聖書こそ真理と確信している者です。
神はいるのか?聖書は神の言葉か?聖書は何を教えているのか?議論しませんか。
神はいないと思います
てんかんのことをまだ理解できていない時代
てんかん患者の特異な行動を神聖なもの特別な人として見ていた時があったらしい
未知な行動や幻覚の話が人から人へと伝わる時に話が盛られたり、間違って伝わったことにより
神というものができていったんだと
シャーマンと呼ばれていた人がてんかんだったとか
元は脳が錯覚させたものがよく理解できずに特別なことと思われそこに無理やり理由付けようとして神とういう偶像が発生したのだと思います
聖書にはこう書かれています。
ローマ1:19-20
神について知りうる事柄は彼らの間で明らかだからであり,神がそれを明らかにされたのです。というのは,神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。
創造物を通して神を知ることが出来ると書かれています。例えば種を地面に埋めると芽が出てきます。見慣れた光景ですが、これは奇跡ではないでしょうか。パチンコ玉を毛布に埋めても何も起こらないのとは大違いです。
また、こうも書かれています。
ヘブライ3:4
言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です。
飛行機を見て、設計者がいないと考える人はいないでしょう。それが風が吹いてガラクタが集まって出来たとは考えません。では、蝿を見て、それが自然に出来上がったと考えるのは理に適ったことでしょうか。蝿一つとっても、その飛行制御やエネルギー効率は、今日の飛行機を凌駕しているのに、です。偉大な設計者がいると考えるのは理に適ったことでしょう。
神はいないですね
神が救ってくれる!とか人々に安心させるための幻想でしょ(自信なし)
いると思えばいる いないと思えばいない
信じるものは救われるが真理やろ(適当)
>>1
最近私も中川健一牧師の動画を観てて、キリスト教はやはり興味深い話だと思う。
創造物を通して神を知ることが出来ると書かれています。例えば種を地面に埋めると芽が出てきます。見慣れた光景ですが、これは奇跡ではないでしょうか。パチンコ玉を毛布に埋めても何も起こらないのとは大違いです。
なぜ地面に種を植えるとみたいなことの仕組み、原因が理解できていない状況の時にはそれが奇跡みたいに感じて必要以上に神格化してしまう
脳というのは都合よく補完しようという機能があります
虫食いの画像とかに脳が想像でこんなんだろうと補完してそれっぽく作り出してしまう機能
そうやって何かに対して仕組みを理解できない時に奇跡だとか、神がだとかで都合よく補完をしてしまい
奇跡だ神がとかになったのだと思います
幽霊とか、UFOとかもそういう類なのかと
一昔前では映像の技術的なものでアナログ的なこととか偶然できた映像や、画像を幽霊、UFOとして勘違いしてしまう人が多かったですが
技術的なことが進むにつれ明らかにそういうものを見る人が減っている
「理解出来ないこと」故に、神が存在すると結論するのは早計である、という意見が多い様に思います。全くもっともなことだと思います。
しかし「理解出来ていること」については如何でしょうか?
例えば飛行機を見る時、そこにデザイナーやエンジニア、投資家や製造者が関わっていることを私達は知っています。言いかえると、想いや知識、思考、目的や意志などが必要だと言うことです。そういったもの無しには飛行機が出来上がらないと私達は理解しています。
一方で蝿はどうでしょうか。滑走路を必要としない瞬間的な離着陸、直角的に曲がることも出来る高度な飛行能力、素晴らしいエネルギー効率を誇ります。飛行機よりも遥かに高度です。その飛行機よりも高度な蝿が、想いや知識、思考や目的、意志無しに出来上がったのでしょうか?そこにもまた「高度な知識や意志を持った設計者」がいると考えることは論理的ではないでしょうか?
色々な方に参加して頂き、感謝致します。
その設計者がいるという論理的な根拠はあるのでしょうか?
