一件と見るのか、類似しているが少し異なる内容の文を別件と見るのか、など。成就した後で、実は預言されていたことが後で分かる場合もあります。

成就についても、部分的に成就した後、完全な成就を後日に見る場合もあれば、予表としてユダヤ人に小規模に成就済みだが将来的に大規模に人類に成就するとされているものもあります。

更には、こうなるであろうと言った「直後」にそうなった場合、それも所謂「預言」として数えるのか?遥か古代の出来事の為、成就が「歴史的重要資料としての側面も持ち合わせる」聖書でしか確認出来ない自己申告型の場合を数えるのか?などなど。

正直、統計的なカウントは難しいと思います。

>例えばもしもこのオレが今『東京都港区に積雪50センチの大雪が降ります』と予言したとして
それが図らずも30年後に現実になったとしても、その事に何の意味があるのでしょうか?

仰る通り、その様な曖昧な預言があるのは確かです。しかし、
>>12
の預言はもっと具体的ですね。大国バビロンが誰によって、どの様に滅ぼされ、その後がどうなるのか、明示されています。

そして曖昧な預言でも、複数が重なると具体性を増します。50センチの大雪のある「その同じ日」に震度5の地震があり、同時多発テロもあり、歴史的な山火事もあり、科学的な大発見もあるとしたらどうでしょう。全てが同じ日に起こるならば、それは注目に値する預言群となりますよね。偶然と言える可能性は低くなります。

イエス・キリストに関するメシア預言、つまりイエスが救世主だと裏付ける預言で同じことが起きています。生まれる場所、幼児期の避難場所、死に方、葬られ方、死後に人々がすること、ありとあらゆる預言群がイエス一人に成就します。(その中の一部はイエスや仲間が自作自演出来ないもの、更にはイエスの反対者により実現されているものも含まれます。)数百の預言があると言われていますが、その代表的なもの僅か八つだけでも、同じ特定の人に成就する可能性は100000000000000000分の1と、或る学者が計算しています。

52:匿名@:2019/03/16(土) 17:19 ID:LQ2

 
船の話が出てたんで書かせてもらうよ。



>上記の箱舟の仕様は、かのタイタニック号に匹敵するクラスの大きさで、
>3532年前の人類が持っていなかった設計知識です。
>今日、船の設計技師は箱舟のスペックがあらゆる面で非常に適切であること、
>何故それが3500年以上も前に書かれた書物に記録出来たのか、驚いています。

何を持って「適切」なのか・・・ 。

世界最大級の木造船舶は日本の海上自衛隊が「やえやま級」を持っていた。
アメリカ海軍のアヴェンジャー級とともに、今だ世界最大級の木造船舶となっている。

「やえやま級」は多機能を持たせるため大型化が求められた。
しかし日本には台風が在るのでやみくもに大型化は出来ず
結果的にアヴェンジャー級と同等となり研究だけで二年ほど、
設計建造に8年もの歳月をかけて作られている。
1993年就役となっているから特別に古い船と言う訳でも無い現代船だ。
そんな「やえやま級」でさえ全長 67メートル。

対してタイタニック号(オリンピック級)は全長 269.1メートル。
長さだけなら世界最大の戦艦、大和級をも上回る船体サイズだ。
世界最大級の木造船舶やえやま級の4倍の全長で
排水量で比べたらもはやケタが異なってしまう。

つまり、タイタニック号(オリンピック級)の木造船って
現代技術でもデタラメなスペックであり、何が適切なのか分からない。

というか、全長 67メートルのやえやま型でさえ
現代技術でも建造に4年ほど掛かっている。

それを3500年以上も前の造船技術で
タイタニック号(オリンピック級)の建造って・・・

ウィキペディア調べで
箱舟のサイズは「長133.5m、幅22.2m、高13.3m」

そして「長:幅:高=30:5:3」の比率は、
現在のタンカーなどの大型船を造船する際に、
最も安定しているといわれる比率とほぼ同じとなる。
と書かれているが、そもそも大型タンカーと
ノアの箱舟とは構造もサイズも異なる。

大型タンカーは最大の物で全長488メートル。
だいたい300〜400メートルの物が主流であるから
全長133.5メートルの箱舟に適応するのは間違いだ。

つまり船体の概観的寸法・比率が近くとも、
実際に水に浮かべると喫水線の位置が異なり
喫水線の位置が異なれば船の重心も異なる。

鉄でできていて満載時には大きく沈み込む事が前提で
その状態で安定する様設計されたタンカーの黄金比を
木造で内部スカスカで沈み込まない箱船に適応する
のは正直無理が在り過ぎて論外とも言えます。

53:サビぬき。◆ps:2019/03/16(土) 19:12 ID:a92


自分が思うに「聖書が他の歴史的な整合性と原典性を有する真性古典書物と決定的に異なる点」は、
ソレが2000年近くにも渡って、絶えず再編集と再訳をくり返され続けて来た現役書であると言う事ですよね。

ちなみに聖書に記された未来の大災害についての預言が、その功を奏して当該災害を劇的に回避した…みたいな事例や記述は存在すると思われますか?

たぶんそんなの無さそうですよね。

ぶっちゃけ何事も起こらなければ、それは始めから無かった事との区別もつかないワケですし。

であるとしたならば‥聖書に記されている数多の預言らしきものの大半は、
何の役にも立たなかった“主のつぶやき”であったに過ぎないのではないでしょうか?

その辺のトコロ、どー思われます?

54:伝道者◆zc:2019/03/17(日) 13:51 ID:Srs

>>52

コメント頂き、ありがとうございます。

私は造船に詳しくありませんが、船舶工学に40年以上も携わった方の以下の記事を基にコメントしておりました。

https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j-rb/102007008

この記事の感想を教えて頂けると幸いです。

55:伝道者◆zc:2019/03/17(日) 14:14 ID:Srs

>>53

サビぬきさん、コメント頂き、ありがとうございます。

>自分が思うに「聖書が他の歴史的な整合性と原典性を有する真性古典書物と決定的に異なる点」は、 ソレが2000年近くにも渡って、絶えず再編集と再訳をくり返され続けて来た現役書であると言う事ですよね。

再編集はほぼありません。次々と発見される古代写本から、写本が正確に行われ、内容が保たれてきたことが分かっています。

一方、再訳は重ねられています。例えば文語では分かりにくいので、現代語に訳し直されたりしています。

>ちなみに聖書に記された未来の大災害についての預言が、その功を奏して当該災害を劇的に回避した…みたいな事例や記述は存在すると思われますか? たぶんそんなの無さそうですよね。 ぶっちゃけ何事も起こらなければ、それは始めから無かった事との区別もつかないワケですし。 であるとしたならば‥聖書に記されている数多の預言らしきものの大半は、 何の役にも立たなかった“主のつぶやき”であったに過ぎないのではないでしょうか?

例えば大洪水を知り、信仰によって箱舟を建造したノアは自らを救いました。救世主に関する一連のメシア預言は、救世主がイエスであると特定するのに役立ちました。預言は無意味ではありません。

神エホバがニネベという都市の40日後の滅びを、預言者ヨナに託し、ニネベに遣わしました。ヨナの言葉を聞き、ニネベの民は真剣に悔い改めた為、エホバはニネベを滅ぼすことを思い留まられました。災害が回避された例です。

ニネベの人を恐れたヨナは当初、警告の任務を放棄して逃げました。結局は警告の任務を遂行しましたが、エホバがニネベの滅びを思い留まられた為、ヨナはふてくされました。しかしヨナは聖書のヨナ記で全てを自分で正直に記録しました。自分が逃げたこともふてくされたことも。聖書は正直で誠実な記録であると思われる例の一つです。

ダビデ王も同様に、自分がウリヤの妻と不倫したこと、妊娠を隠す為、戦争から帰還したウリヤに卑劣にも妻と寝ることを勧めたこと、忠実な戦士ウリヤが自宅で休もうとしないので戦争の最前線に送り込んで戦死させたことを自分で記録に残しています。聖書は正直で誠実な記録なのです。良い事だけを書いたヒーロー記ではなく、信頼出来る記録です。

56:アーリア◆GM:2019/03/17(日) 15:45 ID:NIs

一方、再訳は重ねられています。例えば文語では分かりにくいので、現代語に訳し直されたりしています。

その機会に恣意的な災厄は為されている可能性はあるのではないでしょうか?

まあ、「それはカトリック教会がやってることでしょ」とか言われたら元も子もないですけど。

57:伝道者◆zc:2019/03/18(月) 20:58 ID:fSg

>>56

アーリアさん、メッセージ下さり、ありがとうございます。

>その機会に恣意的な災厄は為されている可能性はあるのではないでしょうか?

