十数年前の掲示板で、ひと夏だけ流行った都市伝説があった。
三十人分の魂を売れば、魔法の力を売ってくれる人(?)が居るらしい。
1-Bは、クラスの誰かに売られた。
その日の夜、私はベッドに寝転びながらただひたすらスマホを弄った。
「『魔女 人殺し 無罪』……。『魔女 仕事』……。」
佐藤聖羅が言っていた言葉を思い出して、思い付く限りの単語で検索を掛けた。でも、それらしき検索結果は何も出てこなかった。出てきたのは誰かが書いたネット小説やら、アニメの公式サイトやら、作り話ばかり。
「やっぱりデタラメなんじゃ……。」
私は溜め息を吐きながら天井を仰いだ。やっぱりあの人がおかしい人だったんだ。そりゃそうだよね、私を酷い目に遭わせた人に復讐しても無罪になるなんて、そんな都合のいい話があるわけない。
「……それに、私はそんなこと望んでない。」
彼女が死んだところで、私のこの傷達がなかったことにはならない。この傷達が治っても、きっと頭の中にこびり付いた痛みや感覚は一生忘れることは出来ない。彼女が居なくなったところで、元の生活に戻れるわけじゃない。
「だったら、何やったって無駄。」
私はごろりと寝返りを打ち、スマホを枕の横へ置いた。布団を頭まで被って、真っ暗になった視界で脚をもぞもぞと動かした。
「……戻れたら、一番いいのに。」
加藤さんに暴行される前に、加藤さんと出会う前に、卯乃羽に告白される前に、……卯乃羽が私を好きになる前に戻れたらいいのに。
「殺/すなんてしなくていい。ただそれだけでいいのに……。」
目の奥から涙が溢れてくる。
「元の生活に戻りたい……。」
その日、私は涙を流しながら眠りに就いた。
叶わない願いを誓いながら。
「やっほぉ〜!久しぶり!」
「……。」
目を漫画みたいにアーチ型にしてにこにこ笑いながら現れた佐藤聖羅を、私はじっとりと睨み付けた。
「……何でまた来たんですか。」
呼んでもないのに。てかLINEすら送ってないのに。
「心変わりしてくれたかなって思ったから来ちゃいました!全然LINEくれないからわざわざ会いに来てあげたんだよ」
「は。そんなの頼んでないですし。」
自分勝手な人だな。LINE送ってないってことは、心変わりしてないってことなんだってば。
「この前も言ったけど、君の意見は割とどうでもいいんだよね。問題なのは君が実際に暴力を奮われたことと、君の心に出来た傷なんだよ。」
「私の心に傷なんて出来てませんから。帰ってください。」
「いーや、出来てるね。自分で気付いてないわけじゃないんでしょ?この前君を見てたら一発で分かったよ。腕の痣を見ながら震えてたじゃないか」
「分かったような口聞かないでくださいよ。元々あなたは無関係でしょ。」
「無関係だよ。でも仕方ないでしょ、私が亜莉紗ちゃんの担当に選ばれちゃったんだから。私だってこんな可愛げのない奴の担当なんてやりたくなかったわよ」
「……。」
ぎりりと歯を食いしばる。シーツを握り締めながら、私は佐藤聖羅の足元を睨む。
「じゃあもう会いに来なくていいですよ。あなたはやりたくなくて、私も頼んでない。だったらもう私達が会うメリットは何も無い。」
「そうはいかないんだよねー。私らのわがままが通用するほど甘くないんだよ。ま、取り敢えずさ、私の話を聞いてよ。」
佐藤聖羅は小さな鞄からスマホを取り出す。微笑を浮かべながら画面を操作し、その後私を見てにたりと笑う。
「じゃーん、これ何でしょう!」
そう言って得意げにスマホの画面を私に見せ付けてきた。
私はその画面を見て硬直した。頭の中が真っ白になった。ギギギと首を動かして、佐藤聖羅の顔を見る。
「びっくりしたー?会ってきちゃった、加藤玲亜ちゃんに」
「な、な、何で。」
その画面には、佐藤聖羅のLINEの友達欄に表示された、加藤さんのプロフィールが映っていた。
「な、何であなたと加藤さんが……。」
視界がブレる。佐藤聖羅が笑ってるのか真顔なのか、はたまた全く別の表情をしているのかも認識出来なかった。何で加藤さんと佐藤聖羅が繋がってるの。
「画面の通り、友達になったんだよ。あと、彼女、今入院してるから。」
「……は。」
加藤さんが、「入院してる」?。
「私を雇ってる人達が経営する病院に入ったから、簡単に会うことが出来たよ。にしてもモンスターみたいな子だよね、加藤玲亜って。」
「な、何で加藤さんまで入院してるのよ……。」
「うーん、病院って言っても、彼女が入ったのは『精神科』なんだよね。」
佐藤聖羅はわざとらしく口を尖らせ、顎に手を添えながらそう言う。
「せい、しん、か……?。」
言葉が詰まる。どうして加藤さんが精神科に入院してるの。
「彼女、やっぱり精神を病んじゃってたみたいでね。だから亜莉紗ちゃんを陥れたりに暴力奮ったりしちゃったんだってさ」
「な、何でそんなことあなたが知ってるんですか。」
「加藤玲亜と面会したんだよ。ちなみにこの後も会いに行く予定。」
「うそ……。」
佐藤聖羅はスマホをくるくると回しながら得意げに話す。
「他にも色々調べさせてもらったよ。加藤玲亜や君の周りの人間についてもね。」
病室内をゆっくりと練り歩きながら、佐藤聖羅は窓の方を見て微笑を浮かべる。
「君のクラスメイトは酷い人ばかりだね。特に澤井夢架や高橋綾奈は薬物をやってたそうじゃないか。それを加藤玲亜に知られて彼女の言いなりだったらしいね。」
「……。」
「川嶋レミもなかなかいい性格してるね。澤井夢架達から聞いた亜莉紗ちゃん達の話を学校中の友達に広めたらしいよ。まぁこれはまだ可愛い方だよね。」
「……。」
「後は関根卯乃羽かな。好きな人が自分を庇って苦しんでるって言うのに、自分は学校を休んで好きな人を見捨てたそうじゃないか。その好きな人は亜莉紗ちゃんなんだってね。モテモテだね、亜莉紗ちゃん。」
「見捨てたなんてそんな言い方しないでよ。私は見捨てられてなんかない……。」
声が上ずる。そんな私を見て、佐藤聖羅はおかしそうに苦笑いをした。
「もう期待を抱くのはやめなよ。君が苦しむだけだよ。」
ベッドの横に戻ってきた佐藤聖羅は、まるで哀れむように私を見下ろす。その視線が堪らなく不愉快で、それから逃げるように佐藤聖羅から視線を逸らした。
「そんなのあなたに何が分かるんですか。私達の何が。」
「だって関根卯乃羽は、加藤玲亜と付き合い始めたんでしょ?」
「それは……っ。」
「君に告白までしたのに、随分と気が変わるのが早いよね。」
「……。」
それはきっと、私がきちんと返事をしなかったからだ。卯乃羽は「もしまた、私が学校に行けるようになって、みんなの誤解も解けたら、告白の返事、聞かせてくれないかな」って言ってた。私が入院する前、まだ卯乃羽は学校に来れてなかったし、みんなの誤解も解けてなかったけど、きっと卯乃羽は待てなかったんだ。そりゃそうだよね、告白して一ヶ月以上返事が来なかったら、諦めて別の人を好きになるに決まってるじゃない。
「だから、仕方ないんです……。」
私は震える声でそう呟いた。
「ふーん。ま、他人の恋愛事情につべこべ言うつもりはないから私は黙ってるわー。」
佐藤聖羅は興味無さそうに頭の後ろで手を組んだ。
「さ、話を戻そうか。
私は今から加藤玲亜に会いに行く。亜莉紗ちゃん、それに同行してくれないかな?」
大きな瞳で、佐藤聖羅はじっと私を見詰める。
「……断ったら、どうするんですか。」
尋ねてみると、佐藤聖羅はうーんと唸った後、
「そしたら素直に引き下がるかな。ま、同行した方が亜莉紗ちゃんに取ってメリットになると思うけどね。」
「……それは、どうしてですか。」
「単純な話さ。このまま加藤玲亜に会うことを拒み続ければ、君が何の真実も知れないまま一生苦しみ続けることになるからね。」
佐藤聖羅は八重歯を見せながらそう言う。
加藤さんに会わなかったら、私が一生苦しみ続けるって言うの。意味が分からない、私は加藤さんに会って得るものなんて何もない。
「結果を言うと、彼女の処分はもう決まったのさ。」
「……え。」
「彼女は完全な黒だ。だから彼女は近々処分されるんだよ」
「え、え……。」
戸惑いを隠せない私を見て、佐藤聖羅は興味なさそうな顔でスマホの画面を操作し出した。
「だから加藤玲亜が死ぬ前に色々聞いといた方がいいと思って。ほら、催促されてるからはやく決めてよ」
「待って、待ってよ……。」
「何も直接彼女と顔を合わせろって言ってんじゃないよ。君は病室の外から会話だけ聞いてればいいよ。私が全部話すように誘導するから。」
佐藤聖羅はイラついているように見えた。片足で貧乏揺すりをしながら、冷たい目でスマホの画面と私を交互に見る。
早く決めなきゃ。直接顔を合わせるわけじゃないなら行ってもいいかな。でも、加藤さんの声を聞いても正気で居られるか分からない。もし加藤さんが怒鳴り出したりしたら、あの日の光景を思い出してしまうかもしれない。ずっとしまい込んでいた恐怖の感情が、また呼び覚まされてしまうかもしれない。
でも。佐藤聖羅は、もし私が加藤さんに会わなければ、「何の真実も知れないまま一生苦しみ続けることになる」って言ってた。それは一体どういうことなのかな。佐藤聖羅は、その「真実」を知ってるんだろうか。
「その耳でちゃんと聞きな、亜莉紗ちゃん。」
佐藤聖羅はそう言いながらスマホを鞄にしまった。
「……さ、どうする?」
ドッドッと心臓が低い音で鼓動を刻む。私は膝にかけてあった布団を端の方に避けた。
「……おっけー、そうこなくっちゃ」
ベッドの柵を下ろしてベッドから降りる私を見て、佐藤聖羅は満足そうに微笑んだ。
「……。」
車に揺られて約十分。私は、隣で窓枠に肘をつきながら窓の外を眺める佐藤聖羅をちらりと見た。その後、斜め前の運転席に座るスーツ姿の男性を見る。
この人は一体誰なんだろう。佐藤聖羅が連絡したら、すぐにこの人が病院まで黒塗りの車を走らせてきた。その車に乗り込んで、加藤さんが入院している精神科に向かっているところだ。
さっきから誰も何も言葉を発していないので物凄く気まずい。運転手のスーツの男性は、真っ黒のサングラスを掛けていて厳つい雰囲気だし、ずっと無言でガムを噛んでいて何だか怖いし。佐藤聖羅は薄ら笑いしながらずっと流れていく景色を眺めているし。私はそんな二人を交互に見ながら、最終的に視線を自分の足元に落ち着かせた。
「……そろそろ着きますんで」
「は、はいっ。」
いきなり運転手の男性が低い声でそう言ったので、私は思わず返答してしまった。佐藤聖羅がぷすっと含み笑いする。私は恥ずかしくなって顔を上げられなかった。
「じゃ、また迎えに来ますんで呼んでください」
「ありがと〜」
私と佐藤聖羅を病院の前に降ろして、黒塗りの車は走り去っていった。
「さてと」
佐藤聖羅はうーんと伸びをし、病院の建物を見上げる。
「行きますか、亜莉紗ちゃん。」
「……はい。」
私の返事を聞くと、佐藤聖羅は満足げににこっと笑った。そして病院の中に入っていく。
中に入ると、狭い通路が向こうまで続いていた。普通の病院のような受付や待合室はない。ただただ、細長い廊下が続いているだけだった。
私はごくりと唾を飲み込む。佐藤聖羅はそんな私をちらりと振り返って、また前を向いた。
「ここは普通の病院じゃないからね。『病院』って言うよりかは『施設』って言った方が正しいかな。
ここは色んな理由で普通に生活を送らせるのは危険と見なされた人達が入る施設なの。」
「『施設』……。」
「そう。ま、表向きは病院ってことになってるけどね。関係者は立ち入れないようになってるけど。亜莉紗ちゃんは特別なんだよんっ」
佐藤聖羅はそう言いながら廊下を突き進んでいく。すると、突き当たりにエレベーターの扉が見えた。佐藤聖羅は上りのボタンを押す。
「えーと、何階だったっけなー」
佐藤聖羅は、スマホを取り出して確認しながらそう呟く。そのまますぐに到着したエレベーターに乗り込んだ。
「四階押して、亜莉紗ちゃん」
私は言われるままに四階のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まり、ゆっくりと上昇し出した。
四階に辿り着くまでの数秒間、私達は無言で扉の上の光る数字を眺めていた。私の心臓は、ずっとバクバクと踊り狂っていた。
ポーンと言う音と共に、エレベーターの動きは止まった。開いた扉の向こうには、無数の部屋がずらりと並んでいた。
「さ、行こう。」
私の後ろに立っていた佐藤聖羅が、私を追い越して歩いていく。
「病室のドアを開ける前に、ドアの影に隠れてね。」
私はそれに無言で頷いた。
佐藤聖羅が一歩歩を進めるたびに心臓が飛び出してしまいそうになった。まるでスローモーションになったみたいに時間の流れが遅くなったように感じた。
大丈夫。加藤さんに会っても、私は大丈夫だ。もうあれから一週間経ってるんだもの。こんなことにいつまでも怯えてたら仕方ないでしょ。
そう自分を励ましながら歩いていると、こつんと佐藤聖羅の背中に鼻をぶつけてしまった。
「った。」
「あ、ごめんごめん。着いたよ、亜莉紗ちゃん」
振り返った佐藤聖羅が小声でそう言う。左側にある白いドアを見ると、手書きで「加藤玲亜」と書かれた白いプレートが貼ってあった。
「じゃ、そこの椅子に座って聞いてて。ちゃんと加藤玲亜からは見えない位置になってるから動かさないでね。」
律儀に椅子まで用意してくれてたみたいだ。私は無言で頷いてそこに腰掛ける。
佐藤聖羅がコンコンと二回ノックをする。中からは何の返事も聞こえてこなかったけど、佐藤聖羅はガラリとドアを開けた。私は太ももの上で揃えた自分の手元を見ながら、じっと息を押し殺した。
「こんにちは、玲亜ちゃん。」
佐藤聖羅はドアを開けたまま、病室に入っていった。相変わらず心臓が暴れ狂っている。
「……何でドア閉めないんですか?」
くぐもったそんな声が聞こえてくる。私はバッと顔を上げて、病室の方を見た。
「いやー、換気した方がいいと思って。窓も目隠しされてて開けれないでしょ?」
佐藤聖羅はさらりとそれっぽい嘘を言う。この人、相当慣れてるな。
「……あ、そ。また色々質問責めしに来たんですか?」
病室の中から聞こえてきた不機嫌そうなその声は、確かに加藤さんのものだった。
「そんな露骨に嫌がらなくてもいいじゃないか。こんな何もない病院で一日中一人じゃ君も退屈でしょ?」
佐藤聖羅は苦笑いしながらそう言う。ちらりと病室の中を見ると、加藤さんのベッドの端っこと佐藤聖羅が見える。どうやら加藤さんの頭はこちら側にあるらしく、見えているベッドは足側らしい。足が動いているのか、シーツがたまに波打っている。
「まぁ、それもそうですね。何で面会もしちゃだめなんですか?」
「規則が厳しいんだよね、ここの病院は。」
「……家族はいいとして、せめて彼女にくらい会わせてくれてもいいじゃないですか。」
「ははは。身内以外と面接させる方が難しいよ」
佐藤聖羅は面白そうに笑う。……「彼女」って、卯乃羽のことだよね。二人が付き合い始めたって言うのは本当なんだ。
震える自分の手を見て、私は顔をぐしゃりと歪ませた。やっぱり本当だったんだ。やっぱり私が居なくなって正解だったんだ。私が居なくなった途端、こんなに簡単に解決するなんて。
「さて。今日は君に訊きたいことがあって来たんだ。単刀直入に言うけど……」
一瞬、佐藤聖羅の目付きが鋭くなる。
「玲亜ちゃん、君はどうしてあの日、被害者の女の子に暴行しちゃったのかな?」
その後、目を細めてにこりと笑う。
加藤さんは何て答えるんだろう。私はごくりと唾を飲み込みながら、加藤さんの返事を待った。
「何でそんなことあんたに言わなきゃいけないんですか?」
「一応、私は君の“カウンセラー”だからね?」
あ、そういう設定だったんだ。
「早めに話した方がいいと思うよ?君が正直に答えるまで帰らないからね。」
佐藤聖羅はそう言って笑顔で圧をかける。諦めたのか、加藤さんは短い溜め息を吐いて、嫌々答えた。
「……ムカついたからですよ。ただ単に、あの子がムカつくからです」
「へぇ?普通はムカついただけであんなに殴ったりしないよね、相当だったんだ。」
「はい。存在自体がムカついたんですよね〜」