10:カーリー:2019/01/25(金) 11:05 ID:mAY 蝿が存在する→エネルギー効率が飛行機よりも高度である→飛行機は設計者がいる→蝿も高度な設計者がいるだろう
が、蝿に設計者がいるという主張と根拠、論拠ですよ。
全ての宗教は“後世の使徒たち”によって体系化されてますよね。
別に聖書だけが特別なモノでも無い。
>>11
聖書が特別な理由、それが神の言葉と信じられる理由の一つとして、具体的な預言とその成就があります。一例を挙げてみます。
以下の預言は、今日の米国の様に、バビロンが大国であり、キュロスという人物さえ生まれていない時に、バビロンの滅び、そして誰がどの様に攻めるかの状況を預言しています。
◼預言
イザヤ44:27-45:2
水の深みに,『蒸発せよ。わたしはあなたのすべての川を干上がらせるであろう』と言う者,キュロスについてこのように言う者,『彼はわたしの牧者であり,わたしの喜ぶことをすべて完全に成し遂げるであろう』と。すなわち,エルサレムについて,『彼女は建て直されるであろう』,神殿について,『あなたはその基を据えられるであろう』と言うわたしのことばをも」。エホバは,その油そそがれた者キュロスにこのように言われた。わたしはその右手を取った。それは,彼の前に諸国の民を従えるため,わたしが王たちの腰の帯を解くためである。彼の前に二枚扉を開いて,門が閉じられないようにするためである。「わたし自らあなたの前を行き,地盤の高みをまっすぐにする。わたしは銅の扉を粉々に砕き,鉄のかんぬきを切り落とす。
◼成就
その預言が書かれてから約200年後、西暦前539年10月5日の夜、ペルシャ王キュロスがバビロンの近くに陣営を張ります。その夜、バビロン人は堅固な城壁の中、安心して宴会を開いました。キュロスは市内を流れる川の進路を変え、川の水位を下げ、部下達が川床を渡って城壁に近付ける様にしました。城壁に近付くと、不注意にも門は開け放たれていました。こうしてキュロスはバビロンに侵攻し、滅ぼしました。
預言と成就を比較してみて下さい。キュロスという人物がバビロンを滅ぼす。その時に川の水は減り、城門は何故か開いている。かなり具体的に聖書預言の通りです。その預言は成就の200年前に記録されました。
現代に例えるならば、大国アメリカの200年後の滅亡を誰がどの様に行うか、それを具体的な預言として書物に記録することに匹敵します。
因みに、その夜のバビロンの宴会の様子が聖書の別の箇所に記されています。
ダニエル5:1
王ベルシャザルに関して言うと,彼は自分の大官一千人のために大きな宴会を催し,その一千人の前でぶどう酒を飲んでいた。
ダニエル5:5
まさにその時,人の手の指が現われて,燭台の前,王の宮殿の壁のしっくいの上に文字を書いていった。そして王は文字を書くその手の甲を見ていた。
ダニエル5:27-28
「テケル,あなたは天びんで量られて,不足のあることが知られた。「ペレス,あなたの王国は分けられて,メディア人とペルシャ人に与えられた」。
ダニエル5:30-31
まさしくその夜,カルデア人の王ベルシャザルは殺され,メディア人ダリウスがその王国を受けた。ダリウスはおよそ六十二歳であった。
神がご自身でバビロン滅亡に関与されたことを明らかにされました。
更にバビロンのその後につき、再建されることも、その場所に別の都市が建つこともなく、荒廃がいつまでも続く、と預言されています。
◼預言
イザヤ13:19-22
そして,もろもろの王国の飾り,カルデア人の誇りの美であるバビロンは,神がソドムとゴモラを覆されたときのようになるのである。彼女は決して人の住む所とはならず,また,彼女が代々にわたって住むこともない。そしてアラブ人はそこに天幕を張らず,羊飼いもその群れをそこに伏させない。そして,水のない地域にせい息するものが必ずそこに伏し,彼らの家々には必ずわしみみずくが満ちる。また,そこには必ずだちょうが住み,やぎの形をした悪霊たちもそこで跳ね回ることであろう。そしてジャッカルがその住まいの塔の中で必ず遠ぼえし,大きなへびが無上の喜びの宮殿にいることであろう。そして,その時期は間近に到来し,その日が延ばされることはない」。
◼成就
この預言は今日に至るまで継続して成就しており、バグダットの南約80キロの所にバビロンの遺跡があり、そこには人が住んでいません。聖書預言が現代に至るまで継続的に成就し続けていることに注目して下さい。
これは聖書が他の書物と異なる一例に過ぎません。
>>12
聖書どおりに事を起こそうとすることも可能である以上、一定の狂信者がわざと聖書に書かれていることを引き起こした可能性もある。
王自身が狂信者だったら?