一つだけ重大なものがあります。

写本研究より、聖書「原文」には神の名としてテトラグラマトンというものが用いられていたことが分かっています。日本語では神聖四文字と呼ばれている古典ヘブライ語の子音四文字で、英語に置換すると、JHVHやYHWHに相当します。

ヘブライ語では母音を省略することがよくあるそうで、英語で言えばbuildingがbldg.と省略される様なものです。その為、現在では神の名の正しい発音が既に分からなくなっており、Yahweh(ヤハウェ)ともJehovah(エホバ)とも言われています。

聖書の別箇所では、略名としてYah(ヤハ)と書かれることもあります。JohnathanをJohnとする様な略かなと私は理解しています。

大切なのは聖書の神にはお名前があるということです。テトラグラマトンは聖書中に6000回以上も登場し、聖書中で最も登場頻度が高い名前です。それなのに、現在の大半の聖書では神、或いは主という「称号」に置き換えられてしまっています。その為、今日、聖書の神には名前があると知らないキリスト教徒が大勢います。

置き換えられた理由として、以下の3つが考えられます:

@神の名をみだりに唱えてはいけないと十戒にあるから。

確かにOh, my god(何てこった)の様に、神をみだりに乱発してはいけません。しかし敬意を持って神の名を用いれば問題無い筈です。

実際、神は人間にご自身の名を伝えましたし、神の名を唱える者が救われると聖書に書かれており、更にはイエスご自身も神の名が高められるように、また神の名によって云々、という言葉を多く残しています。

聖書中の人物名も、エホバにちなんだものが多いです。例えばイエスは「エホバは救い」という意味です。更にはハレルヤは「ヤハを讃美せよ」という意味です。

神の名を用いることは大切だと考えています。親しくなるには、先ずは名前を知ることから始まります。

A正確な発音が分からないから

この理由も賛同出来ません。例えばイエス(キリスト教徒の多くは三位一体説を信じ、イエスも神とみなしている)の名前でさえ、
英語ではジーザス
ドイツ語はイェーズス
フランス語ではジェジュ
ラテン語はイエズス
ヘブライ語はイェシュア
ギリシャ語はイエスース
という発音です。

イエスの正確な発音にこだわらないならば、エホバの発音だけにこだわるのは不自然と思われます。よって、この理由も却下だと私は思っています。

B真理を操作しようという意図がある。

私はこれが本当の理由だと思っています。

「エホバ」の名を「神」や「主」と置換し、神の名前を曖昧にすることで、神が誰かを曖昧にすることで、異教徒を改宗し易くなります。つまり、勢力の為に大切な教義が曲げられてしまった。古代において、また中世でさえ、宗教は政治と直結していました。はっきり言って宗教イコール政治でした。つまり政治的権力の為に、真理が操作されてしまった。

神の名が曖昧にされたことで、聖書がとても分かりにくくなりました。主と言った時、それがエホバを指すのかイエスを指すのか不明瞭になりました。名前という固有名詞が消され、代名詞的な称号にすり替えられてしまったからです。

三つ組の神を信仰する異教徒の改宗を容易にする為、聖書には書かれていない三位一体の概念が導入されました。その概念でイエスは神とされました。エホバの名前が消されてしまった為、三位一体が嘘であると見抜けないキリスト教徒が増えてしまいました。

ここに私はサタンの力が働いていると考えています。エホバはお名前を大切にされる方です。その方のお名前が、み言葉聖書から消されてしまった。また、イエスはご自身でなく、神に栄光を帰する方です。それなのにイエスに栄光が寄せられてしまった。エホバとイエスに対し、サタンの出来る最高の侮辱行為だと私は考えています。

その他にも、僅かに聖書訳が操作された箇所はあります。それが意図的であろうと無意識であろうと、例えばカトリックの幼児洗礼に都合の良い言い回しにされるなど。しかし、テトラグラマトンの喪失に比べれば小さな改ざんです。

「新世界訳」という聖書の翻訳は、上記を加味し、深い研究に基づき、聖書原文に忠実なので、私のお勧めです。

58:サビぬき。◆ps:2019/03/18(月) 23:36 ID:a92

>>57

アナタが御懸念されている如く「原典性にこだわる聖書」と「布教に便利な聖書」、そして「政治的な恣意性を有する聖書」とが混在している現状において、
オレが指摘した再編集の可能性を否定する根拠は希薄であるように思われるのですが?

>「新世界訳」という聖書の翻訳は、上記を加味し、深い研究に基づき、聖書原文に忠実なので、私のお勧めです。

ちなみに門外漢としての素朴な疑問なのですが…“聖書原文”というのは紀元何年頃に誰によって編纂されたものをソレと認定しておられるのでしょうか?

59:アーリア◆GM:2019/03/18(月) 23:43 ID:NIs

「新世界訳」

ちょっとまておい!

一応はカトリック支援派の私としては見過ごせないぞ!

さて、となると一つ聞きたいことがあります。
輸血の禁止について、非常に拡大しすぎた解釈だという主張についてどう思われていますか?

60:アーリア◆GM:2019/03/18(月) 23:56 ID:NIs

イエス・キリストは人類全ての罪を背負って十字架にかけられたのです。
イエス・キリスト神社を訪れた人たちはこのイエス様を受け入れて初めて救済されるのです。
救済において、イエス様の存在を無視されることはできません。

さて、イエス様はなんなのでしょうか?
すなわち神社の中でも極めて格の高い神様即ちヤハウェでございます。
何故なら人類の罪に赦しを与えた荒業はヤハウェでなければ不可能だからです。

61:ぬこ hoge:2019/03/19(火) 02:55 ID:MfM

>さて、イエス様はなんなのでしょうか?
すなわち神社の中でも極めて格の高い神様即ちヤハウェでございます。
何故なら人類の罪に赦しを与えた荒業はヤハウェでなければ不可能だからです。

確か、キリストは『神の子』だと聞いているけど
有名な『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたか?)
もキリストの言葉だし、貴方の言う通りキリストが神ならこの様に神に『何故私を見捨てられたか』なんて言葉は出ないと思うのですが…

62:伝道者◆zc:2019/03/19(火) 08:38 ID:rDI

>>58

サビぬきさん、コメント下さり、ありがとうございます。

>アナタが御懸念されている如く「原典性にこだわる聖書」と「布教に便利な聖書」、そして「政治的な恣意性を有する聖書」とが混在している現状において、 オレが指摘した再編集の可能性を否定する根拠は希薄であるように思われるのですが?

原文の保持性に関しては、一般的に古い写本程、原本に近いと考えて良いと思います。また、誤った写本を写した場合、誤りが継承されてしまう為、複数の写本を比較し、原本に近いものがどれか、推測することも可能です。こうした研究から、信頼出来ると思われるテキストが出来上がります。その後に更に古い写本(死海文書など)が発見され、テキストの信頼性が確認出来、更に裏付けられます。

この過程を経て、例えば神聖四文字が置換されたことは明らかになっています。また結果として僅かではありますが、果たして原本にあったかどうかが疑わしい箇所も具体的に特定が進んでいます。例えばマルコ16:9-20はアレ写、エフ写、ベザ写及びウル訳、シリ訳には含まれていますが、シナ写、バチ写及びシリ訳、アル訳には無く、原本に書かれていたのか疑問視されています。

一方、どの書(聖書は66の書から構成されています)を聖書の正典とするかですが、西暦367年のラオデキア公会議、及び西暦451年のカルケドン公会議で定義されました。しかし、ああでもないこうでもないと公会議で論議されたのでは無く、一般的に当時既に認識され、一致していた理解を公式に定義したのみでした。

聖書外典については、それがイエスと同時代を過ごした人ではなく、かなり後代になって書かれたものであること、また正典の教えと内容が異なっていること(偶像崇拝など)から、それがまがい物であると分かります。

加えて、信仰を前提に話すならば、神は聖書の内容を守られる筈だと確信出来ます。聖書自体が滅茶苦茶にされてしまったのでは、真理を学ぶこと自体が出来ないからです。確かに聖書は難しい書物であり、神の名が消されたりしました。しかし、ここは信仰が試されるところです。真剣に学ぶならば、必ず真理が見出せる様に聖書は作られています。以下の聖句に信仰を置くことが出来ます。

マタイ7:7-8
「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです。

ヤコブ4:8
神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます。

>ちなみに門外漢としての素朴な疑問なのですが…“聖書原文”というのは紀元何年頃に誰によって編纂されたものをソレと認定しておられるのでしょうか?

聖書は66の書で構成されています。それは約1600年の期間を掛けて、王や漁師、収税人など、様々な人々が神の霊感を受け、神の書記として別々の場所で記しました。書かれた概ねの年代、また書いた人物は特定されています。例えば創世記はモーセにより紀元前1513年迄に書き終えられ、啓示の書はヨハネにより西暦96年頃までに書き終えられたとされています。

何を正典とするかは、先述の通りです。

63:アーリア◆GM:2019/03/20(水) 00:24 ID:NIs

>>61
聖書は一つのフレーズだけを取り出して解釈するのではなく、どのような意図でそのような発言をしたのかも解釈しなければなりません。

64:アーリア◆GM:2019/03/20(水) 00:34 ID:NIs

先程はどのような意図でと言いましたが、本件では事情と言うべきでしたね。

三位一体はペルソナ(人格又は三位一体の位をとって位格というべきか)までもが同一とはされておりません。それ故に三位一体なのです。

65:アーリア◆GM:2019/03/20(水) 00:37 ID:NIs

悪く言えば、ヤハウェは三重人格というべきでしょうか。
なお、本来カトリック的にはヤハウェではなく主と呼ぶべきですがね。

66:伝道者◆zc:2019/03/20(水) 04:15 ID:Srs

>>63
>>64

アーリアさん、どの様な意図、或いは事情でその言葉をイエスが発せられたのか、あなたの説明は如何ですか?私が説明する前に、あなたの説明を聞いてみたいと思います。

67:伝道者◆zc:2019/03/20(水) 21:53 ID:rDI

>>59

アーリアさん、メッセージ頂き、ありがとうございました。

>さて、となると一つ聞きたいことがあります。
輸血の禁止について、非常に拡大しすぎた解釈だという主張についてどう思われていますか?