まるで鈍器か何かで胸元を思いっきりぶん殴られたような感覚になった。冷や汗が太ももや手のひらに溢れた。……分かってはいたけど、私、加藤さんにこんなに嫌われてたんだ。
「それはどうして?君とあの子は元々面識なかったんだよね?」
探りを入れるかのように佐藤聖羅が問う。
「まあね。私は一方的に知ってましたけど。だから私から近付いたんです」
「ほほう、君は元々その子のことが嫌いだったってことかな?」
「はい。……その子は、今の彼女の好きな人だったんですよね」
一瞬間をあけて、加藤さんが答える。
「今は彼女は私だけを見てくれてるけど、ずっとそいつのことが好きだったので」
「へぇ〜。じゃあ君にとってその子は『恋のライバル』……いや、『邪魔者』だったんだ。」
「……何で言い直したんですか?」
加藤さんにそう訊かれて、佐藤聖羅は煽るかのように目を見開いてははっと笑った。
「だって君は元々はその『彼女』の眼中に居なかったってことだろう?ライバルですらないじゃないか!」
低い笑い声が病室内に響いた。ちょっと、何煽ってんのよ。そんなこと言われたら、加藤さんの地雷を踏むに決まってるじゃない。私は固唾を呑んで病室内を見る。
「……まぁ、それはそうですね。でも結果が全てでしょ、彼女は最終的にあいつじゃなくて私を選んだんだからいいんです」
予想に反して、加藤さんは落ち着いてそう言った。その声を聞いても、怒っているようには感じられなかった。
「君をあそこまで暴力的にさせたのは『彼女』の好きの対象が君じゃなかったからなのかな?」
「……まぁ、そうですね」
「うんうん……。好きな人を他人に取られるのって、結構しんどいもんね。」
「そうなんですよ!それにあいつは恋愛したことないらしいんです。好きな人が他の誰かを好きな気持ちも分からない。なのに卯乃羽ちゃんに好かれてるのがほんとに許せなかったんです!」
じりじりと全身の肌に汗が滲み出してくる。体の内側から響いている心臓の音をBGMに、耳からは二人の会話だけが聞こえてくる。
「私の方が卯乃羽ちゃんを好きだったのに、私じゃなくてあいつが選ばれるなんておかしいでしょ?」
そう言う加藤さんの声は震えていた。……泣いているのかもしれない。けど、それを聞いた佐藤聖羅は、しめしめと言わんばかりにほくそ笑んでいた。
「うんうん、そうだねぇ。辛かったんだね、玲亜ちゃん。」
そう言って加藤さんの枕元に移動し、どうやら背中を撫でたみたいだ。そしてすぐに定位置に戻ってくる。
ぐすんと鼻を鳴らしながら、加藤さんは涙声で続ける。
「……私、ほんとに卯乃羽ちゃんが好きだったんですよ」
佐藤聖羅は無言でそう話す加藤さんを見下ろす。
「私、こんな性格だから、友達が一人も出来なかったんです。入学してすぐの頃は、みんな私と仲良くしてくれました。……でも、私の内面を知った途端、みんな私を避け始めました。
私、ずっと前からこんなんだったから、中学の時もみんなに避けられてたんです。気に入らない子が居ると、すぐ排除したくなっちゃって、攻撃しちゃうんです。
……初めてだったんですよ、一緒に悪口を言う以外で仲良くしてくれたのは、卯乃羽ちゃんだけだったんです。」
思わず聞き入ってしまった。加藤さんは、自分の性格や周りに避けられていることを自覚してたんだ。
「私のことを理解してくれたのは、卯乃羽ちゃんだけだったんです。
なので、ぽっと出の亜莉紗ちゃんなんかに取られるのが許せなかったんです。」
そうか。彼女にとって、私は「ぽっと出」なんだ。私と卯乃羽はずっと友達だったけど、「ぽっと出」なんだ。
「あの日、夢架達に卯乃羽ちゃんの後をつけるように言って、告白の現場に立ち会わせたのも私です。亜莉紗ちゃんを孤立させるために嘘の噂を流すように言ったのも私。多分、私ビョーキなんです。」
早口で加藤さんはそう言う。佐藤聖羅はそれを聞きながら、口を猫みたいにして眉を八の字にした。
「一応自分が病気な自覚はあったんだね。じゃないとこんなとこに強制入院されないしね。うん、君はビョーキだ。」
佐藤聖羅はうんうんと一人で納得したように何度も頷く。
「どんな理由があるにしろ、他人を傷付けようと思ってしまうのは病気なんだよ。昔はそういう人がたくさん居たから問題が絶えなかったんだ。でも今の時代は大丈夫。君もきっと救済されるから。」
にたりと目と口を三日月みたいにして佐藤聖羅が笑う。その笑顔を見た時、背筋がぞくっとした。
「君も辛かったんだね。でももう大丈夫だよ、私が救ってあげるから。
……で、だ。他にもあの子――関口亜莉紗ちゃんを虐めたりしてた人達が居たら教えてくれないかな?」
どきりと心臓が凍り付く。私は病室から視線を逸らして、冷や汗が浮かび上がる自分の手のひらを見る。
「……いっぱい居ますよ。彼女、人気者の卯乃羽ちゃんの隣に居たからみんな優しくしてたけど、ほんとはあんな子誰も興味なかったんですよね」
「おおっとぉ、……くくっ、あんまり悪く言わない方がいいよぉ?」
佐藤聖羅は笑いを抑え切れずに所々で吹き出しながらそう言う。何笑ってんの、と思ったけど、それ以上に加藤さんの発言がショック過ぎた。
「みんな影では嫌ってました。特に彼女のクラスメイトは……」
「名前を聞いてもいいかな?」
「夢架と、綾奈と、モモです。まぁ、モモは多分夢架達に合わせてただけだと思いますけど。二人はいつも亜莉紗ちゃんを見るとイライラするって言ってました」
「へぇ……。小耳に挟んだんだけど、川嶋レミちゃんは?」
「ああ、レミは違います。レミはバカなんで、私が流させた嘘の噂をバカ正直に信じちゃっただけです。元々はレミはイツメン達と居ても、レミだけは亜莉紗ちゃんの悪口は絶対言わなかったですし」
「ふーん。他のクラスメイトは?」
「あとは知らないです。男子達はそもそも興味なかったみたいですし。……卯乃羽ちゃんは、言わずもがなです。」
「そうかそうか、ありがとう。」
「こんなこと聞いて何になるんですか?」
「まぁね。っさ、今日はもう帰ろうかな。」
佐藤聖羅はそう言ってちらりと私を見た。一瞬目が合ったけど、すぐに逸らしてしまった。
「たくさん話してくれてありがとう。次会う時の参考にさせていただくよ。」
意味深な言葉を残して、佐藤聖羅はこちらに向かって歩いてくる。
「……佐藤さん」
加藤さんに小さな声で呼ばれ、佐藤聖羅は振り返る。
「ん?」
「……私の話、聞いてくれてありがとうございました」
そう言われると、佐藤聖羅は眉毛を吊り上げて加藤さんを見た。
「……もちろんだよ。私は君のカウンセラーだからね」
そう言って、佐藤聖羅は病室から出てきた。
「じゃあ、またね。玲亜ちゃん」
佐藤聖羅はそう言うと、病室のドアを閉めた。
「行こう。」
小声でそう言いながら、佐藤聖羅は私の腕を引っ張った。長い長い廊下を歩き、エレベーターに辿り着く。
エレベーターに乗り込んだところで、佐藤聖羅がいきなり大きく息を吐いた。
「っはー、疲れた!」
壁に寄り掛かりながらそう叫ぶ。
「いやー、ただのめんどくさいメンヘラだったね!てかヤンデレ?分かんないけどさー、泣かれてもこっちは困るんですけど!自分で撒いた種だろー?」
佐藤聖羅は駄々っ子みたいに地団駄を踏む。そのたびにエレベーターがガタガタと揺れる。
「ほんと自分勝手だよね。よく今まで売られなかったと思うわ、あの子」
「売られる?。」
「あー、いや何でもない」
一階に着いたエレベーターから降り、私達はまた長い通路を歩いて病院から出た。
「お迎え呼ぼっか。……の前に。」
ぐいっと佐藤聖羅が私の頭を掴んで無理矢理自分の方に向けた。私は驚いて目を見開いた。
「もう決まったよね?誰を処分するか。」
ギラギラと光る瞳が私を捉えた。私は何とか佐藤聖羅の手から逃れようとしたけど、がっちりホールドされて動かすことも出来なかった。せめて視線だけ外して、私は小さな声で答える。
「そんなの、誰も処分しないに決まってるじゃないですか。」
「……はぁ〜?」
素っ頓狂な声を上げながら、佐藤聖羅は私の目を凝視してきた。
「あんた正気?もしかしてあの子が泣いちゃったから同情してんの?『玲亜ちゃんが反省してるなら許してあげてもいいかなっ』ってか?」
ぐぐぐと佐藤聖羅の指が頭皮に食い込む。爪が長くて痛い。
「優しさのつもりかもしれないけど、あの子またいつかやらかすよ。またあんたみたいな怖い思いする人が出るんだよ?」
「そんなのその人が処分してって頼めばいいでしょ。私は加藤さんに死んでほしいわけじゃない……。」
佐藤聖羅は無言で私の顔を見る。が、すぐに視線を逸らして舌打ちをし、突き放すように私の頭から手を離した。
「ふーん、あ、そ。じゃー私はどうでもいいや。勝手にしたら?」
冷めた目で私をチラ見し、佐藤聖羅はスマホを取り出して操作し出した。そしてそれをおもむろに耳に宛てがう。
「あー、もしもし?迎え来てもらえるー?」
どうやらさっきのスーツの男性に電話を掛けているらしい。
「はいはーい、なるべく早く頼むねー?こいつと居ると反吐が出そうだから」
佐藤聖羅はそう言うと、スマホを耳から話して鞄にしまった。
「私、自分は傷付いたくせに他人を……ましてや加害者を気遣って自己犠牲する精神の奴大嫌いなんだよねー。
もうあんたと会うことは一生ないかな。バイバイ、関口亜莉紗。」
感情の籠っていない声でそう言うと、佐藤聖羅は私から十歩ほど離れて建物の壁に寄り掛かった。
数分後、到着した黒塗りの車に乗り込んでも、佐藤聖羅は一言も言葉を発さなかった。
私はただただ自分の足元を見詰めた。さっきの加藤さんと佐藤聖羅の会話が、頭の中を駆け巡っている。
……別に、私は加藤さんを気遣って彼女を処分しない選択をしたんじゃない。普通に考えて、傷付けられたからその人を殺してくれって頼む方がおかしいじゃない。
……この人はそれが当たり前みたいに言ってるけど、人を殺/すのは当然じゃない。悪い人だからって、簡単に死んでほしいなんて思わない。
「……もうすぐ着きますよ」
運転手の声ではっとして窓の外を見ると、私が入院している病院が見えた。
「その子降ろしたらそのまま私ん家向かって」
佐藤聖羅は冷たい声でそう言う。
「……じゃ。足元気を付けて。」
病室の前で降ろされた私は、走り去っていく車の後ろ姿をぼーっと眺めた。
「……。」
その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと眺めていた。
「……はぁ。」
しとしとと静かに雨が降っている。灰色の窓を眺めながら、私は溜め息を吐いた。
あれから、もう三日ほど経っている。もちろん佐藤聖羅は会いに来てないし、連絡も取っていない。
もう一生会うことはないって言われたけど、ほんとにもう私に会う気はないんだろうな。何か地雷踏んじゃったみたいだし。佐藤聖羅は、傷付けられたら復讐することこそが正義だと思ってるみたいだった。
……あそこまでキレるなんて相当だよね。過去に何かあったんだろうか。私みたいに、誰かに傷付けられたりしたんだろうか。もしそうだとしたら、佐藤聖羅はその加害者をどうしたんだろう。
私、佐藤聖羅について何も知らないな。年齢も、どこに住んでるのかも、学生なのか、何の仕事をしているのかも。「加藤さんのカウンセラー」って言うのは、きっと加藤さんに近付くための嘘だと思うし。ほんとに、なんにも知らない。
逆に、佐藤聖羅は私のことを何でも知っていた。私の名前も、私が入院することになった経緯も、通っている学校も、周りの人や人間関係すら把握されていた。
一体何なんだろう。彼女の目的は何なのかな。私が「私を傷付けた人達を殺して。」って言えば、彼女は満足だったんだろうか。
でも、いくら考えても、何でそうなるのかが分からなかった。私を傷付けた人が居なくなったところで、佐藤聖羅に何のメリットがあるって言うの。他人の復讐を肩代わりしたって、何の得もないじゃない。
あ、もしかして、後から多額のお金を請求されるとか。「代わりに殺してあげましたよね?」って言われて、実家まで差し押さえられちゃうかも。危なかった、怒らせてでも断って良かった。
……でも。私はちらりと枕元に置かれたスマホを見た。
ここに入院してから、唯一会いに来てくれたのが佐藤聖羅だった。誰もLINEの一つもくれない中、佐藤聖羅は二回も私に会いに来てくれた。
「……ちょっとは、嬉しかったんだけどな。」
自虐的に笑う。理由は飛んでもなかったけど、「私に会いに来てくれた」と言う事実が嬉しかった。他の理由だったら、もっともっと嬉しかったのに。
「……ふふっ。」
急に馬鹿らしくなって、私はボフっと枕に顔を埋めた。手探りでスマホを手に取り、画面をつける。
「……久しぶりにインスタでも見るか」
既読がついちゃうからストーリーは見ないようにしよっと。クラスメイト達は私のことを嫌ってるか興味無いかの二択だし、私に見られてもいい気分しないよね。……あ、嫌なこと思い出したな。
そうか、私、みんなに嫌われてたんだなぁ。卯乃羽がそばに居てくれたから、私にもついでに優しくしてくれてたんだよね。
「……。」
画面の上の方に並んだストーリーには、たくさんのアイコンが並んでいた。どれも友達や恋人とのツーショットや、誰かに撮ってもらった後ろ姿や、二つでペアになるペアアイコンだ。きっとそれらをタップすれば、青春を謳歌しているクラスメイト達のストーリーが出てくるんだ。
「……。」
やっぱり見ないでおこう。
「あれ。」
ふと、DMに新着の通知が来ていることに気が付いた。通知欄には新しいフォロワーのアイコンもある。
何気なくDMをタップすると、私は思わず眉を顰めた。
「何これ……。」
一番上に表示されているアイコンと名前を見て、私は絶句した。
『Leia♡』と言う名前の横には、卯乃羽と加藤さんのツーショットのアイコンが表示されていた。
Leia……れいあ……玲亜。やっぱり、これは加藤さんのアカウントだ。でもどうして。加藤さんと私は、インスタは繋がってなかったはず。
「……あ。」
通知欄を開いて、私は納得した。
十日前に、加藤さんからフォローされていた。
「……ほんと、これ見よがしに見せ付けやがって。」
馬鹿らしくなって私は思わず笑ってしまった。DMには、遡っても遡っても、加藤さんのストーリーが延々と表示され続けていたのだ。
十八時間前と三時間前に投稿されたストーリーを見ると、背景に紛れさせて気付かれないようにしてるけど、きちんと私がメンションされていた。
そのストーリーの内容は、両方とも卯乃羽とのツーショットだった。片方は犬のエフェクトで撮った自撮りで、もう片方はプリクラだった。
何これ。私への当て付けなのかな。
「……こんなにアピらなくたって、もう卯乃羽は加藤さんのことが好きなんでしょ。」
スマホを握った指に力が入る。爪が白っぽくなって、画面がギチギチと音を立てる。
もういいよ。卯乃羽は私とは絶縁したんだから、自慢してこないでよ。もう私は関係ないじゃん。二人が幸せならそれでいいでしょ。なのに何で更に私をこんな気持ちにさせるの。
私はスマホを壁に投げ付けた。バキッと音を立てて、スマホは床に落ちる。
「はぁっ、はぁっ、……うう……。」
シーツを蹴り飛ばしてベッドから降り、スマホを拾いに行く。
「……。」
無言で見下ろしたスマホの画面はバキバキに割れていた。
「もうやだ……。」
ガン、ガン、ガン。一定の間隔で病室内に鳴り響く音は、私が足でベッドの柵を蹴っているのが原因である。
「ふざけんなよ。絶対分かっててやってんでしょ。」
ガリガリと頭皮を掻き毟る。根元が黒くなった汚く黄ばんだ白髪がはらはらとシーツに散らばる。
「もう満足したでしょ。何でここまですんのよ。」
ガンガンガン、ガリガリガリ。
「関口さん、他の患者さんの迷惑になるから静かにしてくれないかな?」
いつの間にか開いていたドアから看護師が顔を覗かせていた。くまの酷い目でそれを見て、私はうんと頷いた。が、足は止まってくれない。
「……ふぅ。また拘束かな。」
看護師はそう言って溜め息を吐くと、後ろに控えていた複数の看護師や医者と共に病室に入ってきた。私の足は拘束器具で固定され、動かせなくなった。
「また暴れたら今度は手もだからね。」