なお、その時間が起こる具体的な日付までもが聖書に記載されていたなら聖書のパワーも半信半疑程度には信じるが。
あとは、
例えば聖書に宇宙人が攻めてくると書かれていて、本当に攻めてきた場合は、地球側の何者かが通謀して宇宙人に攻めこませるのは実現不可能な可能性が高いので、信じるかもしれないね。
でも、あれだ。
狂信者がやらかすことまでもを想定していたとすれば、起こったことは事実なわけで聖書どおりとも言えるね。
>>13
私は歴史に詳しい訳ではありませんがキュロス王はゾロアスター教であり、異教徒的立場である為、聖書預言の狂信者ではないと思われます。
いずれにしても滅ぼされる側が、征服者を助ける為に扉を開けておくでしょうか。考え難い様に感じます。
更には、その預言が現代までも継続的に成就していることに注目することが出来ます。例えば東京が陥落した場合、その土地が2500年以上も廃墟のままにされるでしょうか。きっと征服者自身が直ぐに、或いは後代の人が都市を再建することでしょう。
>>16
表向きはゾロアスター教徒でも、実は聖書予言の狂信者ということもあるしさ。
滅ぼされる側が←今の日本の政治家を見るとらどうもそういう認識は出来ないね。当時の統治者たちは全員愛国者だったのかどうなのかは知らないが。
>>17
ご意見ありがとうございます。
聖書に収められた預言の中で、いわゆる「自作自演」が難しいと思われるものは他にもあります。イエスに関する例を見てみましょう。
預言では、大都市ではなくベツレヘムという小さな町で救世主が生まれると書かれています。確率論的に不利な、小さな町で生まれると書かれています。
(因みにベツレヘムは二つあり、二つの内、エフラタの方と指定されています。)
◼預言
ミカ5:1
「そして,ベツレヘム・エフラタ,ユダの幾千の中に入るには小さすぎる者よ,イスラエルにおいて支配者となる者があなたの中からわたしのために出る。その者の起こりは遠い昔から,定めのない昔の日からである。
◼成就
ルカ2:1-6
さてそのころ,人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから出た。(この最初の登録はクレニオがシリアの総督であった時に行なわれたものである。)それで,すべての人が登録をするため,それぞれ自分の都市に旅立った。もとよりヨセフも,ダビデの家また家族の一員であったので,ナザレの都市を出て,ガリラヤからユダヤに入り,ベツレヘムと呼ばれるダビデの都市に上った。約束どおり彼に嫁ぎ,今は身重になっていたマリアと共に登録をするためであった。彼らがそこにいる間に,彼女の出産の日が来た。
預言通り、ベツレヘムでイエスは生まれます。(エフラタの方です。)何故か?それはカエサルから人口調査の布告があり、ヨセフが故郷に戻ったからです。この布告は聖書外でも確認出来る歴史的史実です。
布告を出したカエサルも異教徒であり、イエスの味方ではありません。生まれる前のイエスが、自分を救世主とする為に、自作自演として生まれる場所を指定することは人間業では出来ないでしょう。
更に聖書預言では、救世主はエジプトから呼び出される、と書かれていました。
◼預言
ホセア11:1
「イスラエルが少年であった時,わたしはこれを愛した。エジプトからわたしは自分の子を呼び出した。
◼成就
マタイ2:13-15
見よ,エホバのみ使いが夢の中でヨセフに現われて,こう言った。「起きて,幼子とその母を連れてエジプトに逃げ,わたしが知らせるまでそこにとどまっていなさい。ヘロデがまさに,この幼子を捜して滅ぼそうとしているからである」。そこで彼は起き,夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに退き,ヘロデの死亡までそこにとどまった。これは,エホバがご自分の預言者を通して,「エジプトからわたしは自分の子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。
救世主による政治不安を恐れ、ヘロデ王は二歳以下の男子の殺戮を命じました。こちらも聖書以外で確認出来る史実です。ヨセフ一家はエジプトに避難し、ヘロデの死後、エジプトから戻ります。
こちらもまた、幼児であったイエスには自作自演が出来なかった事柄です。
その他、イエスに関しての預言は多々ありますが、殆どが具体的なものです。
聖書が人間業で書かれたものではないかもしれない、と少しでも感じて頂けたら嬉しいです。
>>18
中川健一牧師の動画はいつも見ていて、興味はあるのですよ。
でも牧師ということはカトリックでないのか……。
>>19
聖書にご興味を持って頂けている様で嬉しいです。
カトリックの教えは完全に聖書から逸脱していると考えて良いと思います。聖書の教えとカトリック教会は、もはや別物と言って差し支えないと思います。
牧師はプロテスタントに於ける聖職者を指しますよね。中川健一氏は熱心な様ですが、三位一体を信じており、(ここは大きな論議を呼ぶとは思いますが)どう考えても三位一体は聖書に基づく教えではないと思っています。
イエスをお手本として生きるということは、イエスを崇拝することではありません。イエスがそうされた様に、父なる神を崇拝することです。イエスご自身、私を崇拝しなさいとは言いません。只、父なる神を崇拝する様に教えています。
キリスト教世界は本当に権力的操作や誤解に満ちていますが、只々、聖書だけが真理だと考えています。
>>20
全人類の罪を全て身に受けたイエスキリストを受け入れることが救われるための要件ではないのですか?
まさかモルモン教やらエホバの証人の方とかじゃありませんよね?