以下の聖句の通り、聖書は血を魂が宿っている特別なものとしています。

創世記9:4
その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。

申命記12:23-24
血を食べることはしないように堅く思い定めていなさい。血は魂であり,魂を肉と共に食べてはならないからである。それを食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出すべきである。

レビ記17:14
あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。

上記はイエスが登場する前、いわゆる旧約聖書の話です。イエスが立法を形式(規則)→本質(原則)に変え、律法を成就された後、本質は残り、形式としての律法は廃止されました。以下の聖句の通りです。

マタイ5:17
わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです。

ガラテア3:23-25
信仰が到来する前には律法のもとに警護されており,共に拘禁されたまま,やがて表わし示されることになっていた信仰を望み見ていました。したがって,律法は,わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり,それは,わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした。しかし,信仰が到来した今,わたしたちはもはや養育係のもとにはいません。

ローマ10:4
キリストは律法の終わりであり,こうして,信仰を働かせる者はみな義を得るのです。

エフェソス2:15
この方は自分の肉によって敵意を,すなわち数々の定めから成るおきての律法を廃棄されました。

ローマ7:6
今やわたしたちは律法から解かれました。

しかし、イエスの後も、本当に大切な規則は残されました。以下の聖句の通りです。血を避けないことは、偶像崇拝や淫行と同等の、非常に重大な罪なのです。

使徒15:19-20、29
わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。

聖書の中で、血の扱いはとても重要な問題です。

さて、血を避けるとは、どういう意味でしょうか。食べなければ良いのですか?輸血は良いのですか?例えば医者が或る患者に飲酒を禁止したとします。ではお酒を飲まずに注射で摂取するならば問題ありませんか?原則は何でしょうか?血を避ける理由は、それが魂の宿る特別なものだからです。口からの摂取であろうと、血管からの摂取であろうと、原則は同じです。

これが血を避けるべき聖書的な根拠です。

68:サビぬき。◆ps:2019/03/20(水) 22:21 ID:a92

>>67

つまりアナタは「輸血・献血」を全否定する立場におられる方である…という解釈でよろしいのでしょうか?

69:十六夜◆YU:2019/03/20(水) 22:53 ID:Nj2

エホバの証人じゃん。

70:ぬこ hoge:2019/03/21(木) 16:03 ID:MfM

>>63
御返事ありがとうございます
私は特にキリスト教を信じていたり聖書の内容を信じていたりする訳では無いのですが、確かにあなたの言う通り『言葉は抜き出すだけでなく、何故その言葉を言ったのかが重要である』と言うのは正しい事だと思います

71:伝道者◆zc:2019/03/22(金) 07:48 ID:29A

>>68

>つまりアナタは「輸血・献血」を全否定する立場におられる方である…という解釈でよろしいのでしょうか?

>>67では、血に関しての聖書的な見方を説明しました。私が、ではなく、聖書が輸血を否定していると理解出来ます。

私は聖書を神の言葉として受け止めています。それ故に、輸血や献血は聖書の神の言葉に反する行為だと考えています。

何を「血」と考えるかは、また別の問題です。血液分画を行った後、どの成分までを血と捉えるか、ということです。例えば血漿の9割は水分です。水は血ではありません。そういう観点から、「全否定」という表現が適切かは分かりません。しかし、血液の四つの主成分である赤血球、白血球、血小板、血漿は血と捉えています。

72:伝道者◆zc:2019/03/22(金) 08:05 ID:29A

>>69

十六夜さん、コメント下さり、ありがとうございました。

>エホバの証人じゃん。

確かにエホバの証人は輸血を拒否しています。エホバの証人は聖書研究に熱心で、聖書の教えを真剣に適用しようとしているからです。

手術中の出血量を最低限に抑えるには高度な医療技術が求められます。また、輸血を生理食塩水で代用することが可能なこともある様です。輸血には未だ多くのリスクがある為、無輸血治療を求めることは最良の医療を求めることでもあります。

しかし、どうしても輸血を行わないと助からない局面もあるでしょう。それはキリシタンの踏み絵の様なものかもしれません。

1.信仰に反すること行って、命を繋ぐか。
2.或いは信仰を貫き、この命を失い、そして信仰を貫いた故に復活した後に永遠の命を得るか。

聖書中の事例はどうでしょうか。ダニエル、ダビデ、イエスは後者を選ぶことを教えています。

73:伝道者◆zc:2019/03/22(金) 08:22 ID:29A

>>65

>悪く言えば、ヤハウェは三重人格というべきでしょうか。

アーリアさん、聖書から考えてみましょう。

ルカ22:42
こう言われた。「父よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯をわたしから取り除いてください。しかしやはり,わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」。

イエスのご意志ではなく、父のご意志がなされる様に、とイエスが仰っています。

マタイ24:36
「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます。

父が知っていることを子は知らない、とイエスは述べておられます。

確かに「三位一体ありきの考え」では、神が多重人格者の様に捉えざるを得ないでしょう。

しかし本当に三位一体の前提は正しいのでしょうか。

フィリピ2:5-6
キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなた方のうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。

例えばイエスご自身は、自分がエホバと同等だとは考えていなかった、と書かれています。

三位一体説は聖書の教えではなく、異教の由来です。

カトリック教会に異教の由来など無いと思われますか?例えばクリスマスのサンタクロース、イースターのウサギはどうですか?聖書に由来があるでしょうか?異教に由来があります。

74:伝道者◆zc:2019/03/22(金) 08:25 ID:29A

アーリアさん、もう一つ、聖書からイエスの言葉を引用させて下さい。

ヨハネ14:28
父はわたしより偉大な方だからです。

どう思われますか。イエスご自身は三位一体を肯定されていますか。

75:伝道者◆zc:2019/03/22(金) 12:48 ID:29A

>>60

>さて、イエス様はなんなのでしょうか?
すなわち神社の中でも極めて格の高い神様即ちヤハウェでございます。 何故なら人類の罪に赦しを与えた荒業はヤハウェでなければ不可能だからです。

ヨハネ6:38
わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を行なうために天から下って来たからです。

アーリアさん、上の聖句はイエスの言葉です。イエスは贖いを実現しました。エホバに遣わされ、それを実現しました。遣わした方エホバ、遣わされた方イエスが何故同じ一人と解釈されるのでしょうか。別の方だと解釈すべきではないでしょうか?

76:伊藤誠一:2019/03/22(金) 16:05 ID:cBY

歴史的な間違いについて


>そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
シリア州で住民登録が行われたのは紀元前8年ごろ。時期が合わない。
また、アウグストゥスは名前ではない。

>これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。          キリニウスが総督であったのは紀元前6年ごろ。時期が合わない。      

77:伊藤誠一:2019/03/22(金) 16:15 ID:cBY

神の存在だって絶対ではないしね。

ノアの箱舟はギルガメシュ叙事詩の盗作。

他にも、ソロモンについて矛盾がある。

列王記上 4:26(マソラ写本 5:6)
ソロモンは戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千を持っていた。(新共同訳 5:6)
ソロモンはまた戦車の馬の、うまや四千と、騎兵一万二千を持っていた。(改訂版 4:26)

歴代誌下 9:25
ソロモンは馬と戦車のための厩舎四千、騎兵一万二千を有した。


列王記上 5:16(マソラ写本 5:30)
そのほか、ソロモンには工事の責任を取る監督が三千三百人いて、工事に携わる民を指揮した。(新共同訳 5:30)
歴代誌下 2:17
そのうち七万人を荷役の労働者、八万人を山で石を切り出す労働者、三千六百人を民を働かせるための監督とした。

列王記上 7:26
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は二千バトもあった。
歴代誌下 4:5
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は優に三千バトもあった。

列王記上 9:23
ソロモンの工事に配置された監督は五百五十名で、工事に従事する人々の指揮をとった。
歴代誌下 8:10
ソロモン王の配置した監督は二百五十名で、人々の指揮をとった。

列王記下 8:26
アハズヤは二十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 22:2
アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。

78:伊藤誠一:2019/03/22(金) 16:18 ID:cBY

まだまだあるよ、聖書の矛盾点。

ヨヤキンの即位について
列王記下 24:8
ヨヤキンは十八歳で王となり、三ヶ月間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 36:9
ヨヤキンは八歳で王となり、三ヶ月と十日間エルサレムで王位にあった…。


ヨシャファトについて
列王記上 22:49-50
ヨシャファトはタルシシュの船を数艘造り、金を求めてオフィルに行こうとしたが、船団はエツヨン・ゲベルで難破し、行くことが出来なかった。そのとき、アハブの子アハズヤがヨシャフトに、「わたしの家臣たちとともに船に乗り込ませればよい」と言ったが、ヨシャフトはそれを望まなかった。
歴代誌下 20:35-37
ユダの王ヨシャフトはイスラエルの王アハズヤと協定を結んだ。この王は悪を行った。彼らはタルシシュ行きの船団を造るために協定を結び、エツヨン・ゲベルで船団を造った。そのとき、マレシャ出身のドダワフの子エリエゼルがヨシャファトに向かってこう予言した。「アハズヤと協定を結んだため、主はあなたの事業を打ち壊される。」こうして船は難破し、タルシシュに行くことは妨げられた。