そう念を押されて、私はまた無言で頷いた。それを確認した看護師達は、病室から出ていってしまった。
「……はぁ。」
私は手に握ったままだったスマホをぼーっと眺めた。ついたままの液晶には、加藤さんとのDMの画面が表示されている。
「……。」
私がこんな風になってしまったのには訳がある。
『ありさちゃん、ストーリーみてくれたんですね!』
そんなDMが来たのが始まりだった。私が加藤さんのストーリーを見てしまったから、閲覧の部分に私が表示されてしまったんだと思う。
『やっと見てくれて嬉しいです!明日からもメンションするので良かったら見てください♪』
まるで何の悪気もないような文体の裏に潜んだ加藤さんの本性を私は分かっていた。私に見せ付けるためだけに、毎日私にメンションしてストーリーを載せているのだ。
昨日はレミ達との写真に『学校帰りのみんなに久しぶりに会ってきた!あの子どうしてるかなーって話で盛り上がった笑』という文字が添えられていた。一昨日は、夢架と彩奈とモモとのグループLINEのスクショ。今日はと言うと、また卯乃羽とのツーショットだった。加藤さんが卯乃羽に抱き着いて、それを鏡越しに撮ったものだった。
『大好きな親友♪』と書いてある。あ、一応付き合ってるってことは隠してるんだ。確かに傍から見れば、ただの仲良し過ぎる友達同士だ。
「……。」
ふつふつとお腹の底から熱いものが湧いてきた。あ、またこの感覚。卯乃羽と加藤さんのツーショットを見るたびに、この感覚に襲われるようになった。夢架やレミなど私のクラスメイトと加藤さんが仲良くしている様子を見ると、毎回のようにメンタルがバキバキに砕け散ってしまうような感覚になった。私は彼女達と友達になれなかったのに。私だけ、誰とも友達になれなかったのに。
もう、嫌。何も見たくない。なのに毎日インスタを開いてしまう。加藤さんのストーリーを、一つも欠かさず見てしまう。
「もう嫌、死にたい。」
ふと口に出したその言葉は、ずっと言わんとしてきた単語だった。ついに口から零れてしまったのがおかしくって、私はとち狂ったように一人で笑った。
「はははっ、はは……。」
指が勝手に動く。まるで全力疾走した後のように息が上がる。スマホの画面が地震のように大きく揺れる。
「……。」
Googleの検索欄に浮かんだその文字を見下ろして、私は今にも閉じてしまいそうな力の入らない瞼でゆっくりと瞬きした。
もう、何もかもが限界だった。
『自殺 方法』
ずらりと出てきた検索結果を一つ一つ見る余裕もなかった。私は咄嗟に1番上に出てきた項目を押す。
『子供用こころの健康相談ダイヤル』
もう深く考えることも出来ずに、私はそれをタップした。
『もしもし、こころの健康相談ダイヤルです。』
発信音の末、若い女性の声が出た。
『どうかされましたか?』
その柔らかい声色に、私は思わず泣き出しそうになった。
「……あの。」
びっくりするくらい声が震えた。私は何度も深呼吸をし、やっと言葉を発することが出来た。
「もう何もかも嫌で消えてなくなりたいです。」
今までどんなに辛くても誰にも弱音を吐かなかった私が、顔も名前も知らない相手にこんなことを打ち明けるなんてバカみたいだ。心の中でそう自嘲した。
『そうなんですね。こちらもあなたの力になりたいので、まずお名前を教えてもらってもいいかな?』
「……関口、亜莉紗です。」
『関口亜莉紗ちゃんね。関口、関口……ああ。』
何やら電話の向こうの女性はそう呟く。
『関口亜莉紗さんですね。担当の者に代わります』
「え、担当って……。」
その返事は返ってこなく、保留のメロディが流れてくる。
「担当の者」って誰なんだろう。そもそも何の担当?。
プツリ。保留のメロディが鳴り止み、私ははっとしてスマホを耳に近付けた。
『もしもし。』
スピーカーから、低い声が聞こえてくる。
「……っあ。」
私は思わず口を抑えた。何故か涙が溢れてきて止まらない。零れ出しそうになる嗚咽を必死に我慢して、私は目を瞑った。
『……久しぶりだね、亜莉紗ちゃん。』
佐藤聖羅のその声は、気味が悪いくらい優しい声だった。
がらりと病室のドアが開き、息を切らした佐藤聖羅が入ってくる。
「ごめん、待った?」
「いえ、まだ電話切ってから十分しか経ってないです。」
「ははっ……。全力疾走で来たからね。まー走ったのは私じゃなくて車なんだけど。」
佐藤聖羅はそう言うと、ドアを閉めてこちらに歩いてくる。隅の方に置いてあった椅子にどかりと腰掛けた。
「はー、エレベーター待てなくて階段で来たから疲れたぁ。」
そう言いながら、佐藤聖羅は私の方を見る。
「……思ってたより落ち着いてるみたいで安心したよ。」
そして少し苦しそうに笑った。
「……もう怒ってないんですか、この前のこと。」
私はそんな佐藤聖羅の顔を見れずに、自分の膝辺りのシーツを眺めながらそう尋ねる。はぁっと大きな溜め息の音が聞こえてきて、一瞬言わなきゃ良かったと後悔した。
「そうも言ってられないでしょ。まさか亜莉紗ちゃんから電話が来るなんて思ってなかったし」
「何であなたが出たんですか。あれ、子供用の自殺防止のためのダイヤルですよね。それに私の『担当』って……。」
「ずっと言ってたじゃん、私はあなたの『担当』なの。もっと言えば、『担当の魔女』なのよ」
そう言えばことあるごとに担当担当言ってたっけ。
「で、その『魔女』って何なんですか。」
「おおっと、それはまだ話せないな。先に私の質問に答えてくれる?」
佐藤聖羅はオーバーリアクションでそう言う。まるで芝居してるかのように手を私の方に突き出してくる。
「……質問に寄りますけど。」
「ま、私の質問に答えてくれないなら君の質問にも答えないまでだからね」
意地悪く笑いながら佐藤聖羅は言った。
「で、何なんですか。」
「君が自殺防止用のダイヤルに電話したってことは、『誰かさん』に精神的苦痛を与えられて辛いってことでいいんだよね?」
「……はい。」
私が頷いたのを見て、佐藤聖羅はしめしめと言わんばかりにほくそ笑む。
「うん。で、君はそいつらをどうにかしてほしいって思ったんだよね?」
「……はい。ほんとは私が消えれば全部解決すると思ってるんですけど……。」
「あーはいはい、そういうのいいから。君が消えられないなら、あいつらが消えてくれないと解決しないことだよね?」
「…………はい。」
「君は死ぬ必要ないんだよ。君は何も悪くない。何で被害者はずっと苦しむのに加害者はのうのうと生きていけるの?おかしいと思わないかい?おかしいんだよ、そしてそんな時代はもう古い。」
いつの間にか、目の前に佐藤聖羅の顔が現れていた。私は目を満月のようにかっ開いて、瞬きすらしない佐藤聖羅の目を凝視した。
「加藤玲亜達を処分しよう、亜莉紗ちゃん。」
にこり。そんな効果音が聞こえてきそうなほど清々しい笑顔だった。今にも崩れそうな積み木のようだった私の精神に、佐藤聖羅の言葉は甘すぎたんだ。
「……はい。」
涙で霞んだ視界で、佐藤聖羅は悪魔みたいな顔で笑った。
夕日が病室をオレンジ色に染めていた。そんな中、佐藤聖羅はずっとスマホを弄っている。
「……そう言えば加藤さん、退院したんですね。」
ふとそう呟くと、佐藤聖羅は顔を上げずに答えた。
「ああ。彼女、この前私達が行った後外出許可が出たんだよ。君の判断が遅かったから、危険人物から外されたんだよね」
「卯乃羽とプリ撮ったり、学校に遊びに行ったりしてました。みんな、私が暴力奮われても何とも思わないんだなって分かって、ちょっと悲しくなりました。」
自虐気味に笑う。夕日のオレンジが赤に変わり、焼けるように私の右頬を照らした。
「……彼女が退学した理由、学校側が隠蔽してるんだよ。
だから加藤玲亜は、他人に暴力を奮って辞めさせられたことを関根卯乃羽以外の生徒達に知られていない。何も悪くないってことになってるんだよ。……許せないでしょ?」
「みんな自主退学か何かだと思ってるんですね。……だからみんな普通に会ってたんだ。」
「私に暴力を奮ったと知った上で仲良くしている」ってわけじゃなかったんだ。……これは知れて良かったかも。でも。
「加藤さんは退学しただけで後は何も変わらない。友達も居るままだし、好きな人とも両思いになれた。」
喉の奥から硬くて重いものがせり上がってくるような感覚になった。それが涙として目からボロボロと零れ落ちる。
「私は何もかも失ったのに。学校生活も、友達も、大切だった人も、将来も、普通に過ごしてた日々も、全部失った。私はもう元には戻れないのに。」
「……亜莉沙ちゃんは、これから色んなものをまた手にすることが出来るよ。」
佐藤聖羅の顔が、半分だけ真っ赤に染まった。
「でも、彼女はもうこれ以上何も手にすることが出来ない。」
涙が滝のように流れ続ける私の頬を、佐藤聖羅が指で拭った。
「君には、これからたくさんの幸せが待ってる。だから……」
口角が勝手に下がる。私は我慢出来なくなり、嗚咽を漏らして泣き出した。
「私達の『仲間』になってよ、亜莉沙ちゃん。」
止めどなく流れる涙を飲み込みながら、私はゆっくりと大きく頷いた。
この時、もうとっくに壊れてしまった私の心に寄り添ってくれたのは、佐藤聖羅だけだったから。
私は、佐藤聖羅の「仲間」になることを決意した。
めっちゃ良かった!
小説出せると思う!
夜中の3時だけどずっと読んでましたぁw
>>181
ありがとうございます!とても嬉しいです🥲🥲
「亜莉紗ちゃん、今日の体調はどうだい?」
翌日、朝一番に佐藤聖羅がやって来た。私は朝食を食べている最中だった。まだ八時なんですけど。
「まぁまぁです。処方された薬飲んだら気分も落ち着きました。」
「あー、そう言えばそうだったね。」
佐藤聖羅は少し気まずそうに視線を泳がせた。
「『鬱病』って、診断されたんだっけ。」
カチャン。お箸をお盆に置いて、私は黙り込んだ。そんな私を見て、佐藤聖羅は慌てた様子で私の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ!私だってこう見えて色々あるし!誰だってなっても仕方ないものなんだから!」
わははと軽快に笑う佐藤聖羅。
「……ずっと気になってたんですけど、佐藤さんってもしかして男の方なんですか。」
ぼそりと呟くように尋ねる。佐藤聖羅は笑顔のまま固まり、笑い声もぴたりと止めてしまった。
「…………バレてたんだね。」
そして、どこか寂しそうな目をして、苦しそうに笑った。
「そう。私は男。体も、心も、正真正銘の男だよ。」
真っ白な朝の日差しが病室を明るく照らす。背中がじりじりと熱くなるのを感じながら、私は佐藤聖羅のお腹辺りに視線を固定した。
「じゃあ何でこんなカッコしてるのって思うよね?……好きな人が、可愛い女の子が好きだったからなんだよね」
「それって。」
「そ。私は同性の友達が好きだったんだ。だからその子の好みの女の子になるように、髪を伸ばしてメイクを覚えて服もレディースの物を買い揃えた。まぁ、それでも彼は振り向いてくれなかったんだけどね」
佐藤聖羅は茶色の髪の毛をくるくると長い指に巻き付けながら喋る。
「……心が女の子だとか、女の子になりたいとか、そういうわけじゃなかったんだ。ただ好きな人の好きな人になりたいってそれだけだったのに、気持ち悪がられてみんなにいじめられたよ。」
こんな寂しそうな目をして話す佐藤聖羅を初めて見たから戸惑いを隠せなかった。いつもヘラヘラしてて、でもたまにすごく怖くて、本当は何を考えてるのか分からない人だと思ってた。簡単に人を殺そうと言うような人だから、自分は悲しいとか、苦しいとか、そういう感情を抱かない人なのかなと思ってた。でも今の佐藤聖羅の表情を見たら、そうじゃないってことが分かる。もしくは、そうなってしまったのには、深い理由があったのかもしれない。
「……ま、私顔も可愛かったしスタイルもいいし、可愛い格好しない方がもったいないでしょ?だから失恋した後もハマっちゃったのよね〜」
そう言いながらモデルみたいにポージングを決める佐藤聖羅。それを見て、私は思わずくすりと笑ってしまった。そんな私を見て、佐藤聖羅は苦笑した。
「ごめんね、亜莉紗ちゃんも友達との恋愛絡みでこんなことになっちゃったのにね。ま、だからこそほっとけなかったって言うのはちょっとはあるかな」
佐藤聖羅は顎に着けていたマスクを鼻の上まで被せる。
「ほんとはあんまり良くないの、本人が望んでないのに無理矢理説得して処分しようとするのは。まぁ、その話はまた後でするけど。
亜莉紗ちゃん、ご飯食べたら出掛けられる?今日は亜莉紗ちゃんに会わせたい人が居るんだ。」
「私に会わせたい人……?。」
「そ。実はね、この一週間で、もう一人私が受け持った子が居るの。」
私はチャウダーをスプーンで口に運びながら首を傾げた。
「君と同い年の女の子なんだけど……」
「同い年の……。」
「そ。君と同じような境遇だったから心配しなくていいよ。もしかしたら友達になれるかもね?」
一瞬胸が高鳴った。
私と同じような目に遭った同い年の女の子に会えるんだ。
……ちょっと、楽しみかも。
電車に揺られて三十分ほど。私と佐藤聖羅は、一軒のアパートに辿り着いた。
「はー、やっぱ車呼べばよかったかな?」
そう言いながら、ボストンバッグをずるずると引きずるようにして階段を上っていく佐藤聖羅の背中を追い掛ける。
「よいしょっと。あ、そこ壊れ掛けてるから気を付けて」
その時私が踏もうとした段は、よく見ると老朽化が進んでいてヒビが入っていた。
その段を飛ばして上っていくと、佐藤聖羅は一室の前でポケットをまさぐっていた。
「ここ私の家なんだー。ボロっちくてごめんね?」
そう言いながらポケットから鍵を取りだし、古びた鍵穴にそれを差し込みぐりぐりと回す。がちゃりと音がし、ドアが開いた。
「ただいまー」
そう言いながら先にボストンバッグを玄関に放り込み、佐藤聖羅が家の中に入っていく。私も恐る恐る足を踏み入れた。
「お邪魔、します……。」
ギィィと低い音を立ててドアを閉め、鍵も閉める。少しカビ臭い空気が鼻をかすめる。
「散らかっててごめんね?」
「いえ……。」
ビールやらチューハイやらの空き缶が詰め込まれたビニール袋がそこらに転がっている。そんな廊下を歩いていくと、狭っ苦しい小さな部屋に辿り着く。その部屋の隅の方に、女の子が座っていた。
「やっほ、待った?」
佐藤聖羅がそう言うと、その女の子は顔を上げて、
「いえ……!」
首を横に振った。
「……わぁ。」
私は思わずその子に見蕩れてしまった。
つやつやの黒い髪の毛が真っ先に目に入った。その次に、ぱっちりと大きな、でも切れ長気味の、豊富な睫毛に包まれた目。溶けて消えてしまいそうなほど白い肌に、少し赤らんだ桜色の頬。お人形みたいだ。
「あ、あなたが関口亜莉紗さん……?」
名前を呼ばれてはっとする。その子は優しい目で私を見上げていた。
「はい、あなたは……。」
「私は弓槻ゆずはです。あなたと同じ、聖羅さんにクラスメイトを売った者です。」
「あ、よろしくお願いします……。」
「売った」?。その言葉にふと違和感を感じたけど、私が軽くお辞儀をすると、弓槻さんも律儀に返してくれた。
「同い年だしタメでいいかな?亜莉紗ちゃんって呼んでもいい?」
少し恥ずかしそうに笑いながら弓槻さんはそう言う。
「あっ、は……うん。私もゆずはちゃんって呼ぶね。」
「何かもどかしいなー、君達を見てると」
そんな私達のやり取りを眺めながら、佐藤聖羅は冷蔵庫を漁っていた。
「今日は大事な話をするために二人を集めたんだから、仲良くするのは後でね!」
そう言いながら冷蔵庫を閉め、手にビールの缶を持ちながらこちらに来た。
「さて……」
私達は三角形を描くようにして座り向かい合った。
「これから君達はどうするのか、一緒に話し合おうか。」
小説の途中ですが宣伝させてください!
このスレに載せていた小説を修正したものをこちらに載せています!今更新している話も少しずつ修正してこちらに載せていきます。
このスレは下書きみたいなもので、誤字脱字を修正したり文を付け足したりしているので、ぜひこちらも読んでくださると嬉しいです!