23:アーリア◆GM:2019/01/28(月) 00:21 ID:0/6 三位一体を否定なさるということは、エホバの証人の御方という可能性が浮上してしまうのですが……
私はまだキリスト教徒ではありませんが、仮に入信するとしたらカトリックを希望してました……。
>>21
仰る通りです。聖書に基づく考えであり、私もそう信じています。
>>23
所属組織がどうである、この教会がこうである、というお話は本題から逸れてしまいかねないので、避けたいと思います。あくまで聖書は真理か、聖書は何を教えているか、を議論致しましょう。
予言は天変地異が示されていれば超常的な力がありそうだとはなりますが、人為的に起こせるものは台本のようなものとも思います。
27:伝道者◆zc:2019/01/28(月) 21:59 ID:cO. 預言から話は逸れますが、聖書は科学的にも人間業を超えた記述が記録されています。
古代の多くの人々は、地球が巨人や水牛や亀によって支えられていると信じていました。その時代に於いて、聖書は地球が真空に浮かんでいると述べています。
ヨブ26:7(紀元前1473年頃に書かれた)
神は北をむなしい所の上に張り伸ばし,地を無の上に掛けておられる。
3500年程前に既に、地球が無の上に浮いていることを示唆する記述を残しています。
また、古代ギリシャ人は川の水は地下の海から来ていると考え、この説は18世紀まで信じられていました。一方、聖書は水の蒸発や循環を述べています。
アモス9:6(紀元前804年頃に書かれた)
海の水を呼び出してそれを地の表に降り注がせる者,エホバがその名である』。
ヨブ36:27-28
神は水のしずくを引き上げられ,それは神の霧のために雨として漏れるのである。ゆえに,雲は滴り,人の上に豊かに滴り落ちる。
イザヤ55:10(紀元前732年頃)
降り注ぐ雨,また雪は,天から下り,実際に地にしみ込み,
伝道の書1:7(紀元前1000年頃)
冬の奔流はみな海に出て行くが,それでも海が満ちることはない。冬の奔流はその出て行く場所へ,そこへ帰っては出て行くのである。
更に、多くの神話では神が山々を今ある形に造ったとしています。それに対して、聖書は山々の隆起や沈降に言及しています。
詩篇104:6(紀元前460年頃)
あなたは水の深みを衣のようにしてそれを覆われました。水は実に山々の上に立っていました。
詩篇104:8
山々は隆起し,谷あいの平原は沈下しはじめました ―あなたがそのために基を置かれた場所へと。
何故この様なことが知られていなかった古代に、聖書各書の著者は現代人と同様の科学的記述が出来たのでしょうか。
聖書にはこう書かれています。
テモテ第二3:16(西暦65年頃)
聖書全体は神の霊感を受けたもの
聖書は決して科学書ではありません。それでも神、つまり万物の創造者からの霊感により記されたのであれば、当然、その記載は科学的にも正しいことが納得出来ます。
>>23
三位一体、特にイエスを神とする点についての主要論拠はヨハネ1:1、ヨハネ10:30ですが、論拠として弱いと思います。割愛しますが、これには反論が存在します。
聖書の聖句は単体で解釈するべきではなく、他の聖句とも参照し、全体として聖書が何を教えているのかを読み取る必要があります。
三位一体を否定する聖句は沢山ありますが、幾つか挙げてみます。
テモテ第一2:4-5
神のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです。神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであって,
ヨハネ17:3
彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。
コリント第一11:3
あなた方に次のことを知って欲しいと思います。すべての男の頭はキリストであり,女の頭は男であり,キリストの頭は神です。
ヨハネ14:28
父はわたしより偉大な方だからです。
(イエスの言葉)
ペテロ第一1:3
わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。
確かに神は父だけであり、イエスは同等ではないと聖書は教えています。イエスは私達の主、王であり、救い主、救いや真理への道ですが、神ではありません。
イエスの姿勢を考慮してみると、更に明白です。ご自身を崇拝する様にとはされず、只々、父なる神に栄光を帰しています。
マタイ6:9-10
「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。「『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。 あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように。
マタイ4:10
イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。
ルカ22:42
こう言われた。「父よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯をわたしから取り除いてください。しかしやはり,わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」。
マルコ12:28-30、32、34
そばに来て彼らが議論しているのを聞いていた書士の一人は,イエスが彼らにみごとに答えたのを知って,こう尋ねた。「すべてのうちどのおきてが第一ですか」。イエスはこう答えられた。「第一は,『聞け,イスラエルよ,わたしたちの神エホバはただひとりのエホバであり,あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。
書士は彼に言った,「師よ,『神はただひとりであり,そのほかにはいない』と,真理に即してよくぞ言われました。
するとイエスは,彼がそう明な答えをしたのを見て,「あなたは神の王国から遠くありません」と言われた。
聖書全体、或いは一部は2300以上の言語で出版され、世界人口の90%以上が入手出来ます。今まで何十億冊と出版され、現在でも毎週100万冊以上が配布されています。またオンラインでも無償で入手が可能です。この様な書物は他にありません。
神は確かに真理が誰にでも入手出来る様にされています。真理を見出すかどうか、それは私達の努力に託されています。
聖書にこう書かれています。
ヤコブ4:8
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。
>>1
議論とは名ばかりの、単なる“布教活動スレ”になっているような気がしますけど?
ちなみに創価学会についてはどう思われますか?
自分か真理だと思えば真理 信じるものは救われるで全部まとまる気がする(議論もクソもなくなるけど)
32:がべーじ◆.I:2019/02/09(土) 00:55 ID:2xM宗教の怖い所は「神がいない」と断言出来ない事だよなぁ。無い事を証明するのはほとんど不可能なんだから。だからこれ程栄えたのであって。結局>>31。
33:伝道者◆zc:2019/02/10(日) 12:22 ID:Y5E >>30
>議論とは名ばかりの、単なる“布教活動スレ”になっているような気がしますけど?
確かにあまり議論に至れていません。反論や粗探しを期待しています。
>ちなみに創価学会についてはどう思われますか?