捕虜について
サムエル記下 8:3-4
ダビデは次に、ツオバの王、レホブの子ハダドエゼルがユーフラテスに勢力を回復しようと行動を起こしたとき、彼を討ち、騎兵千七百、歩兵二万を捕虜とし、戦車の馬は、百頭を残して、そのほかすべて腱を切ってしまった。
歴代誌上 18:3-4
ダビデは次に、ハマト地方のツオバの王ハダドエゼルが、ユウフラテスに覇権を確立しようと行動を起こしたとき、彼を討ち、戦車一千、騎兵七千、歩兵二万を捕獲し、戦車の馬は、百頭を残して、そのほかはすべて腱を切ってしまった。

戦闘員の数
サムエル記下 24:9
ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣をとりうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。
歴代誌上 21:5
ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣をとりうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であった。

死亡した戦車兵の人数
サムエル記下 10:17b-18
アラム軍は戦列を整えてダビデを迎え討ち、戦ったが、彼らはイスラエルの前から逃げ去った。ダビデはアラムの戦車兵七百、歩兵四万を殺し、軍の司令官ショバクもその場で打ち殺した。
歴代誌上 19:17b-18
ダビデは戦列を整えてアラムを攻撃し、戦った。彼らはイスラエルの前から逃げ去った。ダビデはアラムの戦車兵七千、歩兵四万を殺し、軍の司令官ショファクも殺した。

79:伝道者◆zc:2019/03/22(金) 21:15 ID:29A

>>76

伊藤さん、興味深い投稿を下さり、ありがとうございました。

私は歴史に強くありませんが、一つずつ確認し、回答してみたいと思います。

>そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
シリア州で住民登録が行われたのは紀元前8年ごろ。時期が合わない。 また、アウグストゥスは名前ではない。

>これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。          キリニウスが総督であったのは紀元前6年ごろ。時期が合わない。

聖書の以下の箇所ですね。

ルカ2:1-2
さてそのころ,人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから出た。(この最初の登録はクレニオがシリアの総督であった時に行なわれたものである。)

アウグスツスの治世は西暦前27年から西暦14年まで、ローマ元老院の議員クレニオはシリアで総督を二度務めており、1回目はウァルスの後任としてですが、ウァルスの任期は西暦前4年に終わりました。一部の学者は総督としてのクレニオの1回目の任期を西暦前3‐2年としています。特に時期の問題は無い様です。

アウグスツスは尊厳者を意味する称号ですが、この称号が名前として用いられる場合にはローマ帝国の初代皇帝オクタウィウスを指すそうです。

80:伝道者◆zc:2019/03/23(土) 06:59 ID:Srs

>>77

>ノアの箱舟はギルガメシュ叙事詩の盗作。

類似点は多くあれど、異なる点も多くあります。

時系列として、
@史実としての大洪水があった。
Aギルガメシュ叙事詩に大洪水が書かれる。
B創世記の大洪水が書かれる。
となっていても、盗作とはなりませんよね。

例えば
@大地震が起こる。
A新聞社Aが報道する。
B新聞社Bが報道する。
の時系列の場合、新聞社Bは自動的に盗作となりますか?ならないでしょう。記事に異なる点も多々あれば、尚更でしょう。

>他にも、ソロモンについて矛盾がある。

列王の四万が誤写の様です。誤写や誤訳はあり得ます。研究すれば原本の内容が明らかに出来る為、特に問題では無いです。

81:伊藤誠一:2019/03/23(土) 12:26 ID:cBY

>>79
ヘロデ大王の没年は紀元前4年ですから、紀元前三年以降では聖書の記述と矛盾してしまいます。また、住民登録の時期とも合いません。

>>80
ノアの箱舟とギルガメッシュ叙事詩では書かれた時期が全然違う。細かいところまで一致しているうえ、時期も大きく違うのですから、新聞の報道に例えるのはナンセンスです。
作詞や作劇のほうが近いと思いますが。常識的に考えて、盗作ではないでしょうか。異なる点があっても同じような記述が多数あれば盗作では?


それは聖書の記述にも間違いがあり得るということですよね?

82:伝道者◆zc:2019/03/24(日) 08:00 ID:Srs

>>77

>列王記上 5:16(マソラ写本 5:30)
そのほか、ソロモンには工事の責任を取る監督が三千三百人いて、工事に携わる民を指揮した。(新共同訳 5:30)
歴代誌下 2:17
そのうち七万人を荷役の労働者、八万人を山で石を切り出す労働者、三千六百人を民を働かせるための監督とした。

>列王記上 9:23
ソロモンの工事に配置された監督は五百五十名で、工事に従事する人々の指揮をとった。
歴代誌下 8:10
ソロモン王の配置した監督は二百五十名で、人々の指揮をとった。

代官の分類の仕方が異なっているようです。歴代下は非イスラエル人の代官3,600人とイスラエル人の代官250人を区別しているのに対して、列王記上は現場監督3,300人と、もっと高位の長たる監督550人を区別しているものと思われます。どちらの場合も代官を務めた人の総数は3,850人でした。

>列王記上 7:26
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は二千バトもあった。
歴代誌下 4:5
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は優に三千バトもあった。

別の訳では、この様になっています。

歴代下4:5
そして,その厚さは一手幅であり,その縁は杯の縁の造り,すなわちゆりの花のようであった。入れ物として,それに入ったのは三千バトであった。

原語のヘブライ語では次のように理解する余地があるのです。歴代下は神殿の水盤の最大容量、すなわち入り得た水量について述べているのに対して、列王上は、その水盤に日ごろ入っていた水量を記録しているということです。つまり神殿の水盤に最大容量いっぱいまで水を入れることはなかったのです。容量の3分の2だけ水を入れるのが習慣だったようです。

>列王記下 8:26
アハズヤは二十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 22:2
アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。

一部写本に見られた誤写の様です。シリ訳の22が正の様です。

>>78

>列王記下 24:8
ヨヤキンは十八歳で王となり、三ヶ月間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 36:9
ヨヤキンは八歳で王となり、三ヶ月と十日間エルサレムで王位にあった…。

同上で、シリ訳の18が正の様です。

83:伊藤誠一:2019/03/24(日) 13:43 ID:cBY

>>82
容量の話をしているのだから、入っていた量の話だという解釈は無理があるのでは?

結局、聖書には間違いがありますよね。神の言葉によって導かれたものであればミスはありえないはず。にもかかわらずミスがあるということは神は真理ではないか、聖書は神の言葉によるものではないかのどちらかです。
しかし、神が真理でないということは、キリスト教における神の存在と矛盾するので、ありえない。よって聖書は神の言葉によるものではなく、人間から出たものだといえる。
人間から出たものなので、真理ではない。

84:サビぬき。◆ps:2019/03/24(日) 20:01 ID:a92


お見事、チェックメイト!‥っぽい気がする。

85:伝道者◆zc:2019/03/24(日) 21:21 ID:Srs

>>81

>ヘロデ大王の没年は紀元前4年ですから、紀元前三年以降では聖書の記述と矛盾してしまいます。また、住民登録の時期とも合いません。

ヘロデの死の年代につき、諸説ある様です。詳しくはこちらをご参照下さい。
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j-rb/1200002000?q=%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%87+%E6%AD%BB%E3%81%AE%E5%B9%B4%E4%BB%A3&p=par

>ノアの箱舟とギルガメッシュ叙事詩では書かれた時期が全然違う。細かいところまで一致しているうえ、時期も大きく違うのですから、新聞の報道に例えるのはナンセンスです。
作詞や作劇のほうが近いと思いますが。常識的に考えて、盗作ではないでしょうか。異なる点があっても同じような記述が多数あれば盗作では?

確かに大洪水が史実で無ければ、盗作と考えることが出来ます。

つまり、ギルガメシュ→創世記

しかし大洪水が史実であれば、史実に基づき、別々の書き物が書かれたというだけで、盗作にはなりません。

つまり
史実→ギルガメシュ
史実→創世記

類似の大洪水の話は、ギルガメシュより古いシュメール神話にも登場します。更に中国やアステカ族、インカ族、およびマヤ族の神話にも登場します。これは史実として世界的な大洪水があり、人類の記憶に刻まれたことを示唆しています。

更にこれらの話に類似点が多いことは、元々同じ土地にいた人々が世界各地に散っていったという聖書のバビロンの塔の記述に、むしろ信憑性をもたらしています。

>>83

>容量の話をしているのだから、入っていた量の話だという解釈は無理があるのでは?

訳に踊らされてはいけません。英文欽定訳では2000バトが入っていた、と書かれています。容量という語は出てきません。

And it was an hand breadth thick, and the brim thereof was wrought like the brim of a cup, with flowers of lilies: it contained two thousand baths.