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
「これからどうするか……?」
ゆずはちゃんが小首を傾げる。佐藤聖羅はカシャリと爽快な音を立ててビールのタブを開ける。
「そ。君達が本当に心から傷付けられたと思った人の名前を改めて聞こうと思ってね。あ、その辺にあるジュース飲んでいいよ、冷えてないけど」
佐藤聖羅が指差した先には、カップ麺やらコンビニ弁当やらのゴミに埋もれたペットボトルがあった。……遠慮しとこう。
「あとはどうやって処分するかを軽く説明しとこうかな。私はなるべく自分の手で人を殺/すことはしたくないんだよね。だから手っ取り早く爆弾使ってドカーンとやりたいんだけど……」
ビールを一口飲んで、佐藤聖羅はふうっと溜め息を吐く。
「それをやるにも色々許可を貰ったりしなくちゃいけなくて面倒なんだよね。あと二年もすれば売られた子を処分するための専用の施設の設備が整うらしいけど、それまで待ってもらうわけにもいかないし」
「それじゃあ、やっぱりみんなを消してもらうのは無理なんですか?」
ゆずはちゃんがそう尋ねると、佐藤聖羅は少し不機嫌そうな顔になる。
「人の話は最後まで聞こうね、ゆずはちゃん。」
じろりと睨まれて、ゆずはちゃんは「すみません……」と小さな声で呟いて俯いてしまった。
「ゆずはちゃん。まずは君に訊こう。
君が売ったのは、井口サトミら42名のクラスメイト全員……だよね?」
ゆずはちゃんはこくりと頷く。
「うん。で、亜莉紗ちゃんは、今回の事件に関わったクラスメイト達――加藤玲亜、関根卯乃羽、澤井夢架、高橋綾奈、松下モモ、川嶋レミ。そして川嶋レミの友人二人だね?」
私は俯きながら頷いた。
「うん。早速だけど、二人まとめて明日決行しようと思ってる。」
そう言って佐藤聖羅は交互に私とゆずはちゃんの顔を見る。
「明日、ゆずはちゃんは家庭科の時間を狙って、亜莉紗ちゃんは学校の教師と協力して全員を一つの教室に纏めて決行する。加藤玲亜も何か理由を付けて学校に呼び出すつもりだ。そこで教室一つが消し飛ぶ程度の威力の爆弾で仕留める。」
「教師、に……。」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
教師は、生徒達が死ぬって言うのに協力してくれるってことなんだろうか。
そんなの有り得るのかな。だって校内で人が死んだら大問題だ。それに人が死んでも黙認するって言うの。むしろ佐藤聖羅と協力するなんて、殺人に加担するみたいだ。
「……思うことは色々あるだろうけど、深く考えないでよ。時期に分かるから。」
佐藤聖羅はビールを一気に飲み干しながらそう言った。
「じゃあ、そういうことだ。
明日、君達の人生が大きく変わる。今まで苦しい思いをしてきた分、これからは救われて幸せが訪れるよ。」
にこりと笑った佐藤聖羅が立ち上がる。私とゆずはちゃんは、そんな佐藤聖羅を見上げてから顔を見合せた。
「話は終わりだ。また連絡するよ。気を付けて帰ってくれ」
「あ、はい……」
私とゆずはちゃんは立ち上がって、玄関に向かう佐藤聖羅を追い掛ける。
「あ、亜莉紗ちゃんはそのボストンバッグも持ってってね」
「え。」
「君、今日で退院だから。」
「えっ……。」
何それ、そんなの聞いてない。
「まぁ、でも帰っても荷物はそのままにしといた方がいいと思うよ。」
「?。」
その言葉もよく理解出来なかったけど、私はボストンバッグを抱えて玄関に走った。
「じゃあね。」
一礼して、佐藤聖羅に見送られて、私とゆずはちゃんはアパートを後にした。
しばらく無言で歩いていたけど、ゆずはちゃんは「あの」と小さな声で切り出した。
「亜莉紗ちゃんがどんな経緯で佐藤さんに頼んだのか分からないけど、……お互い幸せになれるといいよね」
悲しそうな顔ではにかむゆずはちゃん。私はその顔を見て、ゆっくりと頷いた。
「最初は人を殺させるなんて考えられないと思ってたけど、やっぱり無理だった。あの子達と私が共存するなんて不可能だって分かったんだよね。」
「それ、分かる。みんなが消えるか、私が消えるか、どっちかじゃないと絶対無理だった。」
ゆずはちゃんの黒髪が風に靡く。
「そして、私はみんなが消える方を選んだ。」
その瞬間、びゅうっと風が強くなった。
夕日が、重たく眩しい。
「……あ。」
今、一瞬だった。靡いたベージュの髪の毛が、一瞬だけ視界に入った。
どこかで見たその色と形状に、私は思わず足を止めた。が、振り返ることは出来なかった。
だって。だって、その髪は……。
「……亜莉紗?」
背後から名前を呼ばれ、私の体は石のように硬直してしまった。
それでも振り返れなかった。
「……レミ。」
ただ、私はその名前を口にした。
微風が私の頬をくすぐった。ゆずはちゃんが、私とレミを交互に見ている。
「亜莉紗!お前入院したって聞いたけど大丈夫なのかよ?」
背後から、レミがそう訊いてくる。私は震える手をもう片方の手で抑えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……もう、退院したから。」
小さな声でそれだけ言った。声も馬鹿みたいに震える。
「そっか。じゃあ明日から来いよ。みんな待ってるから」
「……そんなの嘘。」
即座に私はそう言う。否定されたのが癪に触ったのか、レミの声色が変わる。
「嘘って何だよ?」
レミのイラついた声に、私の心臓はバクバクと心拍数を上げた。
「みんな心配してんだよ!夢架も綾奈もモモも!」
「そんなの信じない。」
あの三人が、私の心配なんてしてるわけないじゃない。
嘘だと知りながら、加藤さんに指示されて私が卯乃羽に告白したってことにしたあの三人が。
「……卯乃羽が誰より心配してんだよ!」
「……。」
一瞬の静寂。私は口を開けたけど、声は出なかった。
「卯乃羽は、最近ずっと暗い顔してんだよ。やっと学校来れると思ったら亜莉紗が居なかったからなんじゃねーの?」
レミの言葉に、私は口を噤んだ。
「……あんな言い方しちゃったけど、亜莉紗が卯乃羽を好きでも卯乃羽は困ったりしてないから。卯乃羽が好きなら、卯乃羽のそばに居てやれよ!」
レミのその言葉が、深く深く心臓に突き刺さった。
「……何、それ。好きなくせに、そばに居てくれなかったのは卯乃羽の方でしょ。」
わなわなと体が震える。今にも涙が零れてきそうだった。
「何で一番辛かった時にそばに居てくれなかったのよ!。」
自分でもこんなに大きな声が出るんだとびっくりした。
どこかの家から、カレーの匂いがする。ざわざわと木の葉が擦れ合う音がする。
「……亜莉紗。良くなったんならまた学校来てよ。……それと」
ゆっくりと振り返る。何故か、今振り返らないといけないんじゃないかと思った。
「誕生日、おめでとう。明日だったでしょ?」
レミはそれだけ言って、にこりと笑った。そして振り返ると、小走りに歩いて行ってしまった。
……そうだ。偶然にも、明日は私の誕生日だったんだ。
がくんと膝から崩れ落ちる。そしてぼそりと何かを呟く。
「亜莉紗ちゃん?」
ゆずはちゃんが、そんな私の肩を持つ。
「……私、やっぱり出来ない……。」
さぁっと血の気が引いていく。
「やっぱりレミを殺/すなんて出来ない……。」
ガァガァとカラスが飛び去っていく。
ボストンバッグみたいに重苦しい夕焼けが、沈んでいく。
「私、何てことしようとしてたんだろう。」
目の前に今も同じことをしようとしているゆずはちゃんが居るって言うのに、私はそう呟いて地面を叩いた。膝がコンクリートに擦れる。赤い血が皮膚を破るようにして滲み出る。
「消えるべきなのは、私を傷付けたのは……レミじゃない。レミ達は関係ない。」
ぐっと手の中にある砂利を握り締めた。
黒く変わっていく空を見上げて、私は決心した。
家に着いてすぐ、私は佐藤聖羅に電話を掛けた。
「もしもし……っ。」
『おっ、亜莉紗ちゃん、どうしたー?』
スマホのスピーカーから、呂律の回っていない佐藤聖羅の陽気な声が聞こえてくる。……完全に酔ってるな。私は震える手で必死にスマホを掴みながら、
「あのっ、さっきはあんな風に言っちゃったけど、取り消させてください。」
泣き出しそうな声でそう言った。
『……それは、どういうことかな?』
佐藤聖羅の声色が変わる。また怒らせてしまうんじゃないかと思ったけど、言わなかったら絶対後悔すると分かっていたから、私は喋り続けた。
「やっぱり、私はレミを殺/すなんて出来ません。レミは加藤さんが吐いた嘘を信じただけで、何も悪くない。
処分されるべきなのは、加藤さんと夢架達だけです。」
『ふぅん……。今名前は出なかったけど、関根卯乃羽はどうなんだい?全ての諸悪の根源だろう?』
「……卯乃羽は。」
唇を噛み締めて、私は自分の指先を見た。
「……卯乃羽も、処分されるべきじゃないです。」
喉の奥が締め付けられるような感覚になった。涙がせり上がってくる。
『……それが、君の答えなんだね?』
佐藤聖羅は、静かな声でそう言った。
「……はい。」
涙が止まらない。私は鼻を大きく啜って、目を瞑って顔を上げた。
「卯乃羽も、やっぱり大切な友達なんです。」
やっぱり、卯乃羽を処分するなんて出来ない。確かに私があんな目に遭って、精神を病んでしまった原因は、元を辿れば卯乃羽だった。でも。
「卯乃羽は、やっぱり殺せないよ。」
裏切られても、やっぱり卯乃羽は大切な友達だったから。
涙が出そうになるのを必死に堪えて、私は大きく深呼吸をした。
『分かった。君がそう言うなら、川嶋レミ達と関根卯乃羽は対象から外すことにする。確かに、直接危害を与えたわけでもないのに処分するのもおかしなことだからね。』
「……はい。」
『話はそれだけかな?色々準備をして疲れたから寝たいんだ。』
「はい、すみませんでした。……ありがとうございます。」
『うん。明日、必ず君を救ってあげるからね。』
佐藤聖羅はそう言うと、大きな欠伸をして電話を切った。
私はぎゅっとスマホを握り締めた。スマホの微熱が指の中に伝わってくる。
「……私も」
私も、明日学校へ行こう。
翌日。私は久しぶりに制服に腕を通した。
アイロンを掛ける時間と気力がなかったからシャツはしわしわだ。ネクタイも上手く結べなかった。スカートも変な折り目がついている。
酷い格好だけど、せめて髪の毛だけでも綺麗にしよう。私は白金になった髪の毛にアイロンで熱を通した。
「……行ってきます。」
誰も居ない家に向かってそう呟き、私はドアを閉めた。
学校に向かう途中、私の心臓は踊り狂いっぱなしだった。心臓が胸を突き破って飛び出してきてしまいそうだった。
今日は、一時間目は体育だ。レミと卯乃羽と被っている。二人と顔を合わせることになるかもしれない。
「……やっぱり休めば良かったかな。」
でも、家でただ待ってるだけなんて出来ない。
そうだ、佐藤聖羅はいつ決行する予定なんだろう。「今日」とは言ってたけど、詳しい時間や場所は教えてくれなかった。
……教室一つが消し飛ぶのか。その中に、加藤さんや夢架達が入っていて、四人は……。
……人が死ぬのを分かっていながら、その現場に立ち会わそうとするなんて、私もおかしいのかな。佐藤聖羅はおかしい人だと思ってたけど、案外私もどこかがおかしいのかもしれない。
「だから、私は佐藤聖羅の仲間になろうなんて思ったのかもね。」
自虐的に笑うと、ふわりと風が吹いた。私は横断歩道を渡りながら、込み上げてくる感情をぐっと押し殺した。
「……え。」
学校に着いて、私は呆然と立ち尽くした。
「何で……。」
校門が閉まっていた。そして、校門に張り紙が貼ってあった。
『本日は休校です。』
「どういうことなの……。」
私はスマホを取り出して学校のホームページを見た。
「あ。」
ホームページのトップに、『臨時休業のお知らせ』の項目があった。
「……まさか。」
私はLINEを開いて、佐藤聖羅に電話を掛けた。
数回呼出音が鳴り、佐藤聖羅はすぐに出てくれた。
『もっしー?あ、亜莉紗ちゃん?』
「あの、今学校に来たんですけど、休校ってもしかして……。」
『そうだよーん、一日で処分して片付けもするって約束で今日だけ特別に休校にしてもらったんだよーん』
「え、あの、じゃあ、もう……。」
『落ち着きなよ。まだこれからだから。せっかく来たんだから亜莉紗ちゃんもおいでよ?校門開けたげる。待ってて』
心臓が再び暴れ出す。これから。これから加藤さん達は死ぬんだ。……私のせいで。……私の、目の前で。
「やっほ!」
校舎から佐藤聖羅が出てきて、慣れた手付きで校門を開けてくれた。
「いやー、まさか来てくれるなんて思ってなかったよ!あ、休校になったの知らないで来ちゃったのかな?」
私はこくりと頷いた。
「そっかそっか。でも良かった、これから君も同じことをするんだから、目に焼き付けといてもらわないとね」
「?。」
「ああ、まぁいいや。さ、行こう。もうみんな集まってるから。」
佐藤聖羅に腕を引っ張られて、私は校舎の中に入った。
階段を一段上るのがこんなに苦痛だなんて。まるで足を誰かに押さえ付けられてるみたいだ。一段上がるだけで息が切れそうになる。
そんな私を数段先から見下ろして、佐藤聖羅はにこりと笑う。
「ちょっとだけ休憩しよっか、亜莉紗ちゃん。」
「うわぁ、さっきから思ってたけどこの学校結構汚いね……」
佐藤聖羅は廊下の隅に転がっている虫の死骸を見て顔を顰めた。
「私汚いところ苦手なんだよね!どっか綺麗な教室とかってないの?」
あなたの家も結構汚かったですよね……と言い掛けたけど、私はそれをぐっと飲み込んで、
「食堂なら綺麗かも……。」
「おし!じゃあ食堂に行こー!」
私達は、食堂で一回休憩することになった。
食堂に着くと、佐藤聖羅と私は一つの机に向かい合うようにして座った。
「ふぅ。実は二日酔いで体調悪いんだよね〜……」
佐藤聖羅はそう言いながらぐったりと机に寝そべった。
「しかも夜通し準備してたから寝てないし。でもあんまり待たせたら怪しまれちゃうかもしれないしなぁー……」
佐藤聖羅はそう言いながら大きな大きな欠伸をする。
「退学した加藤玲亜まで呼び出されるなんて、彼女達は自分がしたことが原因で呼び出されたんだって薄々気付いてるだろうしね。あんまりゆっくりは出来ないけど……」
そう言いながら、佐藤聖羅は寝そべったままちらりと私を見る。
「亜莉紗ちゃん、やっぱり立ち会うのはやめとくかい?」
「……私は。」
「離れたところでもいいから見ていてくれた方が、君のためにもなる。爆弾って言っても、威力は最低の物を用意したから君が巻き込まれる心配もないからね。」
「……。」
黙り込んでしまった私を見て、佐藤聖羅はやれやれとでも言いたげに体を起こした。頭の後ろで手を組みながら、気だるそうにまた欠伸をする。
「そろそろ行こうか、さっさと終わらせた方が君も楽だろう?」
佐藤聖羅はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。私も一足遅れて立ち上がる。
重たい足取りで食堂を出て、階段を上って、三階に着いた。
「あそこの教室だから。」
そう言って佐藤聖羅が指差したのは、私が加藤さんに暴行されたあの教室だった。
「じゃあ、私は行ってくるから。亜莉紗ちゃんはここで見てて。」
私が頷く前に、佐藤聖羅は小走りにあの教室に向かって歩いていく。私はストンとその場にしゃがみ込んで、口を手で抑える。
涙が溢れてくる。悲しいのか、悔しいのか、嬉しいのか、苦しいのか、自分が今抱いてるこの感情が何なのかが分からなかった。それが堪らなく気持ち悪かった。
「でも、やっと。」
やっと、わたしの苦しみは終わるんだ。
やっと私は解放されるんだ――
次の瞬間、体が大きく揺れた。
と同時に、鼓膜を突き破るかのような大きな音。
「……!。」
あの教室のドアがビリビリと何度も振動する。ガラスは真っ黒に染まり、少し距離を置いた場所で佐藤聖羅が立っていた。
「やっ、たの……?。」
私は瞬きもせずにあの教室を見た。
「……ははっ。」
乾いた笑いが、ウインナーみたいな形をした口から漏れた。
「はは、はははっ、はは……。あ。」
その時、胸ポケットに入れていたスマホが振動した。
「え……。」
驚いてスマホを取り出し、ホーム画面を見る。
「え。」
そこに表示されていた通知を見て、私は固まった。
「何、で。」
画面には、卯乃羽からのLINEの通知が表示されていた。
『ありさ、おたんぎょうひおめたとう』
「何、で……。」
私はスマホの画面を見ながら愕然とした。何でこのタイミングで卯乃羽からLINEが来たの。爆発してすぐ、どうして。
「ただの、偶然……?。」
私は震える指でその通知をタップした。
ありさ、おたんぎょうひおめたとう……亜莉紗、お誕生日おめでとう?