スレ違いなので、コメント無しでお願いします。
>>31
>自分か真理だと思えば真理 信じるものは救われるで全部まとまる気がする(議論もクソもなくなるけど)
真理だと信じられるかが大切なのかなと思います。それには感性的同調だけでなく、正確な知識の吸収、解釈の検討、証拠の信頼性、論理性の確認、実用した結果の検証が含まれます。徹底的にテストしてこそ確信に至るのであり、それは盲信とは異なります。盲信では肝心な時にポキッっと折れてしまいかねない。
以下の聖句の通り、聖書自体、盲信を進めておらず、確信を教えています。
ヘブライ11:1
信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。
フィリピ1:9
わたしはこう祈り続けています。あなた方の愛が,正確な知識と十分な識別力に伴っていよいよ満ちあふれるようにと。
>>32
>宗教の怖い所は「神がいない」と断言出来ない事だよなぁ。無い事を証明するのはほとんど不可能なんだから。
神がいるかいないか、その問題に対して、いるらしい、という答えを出されたのであれば、次の問題は、その神は誰か、や、その神は人間を気遣っているのか、といった問題が続きます。一つ一つ心と頭の両方で納得のいく答えが見つかると良いですね。
障害を持って産まれてきた子供とか、殺されるのを待つだけの家畜、弱肉強食を作る神は果たして本当に善良な存在なのだろうか
37:タノシーヌ hoge:2019/02/12(火) 03:11 ID:iQI 神様か…私はいないと思っているし、聖書は信じていないな。
だって、聖書には要約すると『神様はいい人!悪魔は悪いやつ!』『人殺しはダメ!』って書いてあるのに悪いやつと言われている悪魔より神様の方が人を沢山殺めている。もうこの時点で矛盾している
(実際、ノアの方舟の話でノアの家族以外の人間を全員殺している訳だし…)
まあ、宗教自体『信じるも信じないも貴方次第』だから別にいいと思うよ
>>36
>障害を持って産まれてきた子供とか、殺されるのを待つだけの家畜、弱肉強食を作る神は果たして本当に善良な存在なのだろうか
神は人を完全に造りましたが、最初の人間アダムとエバが不忠実の罪を犯した為、人間は神の完全保護を失い、不完全となり、死や病が入り込み、それは罪深い傾向と共に遺伝の様に継承されていきました。
ローマ5:12
一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった
それ故に現在、全ての人は病にかかったり、また死を免れることが出来ません。生まれつきの障害も同じ様に理解することが出来ます。全ての人間が、アダムとエバからの不完全さを継承しています。
罪無くして生まれ完全であった人アダムの犯し広まった罪を償うには、もう一人の罪無くして生まれ完全であった人イエスの義が必要でした。(目には目、歯には歯に見られる等価代償の原則です。)イエスがそなえて下さった贖いを通して、救いがもたらされます。
ローマ5:19
一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人の方の従順を通して多くの者が義とされるのです。
そして将来の楽園に関して、聖書はこう預言しています。
イザヤ35:5
その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる。
屠殺される家畜や弱肉強食について、聖書の教えはこうです。
創世記1:28-30
神は彼らを祝福し,神は彼らに言われた,「子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。次いで神は言われた,「さあ,わたしは,全地の表にあって種を結ぶすべての草木と,種を結ぶ木の実のあるあらゆる木をあなた方に与えた。あなた方のためにそれが食物となるように。そして,地のあらゆる野獣と,天のあらゆる飛ぶ生き物と,地の上を動き,その内に魂としての命を持つすべてのものに,あらゆる緑の草木を食物として与えた」。そしてそのようになった。
上の聖句から二つのことが分かります。
1.人は全ての生き物を従えること。
2.神は全てを草食に創造されたこと。
その人間が神に反逆し、動物の虐待や肉食を始めました。人間に服従していた側の動物にも混乱が広まったと考えられます。結果、肉食や弱肉強食が動物界でも始まりました。
つまり全ての悪いことは、神故にでなく、人故に起きています。しかし神は全てのことを正されます。将来、地球で実現する楽園について、聖書はこう預言しています。
(肉食獣が草食に戻っていることに注目して下さい。)
イザヤ11:6-8
そして,おおかみはしばらくの間,雄の子羊と共に実際に住み,ひょうも子やぎと共に伏し,子牛,たてがみのある若いライオン,肥え太った動物もみな一緒にいて,ほんの小さな少年がそれらを導く者となる。また,雌牛と熊も食べ,その若子らは共に伏す。そしてライオンでさえ,雄牛のようにわらを食べる。そして乳飲み子は必ずコブラの穴の上で戯れ,乳離れした子は毒へびの光り穴の上にその手を実際に置くであろう。
>>37
>聖書には要約すると『神様はいい人!悪魔は悪いやつ!』『人殺しはダメ!』って書いてあるのに悪いやつと言われている悪魔より神様の方が人を沢山殺めている。もうこの時点で矛盾している
(実際、ノアの方舟の話でノアの家族以外の人間を全員殺している訳だし…)
法律によると、殺人は駄目、人の自由を奪うのも駄目、ですよね。しかし、その法律に基づき、政府は死刑や投獄を執行します。何故でしょうか?