>結局、聖書には間違いがありますよね。神の言葉によって導かれたものであればミスはありえないはず。にもかかわらずミスがあるということは神は真理ではないか、聖書は神の言葉によるものではないかのどちらかです。

神の言葉である聖書とは、厳密に言えば神からの霊感であり、その霊感により記された「原本」です。

写本には誤写はあり得ます。訳本には誤訳があり得ます。今、例えば私が写したり訳したりすれば、無意識でも意図的でも間違えかねない。同じことです。

原本は失われているが、残された写本や訳本から原本を見定めています。これだけしかエラーが見つからないので、かなりの精度で写本され、原本の内容が保持されていると逆に考えられます。

その原本に誤りは無く、神の言葉だと信じています。

86:無論:2019/03/24(日) 21:25 ID:/FY

素朴な疑問なんだが…
神は「必ず間違ってはいけない」という考え方は正しいのか?
そこ崩れるとチェックメイトじゃないよな?w

神は真理であり間違いを起こさないなら…
そもそも地球を破壊するような暮らしをする人間なんて創作しないと思うよw

87:伊藤誠一:2019/03/24(日) 22:13 ID:cBY

>>85
その記述は確かWikipediaで削除されていたはず。

まず、BC4年前後のエルサレムで月食が確認できたのはBC5、BC4、BC1のみ。
ここでヘロデの没年はこのうちのどれかだといえるだろう。
さて、BC1がヘロデの没年だった場合、彼の息子の在位年と矛盾する。
アルケラオス(在位期間10年間<『古代誌』第XVII巻13章2節>で紀元後6年解任。

第一、キリニウスが総督であった時期と住民登録の時期とは矛盾する。

>確かに大洪水が史実で無ければ、盗作と考えることが出来ます
事実であっても内容が酷似しているなら盗作ですよ。新聞記事だって他紙の記述を勝手に使ったら違反ですしね。盗作かどうかに史実であるかどうかはそこまで関係していません。

>これは史実として世界的な大洪水があり、人類の記憶に刻まれたことを示唆しています。
余談ですが、ギルガメシュはシュメール神話に登場しますwあくまで一説ですが
残念ながら、世界大洪水説は疑似科学の域を出ていませんよ。局地的な洪水と考えるのが現実的です。当時の人間の知り得る世界なんてちっぽけなんですから。

containerの意味は容量だったはずだからcontainedもそんな感じだと思うのですが、後で辞書引きますね。

>その原本に誤りは無く、神の言葉だと信じています。
間違った点があるかもしれませんよね。第一、神は存在するとは言えないんですよ。

88:伊藤誠一:2019/03/24(日) 22:16 ID:cBY

>>86
キリスト教では絶対神ですから。

ちきうを破壊する人間を作ったのはちきうに試練を与えるためだと反論されるだけだと思います。彼らは都合のいいことは恵み(ほとんどない上にしょぼい)と言って、不都合なことは試練(多い上にキツイ)というのです。要するにドMです。

89:ヤキソバ:2019/03/24(日) 23:33 ID:vwM

別に聖書に書いてあることが真実か正しいかなんてのは重要じゃないと思うんだけどなあ 人の宗教観を否定するのはよくないし
スレ主さんが真実かどうかを検証する目的で立てたんだったらごめん

90:カレー:2019/03/24(日) 23:58 ID:7RY

聖書が真理だとしてもそれを布教したり伝える術が貧弱だと、その真理の数パーセントも活かせない結果となる。だから聞かされる側としてみれば真理として聞こえないわけよ。自分から真理として聖書を位置付けている人なら別だけど。

91:ヤキソバ:2019/03/25(月) 00:06 ID:vwM

>>90
確かに布教したいなら別問題だったね
最後の一文を言いたかった

92:カレー:2019/03/25(月) 00:19 ID:7RY

ある個人が考える位置付けとして聖書を真理として取り扱うって話なら分かりやすいんだけど、
その位置付けを自分以外にどこまで拡大できるかが問題で、こうなってくればもう布教する技術に依存する。めちゃくちゃ布教の上手い奴がいたら『聖書が真理』となる日もくるんじゃない?いろんな宗教あるからライバルも多くて、いつになるか分からないけど。

93:伊藤誠一:2019/03/25(月) 00:28 ID:cBY

人によってとらえ方が変わる時点で真理ではないね。多分。

94:カレー:2019/03/25(月) 00:33 ID:7RY

>>93
まぁそうなんだけどさ、一応真理として扱ってる人もいるから>>92で言ったぐらいに留めとけば問題はないかと、あとは頑張って布教してくださいってとこ。

95:伝道者◆zc:2019/03/25(月) 20:53 ID:OJg

>>86

無論さん、投稿をありがとうございます。

>神は真理であり間違いを起こさないなら…
そもそも地球を破壊するような暮らしをする人間なんて創作しないと思うよw

神は人間を完全に造り、自由意志を与えました。サタンに唆された人間は、その自由意志により、神に反逆する道を選びました。自由とは反逆出来るという自由も含みます。そして現在、人間は地球に害を与えています。

この自由意志はとても深いテーマで、掲示板で説明するのは結構難しいです。面着で一時間位個別に話さないと伝わらないかもしれません。

96:伊藤誠一:2019/03/25(月) 20:55 ID:cBY

>>95
反逆されたということは自由意志を与えたことが間違いになる。

97:伝道者◆zc:2019/03/25(月) 21:02 ID:OJg

>>88

>ちきうを破壊する人間を作ったのはちきうに試練を与えるためだと反論されるだけだと思います。

伊藤さん、実際のところ、聖書には何と書かれているでしょうか。見てみましょう。

伝道の書1:4
代は去り,代は来る。しかし,地は定めのない時に至るまで立ちつづける。

詩篇37:29
義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう。

詩篇104:5
神は地の基をその定まった場所に置かれました。それは定めのない時に至るまで,まさに永久によろめかされることがありません。

つまり地球が滅びることはない、と聖書は教えています。

ヤコブ1:13
試練に遭うとき,だれも,「わたしは神から試練を受けている」と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,そのようにしてご自身がだれかに試練を与えることもないからです。

神は試練を与えない、と聖書は教えています。

これが聖書の本当の教えです。

98:カレー:2019/03/25(月) 21:14 ID:7RY

俺思うんだけどよ、仮に聖書が真理だとしても現実に起こる現象にその真理を適応させるまでに時間がかかってしまう。その結果真理として認知されないと言う問題が常に付きまとうんじゃないか?
だから聖書を人間に近づけるんじゃなくて、人間の方から聖書に近づいてきて来てもらうといった手法でないと多分、真理として位置付けるのは無理なんじゃないかと思いますね。

99:伝道者◆zc:2019/03/25(月) 21:15 ID:OJg

>>93

>人によってとらえ方が変わる時点で真理ではないね。多分。

どうでしょうか。1+1=2は真理ですか。二進法の世界では1+1=10が正解です。赤ちゃんに問えば、答えはバブー、犬に問えば答えはワンです。1+1=2が2になるのは、公理でそう前提を決めたからに過ぎません。そう決めたからそうなるだけです。例えば睡眠中、夢を見ている人間には論理などどうでも良いのです。

少し脱線しました。。。

聖書に関して言えば、真剣に研究しない人、真剣に考えない人、真剣に感じようとしない人、真剣に適用しない人には真理が見出せない様に作られています。真理は貴重なものですので、受ける側も試される様に作られています。万人が真理を見出せるわけではありません。

マタイ6:13-14
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。

マタイ7:7-8
「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです。

100:伊藤誠一:2019/03/25(月) 21:25 ID:cBY

>>97
>つまり地球が滅びることはない、と聖書は教えています。
ちきうは滅びます。恐らく、うちうの動きによってです。


>神は試練を与えない、と聖書は教えています

そうでしょうか?

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

とコリント信徒への手紙にあるのですが。乗り越えられる試練は与える可能性がある。

101:伝道者◆zc:2019/03/25(月) 21:28 ID:OJg

>>96

>反逆されたということは自由意志を与えたことが間違いになる。

ヨハネ4:24
神は霊であられる

コリント第二3:17
さて,エホバは霊です。

まず、神は霊者です。

創世記1:27
そうして神は人をご自分の像に創造してゆき,神の像にこれを創造された。

では上記の聖句をどう理解すべきでしょうか?人間は霊者ではない。

つまり人間は身体的に神に似せて造られたのではなく、神の特質に似せて造られた、と理解出来ます。例えば自由意志も神の特質の一つです。これは本能で生きる昆虫には無い特質です。

本当の信仰、本当の愛は、自由意志を得て初めて可能になります。自由意志には自発性、積極性が必須だからです。

神は過分のご親切により、人間に自由意志を与えました。人が本当の信仰、本当の愛を与えることが出来る様にです。

例えば毎朝7時に「愛しているよ」とアラーム音を発する様にプログラムされた目覚まし時計があるとします。その愛の表明に何の価値があるでしょうか。自由意志に基づくからこそ、本当の愛が実現するのではないでしょうか。

自由意志は自由ですので、当然誤用することも可能です。神に反逆することも可能です。それでも神は人に自由意志を与えました。自由意志という素晴らしい贈り物を誤用せず、正しく用いていきたいと思います。

102:伊藤誠一:2019/03/25(月) 21:34 ID:cBY

>>99
>どうでしょうか。1+1=2は真理ですか。二進法の世界では1+1=10が正解です。赤ちゃんに問えば、答えはバブー、犬に問えば答えはワンです。1+1=2が2になるのは、公理でそう前提を決めたからに過ぎません。そう決めたからそうなるだけです。例えば睡眠中、夢を見ている人間には論理などどうでも良いのです。
真理ではない。東条英機に言わせてみれば1+1=80だからね。

>受ける側も試される様に作られています。
それを試練というのです。多分。


では、真理とはなんでしょう。

マルコやルカが酒飲んで
一杯機嫌でほら吹いた
でたらめなんか知るものか
嫌な宗教じゃ

103:伊藤誠一:2019/03/25(月) 21:46 ID:cBY

>>101
>つまり人間は身体的に神に似せて造られたのではなく、神の特質に似せて造られた
単細胞の生物だったものが、進化の過程でこうなったにすぎません。創造論は非科学的です。人間である黒人が人間でないとキリスト教国家に見なされてた時期があったのはなぜでしょうね。

>神は過分のご親切により、人間に自由意志を与えました。
他には与えなかったのですか。随分と酷い神ですね。
第一に、人間ですら自由意志を持つと言えるかわからんのです。我々の思考というのは幾度もの世代交代によって培われてきた経験の基にあるのですから。

>自由意志は自由ですので、当然誤用することも可能です。神に反逆することも可能です。それでも神は人に自由意志を与えました。自由意志という素晴らしい贈り物を誤用せず、正しく用いていきたいと思います。

では自由意志を持つ神も過ちを起こす可能性があるのでは?

