>>261
>論理的一貫性を持って議論しています。
君は「自分にとって自分は正しい」と言っているだけです。
君の論理の根拠は聖書だけです。しかし聖書は所詮は思想の寄せ集めであるので、矛盾を生じます。矛盾を指摘するとアドホックな言い訳をしたり、自分で考えろとしています。論理などどこにもなく、議論になりません。
>何言語で入手可能か、何部発行されたか、は別の話です。
普及の話でしょう?何部翻訳されたかが別の話なら、翻訳数での君の反論は自分で否定するという事ですか?
>検証していませんが、私の使用している新世界訳は翻訳数では世界一かもしれません。
この話です。それと君の使用している新世界訳はサタンにすり替えられていないとは検証していませんよね。「その聖書は真実の聖書なんですよね?」に対する回答ですよね?すり替えられているかもしれない聖書を信奉する動機って何ですか?すり替えられていない聖書ってどこにあるのですか?どうやってすり替えられていないと確認するのですか?
>エホバの名が残されたか、或いは神や主という言葉で置き換えられたか、これが一番の違いです。消された版では神が誰を指すのか不明瞭になりました。しかし、実質的な内容は変わりません。
エホバの名が残された、又は神や主という言葉で置き換えられたらサタンにすり替えられたものではない?そんな改ざんなどサタンなら容易でしょう?しかしサタンにすり替えられても実質的な内容は同じ?どういう事ですか?サタンはキリスト教信者なのですか?
>聖書が完全に失われた、或いは実質的に原文をたどれない程度に歪められたのであれば、サタンの勝利でしょう。現実はそうではありません。
サタンがすり替えたのに中身は実質同じという。そしてサタンの勝利ではないという。すり替えに成功しているのに、全く別の内容になってはいないから勝利ではないとは。その場しのぎの言い訳にしか聞こえません。
>神の存在を否定しているのですか。奇跡を否定しているのですか。或いは両方でしょうか。
君の反論を全否定しています。以て君の言う神や奇跡を否定しています。君の神は紛い物です。
>世のキリスト教と聖書の教えは同じではありません。
ではキリスト教と聖書は別であると。君の言うサタンのすり替え論から考えると、聖書を教えとしているキリスト教はサタンのすり替えが行われているという事になりますね。君にとってキリスト教は聖書の教えとは違う、サタンの手先という事になりますね。
>しかし多くの教義が異教的思想や習慣にすり替えられてしまいました。>>221
>サタンの力が働いているので、紛い物が混じります。ここで各自の識別力が問われます。>>228
これらの証言と整合しますね。君はキリスト教をサタンの仕業と捉えている事になりました。
>また信じるだけでは救われません。信仰を生き方で体現する必要があります。
体現するのは結構ですが、真理でもない思想を押し付ける行為で救われるとは思えません。
そもそも真理だけがあれば救われるはずです。苦悩が無くなるからです。真理を使うとは、自分の苦悩を無くすという事です。内的な世界だけで完結出来るものです。
>では議論とは何ですか。あなたはこの掲示板で何がしたいのですか。
>また、あなたの理屈で言えば、私にとって私は正しく、あなたは反論出来なくなってしまいます。
少なくとも自分の思想を押し付けるものではありません。
議論とは意見をすり合わせ、落着点を見出すものです。君は聖書が真理であるという意見から一貫して動きません。すり合わせも何もありません。
そしてそのような態度の人を否定する事は出来ます。君のしている事を真似しているだけで足りるからです。なので私は君に対して否定出来ます。
>お互い健全に批判したり、築き上げるのでなければ、このやり取りは双方に時間と労力の無駄となります。
君はアドホックな言い訳を重ねて歩み寄りの姿勢を示していません。健全な批判をしていません。聖書こそ真理と最上の位置に置いているので築き上げる行為もしていません。君は最初から無駄な事をしています。
>>>180から始まった伊藤さんとのやりとりです。
ええですから>>229からは読み取れませんと反論しています。
>君は「自分にとって自分は正しい」と言っているだけです。
聖書は万人にとって真理であると考えています。
>君の論理の根拠は聖書だけです。しかし聖書は所詮は思想の寄せ集めであるので、矛盾を生じます。
聖書は神の言葉と信じています。矛盾と思える点が誤解であることを説明しています。
>普及の話でしょう?何部翻訳されたかが別の話なら、翻訳数での君の反論は自分で否定するという事ですか?
新世界訳は比較的新しいものです。累積部数では最多ではないでしょう。
>それと君の使用している新世界訳はサタンにすり替えられていないとは検証していませんよね。「その聖書は真実の聖書なんですよね?」に対する回答ですよね?すり替えられているかもしれない聖書を信奉する動機って何ですか?すり替えられていない聖書ってどこにあるのですか?どうやってすり替えられていないと確認するのですか?
原文が見つかっていない為、完璧な写本は特定出来ません。しかし様々な写本の比較的から、高い精度で原文が復元されています。より原文に近いという意味で、新世界訳は素晴らしいと思います。しかし完璧ではないでしょう。
そもそも翻訳という作業自体、原文から必然的に乖離をもたらします。言語毎に構造や音、ニュアンスが異なります。また時代を経ると、言葉は変化します。
>エホバの名が残された、又は神や主という言葉で置き換えられたらサタンにすり替えられたものではない?そんな改ざんなどサタンなら容易でしょう?しかしサタンにすり替えられても実質的な内容は同じ?どういう事ですか?サタンはキリスト教信者なのですか?
先程引用した箴言3:5で比較してみましょう。
新世界訳版聖書
心を尽くしてエホバに頼れ。自分の考えに頼ってはならない。
新改訳版聖書
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
後者では神の名が置き換えられています。しかし教えの本質は同じです。
>サタンがすり替えたのに中身は実質同じという。そしてサタンの勝利ではないという。すり替えに成功しているのに、全く別の内容になってはいないから勝利ではないとは。その場しのぎの言い訳にしか聞こえません。
上記の例で、聖書の教えは実質同じではありませんか。
(違いは主が何を意味するかが曖昧になりました。本当は父エホバを指しているのに、子イエスを指していると勘違いする可能性があります。)
>ではキリスト教と聖書は別であると。
勿論です。それぞれ教えている内容が異なるからこそ、沢山の教派があるのです。例えばカトリックとプロテスタントでは教えの内容が異なります。
どの教派が最も聖書の教えに忠実か、という議論になりますが、私が言っているのは「真理は聖書であり、教会ではない」ということです。
>君の言うサタンのすり替え論から考えると、聖書を教えとしているキリスト教はサタンのすり替えが行われているという事になりますね。君にとってキリスト教は聖書の教えとは違う、サタンの手先という事になりますね。
聖書の教えから明らかに乖離していることに気付きながらも、その教会に従うならば、その人は聖書に書かれている神には従っていないでしょう。サタンに協力してしまうことになります。
>これらの証言と整合しますね。君はキリスト教をサタンの仕業と捉えている事になりました。
はい。意識的に聖書に従わない教会は神に反しています。
マタイ15:3, 6-9
イエスは答えた。「あなた方が自分たちの伝統によって神のおきてを破っているのはどうしてですか。
そのようにして,自分たちの伝統によって神の言葉を否定しています。 偽善者たち,イザヤはあなた方について適切にこう預言しました。 『この民は唇で私を敬うが,心は私から遠く離れている。 私を崇拝し続けても無駄である。人間の命令を教理として教えるからである』」。