「う、卯乃羽……?。」
私は首を動かして教室の方を見た。相変わらず中は真っ黒で見えない。佐藤聖羅が誰かと電話をしている。
と、その時。卯乃羽とのトーク画面に、新しいメッセージが表示された。
「!。」
そこに表示された文字を見て、私は目を見開いた。
「『すき』……?。」
その文字を見た瞬間、弾き飛ばされたように体が勝手に動き出した。私は廊下を走った。そして佐藤聖羅の肩を掴む。
「どうかした?亜莉紗ちゃん」
佐藤聖羅は電話を切って、不思議そうな顔で私を見る。
「あの、あの、今、卯乃羽からLINEが来て……。」
ぶるぶると震える手でスマホの画面を佐藤聖羅に見せる。
「ずっとLINEなんて来なかったのに、何でこのタイミングで来たのか分かんないんですけど……。」
「へぇ、亜莉紗ちゃん今日誕生日なんだ!お誕生日おめでとう!」
「いや、そうじゃなくて……。」
「あ、こっちでーす!」
佐藤聖羅は私の話を聞かずに、階段から現れた数人の男性に手を振る。まるで消防隊のような服装で、担架を二人がかりで持っている。
「もう入っても大丈夫だと思いまーす」
佐藤聖羅がそう言うと、消防隊員達は佐藤聖羅に一礼して、教室のドアを工具でこじ開ける。
中から黒い煙が溢れ出す。
「あんまり見ない方がいいかもね。」
そう言って、佐藤聖羅は私の体を窓の方に向けた。
ガチャガチャという音と、消防隊員達の掛け声のような声が聞こえる。窓のガラスには、薄らと担架で運ばれていく何かが映っていた。
「……あのー」
しばらくして、一人の消防隊員が、私の肩を持ちながら一緒に窓の方を向いていた佐藤聖羅に話し掛けてきた。
「聞いてた話より一人多いみたいなんですけど……」
「え?」
佐藤聖羅は目を真ん丸にして振り返る。
「予定では、四人でしたよね?」
「はい、そうですけど……?」
「中に、五人いたんですよ。」
「え……っ!?」
佐藤聖羅の顔が真っ青になる。私も、全身の血がサーっと抜けていくのを感じた。
まさか。まさか。まさか。
「すぐに救出して!」
佐藤聖羅が怒号を飛ばす。
「早く!」
消防隊員は慌てて教室の中へ入っていく。
「担架持ってきて!早く!」
そんな声が、真っ黒な教室の中から聞こえてきた。
「嘘……。」
私は廊下の手すりを握って座り込んだ。足にも腕にも力が入らない。
「嘘、ですよね。」
そして、ゆっくりと顔を上げて、佐藤聖羅を見上げる。
「私、頼んでませんもん。」
呆然と教室を見詰める佐藤聖羅の綺麗な横顔が霞む。
「卯乃羽は、違いますもんね。」
バタバタと担架を抱えた消防隊員が戻ってくる。そして教室の中に駆け込んでいく。
「だから……。」
私はゆっくりと教室の方を見た。
「何で……。」
二人の消防隊員が、担架を持って教室から出てくる。走っていく消防隊員達の後ろ姿を見詰めて、私は声にならない声を漏らした。
一瞬だけ、スマホを握った血にまみれた手が見えた。
あれから一年の月日が経った。
今でも、あの日のことを考えない日はない。
せっかく入れさせてもらった大学も、すぐに辞めた。
だって、卯乃羽は未来を奪われたのに、私だけ大学生になるなんて、おかしいでしょ。
「卯乃羽。」
ガラガラとドアを開け、病室の中に入る。
「今日はすごく天気がいいよ。カーテン開けよっか。」
私はそう言って、窓のカーテンを開ける。真っ白な太陽の光が射し込んでくる。
「……私ね、今度魔女になるんだ。」
振り返って、ベッドの角を見る。
「卯乃羽をこんな姿にしたあの人と同じ『魔女』に、私もなるんだよ。」
じんわりと目の奥が熱くなる。ゆっくりと顔を上げて、たくさんのチューブに繋がれたその体を見る。
「……ごめんね、卯乃羽。」
私はそう呟いて、机の上に封筒を置いて病室を出た。
あの日の爆発に巻き込まれて、卯乃羽は大怪我を負った。何とか一命は取り留めたけど、脳に重い障害が残ってしまった。一年経った今でも、とても人と会話を出来るような状態ではない。
あの日、どうして卯乃羽が教室に居たのかは結局分からなかった。けど、佐藤聖羅は、私達が食堂に居る間に、閉め忘れた校門から入ってきてしまったんじゃないかって言ってた。LINEの履歴を見たら、加藤さんが卯乃羽を呼び出したやり取りが残っていたらしい。
佐藤聖羅は、その後「売られてない無関係の人を巻き込んだ」として、魔女の権利を剥奪されたらしい。午後、ゆずはちゃんのクラスを処理した後、どこかへ連れて行かれてしまった。あの日から、佐藤聖羅とは連絡が取れていない。
それから、私はすぐに施設に入れられた。半年の間、魔女になるための訓練をした。ゆずはちゃんも一緒だった。
佐藤聖羅からきちんと説明を受けないままクラスメイトを売った私達は、この先のことを聞いてショックを受けた。まさか今度は、自分が他人が売った人達を処分することになるなんて。
厳しい訓練を受けている間も、私はずっと後悔に溺れて生きていた。
爆発の直後に届いた卯乃羽からのLINE。きっと意識を失う前、最後の力を振り絞って私に送ったんだろう。
そして、きっと、卯乃羽は、私を守るために加藤さんと付き合ったんだ。加藤さんと付き合えば、もう加藤さんは私に危害を加えようとしない。きっと卯乃羽はそれを分かっていて、わざと私を突き放したんだ。
「……そうだよね、卯乃羽。」
そう訊いたこともあったけど、卯乃羽は焦点の合わない目で天井を見上げるだけで、答えてはくれなかった。
「……あなたが戸川水純ちゃんだね。」
「はい……。」
私が初めて受け持ったその子は、とても内気でおどおどしている子だった。
どうやら、学校中の生徒に虐められているらしい。私と目も合わせようとせず、腕には自傷行為をしたのか、薄汚れた包帯が巻かれている。彼女が今までどんな目に会ってきたのか、それを見れば一目瞭然だった。
この子も、いずれ魔女になるんだ。私みたいに、何も知らないまま。ただ救いを求めていただけなのに、最後はただの人殺しになってしまうんだ。
「……私が、あなたの魔女になる、関口アリスです。」
そう思いながら、私は口元に微笑を浮かべた。あの人の表情を真似をするかのように。
「……これから、よろしくね。」
-番外編 END-
番外編も面白かったです〜!!お疲れ様です〜!!質問なんですが続きや違う作品を書く予定ってありますか、、?
195:るるの:2021/09/29(水) 18:03 >>194
ありがとうございます!
今第二章みたいな感じで本編から一年後の話を書こうと思っています!
だらだらした小説なのに最後まで読んでいただけて嬉しいです……!
>>195
いえいえ〜、!
続き楽しみにしてます!!🙌
第二章を書いていこうと思います。本編から一年後の話です。
↓この小説の誤字などの修正、話の追加などをした小説です。良ければ合わせてお読みください。
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
カタカタカタカタ。
「……うるさ」
カタカタカタカタ。
「……うるさいなぁ」
カタカタカタカタカタ……。
「うるさいっつってんだろ!」
私は思いっ切り壁を蹴り飛ばした。踵に鋭い痛みが走る。おかげで目が覚めてしまった。
「せっかく寝てたのによー……」
ぼさぼさの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き毟りながらゆっくりと体を起こす。カーテンの隙間から真っ白な太陽の光が差し込んでくる。
「……朝かー」
ぼーっとしながら窓の外を眺める。
いつもこうだ。私は毎朝あの音を目覚まし代わりに起きている。
「お母さん、おはよー」
大きな欠伸をしながらリビングに出ると、お母さんがキッチンで目玉焼きを焼いていた。ベーコンの香ばしい匂いがリビング全体に広がっている。
「お腹空いたぁー」
そう呟きながら食卓に座ると、
「こころちゃん、先に顔洗ってきなさい」
すぐさまお母さんがそう叫ぶ。
「へいへい」
めんどくさいなぁ、と思いつつも、私は立ち上がって洗面所へ向かった。
顔を洗って化粧水と乳液を付けてリビングへ戻ると、お母さんが手招きしてくる。
「なに?」
駆け寄っていくと、お母さんがそっと耳打ちしてきた。
「これ、お兄ちゃんの部屋まで運んでくれない?」
そう言って朝食が並べられたお盆を押し付けられる。
「はぁ?何で私が?」
「ね、お願い!昨日ちょっと口喧嘩しちゃって気まずいのよ。今日だけでいいから!」
「やだやだ絶対無理!あいつキモイもん!」
「お兄ちゃんに向かってそんなこと言わないの!」
「お母さんだってあいつにうんざりしてるから口喧嘩なんかしたんでしょ!」
お母さんは、普段は絶対誰かと言い争ったりしないのに。
「……いいから。ほら、手離すよ」
「わわ、っちょ」
私は反射的にお盆を持った。お母さんはほんとに手を離したから、あと少し遅れてたら床にご飯が散らばってたところだった。せっかくお母さんが作ったご飯なのに。あいつは自分で取りにすら来ないんだ。
「……分かったよ」
私は短い溜め息を吐いて、ぺたぺたと廊下を歩いた。
兄の部屋の前に立つと、あのカタカタと言う音がよりはっきりと聞こえてくる。
「入るよー」
ノックもせずに足でドアを開ける。すると途端にあの音は止まってしまった。
「うえ……」
ホコリ臭い空気が立ち込めた部屋に片足だけ突っ込む。
「朝ごはんだって。」
電気も付いてない、シャッターも開いていない真っ暗な部屋。ダンボールや漫画本などが散らばった床。その奥にはぼんやりと光を放つパソコンのモニターと、その前に座る猫背でストレートネックな醜い兄。
「ねぇ、聞いてんの?」
パソコンの前に座って、こちらに背を向けている兄にイライラしてくる。私はわざとらしく足踏みをした。それでも兄はだんまりだった。
「お前さー、せめて自分で取りに来いよ!」
私はそう叫んでがちゃんと音を立てて床にお盆を置いた。
「さっさと出てけよクソゴミ野郎が」
私はそう吐き捨てて勢い良くドアを閉めた。
「きめーんだよ……」
言い表しようのない不快感に胸がムカムカしてきた。本当に意味が分からない。視界に入れたくないから部屋からは出てこないでほしいけど、うちからは出てってほしい。
まじでムカつく!
私の名前は美沢(みさわ)こころ。ごく普通の中学二年生だ。
別に普段からこんなに荒んだ性格をしているわけじゃない。これにはちゃんと原因があるのだ。
私の兄は、引きこもり――いわゆるニートだ。
中学生の頃からクラスで浮きまくりだった兄は、高校でも浮きまくり大学受験にも失敗した。そして就職活動もせず、高校を卒業してからはずっと部屋に閉じ籠っている。
毎日毎日、朝寝て夕方起きる生活。起きている間はどうやらオンラインゲームやネット掲示板に張り付いているらしい。兄と私の部屋は隣同士だから、嫌というほどキーボードを叩く音が聞こえてくる。
いじめられたせいか元々なのか知らないけど、兄は異常なほど他人を恐れている。さっきみたく私が部屋に入ったり部屋の前を通ったりすると途端にキーボードを叩くのをやめる。「遊んでませんよ」アピールなのかもしれないけどバレバレだ。四六時中パソコンを弄ってるのが恥ずかしいって自覚があるならちょっとは離れればいいのに。
そして私が一番腹が立つのは、あいつは自分より弱いと見なした人に対しては強く出ようとするところだ。あいつはお母さんに対してだけ明らかに当たりが強い。体格のいいお父さんと気の強い私からこそこそ隠れるストレスを全てお母さんにぶつけようとしてる。きっと昨日の口喧嘩の原因も、兄が先に暴言を吐いたからに違いない。
お母さんは「大丈夫」って顔をしてるけど、大丈夫なわけない。何で何も悪くない、むしろ迷惑掛けられてるお母さんが我慢しなくちゃいけないの?あいつが家から出てけば全て解決するのに!
「行ってきまーす」
お母さん特製の目玉焼きとトーストを平らげて歯を磨き、学生鞄を掴んだ。
「行ってらっしゃい」
お母さんが見送りに来てくれる。
「今日も学校楽しみだなぁー」
私は兄の部屋の前を通る時、わざと大きな声でそう言ってやった。
玄関を出てエントランスに出ると、管理人のおじさんが掃除をしていた。
「おはようございます」
そう言って軽く頭を下げると、おじさんは帽子の鍔をくいっと上げて、
「おはよう、行ってらっしゃい」
そう言ってにっこり笑ってくれた。
「行ってきまーす!」
私は自動ドアを出て階段を駆け下りた。
坂道を登って歩いていく。真っ白な朝日がコンクリートの道をてらてらと照らしている。私は横断歩道の前で立ち止まった。
「はぁ……」
そして大きな大きな溜め息を吐く。隣で腕時計を見ていたサラリーマンがちらりと私の方を見た。
「朝から疲れるなぁ……」
気分は最悪だった。ただでさえ学校に行くのが憂鬱なのに、朝っぱらから兄と顔を合わせるなんて最悪すぎる。まぁ『顔』は合わせてないんだけど。
兄への当て付けで「学校が楽しみだ」なんて言っちゃったけど、本当はちっとも楽しみなんかじゃない。むしろ学校になんて行きたくないくらいだ。でももし本当に不登校になったら、兄と同類になってしまいそうで怖い。そんなちっぽけなプライドだけが毎日の糧だった。
私のクラスは、まるで動物園だ。
「……」
無言でドアを開けて教室に入る。廊下にまで響き渡る猿みたいな笑い声がより一層大きくなる。耳を塞ぎたい気持ちを抑えて、自分の席まで歩いていく。
「あ、おはよー、こころん」
背中をつんつんとつつかれ、思わず肩がびくりと跳ね上がった。少しツンとした癖のある声。舌っ足らずな喋り方。私はロボットみたいにぎこちなく首を回して背後を見た。
「あーはいはい、おはよ」
机に突っ伏しながらにやにやと私を見上げるその子に苦笑いをする。
「あれー?あんま元気なくない?もしかして生理?」
気だるそうな横に長いたれ目で、まるで私の心の中を覗き込むように見上げてくる。
「違うっての」
私はそう言って椅子を動かしてそこに腰を下ろす。
「あー、もしかしてお兄さんと何かあったんでしょぉ」
ぎく、と体が硬直する。それと同時に、お腹の底から熱いものがふつふつと湧き上がってきた。
無言でおでこに皺を寄せていると、「あっちゃー」とわざとらしく呟いてから両手を合わせてきた。
「ごめーん、図星だった?」
バカにしてんの?私は心の中でそう叫びながら乾いた笑い声を出した。
「別に」
私はそう言って体を前に向け、机に肘をついた。
私の後ろの席のこいつは、宮下舞宵(みやしたまよい)。胸あたりまである内巻きの髪はいつもぼさぼさで、いつもふわふわした笑顔を浮かべている変な子だ。体育は一年中「生理です」って言ってサボってるし、授業中はいつも寝てるし、不真面目な奴だ。
こいつは何かと私にちょっかいを掛けてくるけど、それには理由がある。
こいつは、私の兄の存在を知っているのだ。ずっと兄の存在が恥ずかしくて隠していたのに、ある日突然「こころんのお兄さんってさ……」と打ち明けてきたのだ。何がきっかけで兄のことを知られたのかは未だに分からない。
「こころん、お兄ちゃんは大切にしないとだめだぞぅ」
机に身を乗り出して私の耳元でそう囁く舞宵についイラッとしてしまう。周りをぐるりと見回すけど、みんな各々の談笑に夢中で聞こえてなかったみたいだ。ふぅっと溜め息を吐いて胸を撫で下ろす。
「誰かに聞かれたらどうすんのよ」
振り返ってぎろりと舞宵を睨み付ける。舞宵は「うわ、怖っ」と言ってわざとらしく口元を手で隠した。
「そんな睨まないでよ、聞こえないように小声で言ったんじゃん」
そう言って机に腕を投げ出しごろんとそこに寝そべる舞宵を見て、私は眉を顰めた。
確かに、舞宵は兄のことをいじってはくるけど、他の誰かにバラそうとはしてこない。むしろ誰かに聞かれたりしてバレそうになったら、私より先に誤魔化すくらいだ。
「…………」
口を猫みたいにして私を見上げる舞宵を見て、私は大きな溜め息を吐いた。
こいつ、ほんとに何がしたいの?