104:アーリア◆GM:2019/03/25(月) 21:47 ID:NIs

>>102.
貴方がスレ主をキリスト教徒であると断定した記述はないから指摘すべきではないかもしれないが念のために言う。
三位一体を否定なさってるから少なくともスレ主はキリスト教でない。

あと三位一体論(キリスト論)でかなり私が劣勢だけど、ちょっと色々疲れちゃったので待っててほしい。
このスレが賑わっている間に返信するよう努める。

105:伊藤誠一:2019/03/25(月) 21:53 ID:cBY

>>104
では、ユニテリアン、エホバの証人、モルモン教、統一協会、クリスチャン・サイエンス、イエス之御霊教会、キリストの幕屋あたりですかね。

106:カレー:2019/03/25(月) 22:11 ID:7RY

何の聖書か知らないけど制約多すぎだろw
美味しいけど料理にメチャクチャ時間がかかるメニューみたいなもんで、出来上がる頃には食べる気が無くなってそう。美味しいのはいいけどさー時間かかりすぎってなとこじゃん。
それに真理があるって仮定して話してるうちはいいけどさ、実際問題真理が無いってなったときの絶望よ。

107:ヤキソバ:2019/03/25(月) 22:36 ID:vwM

これって正直議論する意味もあんまりなくない…?

108:カレー:2019/03/25(月) 22:39 ID:7RY

>>107
それを言ったらよwww

109:伝道者◆zc:2019/03/26(火) 06:01 ID:Srs

>>100

>とコリント信徒への手紙にあるのですが。乗り越えられる試練は与える可能性がある。

先の聖句の続きです。

ヤコブ1:14-15
むしろ,おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです。

悪魔サタンの支配する現在の世で、不完全な罪深い人間は、自分の世俗的な傾向により試練を受けます。試練は神から来るのでなく、自分の肉的な傾向から来ます。

神は試練を取り除きはしませんが、肉的な欲望と闘う力を与えて下さいます。

110:伝道者◆zc:2019/03/26(火) 07:55 ID:SZQ

>>103

>単細胞の生物だったものが、進化の過程でこうなったにすぎません。創造論は非科学的です。

科学者が無から単細胞の命を造りだせた事例がありますか。現時点では未だだと思います。

では、設備の整った実験室で、知識を持った科学者が、単細胞の命を造りだそうという意志を持っても未だ出来ていないことが、整っていない自然環境下で、知識も意志も無く達成されたと考えることは果たして本当に科学的ですか。

科学とは論理、観察、実験による検証を重んじることではないでしょうか。この条件を進化論は本当に満たしていますか。満たしていないのであれば、進化論こそ非科学的ではないでしょうか。

長い時間を掛ければ色々な偶然が起こる、それだけが論拠でしょうか。その理屈であれば、長い時間を掛ければ神でさえ偶然生まれると言えてしまうのではないでしょうか。つまり「長い時間を掛ければ、あらゆる偶然は可能」説は、創造論さえも擁護してしまいます。

さて長い時間を掛ければ、に関して、観察は何を示すでしょうか。観察によるとこうです。例えばログハウスがあるとします。長い時間を掛けると、日焼けし、草が生え、風化し、朽ち果てていきます。それが自然に高層ビルに変わることはありません。しかしメンテナンスするなら、ログハウスは持続するでしょう。改築するなら高層ビルにも変わるでしょう。しかしメンテナンスにも改築にも「意志」や「知識」や「力」が必要です。意志や知識や力、こうしたものが作用しない限り、長い時間は創造や進化ではなく、破壊や退化に向かう傾向があります。これが観察の示すところです。

私は科学は否定しません。果たして進化論は本当に科学的ですか、と問うています。

>人間である黒人が人間でないとキリスト教国家に見なされてた時期があったのはなぜでしょうね。

当時、創世記9:25が論拠とされていた様です。しかしカナン人は黒人ではありませんでした。意図的な聖書の誤用、或いは聖書の研究不足の結果です。真のキリスト教徒でなく、偽のキリスト教徒の「聖書に基づかない」行いです。魔女狩りにせよ十字軍の侵略にせよ、そういった人々は聖書の権威を「悪用」し、「非聖書的」な行いをしてきました。

聖書は予めこうしたことが起こると預言し警告していました。

マタイ7:15
「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。

ペテロ第二2:1-2
しかしながら,民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです。さらに,多くの者が彼らのみだらな行ないに従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう。

聖書は実際に何を教えているでしょうか。以下の聖句の通り、聖書は人種差別をしていません。

ガラテア3:28
ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の人となっているからです。

>>神は過分のご親切により、人間に自由意志を与えました。
>他には与えなかったのですか。随分と酷い神ですね。

与えられたものは本当に沢山あり、自由意志はその一つです。例えば公正さを求める神の特質も人間に与えられました。昆虫は公正さを求めません。しかし人間は求めます。神の特質を受け継いでいるからです。

>では自由意志を持つ神も過ちを起こす可能性があるのでは?

言葉に流されてはいけません。神は最高度の知恵を持たれる方です。過ちは犯しません。神が過ちを犯したと思われる事例がありますか。過ちでないことを聖書を用いて、論理的な説明が可能だと考えています。

111:伝道者◆zc:2019/03/26(火) 08:07 ID:SZQ

>>98

>俺思うんだけどよ、仮に聖書が真理だとしても現実に起こる現象にその真理を適応させるまでに時間がかかってしまう。その結果真理として認知されないと言う問題が常に付きまとうんじゃないか? だから聖書を人間に近づけるんじゃなくて、人間の方から聖書に近づいてきて来てもらうといった手法でないと多分、真理として位置付けるのは無理なんじゃないかと思いますね。

カレーさん、投稿ありがとうございます。

ごめんなさい。分かりませんでした。もう少し説明して頂けますか。

或る人が聖書を真理として受け入れられるかどうかは、伝える側の技術と、受ける側の心境(タイミングを含めて)がマッチする必要がある、ということでしょうか。それであれば、その通りだと私も思います。

112:カレー:2019/03/26(火) 17:52 ID:.BA

>>111
聖書の中に真理があると信じてもいいけど、それをどうやって取り出すか。
布教する必要がある。実際に起こる現象に聖書が追い付けない。
こういった制約が付きまとって。
結局は真理があるかどうかは、信じる側の是非に頼らざるを得ない。ってとこが弱い部分だな。

113:伝道者◆zc:2019/03/26(火) 19:15 ID:SZQ

>>112

カレーさん、ごめんなさい。未だ仰っていることが分かりません。実際に起こる現象とは?制約とは?宜しければ例えでご説明お願い出来ますでしょうか。すみません。

114:カレー:2019/03/26(火) 19:20 ID:.BA

>>113
聖書が真理だとすると、その真理がどこまでの範囲で通用するのかってことかな簡単にいうと。
まぁ聖書の中では真理としてつうようするんだろうけどさ。
問題は実際の現実にその真理を適応できるのか?
 人生のカーナビとして聖書は通用するのか?

115:伝道者◆zc:2019/03/26(火) 20:22 ID:SZQ

>>114

カレーさん、ご説明下さり、ありがとうございます。

>問題は実際の現実にその真理を適応できるのか? 人生のカーナビとして聖書は通用するのか?

世の教会の背教した教えでなく、聖書の「正確な知識」、その知識を当てはめる真剣さは必要ですが、本当に人生に役立ちますよ。

私自身、毎日大小様々な形で救われていますし、人生に絶望していた凶悪犯罪者が喜びに溢れた宣教者に変わった例など、沢山あります。

家電製品を正しく使うには、メーカーの書いた取説を知り、当てはめる必要があります。メーカーはその製品を知り尽くしているからです。これと同じことです。人間が正しく生きるには、人間の創造者である神の教えに従えば上手くいきます。

116:カレー:2019/03/26(火) 20:52 ID:.BA

>>115
絶望して気が狂って変なことやらかすより確かに宣教者として生きる方がいいでしょう。

117:伊藤誠一:2019/03/26(火) 22:37 ID:cBY

>>110
まず、リンク先を見てください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12180945837
ここのgalなんちゃらという名前の人の論理を見てください。創造論者なんて所詮この程度です。

>科学者が無から単細胞の命を造りだせた事例がありますか。
ありませんし、今の科学力では無理です。ただしアミノ酸の生成には成功しています。

>整っていない自然環境下で、知識も意志も無く達成されたと考えることは果たして本当に科学的ですか。
理論的には可能だと思います

>この条件を進化論は本当に満たしていますか。
捏造などもあったりするが証拠は存在しているためある程度は科学的。

>長い時間を掛ければ色々な偶然が起こる、それだけが論拠でしょうか。その理屈であれば、長い時間を掛ければ神でさえ偶然生まれると言えてしまうのではないでしょうか。つまり「長い時間を掛ければ、あらゆる偶然は可能」説は、創造論さえも擁護してしまいます。
新発見された生物に神と名をつければ生まれたことになりそうですね。また、神が生まれる確率も否定できない。でも絶対の神であるならば、神が生まれた時点で神が複数存在することになるのでは?