殺人者を裁判官は裁き、死刑を宣告することがあります。これは矛盾でしょうか?
矛盾ではありません。その権限が政府には与えられています。裁判官は司法権を行使します。
神も同じです。神は裁かれる側でなく、裁く側の方です。
申命記1:17
裁きは神のものだからである。
しかし聖書中の様々な事例から分かる通り、幸い、神はとても憐れみ深い方です。
ネヘミヤ9:31
あなたは慈しみ深く,憐れみ深い神であられます
煽りとかでなく純粋な質問なんだけど、キリスト教ってイエスを信じないと地獄に落ちるの?
人を裁くのに悪魔を裁くことはできないの?全知全能じゃないの?
ってのがキリスト教と聞いて抱く疑問。
あとは、聖書を真理だと思う根拠を聖書関連以外の出典でお聞きしたい。
スレ主は聖書出典しか答えてないけど、「聖書が正しいかどうか」の議論に聖書を根拠にするのはおかしくね?
聖書が信用に足るかどうかの質問に対して「聖書にはこう書いてあるから○○は正しい」とか言われても理解できん
聖書が真理である理由は何?
まずはそこが議論できないと、聖書を信じてない人からしたらスレ主が聖書の内容を布教したいようにしか見えない。
>>41
違和感の正体はそれだ!
ここに書き込む人のほとんどが“聖書を信じてない”から、聖書が正しい前提でレスされても“布教活動”に見えてしまうんだよね。
そこんとこスレ主は理解してるかな?
スレ主は聖書が真理であるという根拠を、議論板の住人が納得できるような形で提示してほしいね。
そもそも聖書を全部読んだことある人がここでは少ないと思う。
知識をひけらかしたいならブログでも書けばいいし、誰かの疑問に答えたいなら質問板の方が合ってる気がする。
もし信者同士で聖書解釈の議論がしたいなら、無神論者や異教徒でも書けるこういう掲示板じゃなくて、信者のコミュニティでやればいいと思う。
ここでそういう議論を期待しない方がいいよ。
中川健一牧師が言うには、神はあえて悪魔を放置しており、
その理由については人間が到底判るようなものではないとのことだ。
まあ、上記主張に対する私の感想は控えておこう。
宗教の話でそれが真理かどうかを話し合うのは正直ナンセンスだと思う
科学では否定も証明もできないし、結局は自分がそれだと思ったらそれが真理だし なにより個人の価値観…
投稿頂き、ありがとうございます。
>>40
>聖書を真理だと思う根拠を聖書関連以外の出典でお聞きしたい。
>>41
>スレ主は聖書出典しか答えてないけど、「聖書が正しいかどうか」の議論に聖書を根拠にするのはおかしくね? 聖書が信用に足るかどうかの質問に対して「聖書にはこう書いてあるから○○は正しい」とか言われても理解できん 聖書が真理である理由は何?
>>42
>スレ主は聖書が真理であるという根拠を、議論板の住人が納得できるような形で提示してほしいね。
回答致します。
例えば聖書に書かれた預言が具体的に過去に的中したことから、聖書が特別な本であることが分かります。聖書に書かれた預言が約200年後に成就しています。歴史上の史実として、聖書預言の確かさが証明されました。
>>12
例えばまた、聖書は古い書物であるのに、書かれた当時は人間に知られていなかった筈の科学的に正確な記述があります。
>>27
更にはまた、歴史の中で何度も発禁処分、所持や翻訳禁止とされたにも関わらず、今日、世界中のあらゆる人が母語で入手出来る様になっている特別な本でもあります。
>>29
以上、聖書が人間業を超えた、神からの書物であると思われる点、何点か例を挙げましたが、如何でしょうか。
>>42
中川健一牧師が言うには、神はあえて悪魔を放置しており、 その理由については人間が到底判るようなものではないとのことだ。
その理由を説明します。
聖書中、サタンが自分は神より強いと述べたことは一度もありません。神には敵わないことを、サタンは自覚している様です。
サタンが問題にしているのは、神の主権の用い方です。例を見てみましょう。
創世記3:1-5
さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで蛇が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。それに対して女は蛇に言った,「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。でも,園の真ん中にある木の実を食べることについて,神は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。それに対して蛇は女に言った,「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その木から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。
ヨブ1:9-11
するとサタンはエホバに答えて言った,「ヨブはただいたずらに神を恐れたのでしょうか。あなたが,彼とその家と彼の持っているすべてのものとの周りにくまなく垣を巡らされたではありませんか。彼の手の業をあなたは祝福されたので,その畜類は地にふえ広がりました。しかし逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを[見てください]」。
この状況を分かりやすい例で考えてみましょう。或る大臣(サタン)がいます。王(神)に敵わないことは知っていますが、嫉妬心から王の統治のやり方に異議を唱え、挑戦します。残念ながら、多くの国民(天使や人間)はサタンの扇動に乗せられてしまいます。
ここで王がすべきことは、反逆した大臣の即時処刑でしょうか。それでは独裁者になってしまいます。きっと更に多くの国民が「やはり王の統治はおかしい」と内心考えることでしょう。問題の本当の解決にはなりません。
一方、公正な王であれば、大臣にこう言うでしょう。「あなたが思う様にしばらく統治してみなさい。私が正しいことを、あなたが間違っていること、時と結果が万人に証明するでしょう」と。それが公正に証明された後、大臣は取り除かれるでしょう。
正にこれが、大臣(サタン)が一時的に支配することを王(神)が許している理由です。
この解釈が聖書的に正解であるか考察してみましょう。
ヨハネ第一5:19
全世界が邪悪な者の配下にあることを知っています。
確かに現在の支配者はサタンだと聖書は教えています。
申命記32:4
岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる。
確かに神は公正な方と書かれています。
ペテロ第二3:9
エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。
ローマ2:4
それとも,神の温情があなたを悔い改めに導こうとしていることを知らないために,その親切と堪忍と辛抱強さとの富を侮るのですか。
現在、確かに神は辛抱されています。
ヨハネ12:31
今,この世の裁きがなされています。今やこの世の支配者は追い出されるのです。
確かにサタンは取り除かれると聖書に書かれています。つまり、上記の解釈は聖書に即しています。
以上、何故、サタンの存在が一時的に神に許されているのか説明してみました。
>>40
>煽りとかでなく純粋な質問なんだけど、キリスト教ってイエスを信じないと地獄に落ちるの?