教室に教師が入ってきて、一時間目の授業が始まった。……いや、正確には、「授業」は始まっていない。
「ねー見て、こいつキモくない?」
「あー、鍵掛けてないとそういうDM来るよねー」
「てか昨日のアイツのストーリー見た?ガチキショくない?」
「おいお前早く金返せよ!」
「そう言えば昨日公園でたむろってたらケーサツ来たwww」
今のこの教室は、授業中だとは到底思えない状態だ。私は机に肘をついて溜め息を吐きながら、ちらりと教卓を見た。
「ううっ、お願いだからみんな真面目に聞いてよぉ……」
若い女の教師が涙を流しながら必死に懇願している。が、誰もそんなのに目もくれない。配布物のプリントで作った紙飛行機や誰かの上履きが飛び交うだけだ。
「ちゃんと授業させてよぉお……」
ついに教師は教卓に突っ伏してしまった。ああ、今日も教師の負けだ。
「みんなもよく飽きないねぇ」
私の背後では、呑気にそう呟きながら机の上にごろごろと寝そべる舞宵。
「こころんは真面目に授業受けたいのにねぇ」
「うっさい」
私は背中をつついてくる舞宵の指を背中で押し返した。
うちのクラスは、いわゆる「学級崩壊」ってやつだ。
まともな授業を最後に受けたのはいつだっただろうか。入学して三日目くらいまでだった気がする。それからは、毎日、毎時間、まるで教室内は動物園だった。
どんなに強面な教師が怒鳴っても、校長が直々に注意しに来ても、誰も耳を貸したりしない。教師達ももうお手上げ状態だ。
むしろ影やTwitterで教師の悪口を言ったり、教師達を盗撮して裏垢のストーリーに載っける子も居る。何をしたって悪化する一方なのだ。
「はぁ……」
入る中学、完全に間違えたな。別に私も真面目に授業を受けたいってわけじゃないけど、こうも毎日騒がれると鬱陶しくなってくる。
脳味噌空っぽなの?猿なの?ほんとに毎日飽きもせずによく騒げるよね。
「はぁ……」
キーンコーンカーンコーン。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。教師が、音も立てずに教室から飛び出していった。誰もそれに気付かずに騒ぎ続ける。私はそんな教師を睨むように眺めて、また溜め息を吐いた。
「そういえばさぁ、あの噂ってマジらしいよ」
給食の時間。各班が楽しそうに会話をしながら昼食を食べていると、斜め前に座っていたクラスメイトがふとそう呟いた。
「部活の先輩が言ってたんだけど、本当に去年この学校のあるクラスが失踪したんだって」
途端にざわざわとざわめく教室。私は無言でコッペパンを頬張りながらそれに耳を傾ける。
確かにそんな噂を聞いたことがある気がする。去年、この学校のとあるクラスのクラスメイトが全員不審死したって……。
私達は今年この中学に入った一年生だし、そのクラスの学年は去年卒業したらしいから、当事者達と面識があったわけじゃない。その噂もただ先輩達が騒ぎ立ててるだけだし、信憑性も何もないからみんなが信じていることに驚いた。
「マジでー?」
そんな中一番大きな声を上げたのは、窓際の前から二番目の席に座っている一際目立つクラスメイトだった。
「あの噂って本当だったんだぁ」
その子はニヤニヤしながら牛乳のストローを噛んで笑う。椅子を傾けてまるでブランコを漕ぐようにギコギコと前後に揺らす。少し傷んだ抜きっぱなしの金髪がそれに合わせて靡いた。
彼女は伊東暁美(いとうあけみ)。いわゆるうちのクラスの『女王様』だ。
彼女はその見た目の通りかなりやんちゃな性格で、未成年飲酒、喫煙の常習犯だ。毎日近所の公園で、バイクを乗り回し高校生と夜遊びをしている。
そして一番厄介なのは、彼女は気に入らないクラスメイトが居るとすぐにみんなを巻き込んで排除しようとする所だ。暁美はその見た目から入学当初から恐れられていたから、誰も彼女には逆らえない。暁美の反感を買ったら終わりだ。その子はクラスメイト全員からハブられる羽目になる。
「まぢウケるんだけど」
暁美がそう言うと、クラスメイト達は「それな」と言って笑いの渦に包まれた。
「え〜、みんなそんな噂ほんとに信じてるのー?」
そんな中、気だるそうな声が教室を静寂に包み込んだ。私は首を左に捻って、隣の班で既に給食を食べ終えているその声の主を見た。思った通り、舞宵が虚ろな笑顔を浮かべながら机に肘をついていた。
「何、舞宵は信じてないの?」
首をぐるりと回して顔にかかった髪を退けながら、暁美は舞宵を見る。
「むしろあんなの信じてる方がびっくりなんですけどー」
舞宵はぷぷぷと笑いながらそう言った。
教室が再び静寂に包まれる。みんな冷や汗を流しながら黙って暁美の次の言葉を待っている。
舞宵、何考えてんの?そんなこと言って暁美が怒ったらどうすんのよ。私はそう目で訴えたけど、舞宵は私の方なんて見てもいなかった。
「……ふーん。ノリ悪」
暁美がそう呟いた途端、教室中のみんなが「あーあ」という顔をした。暁美の機嫌が悪くなったのが目に見えて分かったからだ。
暁美は面白くなさそうにサラダをつつく。一方、舞宵は口を大きく開けて欠伸をしていた。
午後の授業が始まっても、教室の空気は最悪だった。かなりの頻度で暁美の舌打ちが鳴り響き、常に貧乏揺すりのカタカタという音が轟いていた。
私達クラスメイトは背後で呑気に欠伸をして居眠りしている舞宵を恨んだ。心の目で舞宵を思いっ切り睨み付けてやる。
「じゃあ今日の授業はここで終わりにする。宿題忘れるなよー」
無機質なチャイムの音が鳴り、教師が気だるそうに教室から出ていった。
「……クソ気分わりー、私先に帰るから」
と同時に、ガタンと派手な音を立てて暁美が立ち上がった。そしてそう言いながら学生鞄を背負い、黒板の前を歩いていく。クラスメイト達はそんな暁美を固唾を呑んで見送る。
「……じゃ、じゃあね、暁美!」
暁美の取り巻きのゆみかが慌ててそう言った。
暁美はそれを無視して、教室から出ていくとドアを力いっぱい閉めた。壁にバウンドして大きな音を立て、ドアは半開きになった。
「……」
教室が静まり返る。みんなは無言で帰りの支度を始める。
「まじでやめてほしいよな……」
ボソッと誰かがそう呟いた。
「誰かのせいで暁美ちゃん怒っちゃったじゃん」
また、そんな呟きが聞こえてくる。
「まじで空気読めよ」
また。
私は首を少し捻って後ろの席を見る。
「ふわあああ」
当の本人は大きな口を開けながら机に突っ伏していた。そして目尻に涙を浮かべながらゆっくりと上体を起こす。
「あ、授業終わったのー?」
眠そうに目を擦りながら呑気にそう言うと、舞宵は立ち上がって机の横に掛けてあった学生鞄を手に取った。
「あー、ねむっ」
そしてそう呟きながら、また大きな欠伸をして、半開きのドアから出ていってしまった。
途端に教室はざわめき出す。
「あいつマジで有り得なくね?」
「自分のせいで暁美ちゃんが怒ったって自覚ないの?」
「ほんっと迷惑だよね」
クラスメイト達は舞宵への文句をぶちまける。私はそれを聞きながら、机の中の教科書やノートを学生鞄に押し込む。
舞宵のことだから、自分のせいでクラスの空気が悪くなったり、自分がクラスメイト達に陰口言われてるってことにも気付いてないんだろうなぁ。ノーテンキで羨ましいわ。
「こころちゃんも大変だよね」
前の席に座っているクラスメイトの綾(あや)が体ごと振り返って小声でそう言ってきた。
「いっつも絡まれてんじゃん。めんどくさくないの?」
「あーはは、見てた?」
私は口角を引き攣らせながら愛想笑いを浮かべた。
「めんどくさいよ、正直。」
私はわざと綾から鞄に視線を逸らしてそう言った。
「無視すればいいのにー」
綾はそう言いながら笑うと、満足したのか体を前に戻した。
「……」
確かに、めんどくさいなら無視すればいい話なんだろうけど。
もし、有り得ないだろうけど、もし舞宵の機嫌を損ねたりしたら、兄の存在をバラされそうで怖いんだ。
「ただいまぁ……」
玄関で靴を脱ぎ捨て、私はとぼとぼと廊下を歩いた。
今日も疲れたなぁ。舞宵のせいで暁美がキレちゃったし、いつも以上に余計な気を使った気がする。
「ほんと、余計なことすんじゃねーよ」
溜め息を吐いて、洗面所で手を洗う。
「おかえり、どうしたの、暗い顔して」
洗面所を覗き込んできたお母さんと、鏡越しに目が合う。私は苦笑いしながらタオルで手を拭く。
「後ろの席の子がまじ最悪でさ」
思わず愚痴が溢れ出る。
「空気読めなくて、そのせいでクラスの他の子が機嫌悪くなっちゃって」
私がそう言うと、お母さんは眉を八の字にして苦笑いした。
「あんまり悪口言っちゃダメよ?ムカついたとしてもいじめたりしちゃ絶対だめだからね?」
「はー?そんなのしないけど愚痴くらい良くない?」
「言ってもいいけど、絶対本人に聞かれちゃだめよ。言う相手にも気を付けなさい、本人にバラしたり他の子に言っちゃうかもしれないからね」
「別に舞宵にならバレたっていいし」
あいつはどうせ気にもしないだろうし。
「こころ。」
急に低い声で名前を呼ばれてはっとする。いつもの「ちゃん付け」じゃない。ゆっくりと顔を上げてお母さんの顔を見る。いつもは温厚なお母さんの表情はどこにもなかった。冷たく鋭い視線が、氷柱のように私に突き刺さる。
「他人を傷付けるような子に育てた覚えはないわよ。」
「……ごめんなさい」
心臓がどく、どくと鼓動を刻んでいく音が聞こえる。私はそっと胸に手を当てた。
「そ、そんなに怒んなくたっていいじゃん」
そしてお母さんの視線から逃れるように目を泳がせる。背中を冷たい汗が伝っていくのを感じる。
な、何でここまで怒ってんのよ。普段なら、引きこもりの兄にだって絶対怒んないじゃない。何で兄は怒られなくて私は怒られなきゃいけないの?おかしくない?
「私はね、こころのために言ってるの」
お母さんはそう言いながら短い溜め息を吐いた。
「こころ。友達を傷付けちゃダメ。絶対に、よ。」
お母さんはそう言うと、私に背を向けてリビングへ歩いていった。
「さ。お腹空いたでしょ、何か食べる?」
そう言いながら振り返ってにっこりと笑ってきた。いつものお母さんだった。
「……うん」
私はゆっくりと歩いて洗面所を出て、電気を消した。
夜になっても、ずっと帰宅後の出来事が頭から離れなかった。何でお母さんはあんなに怒ったんだろう。あんなキツい言い方、絶対しないのに。そんなに怒らせるようなこと言っちゃったのかなぁ。
自分の発言や態度を振り返ってみたけど、どれがお母さんの地雷を踏み抜いてしまったのかは全く分からなかった。本当に何が原因だったんだろう。うーん、モヤモヤする。
ベッドに寝そべっていると、壁の向こうからあのカタカタという音が微かに聞こえてきた。あいつ、またパソコンを弄ってるんだ。一日中弄ってるんじゃないの?
「はぁ……」
いいよな、あいつは一日中好きなことに没頭出来て。私は今日も一日疲れたんですけど。いつも暁美が機嫌悪くしないかずっと気を使って。それだけでも疲れるのに、今日はほんとに機嫌が悪くなったから余計にだ。舞宵のやつ、ほんと、余計なこと言わないでほしい。
「ほんと、疲れたなぁ」
深い深い溜め息をゆっくりと吐きながらそんな言葉も吐き出した。
眠ったら明日になっちゃう。明日になったら、また学校に行かなきゃいけない。
暁美、機嫌よくなってるといいな。
そんなことを思いながら、私は眠りに就いた。
翌日。私はまたあの音で目を覚ました。昨日暁美が不機嫌になったまま学校が終わったことを思い出して、朝から憂鬱な気分になった。
「はぁ……」
大きな溜め息が出る。私はベッドから降りて、半ば蹴るように足でドアを開けた。
「こころちゃん、おはよ」
お母さんがトーストを焼きながら笑顔でそう言ってきた。
「おはよ……」
そう言えば、昨日お母さんに怒られたんだっけ。私はお母さんと顔を合わせないようにして、リビングの食卓に座る。
「先に顔洗いなさいってば〜」
「はいはーい」
あ、良かった、お母さんもう怒ってないっぽい。私は生返事をして、ゆっくりと洗面所に入った。
顔を洗ってリビングに出ると、朝食が並んだお盆を持ったお母さんがにこにこしながら立っていた。
「……まさか。」
「今日もお兄ちゃんの部屋に持ってってあげて!」
「はぁ……」
私はわざとらしく溜め息を吐いて肩を落とした。お母さんの手からお盆を受け取り、精一杯嫌そうな顔をしてから兄の部屋に向かった。
「ほんとに頼むから自分で取りに来てよ……」
私は器用に足でドアを開けて、恐る恐る部屋の中を覗き込む。パソコンに向かってこちらに背を向けた兄が、ビデオを一時停止したみたいにそこに座っている。微動だにしない兄にイラつきながら、私はお盆を床に置いた。
「私が来たからってパソコン弄るのやめるのやめなよ。」
そう吐き捨てて、私はドアを乱暴に閉めた。そして、息を潜めてドアの前に立つ。
床を踏む小さな音が三、四回聞こえてくる。その後、ドアのすぐ向こうでがちゃんという音。お盆を拾ったんだろうか。また床を踏む音が数回鳴り、遠くから机にお盆を置いたであろう音が聞こえてきた。
「……。」
私は自分の足元を睨みながら無言で顔を顰めた。そして、お母さんにバレないようにドアを軽く蹴って兄の部屋を後にした。
「こころか、おはよう」
リビングに戻ると、お父さんがコーヒーを飲んでいた。
「ねぇ、お父さんからも何か言ってよ」
私は自分の朝食が並んだ食卓に腰掛けながらそう言う。
「何か、って?」
「あいつのことだよ。お父さんはおかしいって思ってるよね?」
「うーん……」
お父さんは困ったのか唸りながら黙り込んでしまった。私は納得いかずに食パンを齧りながら続ける。
「……何で?お母さんもお父さんも、おかしいって思わないの?あいつはあんな生活するのが当たり前だと思ってるんだよ?てかお父さんは昔はちゃんと注意してたじゃん!何で最近は放ったらかしなの?」
「別に放ったらかしにしてるわけじゃないよ。お兄ちゃんにもーー洸希(こうき)にも色々あるんだよ。」
お父さんは立ち上がって、ネクタイを結び直しながらそう言う。
「意味分かんない。色々あるからって怠けて生きていいって言うの?」
私はウインナーにフォークを突き刺しながらそう呟く。そんな私を見て、キッチンに居たお母さんが短い溜め息を吐いた。
「こころったら、昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって言ってたのにねぇ……」
「は、はぁ!?」
私は振り返ってお母さんを見る。
「そうだよなぁ、ずーっと洸希の後ろについてってたもんなぁ……」
「はぁぁ!?」
体を前に戻して、遠い目をしながら微笑を浮かべるお父さんを睨む。
「何急に!キモ!私そんなの全然覚えてないから!」
私は目玉焼きを口いっぱいに詰め込んでそれを飲み込んだ。
「ごちそうさま!」
私は勢いよく立ち上がって洗面所に駆け込んだ。歯ブラシに歯磨き粉をつけてシャコシャコと歯を磨く。
「何か、今日は機嫌悪いみたいだね?」
「そう言えば昨日、クラスメイトがどうのこうの言ってたっけ……」
そんな両親の会話が聞こえてくる。ふんだ、私の気持ちなんて分かってくれないくせに。
「……。」
私、間違ってるのかな。
「……ううん、確実にあいつがおかしいよ」
自分にそう言い聞かせて、口に水を含んでうがいをする。
「実際、お母さんやお父さんに迷惑掛けてるもん。」
髪の毛をブラシで梳かしながらそう呟き、私は洗面所を後にした。
憂鬱な気持ちのまま学校に着いた。私は下駄箱で上履きを履きながら、首をぐるりと回した。
「あ、おはよ、こころ」
すると、背後から誰かに挨拶された。その声に思わず肩がびくりと跳ね上がった。
私はゆっくりと振り返って、愛想笑いを顔に貼り付けた。
「おはよー、暁美」
「ん」
私が挨拶し返すと、暁美は満足そうに口元に笑みを浮かべた。そしてスニーカーを脱ぎ、それを靴箱に放り込む。
「こころさぁ」
暁美は上履きをすのこに投げ捨てる。ひっくり返ったそれを足で表に戻しながら、ちらりと私を見上げてくる。
「舞宵のことウザイって思ってるでしょ、ぶっちゃけ」
そう言われた途端、私の視線は魚のように泳ぎ出した。それを悟られないように、壁の上の方に取り付けられた時計を見る。
「あー、あはは」
誤魔化すように笑ってみたけど、暁美は騙されてくれなかった。
「ウザイっしょ、毎日絡まれてんじゃん」
あー、見てたんだ。めんどくさいなぁ。暁美は上履きに足を突っ込んで爪先をとんとんとする。その足元を眺めながら、私は口元だけにさっきの愛想笑いを浮かべる。
「空気読めないよねー。あーいう脳天気なタイプ一番嫌い。見ててイライラするもん。」
暁美はそう言うと、歩いて校舎の中へ入っていく。私は無言でそれを追い掛けた。
「こころもさー、ウザかったら無視しちゃいなよ。」
暁美は振り返ってにこりと笑ってきた。
「……うん」
私はそんな暁美の胸元に視線を固定して、笑顔が張り付いたままの唇を噛んだ。
暁美から数歩遅れて教室に入ると、教室はいつも通りだった。今日も入場無料の動物園だ。馬鹿みたいに手を叩いて笑う声や、大声で何かを叫ぶ声。何だかよく分からない奇声も聞こえてくる。
「あー、こころん、おはよぉ」
自分の席に座ろうとすると、また今日も舞宵が話し掛けてきた。いつものように机に寝転びながら、口を猫みたいにして私を見上げている。
「あー、……」
私はちらりと暁美の方を見た。椅子の背もたれを脇に挟みながら、こちらをじっと見詰めている。
「……」
私はすぐに暁美から視線を逸らして、舞宵を無視した。椅子に座って、机に頬杖をつく。
別に、暁美が怖いわけじゃないけど。ただ、暁美が不機嫌になるのが怖いだけだし。
強がって自分にそう言い聞かせながら、私は指で机を叩いた。
「お前ら、ちゃんと宿題やってきたか?」
一時間目が始まり、教師が教室に入ってきてそう訊いてきた。
「お前ふざけんなよー!」
「あ、そっち飛んでった!」
「きしょ!こっちに飛ばすなって!」
が、誰もそんな教師に見向きもしない。教室には誰かが作った大きなホコリの塊が舞っている。
「宿題、出したの覚えてるか?」
そう言った教師の声は、女子の甲高い叫び声と男子の低い笑い声に掻き消されてしまった。
「宿題やんないと進路に響くぞ……」
教師の声からはどんどん覇気がなくなっていく。
「……前回の続きやるぞー」
どうせ誰も聞いてなかった授業の続きを始め出した。誰もノートを広げてなんかいないのに。誰も机に向かってなんかいないのに。
「ここはこの公式を当てはめて……」
そう説明する教師の顔には明らかな疲労が見えた。くまが浮かび上がった虚ろな目元も、だらしなく開きっぱなしの口元も、見るに堪えない。
「美沢さん」
そんな教師をぼーっと眺めながらクラスメイト達の奇声をBGMに放心していたら、視界の右側からにゅっと腕が伸びてきて、とんとんと机を叩かれた。
「……?」
私は右側を見た。すると、隣に座っていたクラスメイトが同じようにこちらを見ていた。
「あれ、掛け算と足し算っていうのをちゃんと意識すれば理解しやすいよ」
少し恥ずかしそうに微笑みながら、その人はそう言ってきた。私はどうしていきなりこんなことを言われたのか理解出来ずに、頭に大量のはてなマークを浮かべた。
「あ、ごめん。ずっと熱心に黒板の方見てたから、授業ちゃんと受けたいのかと思って」
そう言って苦笑いしながら頬を掻くその子を見詰める。
彼は葉山賢人(はやまけんと)。マッシュヘアーの、黒くて太い縁のメガネを掛けたクラスメイトだ。いつも文庫本を読んでいて、一人で行動することが多い印象だけど、だからと言って友達が居ないわけではないらしい。少し変わった子だけど、彼の陰口は一度も聞いたことがないし、読書している時以外は常に周りに人が居る。
葉山くんから話し掛けてくるなんて珍しい。入学してからずっと隣の席だったけど、会話なんてしたことなかったのに。
「いや、別に」
私がぶっきらぼうにそう言うと、葉山くんは嫌な顔一つせずに、
「そっかぁ。僕と同じなのかと思ったんだけど違ったね。」
「葉山……くんは授業受けたいの?」
私が尋ねると、葉山くんはにこにこしながら恥ずかしそうに小さく頷いた。
「うん。実はね。」
「ふーん……」
まぁ、確かに見るからに勉強好きそうだし。
「まぁ、今習ってるところは小学生の時に塾で習ってるし、そこまで困らないんだけどね」
「やっぱ頭いいんだ、いつも難しそうな本読んでるもんね」
「そんなことないよ。ただ親が医者になれってうるさいだけでさ」
どこか寂しそうな表情になる葉山くんを横目で見る。
「まぁ、僕もなれたらいいなって思ってるから別にいいんだけどね!」
「すごいじゃん、親の期待に答えようとして、それが自分の夢でもあるって。」
何の気なしににそう言うと、葉山くんは目を輝かせて私をじっと見詰めてきた。
「……何?」
「いや、美沢さんって素敵なこと言うなって……」
「は?何それ」
「そういう風に考えられるの、素敵だと思うよ」
そう言う葉山くんの視線から逃れるように私は彼から視線を逸らした。
「……別に、思ったこと言っただけだよ」
何だか恥ずかしくなって、私は黒板を見ながら頬杖をついた。
「こーころん」
休み時間、トイレに行こうと思い立ち上がろうとすると、背後からつんつんと背中をつつかれた。振り返ると、案の定口を猫みたいにした舞宵が机に寝そべりながら私を見上げていた。
「……何?」
視線を前に戻して尋ねると、見てもいないのに私の顔を覗き込んでくる舞宵の姿が目に見えた。
「葉山といい感じじゃ〜ん」
「は!?」
私は思わず勢いよく振り返った。周りにクラスメイトが居ないことを確認して、胸を撫で下ろす。
「こころんが男子と話すなんて珍しいよねーん。葉山、他の男子と違って大人びてるし、こころんとは相性いいかもねん」
「…………」
私は机の下で拳を握り締めた。それをわなわなと震わせて、同じように震える唇を強く噛んだ。
「でも意外だな〜、こころんってあんな風に照れるんだね。こころんが顔真っ赤にしてるとこなんて初めて見たよぉ……」
くすくすと舞宵は楽しそうに笑う。
「……んたって、ほんとに……」
「ん?何か言った?」
ブチッ。私の中で、何かが音を立てて切れた。
「あんたって、ほんとにデリカシーないよね。普通そういうこと言う?頭おかしいんじゃないの?」
「…………ええ。」
ぽかんと口を真ん丸に開けた舞宵が体を起こした。
「な、何で怒ってるの、こころん……」
「人を馬鹿にするのもいい加減にしたら?」
「私、馬鹿になんてしてない……」
「自覚ないんだ、へぇ。あんた頭の病気なんじゃない?空気も読めないし、絶対そうでしょ」
私はそう吐き捨てると、勢いよく立ち上がって椅子を乱暴に蹴った。椅子の脚が床と擦れる音は、クラスメイト達の話し声に掻き消された。
「…………」
マジで最悪。気分悪い!