>意志や知識や力、こうしたものが作用しない限り、長い時間は創造や進化ではなく、破壊や退化に向かう傾向があります。これが観察の示すところです。
淘汰や適応などの力によって進化していますが。人工物と生物を比べることはナンセンスでは?まず人工物と生物の関連性を示すべきでは?

>与えられたものは本当に沢山あり、自由意志はその一つです。例えば公正さを求める神の特質も人間に与えられました。昆虫は公正さを求めません。しかし人間は求めます。神の特質を受け継いでいるからです。
なぜ人間のみに与えたのかということです。意思の有無で差別化したかったのでしょうか?

>神は最高度の知恵を持たれる方です。過ちは犯しません
全知全能ならば人間が反逆しないようにすることぐらい容易でしょう。サタンなんていう唐変木すら取り払えない無能のどこが最高の知恵の持ち主なのでしょうか。

>>109
神は全知全能のくせにサタンを追い出せないのですか?

118:伊藤誠一:2019/03/26(火) 22:46 ID:cBY

ただし、進化論はまだ不完全ではある。

119:カレー:2019/03/26(火) 22:57 ID:.BA

こういう宗教関係の話ってさ、自分においては必要ないって言うだけでいいから容易いんだけど、問題は自分を取り巻く人たちがそれに染まっていってしまったときがまずい。相手趣向には口だせないからな。そして染まった人たちが過半数越えたらもうだめだな

120:虹鱒◆8s:2019/03/27(水) 00:40 ID:dzw

>>119わかるかも知れん
今までそ○か学会なんて知らなかったが母の姉の夫が学会員でね…
母の姉も学会に入っちゃったからかなり怖くなってきた

121:ヤキソバ:2019/03/27(水) 01:19 ID:vwM

一応キリスト教はちゃんとした宗教だからそこだけな

122:伝道者◆zc:2019/03/27(水) 07:55 ID:Mq.

>>117

伊藤さん、メッセージ下さり、ありがとうございます。

>ここのgalなんちゃらという名前の人の論理を見てください。創造論者なんて所詮この程度です。

リンクを読みましたが、イマイチですね。以下の二つのシリーズ記事の方が良いと思います。進化論と創造論が本格的に比較検討されています。

https://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E6%9C%AC/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-5%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%B3%AA%E5%95%8F/

https://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E6%9C%AC/%E7%94%9F%E5%91%BD-%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89/

>でも絶対の神であるならば、神が生まれた時点で神が複数存在することになるのでは?

どの様な理屈でそう思われるのですか?

>淘汰や適応などの力によって進化していますが。人工物と生物を比べることはナンセンスでは?まず人工物と生物の関連性を示すべきでは?

確かに例が最適ではありませんでしたね。失礼致しました。

適応や小進化はあると思いますが、大進化は信じていません。

猿はいる、人間もいる、両方共に沢山います。それなのに進化論が正しければ色々な段階で沢山いる筈の中間種は全く見当たらない。

純血種同士の犬よりも雑種犬の方が強い傾向があります。犬と犬を掛け合わせると、強い遺伝子が受け継がれる。しかし逆に犬と猫を掛け合わせると失敗する。超えられない境界線がある。以下の聖句の例の通り、聖書の創世記1章には「種類にしたがって」という表現が何度も何度も何度も登場します:

創世記1:25
そして神は,地の野獣をその種類にしたがい,家畜をその種類にしたがい,地面のあらゆる動く生き物をその種類にしたがって造ってゆかれた。

私は識者ではありませんが、素朴に進化論(大進化)はおかしいと思います。

>なぜ人間のみに与えたのかということです。意思の有無で差別化したかったのでしょうか?

聖書から回答します。人間は動物の愛ある管理を神から委ねられたからです。

創世記1:26, 28
神は言われた,「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造り,彼らに海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上を動くあらゆる動く生き物を服従させよう」。
神は彼らを祝福し,神は彼らに言われた,「子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。

>全知全能ならば人間が反逆しないようにすることぐらい容易でしょう。サタンなんていう唐変木すら取り払えない無能のどこが最高の知恵の持ち主なのでしょうか。
>神は全知全能のくせにサタンを追い出せないのですか?

多くの方々が同じ疑問を感じています。以前の私もそうでした。

しかし神が全知全能であるならば、全知全能ではない私達が思いつくよりも、より良い判断・対応をされる筈です。それがどの様な対応かは
>>46
で聖書に基づき詳しく解説しました。

神は公正を重んじ、独裁者的に対応するよりも、一時的にサタンを忍耐し、全てのことが公正に証明されることを選ばれました。

>>118

>ただし、進化論はまだ不完全ではある。

以下の理由より、進化論はとても危険で有害な考え方ですので、仮に進化論を信じるのであれば、徹底的に検証し、相当慎重になるのが賢明と思われます。

進化論によると、生命は偶然に発生した為、生きることの絶対的な意味、人生の客観的な目的が失われます。

進化論によると、勝てば官軍です。より繁殖した種が正です。つまり利己主義が推奨される基盤になります。

進化論によると、進化が正です。原理主義的には、劣性種や弱者は抹消する方が種全体の為になるとも言えてしまいます。

この様に、進化論がもたらす影響はかなり有害です。学校で教えられたから、皆が信じているからだけで進化論を信じるのでは、それは盲目であり洗脳です。先にご紹介した二つのシリーズ記事を読んで頂き、皆さんが真剣に進化論vs創造論を考察し、各自が自分で納得いく答えを見出されることを希望します。

123:伝道者◆zc:2019/03/29(金) 21:32 ID:ICg

>>66
アーリアさん、未だご返事が頂けておりませんが、
>>61
のぬこさんの疑問に対し、私の説明を書きます。

先ず議題の箇所を確認してみたいと思います。この聖句です。

マルコ15:34
そして第九時に,イエスは,「エリ, エリ, ラマ サバクタニ」と大声で呼ばわられた。これは,訳せば,「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか」という意味である。

イエスにとって、杭の上で苦しみながら処刑されることは、意外な事どころか、既にご存知の事でした。そして三日後に蘇ることも確信していました。以下の聖句の通りです。

マタイ16:21,24抜粋
イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。それからイエスは弟子たちに言われた,「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。

つまり全ては想定内であり、しかも前途には復活の希望がありました。と言うことは、この局面で神に見捨てられたとイエスは考えていなかった筈です。では、どの様にイエスの言葉を解釈すれば良いのでしょうか。

次回に続きます。

124:伝道者◆zc:2019/03/29(金) 21:34 ID:ICg

一つ目に神が「イエスの保護を解除された」ことをイエスが感じ、この言葉を発したという解釈が成立すると思います。

そもそも贖いとは何でしょうか。完全な人間アダムが犯した罪により、罪や死が子孫に継承されました。それを贖うには、もう一人の完全な人間イエスが徹底的に義に生き、イエスを信じ従う人に再び永遠の命をもたらすこと、それが贖いです。以下の聖句の通りです。

ローマ5:18-19
一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人の方の従順を通して多くの者が義とされるのです。

さて、徹底的に義を証しする為には、神からの保護が完全に解かれる必要があります。ヨブに関して以下の聖句で、サタンが神に疑問を呈した通りです。

ヨブ1:9-11
サタンはエホバに答えて言った,「ヨブはただいたずらに神を恐れたのでしょうか。あなたが,彼とその家と彼の持っているすべてのものとの周りにくまなく垣を巡らされたではありませんか。彼の手の業をあなたは祝福されたので,その畜類は地にふえ広がりました。しかし逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを見てください」。

サタンの言い分は、神から受ける祝福の故に人が神を崇拝するならば、それは利己的な崇拝であり、利他的な無私の愛や信仰ではない。その様な利他的な無私の愛や信仰など存在しない、ということです。

イエスが徹底的に義を証しする為には、サタンへの反証を提示する必要があります。以下の聖句の通りです。

箴言27:11
我が子(イエスのことです)よ,賢くあって,わたしの心を歓ばせよ。わたしを嘲弄している者(サタンのことです)にわたしが返答するためである。

つまり最後の最後でエホバはイエスを保護することを止める(見捨てる)必要がありました。保護が完全に解かれ、イエスが処刑されるままにされたことを感じ、イエスが「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか」という言葉を発したという解釈が可能です。

まだ続きます。

125:伝道者◆zc:2019/03/29(金) 21:36 ID:ICg

しかし、どうしてイエスは「なぜ」という言葉を用いられたのでしょうか。上記の通り、神の保護が完全に解かれる必要があることを、イエス自身良くご存知だった筈です。そもそも、この言葉はイエスが初めて発したのではなく、以下の通り、遥か昔、既に旧約聖書に書かれていました。イエスは以下の聖句を思い出され、「引用」しておられたのです。

詩篇22:1
わたしの神,わたしの神,なぜあなたはわたしをお捨てになったのですか。なぜわたしを救うことから,わたしが大声で叫ぶ言葉から遠く離れておられるのですか。