多くのキリスト教会では地獄の存在を教えています。これには二つの理由があります。
1.信者拡大の為、教義に妥協を施し、ギリシャ哲学など、魂は不滅とする非聖書的な考えを取り入れたから。
2.それに基づき、聖書の翻訳を改ざんし、地獄という訳語を当てはめたから。
キリスト教会が何を信じていようと、聖書には本当は何と書かれているか見てみましょう。
マタイ10:28
体をころしても魂をころすことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
エゼキエル18:20
罪を犯している魂 ― それがしぬのである。
魂は不滅ではないと聖書に書かれています。
伝道の書9:5-6
死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。
死者は意識がなく、罰せられることも苦しむことはない、と聖書に書かれています。
>人を裁くのに悪魔を裁くことはできないの?
>>42
をお読み下さい。
>全知全能じゃないの?
神は全知全能です。
訂正です。
>人を裁くのに悪魔を裁くことはできないの?
>>46
をお読み下さい。
>>45
>例えば聖書に書かれた預言が具体的に過去に的中したことから、聖書が特別な本であることが分かります。
ちなみにこれまで2000年前後の永い歳月を費やした現在の時点で、
聖書に記載された「預言」というものが何件くらいあって、
関係者の間ではそのうちの何件が的中したとカウントされているのですか?
例えばもしもこのオレが今『東京都港区に積雪50センチの大雪が降ります』と予言したとして
それが図らずも30年後に現実になったとしても、その事に何の意味があるのでしょうか?
それから100年後の人々は、オレを神がかった預言者としてあがめ奉ってくれるのか知らん?
>>44
>宗教の話でそれが真理かどうかを話し合うのは正直ナンセンスだと思う
科学では否定も証明もできないし、結局は自分がそれだと思ったらそれが真理だし なにより個人の価値観…
ヤキソバさん、コメント頂き、ありがとうございます。
確かに聖書は宗教の本です。科学書でも医学書でも歴史書でもありません。
でも聖書の中にも科学に関した記述、医学に関した記述、歴史に関した記述があります。それぞれの記述に関して、科学者が、医学者が、歴史家が検証することは可能です。
例えばノアの日の大洪水の際、神がノアに与えた造船指示に関して、箱舟の仕様の一部が聖書に記録されています。以下、聖書から引用します。
創世記6:14-16
あなた自身のために,やに質の木の材で箱船を造りなさい。その箱船の中には仕切り室を造る。それを内側も外側もタールで覆わねばならない。そして,あなたはそれをこのように造る。すなわち,箱船の長さは三百キュビト,その幅は五十キュビト,その高さは三十キュビト。あなたはその箱船のためにツォハル[屋根,もしくは窓]を造り,それを上方,一キュビトに仕上げ,また箱船の入口をその側面に付ける。あなたはそれに下の階と二階と三階を造る。
創世記はモーセによって紀元前1513年に「書き終え」られました。つまり上記の文章は、少なくとも今から3532年前に書かれたということです。(そして写本研究により、聖書は素晴らしい精度で代々写本され、原本の内容が保持されてきたことも明らかにされています。)
上記の箱舟の仕様は、かのタイタニック号に匹敵するクラスの大きさで、3532年前の人類が持っていなかった設計知識です。今日、船の設計技師は箱舟のスペックがあらゆる面で非常に適切であること、何故それが3500年以上も前に書かれた書物に記録出来たのか、驚いています。
このことは人間業を超えた力が聖書に働いていること、つまり聖書は神からの書物である可能性を示唆する一例です。
また聖書は道徳が書かれた本でもあります。その道徳基準は世間の発想からすると意外なものが多いですが、当てはめて実践する時、その教えが本当に有効であると味わい知ることで、各自が自ら検証出来るでしょう。
神はいるのか、悪は何故あるのか、世界の目的とは、人生の目的や存在理由とは何か等々、形而上学的な論理構造も、聖書の教えは非常に優れています。
聖書の教えは心に響き、凶悪な犯罪者を善人に変化させることも出来ます。悲しんでいる人に慰めや希望も与えます。
それらのことを「総合的に」勘案する時、正にこれこそが真理であると確信することが出来ると私は感じています。
>>49
サビぬきさん、コメント頂き、ありがとうございます。
>ちなみにこれまで2000年前後の永い歳月を費やした現在の時点で、 聖書に記載された「預言」というものが何件くらいあって、 関係者の間ではそのうちの何件が的中したとカウントされているのですか?