「……はぁ。」
私は溜め息を吐いて、早足で教室から出た。
ムカつく感情で埋め尽くされた頭の片隅に、何かが引っ掛かっていた。
さっきの、舞宵の焦ったような顔。まるで、ほんとに私が何で怒ったのか理解出来ていなかったみたいだった。
いつも私のことを弄ってくるのは、わざとじゃなかったってこと?ほんとに天然であんな風にウザ絡みしてきてたっての?
何か、舞宵のことが、よく分からない。
「こころ、一緒に帰ろう」
「……え」
ホームルームが終わり、帰ろうと思って立ち上がった時だった。いつも一緒に帰っているクラスメイトの千優(ちゆう)の隣に、暁美が立っていた。
「今日は暁美も一緒に帰りたいんだって!三人で帰ろ!」
「う、うん……」
千優にそう言われて、私はぎこちなく頷いた。
「行こ。」
口元に笑みを浮かべた暁美が、くるりとUターンした。
私はドアに向かって歩いていく二人の背中を追い掛けた。
教室を出る際、ちらりと舞宵の方を見た。舞宵は机に突っ伏していた。どうやらまだ寝ているみたいだ。
「…………」
別に、私が気にすることないじゃん。
ノーテンキな舞宵が、私のあんな一言で傷付くわけないもん。
「ねー、私思うんだけどさぁ……」
帰り道、細い道を縦に並んで歩いている時だった。先頭を歩いていた暁美が、空を見上げながらぽつりと呟いた。
「舞宵って絶対ガイジだよね」
そう言って、暁美は私達に同意を求めるように振り返る。暁美のすぐ後ろを歩いていた千優が、一瞬間を空けてから、
「だよねー!」
と言った。
「私も思ってた。あの空気の読めなさはそうとしか思えないよね」
千優がそう続けると、暁美は満足そうに目を細めて笑った。
「こころは?」
そして、そのまま後ろを無言で歩いていた私を見てくる。
「っえ」
私ははっとして顔を上げた。千優と暁美が私の方を振り返りながら歩いていた。
「あー……」
私はそんな二人と視線が合わないように、道端に落ちている葉っぱを見た。
「絶対こころは舞宵のオキニだもんね。一番分かってるんじゃない?」
「いっつも二人で喋ってるよね、こころと舞宵って」
二人はそう言いながら勝手に盛り上がっている。私は上の前歯で下唇を噛み締め、声を絞り出すようにして呟いた。
「そんなこと、ないよ」
私がそう言うと、千優と暁美は顔を見合わせて、
「ふーん、そっかぁ」
あまり面白くなさそうにそう言った。
……何か、ダメだ。
二人が、うざったくなっちゃった。
「ただいま……」
鍵を開けて家の中に入って、私は鞄を廊下に投げ捨てた。靴を脱いで、それを揃えもせずに、鞄を足で蹴りながらとぼとぼと廊下を歩く。
「おかえり、こころちゃん……って、何してるの?鞄蹴らないの!」
リビングから出迎えてくれたお母さんが、呆れたような口調でそう言ってきた。
「んー」
私はまともな返事をする気にもなれなくて、適当にそう言った。
「ちゃんと手洗いなさいね、それからシワになるからすぐに着替えなさい」
鞄をソファに置いて自分の部屋に向かおうとすると、すぐさまお母さんがそう叫んだ。
「はぁ……」
私はそんなお母さんの言葉を無視して、ソファに倒れ込んだ。
「こーこーろーちゃーん?」
ぬっとお母さんが私を見下ろしてくる。私はクッションを抱き抱えてそこに顔を埋めた。
「だめでしょ、クッション汚れちゃうじゃない!」
お母さんはそう言って私の背中を軽く叩いた。私はクッションの影からそんなお母さんを見上げて、駄々っ子のように口を尖らせた。
「疲れたんだもん」
「もー……。……学校で何かあったの?」
そう言って、しゃがんで私と目線を合わせるお母さん。私はそんなお母さんを見て、首を横に振った。
「別に。ただクラスのみんなが幼稚過ぎて疲れただけだよ」
「こころちゃんもまだ子供じゃないの」
「違うんだって!アイツらほんとにレベル低いの!毎日毎日飽きもせずにさぁ……」
「あんまり悪く言っちゃだめよ、思っても外で言うのは辞めなさいね?」
「言わないよ、そんなこと言ったらハブられるもん。」
「…………。こころちゃん、学校で嫌な思いしてるわけじゃないのよね?」
いきなり深刻そうな顔になるお母さん。
「こころちゃんだけじゃなくて、クラスの誰かが嫌がらせされてたり、いじめがあったりしてないのよね?」
「何、急に……」
「中学生になって二ヶ月になるけどまだまだ心配なの。何かあったらお母さんに相談するのよ?」
「……分かったよ」
私がそう返すと、お母さんは満足そうににっこりと笑って立ち上がった。
「よし。じゃあ着替えて手を洗ってきなさい!」
そしてまた私の背中を、今度はかなりの力でバシッと叩いてきた。
「いったぁ!……もー」
私はじわじわと痛む背中を擦りながら、お母さんの後ろ姿を思いっきり睨み付けた。
……でも、何だかんだ私のことを心配してくれてるんだよね。いつも学校でのことを気に掛けてくれてるし。
でも、言えないな。学級崩壊してて、まともに授業も受けられてないなんて。
それに、舞宵のことだって言えない。きっと、私やクラスメイトが舞宵に冷たくしてるなんて言ったら、お母さんは悲しんじゃう。
「……」
学校で舞宵に放ってしまったあの言葉が頭から離れなかった。その後の舞宵の顔が、目を瞑ると瞼の裏に浮かび上がってくるのだ。
「……明日、謝ろうかな」
クッションに埋めた口元で、ぽつりとそう呟いた。
翌日。学校に着くと、何やら玄関が騒がしかった。
「すぐ体育館に集まれ!」
ロッカーで上履きに履き替えて校舎内に入ると、廊下に立っていた教師が、通る生徒全員にそう呼び掛けていた。
「すぐ体育館に行け、急げー!」
当然私もそう言われたから、教室ではなく体育館へ向かった。
「何だろうねー」
後ろを歩いていた先輩達が声を潜めてそう呟いていた。
体育館に入ると、既に先に来ていた生徒達で溢れ返っていた。ざわざわとざわめく人混みの中を掻き分けて、自分のクラスの列を探す。
「おはよ、こころちゃん」
クラスの列に入ると、前に立っていた綾が振り返って挨拶してくれた。
「おはよう。何かあったの?」
私が尋ねると、綾は首を傾げて、
「まだ何も言われてないんだよねー」
「ふぅん……」
「何か先生達やけに焦ってたよね。何なんだろうねー?」
その時だった。目の前で笑っていた綾の顔が消え、パッと視界が真っ暗になった。
「え!?」
途端に生徒達はざわめき出す。その声に混じって、微かに何かの音が聞こえてくる。
「……カーテン、閉めてる?」
誰かのその声で、やっとカーテンが閉められたせいで真っ暗になったのだと分かった。でもどうして?わざわざカーテンを閉めたの?
「えー、静かに!」
舞台から、聞き慣れた校長の声が聞こえてきた。そしてパッと目の前が明るくなる。電気を付けたのか。私は目が慣れるまで目を細めて、やっとはっきりしてきた視界で舞台の方を見た。
その後ぐるりと体育館の両端を見回すと、何やら暗い顔をした教師達が並んでいた。
「皆さんに、悲しいお知らせがあります」
校長の声が、マイクを通してスピーカーから大音量で流れてくる。私達は固唾を飲んで校長の次の言葉を待つ。
校長はハンカチを取り出して、額に浮かび上がった脂汗を拭い、ゆっくりと口を開いた。
「一年三組の担任の前橋先生が、昨日お亡くなりになりました。」
一瞬の静寂の後、体育館内は途端に再びざわめき出した。
「え?」
「前橋先生が……?」
「何で?」
「病気だったとか……?」
「でも前橋先生まだ若いし元気だったじゃん……」
ざわざわと周囲でそんな声が飛び交う中、私達の列だけは誰一人言葉を発さなかった。
だって。前橋先生は……。
「うちらの担任じゃん……」
綾がぽつりと呟いた。
「えー、亡くなられた理由に関しては、先生のご家族が公開しないでほしいと仰っていたのでー……」
その先の言葉は何も頭に入ってこなかった。気が付いたら集会は終わっていて、舞台から校長の姿は消えていた。
「早く教室戻れー!」
教師達がそう呼び掛けると、他の学年やクラスの生徒達は出口に向かって歩き出した。
が、私のクラスだけは、誰一人その場から動こうとしなかった。
みんな、頭の中では理解していたのかもしれない。前橋先生は、自分達のせいで死んだんじゃないかって。
「……死ぬとかマジだる」
そう思っていたら、背後からそんな声が聞こえていた。
振り返らずとも分かった。声の主は暁美だ。
「え、何?急病とか事故とかでしょ?何みんな暗い顔してんの?」
暁美は笑い混じりにそう言う。
「てか新しい担任誰になると思う?岡村とかだったらだるくない?」
暁美は笑いながら自分の前に立っていたクラスメイトの肩を叩く。
「あー、はは……」
そのクラスメイトは視線を泳がせて口角を引き攣らせた。そんなクラスメイトを見た暁美の顔からどんどん笑顔が消えていく。
「……何?みんなほんとにだるいよ。」
そしてそう吐き捨てると、すたすたと出口に向かって歩いていってしまった。
「……ま、待って暁美!」
ゆみかが慌てて暁美の後を追い掛ける。
「おい、お前らも早く教室に戻れ」
隣のクラスの担任が、体育館に残った私達に駆け寄ってくる。
「ショックなのは分かるが……」
そう言って、隣のクラスの担任は私達の背中を押す。
「……行こ」
誰かがそう言うと、クラスメイト達はゆっくりと歩き出した。私もそれに従って歩く。
「……」
体育館を出る時、ちらりと隣のクラスの担任を見た。
「……」
私には、はっきりと見えていた。
さっきあの教師は、あの言葉の後に、「お前らのせいで死んだんだぞ」と呟いていた。
「……」
やっぱり、ただの急病や事故なんかじゃない。前橋先生が死んだのは、私達のせいだ。
「えー、新しい担任が決まるまで、僕がこのクラスも受け持つことになった。ショックだろうが、どうか気を落とさずに、な。」
隣のクラスの担任は、教卓の前でそう言うと、教室から出ていった。あれからすぐに全員が教室に戻り、一足遅れて隣のクラスの担任が教室に入ってきたのだ。
どうやら新しい担任が決まるまではあの人が担任になるらしい。別に嫌だとかそういうわけではないけど、さっきの言葉が頭から離れてくれなかった。
「このクラスのせいで前橋先生が死んだ」ってあの人が思ってるのなら、まるで私達は「人殺し」だと思われているみたいじゃない。
……いや、それは間違いじゃないけど。
でも、私は学級崩壊に参加してない。なのにみんなと同じだと思われてるのなら屈辱だ。
「私は違うもん……」
机の下で、ぎゅっと拳を握り締めた。
授業後のホームルームが終わり、クラスメイト達は各々教室から出ていった。
結局、タイミングも掴めなくて舞宵に謝れなかったや。私は暗い気持ちのままごそごそと机の中を漁っていた。
「……あれ。」
机の中に入れておいたはずの生徒手帳が見当たらなかった。毎日、朝学校に来たら教科書やポーチと一緒にここに仕舞ってるのに。
制服のポケットの中を探してみても、やっぱり入っていない。もしかして、どこかに落とした?
「だるっ……」
溜め息を吐いて立ち上がる。学生鞄を机の横から引ったくって肩に提げて、教室を出た。
「あ、こころちゃん!」
「綾」
廊下に出ると、友達と喋っていた綾が小走りでこちらに歩いてきた。
「さっき二組の担任……早川先生がこころちゃんの生徒手帳拾ったから取りに来いって言ってたよ!」
「あ、ありがとう……」
げ、よりによって隣のクラスの担任に拾われるなんて。
「じゃーね!」
そう言って、綾は友達と一緒に階段を降りていった。
「……はぁ。」
受け取りに行かなきゃだよね。何だか気まずいからわざわざ会いに行きたくないなぁ……。
私は肩を落としながらとぼとぼと職員室へ向かった。
職員室の前に来ると、私は立ち止まって何度か深呼吸をした。大丈夫だって、早川先生にあの呟きを聞いてたことはバレてないんだから、向こうは何とも思ってないって。自分にそう言い聞かせて、私は大きく頷いた。
コンコン。軽く二回ノックをして、職員室のドアを少し開ける。
「失礼しまー……」
そのまま入ろうとすると、何やら声を潜めて会話をする教師達の声が聞こえてきた。
「……やっぱりこっちで対処し切れませんよね。」
「まさかうちの学校でまたこんなことになるなんて……」
あ、何か大事な話をしてるっぽい。今入っていかない方がいいかな?