つまりイエスは詩篇の聖句を成就させていました。この究極の試練の瞬間の真っ最中でさえ、救世主に関するメシア預言を正確に成就されていました。

更に、引用したのであれば、イエスご自身が、引用元である詩篇筆者ダビデと同じ気持ちであることを示しておられました。

少し長いですが私は感動を憶えますので、先の言葉で始まる詩篇22篇全て引用します。つまり、これが正にその瞬間のイエスの心情です。

次に続きます。

126:伝道者◆zc:2019/03/29(金) 21:37 ID:ICg

詩篇22篇
わたしの神,わたしの神,なぜあなたはわたしをお捨てになったのですか。なぜわたしを救うことから,わたしが大声で叫ぶ言葉から遠く離れておられるのですか。わたしの神よ,昼間わたしは呼びつづけます。ですが,あなたはお答えになりません。そして夜もです。わたしが沈黙することはありません。しかし,あなたは聖なる方であり,イスラエルの賛美を住まいとされます。わたしたちの父はあなたに依り頼みました。彼らは信頼し,あなたはいつも彼らを逃れさせてくださいました。彼らはあなたに向かって叫び,安全に逃れました。彼らはあなたに依り頼み,恥を受けませんでした。しかし,わたしは虫です。人間ではありません。人びとにとってはそしりであり,民にとっては卑しむべき者なのです。わたしを見る者は皆わたしをあざ笑います。彼らは口を広く開け,頭を振りつづけます。「彼はエホバに身をゆだねたのだ。その方に逃れさせてもらえ。その方に救い出してもらえ。その方は彼を喜びとされたからだ」。あなたは母の腹からわたしを引き出された方,わたしが母の乳房に抱かれていたときに,依り頼むようにさせた方なのです。わたしは胎からあなたの上に投げ出されました。わたしが母の腹にいたときから,あなたはわたしの神でした。わたしから遠く離れないでください。苦難が近くに迫っており,ほかに助けてくださる方はだれもいないからです。多くの若い雄牛がわたしを取り囲み,バシャンの強力なものたちがわたしを取り巻きました。引き裂き,ほえたけるライオンのように,彼らはわたしに向かって口を開きました。わたしは水のように注ぎ出され,わたしの骨は皆はずれてしまいました。わたしの心はろうのようになり,わたしの内なる奥深い所で溶けてしまいました。わたしの力は土器のかけらのように干からび,舌は歯ぐきにくっついています。あなたは死の塵の中にわたしを置かれます。犬がわたしを取り囲み,悪を行なう者たちの集まりがわたしを囲い込みました。彼らはライオンのようにわたしの手と足に攻めかかります。わたしは自分の骨を全部数えることができます。彼ら自身が見つめ,わたしをじっと見ます。彼らはわたしの衣を彼らの間で配分し,わたしの衣服の上でくじを引きます。しかしあなたは,エホバよ,遠く離れないでください。わたしの力よ,急いでわたしを助けに来てください。わたしの魂を剣から,わたしのただ一つの魂を犬の手から救い出してください。ライオンの口からわたしを救ってください。あなたはわたしに答えて,野牛の角から救ってくださらなければなりません。わたしはあなたのみ名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ,会衆の中であなたを賛美します。エホバを恐れる者たちよ,神に賛美をささげよ。ヤコブのすべての胤よ,神の栄光をたたえよ。イスラエルのすべての胤よ,恐れおののけ。神は苦しむ者の苦悩をさげすむことも,忌み嫌うこともされなかったからだ。神はみ顔をその者から覆い隠されたこともなく,彼が助けを求めて叫ぶとき,聞いてくださったのである。大きな会衆の中にあってわたしの賛美はあなたから出ます。わたしは神を恐れる者たちの前でわたしの誓約を果たします。柔和な者たちは食べて満ち足り,神を求める者たちはエホバを賛美します。あなた方の心が永久に生きつづけますように。地のすべての果ては思い出して,エホバに立ち返ります。そして,諸国民のすべての家族はあなたの前に身をかがめるのです。王権はエホバに属し,神は諸国民を支配しておられるからです。地の肥えた者たちは皆,食べて,身をかがめます。塵に下る者は皆,そのみ前に体を折り曲げ,だれひとりとして自分の魂を生き長らえさせる者はいません。胤がこれに仕えます。エホバについて次の世代に告げ知らされます。彼らは来て,生まれて来る民に神の義について語ります。神がこれを行なわれた,と。

127:伝道者◆zc:2019/03/29(金) 21:37 ID:ICg

何という素晴らしい信仰の表明でしょう。
(また余談ですが、この22篇だけでも、衣のくじの件など、沢山の他のメシア預言も成就しています。)

つまり、イエスは神に見捨てられたと感じたのではなく、必要な手順として神の保護が完全に取り去られたことを感じ、その極限の試みの中にあってさえ、メシア預言を忠実に成就させながら、神を賛美し、忠実な信仰を宣明されていました。これこそがイエスの真意です。

さて、犠牲を払ったのは子イエスだけだったでしょうか。この瞬間、更に多くの犠牲を払われた方が別にいました。投稿が長くなりましたので、そのことは次回書きたいと思います。

128:伝道者◆zc:2019/03/29(金) 21:38 ID:ICg

この瞬間、イエスよりも多くの犠牲を払われた方は一体誰でしょうか。それは父エホバです。

例えで考えてみましょう。自分が死ぬことと、自分の愛する子が目の前で殺されるのと、果たしてどちらが辛いでしょうか。後者だと思います。

実際にはその処刑を阻止する力があるのに、阻止を踏み止まらなければいけないなら尚更一層辛いでしょう。

以下の聖句で、エホバの辛さが分かります。

マタイ27:50-51
イエスは再び大声で叫び,それからご自分の霊をゆだねられた。すると,見よ,聖なる所の垂れ幕が上から下まで二つに裂け,地は震い動き,岩塊は割れた。

次の聖句の通り、神は本当に私達を愛して下さり、ご自分の独り子イエスさえも犠牲にして下さいました。

ヨハネ第一4:8-10
愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。

129:伊藤誠一:2019/03/29(金) 22:30 ID:cBY

もはやカルトにしか見えない

130:伊藤誠一:2019/03/29(金) 23:11 ID:cBY

・イエスの復活なんてありえない。

(証明)人間は蘇ることができない→イエスは人間である→よってイエスは蘇ることができない

科学的には、完全に死んだ人間の蘇生は今のところ不可能です。イエスは恐らく替え玉を使ったのでしょう。卑怯な男です。

・神は存在しているとは言えない(ネタです)
まず前提、
@人が(形而上のもの除いて)認識できないものは存在も不存在も証明できないとする
A神は完全であるとする
B神は最も格の高い存在であるとする

神が人によって認識できる場合、神は不完全な者に姿を曝け出していることになる。又、認識された場合、科学的研究が可能になる。これによって神の神秘に包まれた部分が減る。よって神の格が落ちる。しかし、認識されない場合は神秘性は保たれる。
これらを比較すると神秘性において後者の方が完全である。よって神は認識できない。
ここで、@より神は存在も不存在も証明できない。(証明終了)

131:ヤキソバ hoge:2019/03/29(金) 23:15 ID:vwM

信仰すると楽しいしいいことあるからね
(自分の心の中に)神はいるってことでいいんじゃないかな

132:アーリア◆GM:2019/03/29(金) 23:34 ID:NIs

私、エホバ(ドイツ又はソ連)と反キリスト(ソ連又はドイツ)に挟まれたカトリック(ポーランド)なんだけど⁉

133:アーリア◆GM:2019/03/29(金) 23:39 ID:NIs

>>130
イエスは人であると同時に神なんです。それ故に復活できたのです。

つまりイエスは人であると同時に神であることを信じることによって救われるのです。

尚、恐らくスレ主様はイエスが神であるとは主張しないとは思いますが。


相変わらず反論できてないので、どうしようかね。これ。

134:サビぬき。◆ps:2019/03/29(金) 23:41 ID:a92


絶対神のお言葉(?)の解釈の違いだけで血で血を洗う諍いさえも生ずる西欧・中東の宗教なんかと違って
我らヤマト民族の奉ずる“八百万の神々”達はユル〜くフレンドリーだからねw

やっぱ「無駄に縄張り争い的なケンカをしない神様たち」ってのが好きだなーオレはw…♡

135:アーリア◆GM:2019/03/29(金) 23:44 ID:NIs

>>134
私もカトリックとか言っておいて神道的思想に基づくカトリックです♡

136:伊藤誠一:2019/03/30(土) 00:24 ID:cBY

>>134
全ては自然現象と割り切った方が楽よ。すくなくとも僕はそう考えている。

137:伊藤誠一:2019/03/30(土) 00:25 ID:cBY

>>133

>>130の通り神は認識できてはいけないのだ。イエスはただのおっさんである。

138:伊藤誠一:2019/03/30(土) 00:27 ID:cBY

いや、しかし陛下は現人神であるから、やっぱ神はいますw

139:ヤキソバ hoge:2019/03/30(土) 01:48 ID:vwM

まあ神の定義も人それぞれやからなあ

140:伝道者◆zc:2019/03/30(土) 09:20 ID:Srs

>>133

>イエスは人であると同時に神なんです。それ故に復活できたのです。

アーリアさん、聖書にはこの様に書かれています。

使徒2:32
このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちは皆その事の証人です。

使徒3:15
一方では,命の主要な代理者を殺しました。しかし神はこの方を死人の中からよみがえらせたのであり,わたしたちはその事の証人です。

イエスは死んでいたので、自分からは復活出来ませんでした。別の方、つまり神がイエスを復活させました。父なる神、子なるイエスは別々の方です。

これが聖書の教え、聖書に基づく理解です。

141:無論:2019/03/30(土) 09:47 ID:9xk

神はイエスの他にいて死人の中からイエスを選んで復活させた?
神は複数居るのか?
聖書はどの神の御告げなんだ?


続きを読む 全部 <<前 次100> 最新30 ▲上へ
名前 メモ
画像お絵かき長文/一行モード自動更新