「まさか二年連続でこんなことが起こるなんて。」
が、私は思わず聞き耳を立ててしまった。一体何の話をしてるんだろう。
「それで、いつになるんですか?そして今回はどのタイミングで処分するんですかね?」
「去年は三年だったから修学旅行中に起きた事故として処理出来たけど、今年は一年だからそんなイベントもないですしね……」
「校内で爆弾なんか使われたら堪らないですよね〜」
はははと様々な高さの笑い声が沸き起こる。
「でも、こんな事例滅多にないんじゃないですか?まさか大人が売るなんて。」
……「事故」?「爆弾」?「売る」?何だかさっきから妙なワードがいくつか出てきている。
去年の三年生に起きたことが今の一年生に起きるってこと?でもそれって一体何?事故や爆弾が関係してるってこと?
「いや〜、にしてもあのクラスはかなり問題が多かったから、こちらからしても有難いですね!」
「あーいう頭の悪いガキはほっといてもしょうもない問題ばかり起こして何の役にも立ちませんからね。早めに殺しておくのがベストですよね〜」
「ほんと、住みやすい世の中になりましたね!」
ドクン。心臓が大きく脈打った。
何、何?「あのクラス」って、「問題が多かった」って、うちのクラスのことじゃない……?
自分の鼓動がどんどん早くなっていくのを全身で感じた。私は胸元のシャツを握りしめて、頬を伝う汗の雫を凝視した。
教師達のあの口調、異常だ。只事じゃないなのかもしれない。
やだ、やだ。何かよく分からないけど、すごいやだ……!
「あの、せんせーーむぐぅっ」
何とかこの空気を壊したくて、ドアを開けて職員室に入っていこうと立ち上がった時だった。私は誰かに口を塞がれて、後ろに倒れ込んで尻もちをついた。
「いた……っ」
私は自分の口を覆っている手を掴んで、必死に抵抗した。
「しっ!」
振り返ると、そこには今まで見たこともないような顔をした舞宵が居た。
何で舞宵が……。と言おうとしたけど、隙間なく口を塞がれていて言葉を発することが出来なかった。
舞宵は眉を顰めて、ドアの数センチの隙間から職員室の中を覗き込んだ。
「音立てないように立って。逃げるから」
そう言って、舞宵は私の口を塞いだまま立ち上がった。私も釣られて立ち上がると、舞宵は私の腕を引っ張って走り出した。
「……っ舞宵!」
私は廊下の真ん中に来た辺りで、舞宵の手を振り払った。
「何?どういうことなの?」
「それは後で!とりま学校出るからっ」
舞宵はそう言って、廊下を走って階段を駆け下りていった。
「……一体なんだってのよ……」
私はそんな舞宵を小走りで追い掛けた。
「はぁっ、はぁっ……」
涙目になりながら、私は肩を上下させて息を整えた。校門を出て、左に少し歩いたところにある公園のベンチにて。
「……どういうことなのよ、舞宵……」
私はゆっくりと顔を上げて、ベンチに腰掛ける舞宵を睨んだ。
「何なの?……何なの?」
鼻の奥がツーンと痛くなって、目の奥から涙が溢れてくる。私は鼻を啜りながらそれを制服の袖で必死に拭った。「先生達、何の話してたの?」
「……先生達は、前橋先生の話をしてたんだよ。」
舞宵は夕焼けに染まった赤い空を見上げながらそう言った。
「でも、じゃあ、何で『処分』とか『殺/す』とか言ってたの?それも、私達をみたいな……」
「こころん!」
いきなり大声で名前を呼ばれて、私は思わず肩を跳ねらせ黙り込んだ。舞宵を見ると、目を真ん丸に見開いてるくせに口元は真一文字に結んでいた。
「何、その顔……」
「落ち着いて、こころん。」
舞宵は立ち上がって、私の肩にそっと手を載せる。
「こころん。こころんは何も聞いてない。職員室にも行ってない。……だよね?」
そう言って、にこりと微笑む舞宵の顔が視界を埋め尽くす。
ザアッと音を立てて、木の葉が擦れ合う。カラスが鳴きながら飛び立ち、空がだんだんと暗くなっていく。
「…………舞宵は何を知ってるの?」
「……かーえろ、こころん」
私の質問に、舞宵は答えてくれなかった。
家に帰って、私はすぐに部屋に駆け込んだ。
ドアを閉めて、そこに背をつけてゆっくりと床に座り込む。ファンシーな色のジョイントマットの上にぺたりとお尻と脚をくっつける。
胸が跳ね上がるように息をする。何度も深呼吸をしようとしたけど、呼吸が整わない。
みんなどうしちゃったの?みんなおかしいよ!前橋先生が亡くなってみんなおかしくなっちゃったの?
「だって、だって、『殺/す』なんて普通じゃない……」
絶対に私の考え過ぎなんかじゃない。あれは、私達のクラスに向けて言ってた。
「私、殺されるの?」
明日、学校に行くのが怖い。
私は震えながらその夜を過ごした。
翌朝。私は兄のキーボードを叩く音で目が覚めても、布団から出なかった。
ああ、いつもならこの時間はリビングでご飯を食べてるのに。でも今日はとてもそんな気分になれなかった。
目が覚めた瞬間、昨日のことは全て夢だったかもしれないと思った。そう思いたかった。でもやっぱり現実で、教師達の会話が鮮明に脳裏にこびり付いていた。
……そう言えば、舞宵は何であんなことを言ったんだろう。「こころんは何も聞いてない。職員室にも行ってない。」って、まるで舞宵も教師達の会話を知ってるみたいだった。
それに、私の質問には答えてくれなかったし。絶対舞宵は何か知ってるのに。
「……相変わらずよく分からないよ、舞宵は」
「こころちゃーん?」
部屋のドアの向こう側で、くぐもったお母さんの声が聞こえてきた。げ、いつもの時間に起きてこないから起こしに来たんだ。
「こころちゃん、開けるわよー」
そう言って、お母さんは私の返事も待たずにガチャリとドアを開けて部屋に入ってきた。
「起きなさい、こころちゃん」
電気のスイッチを押しながらお母さんはそう言ってきた。私は布団にくるまりながら「んー」と生返事をした。
「遅刻しちゃうわよ?……ショックなのは分かるけど」
「……え?」
「担任の前橋先生、亡くなったんですってね」
あ、お母さんも知ってるんだ。そりゃそっか、担任が亡くなったんだもんね。
「悲しいわよね、私も大好きだった高校の先生が一昨年亡くなったって聞いた時は悲しかったわぁ……」
悲しんでるふりしとこ。そうすれば休ませてもらえるかも。
「ほんとにショックでお腹痛い……」
「じゃあ今日は休むの?」
少し怒ってるような口調でお母さんはそう言う。
「休みたい……」
私は布団の中で体をもぞもぞと動かした。
「そう。じゃあ仕方ないわね……」
お母さんははぁっと短い溜め息を吐き、私の布団に手を掛ける。
「お母さんが車で連れてってあげるから準備しなさい!」
布団が剥ぎ取られ、仮病でお腹を抱えた私が露になった。
「…………」
笑顔のお母さんと目が合った。
……だめだ。行かないとこの圧力で殺される。
私は諦めて体を起こした。
今日はいつも以上に足取りが重かった。まるでダンベルでも足に括り付けられているかのようだった。
「はぁ、キッツ……」
学校に着くまでに何度溜め息を吐いたんだろう。吐きすぎて息が上がってきた。
「…………」
学校が見えてきた。足がより一層重たくなってきた。
いつも通り。いつも通りに過ごせばいいんだ。
「……」
あれ。私、今までどうやって普通に過ごしてたんだっけ。教室では何をしてたんだっけ。そうだ、誰かと喋って、普通に笑って、ーーでも、それってどうやってたんだっけ。
「っ……」
だらだらと嫌な汗が湧き出てくる。シャツがじっとりと背中にくっ付くのを感じた。気持ち悪い。言い表しようのない不快感が全身を襲ってきた。
「大丈夫、大丈夫だから」
自分に必死にそう言い聞かせるけど、心拍数がどんどん上がっていき、足元がふらついてきた。
耳鳴りもする。目の前が何だかぼやけて見える。
「ちょっと、大丈夫?」
あれ。何か地面が目の前にある。
あ、私、倒れてる?いつの間に?どうして……。
「誰か先生呼んできて!」
すぐ近くで誰かがそう叫んだ。それなのに、異様に遠くの方から聞こえてくるように感じた。
「ちょっと、大丈夫ー?」
あ、保健室の先生だ。やば、周りにどんどん人が集まってくる。恥ずかしいのに全身に力が入らなくて立てなかった。
「貧血かしら?」
保健室の先生が、そう呟きながら私の腕を掴み脇を潜った。そしてそのまま立ち上がり、私を支えてゆっくりと歩き出す。
じろじろと生徒達に見られながら、私はぐったりと先生に身を任せた。
保健室に着くと、私はすぐにベッドに寝かされた。
保健室の先生は溜め息を吐いて肩をぐるぐると回し、カーテンを掴みながら私の顔を覗き込んだ。
「一年三組の美沢さんだよね?」
私は無言でこくりと頷いた。
「担任……は、そっか。えーと、代わりの先生に言っとくから休んでなさいね。ちなみに朝ごはんはちゃんと食べた?」
「食べたけど、いつもより少なめでした……」
「そっか。まあ、ただの貧血だと思うから安静にすれば良くなると思うよ。治ったら教室戻っていいから」
先生はそう言うと、シャーっとピンクのカーテンを閉めた。
……保健室から先生が出てくると、室内は静寂に包まれた。
保健室の独特な匂いが鼻を掠める。私は腕で目を覆って仰向けになった。
何か、体が頭に追い付いてくれないや。昨日起こった出来事を、まだ受け入れ切れないよ。貧血になったのも、きっと昨日のアレが影響してるんだ。
担任の死と、教師達の異様な会話。……思い出したくもない。
……もし、あそこで舞宵が止めてくれなかったら、私はどうしてたんだろう。
あれ、何だろう。何かすごく嫌な予感がする。
ガラッ!
その時、保健室のドアが勢いよく開けられた。私はその音に驚いて弾かれるように起き上がった。
「だ、誰?」
自分の鼓動が耳のすぐ近くで聞こえる。まるで全力疾走した直後かのように息が上がる。
「先生?」
ドクン、ドクン。呼吸がだんだん浅く早くなって苦しくなってくる。
「……こころん?」
が、その声を聞いた途端、私は胸を撫で下ろして安心した。
「何だ、舞宵かよ……」
私はベッドから降りてカーテンを開けた。ドアの前に舞宵が立っていた。
「びっくりさせないでよ、ほんとに……」
「こころん、具合悪いの?」
舞宵はこちらに歩いてきながらそう尋ねてきた。
「ん、さっきまでヤバかったけどもう平気かも。授業もう始まってるよね、あんた何でここに居んのよ」
私がそう言うと、舞宵は隣のベッドに腰掛けてじっと私の顔を見てくる。
「……何よ」
思わず私は舞宵から視線を逸らした。
「誰にも何も訊かれてないよね?」
舞宵はバカ真面目な顔でそう言ってくる。
「何、それ」
まだ鼓動が速くなってくる。
「誰かに何か訊かれて、正直に答えたりしてないよね?」
「だから何っーー」
「美沢ー?」
私が言い掛けた時、また保健室に誰かが入ってきた。
私と舞宵はすぐに口を閉じた。そして舞宵は目を真ん丸に見開いて私を見た。そして、
「わっ」
私は、舞宵にベッドに押し倒された。
何するの、と言うより、舞宵がカーテンを閉める方が早かった。
「どうかしたんですか?先生」
どうやら保健室に入ってきたのは早川先生みたいだ。
「いや、美沢が倒れたって聞いたから来たんだが……、お前は何でここに居るんだ、宮下?」
呆れた声色で舞宵にそう言う早川先生。
「親友が倒れたって聞いたから心配して来たんですよぉ」
わざとらしい猫なで声で舞宵はそう言う。いつあんたと私が親友になったって言うのよ。
「で、美沢は?寝てるのか?」
「はい、まだ具合悪いみたいで眠ってます」
舞宵は、「眠っています」を強調してそう言った。……これ、空気読んで寝てるフリしてた方がいい感じ?
「そうか。……」
謎の沈黙。私は静かに鼓動を刻む胸元を手で抑えた。
「宮下、お前は早く教室に戻れ。ただでさえ居眠りが多いんだから進路に響くぞ」
「はぁい」
舞宵はだるそうに返事をし、早川先生と保健室から出ていく。二人分の足音が遠ざかっていくと、私は体を起こした。
「……」
よかった、早川先生、何ともなかった。私のことを心配してわざわざ様子を見に来てくれたんだ。寝てるフリしちゃったけど、ちゃんとお礼言えばよかったかな。後で言いに行こう。
何か、いつも通りの先生を見たら調子が戻ってきた。私も教室に戻ろう。
私はベッドから降りて、保健室を後にした。
「ぎゃはははっ……」
教室に近付くにつれ、クラスメイト達の笑い声も大きくなっていく。昨日担任が死んだって言うのに、悲しんだのは昨日だけか。状況は何も変わらないみたいだ。私はそれに思わず溜め息を零しながらも、教室の後ろのドタを開けた。
ガラッ。派手な音を立てて開けたが、笑い声のせいで、誰も私が教室に入ってきたことに気付いていなかった。
「……」
てくてくと歩いていき、自分の席に座る。そこでやっと、隣に座っていた葉山くんが私を見てきた。
「美沢さん、倒れたって聞いたけど大丈夫なの?」
そして心配そうにそう言ってきた。
「あ、うん。もう大丈夫」
私は淡々とそう答えて、黒板に視線を移した。
……別に、舞宵に言われたことを気にしてるわけじゃないけど。ただ、他のクラスメイトにもそんな風に思われたら嫌だってだけだし。
葉山くんのことは嫌いじゃない。けど、好きでもない。
ただ少し喋っただけなのに、あんなふうに言われたら気にしちゃうじゃない。
「……」
そう言えば、舞宵はまだ教室に戻ってきてないの?後ろの席は空席のままだ。教室に入る時に見回してみたけど、舞宵の姿はなかった。
おかしいな、私より先に保健室を出てったのに。アイツ、さてはどこかで道草食ってるな?
ほんと、不真面目な奴。
休み時間になって、トイレに行こうと教室を出た時、ドアの前でバッタリと舞宵と鉢合わせた。
「あ」
思わず小さな声を上げて舞宵を見て、私はぎょっとした。舞宵は何か思い詰めた表情で下を見ていたのだ。
「……あ」
ゆっくりと顔上げて私の顔を見た途端、舞宵はふにゃりと表情を和らげた。
「こころん、やほ〜」
「や、やほ……」
いつもみたいなマイペースな舞宵に何故か私は安心した。そのまま教室に入っていく舞宵を見ながら私は教室を出た。
トイレを済ませて洗面所で手を洗っていると、何やら鏡に動く人影が映った。私はゆっくりと顔を上げてその影を見る。
「暁美……」
後ろに立っているのは暁美だった。
にっこりと笑顔を貼り付けながら私の背後に近付いてくる暁美。
「こころ、話があんだけどさあ」
暁美はそう言ってじろりと鏡越しに私を睨み付けてくる。
な、何?もしかして舞宵と喋ってるところを見られたとか?暁美は明らかに舞宵をハブにしたがってるし、きっとよく思わないんだ。
「ま、舞宵とは別に仲良くしてたわけじゃないしっ……!」
「今度はウチのクラスだよ、こころ」
私達は同時にそう言った。そして言い終わった後、目を真ん丸にしてお互いを直に見詰め合った。
「え……?」
今、暁美は何て言った?「今度はウチのクラス」???
「何のこと?」
私が尋ねると、暁美は汗をだらだらと垂れ流しながら顔を近付けてきた。息も荒い。こんなに焦っている暁美は初めて見た。
「だからあの噂だよ。去年三年生のとあるクラスが失踪したってやつ。」
ドキン、と心臓が凍り付きそうになってしまった。私も暁美に釣られるように汗を垂れ流している。
「昨日、他校の大学の先輩から聞いたんだけどさ。今いじめとかそう言うのを取り締まるのにヤバいほうりつ?があるんだって」
あ、暁美、自分がいじめをしてるって自覚はあったんだ。つい私はそんなことを考えてしまった。でも待って、法律?
「それが失踪と関係あるの?」
この先を聞いてしまってもいいんだろうか。ドクドクと異様な速さで刻まれる心音を聞く限り、聞かない方がいいのかもしれない。
「……いじめをされて傷付いた被害者は、加害者を殺せるんだって」
「……は?」
「だからっ!前橋に殺されるんだよ私達っ!」
「え……」
静寂が辺りを包んだ。が、すぐに休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。暁美は無言で私の横をすり抜けて走って行ってしまった。
「やっぱり……?」
トイレに取り残された私は、バクバクと踊り狂う心臓を必死に沈めようと抑えた。
「やっぱ、昨日のはガチだったんだ」
昨日の職員室での教師達の会話と、暁美の言ったことがぴったり重なった。
私ーーいや、私達は、死ぬことになるんだ。