整然と整理番号が振ってある訳ではないので、何件の預言があるか、人によって解釈が異なると思います。
一文に複数の出来事の記述があるのを一件と見るのか、類似しているが少し異なる内容の文を別件と見るのか、など。成就した後で、実は預言されていたことが後で分かる場合もあります。
成就についても、部分的に成就した後、完全な成就を後日に見る場合もあれば、予表としてユダヤ人に小規模に成就済みだが将来的に大規模に人類に成就するとされているものもあります。
更には、こうなるであろうと言った「直後」にそうなった場合、それも所謂「預言」として数えるのか?遥か古代の出来事の為、成就が「歴史的重要資料としての側面も持ち合わせる」聖書でしか確認出来ない自己申告型の場合を数えるのか?などなど。
正直、統計的なカウントは難しいと思います。
>例えばもしもこのオレが今『東京都港区に積雪50センチの大雪が降ります』と予言したとして
それが図らずも30年後に現実になったとしても、その事に何の意味があるのでしょうか?
仰る通り、その様な曖昧な預言があるのは確かです。しかし、
>>12
の預言はもっと具体的ですね。大国バビロンが誰によって、どの様に滅ぼされ、その後がどうなるのか、明示されています。
そして曖昧な預言でも、複数が重なると具体性を増します。50センチの大雪のある「その同じ日」に震度5の地震があり、同時多発テロもあり、歴史的な山火事もあり、科学的な大発見もあるとしたらどうでしょう。全てが同じ日に起こるならば、それは注目に値する預言群となりますよね。偶然と言える可能性は低くなります。
イエス・キリストに関するメシア預言、つまりイエスが救世主だと裏付ける預言で同じことが起きています。生まれる場所、幼児期の避難場所、死に方、葬られ方、死後に人々がすること、ありとあらゆる預言群がイエス一人に成就します。(その中の一部はイエスや仲間が自作自演出来ないもの、更にはイエスの反対者により実現されているものも含まれます。)数百の預言があると言われていますが、その代表的なもの僅か八つだけでも、同じ特定の人に成就する可能性は100000000000000000分の1と、或る学者が計算しています。
船の話が出てたんで書かせてもらうよ。
>上記の箱舟の仕様は、かのタイタニック号に匹敵するクラスの大きさで、
>3532年前の人類が持っていなかった設計知識です。
>今日、船の設計技師は箱舟のスペックがあらゆる面で非常に適切であること、
>何故それが3500年以上も前に書かれた書物に記録出来たのか、驚いています。
何を持って「適切」なのか・・・ 。
世界最大級の木造船舶は日本の海上自衛隊が「やえやま級」を持っていた。
アメリカ海軍のアヴェンジャー級とともに、今だ世界最大級の木造船舶となっている。
「やえやま級」は多機能を持たせるため大型化が求められた。
しかし日本には台風が在るのでやみくもに大型化は出来ず
結果的にアヴェンジャー級と同等となり研究だけで二年ほど、
設計建造に8年もの歳月をかけて作られている。
1993年就役となっているから特別に古い船と言う訳でも無い現代船だ。
そんな「やえやま級」でさえ全長 67メートル。
対してタイタニック号(オリンピック級)は全長 269.1メートル。
長さだけなら世界最大の戦艦、大和級をも上回る船体サイズだ。
世界最大級の木造船舶やえやま級の4倍の全長で
排水量で比べたらもはやケタが異なってしまう。
つまり、タイタニック号(オリンピック級)の木造船って
現代技術でもデタラメなスペックであり、何が適切なのか分からない。
というか、全長 67メートルのやえやま型でさえ
現代技術でも建造に4年ほど掛かっている。
それを3500年以上も前の造船技術で
タイタニック号(オリンピック級)の建造って・・・
ウィキペディア調べで
箱舟のサイズは「長133.5m、幅22.2m、高13.3m」
そして「長:幅:高=30:5:3」の比率は、
現在のタンカーなどの大型船を造船する際に、
最も安定しているといわれる比率とほぼ同じとなる。
と書かれているが、そもそも大型タンカーと
ノアの箱舟とは構造もサイズも異なる。
大型タンカーは最大の物で全長488メートル。
だいたい300〜400メートルの物が主流であるから
全長133.5メートルの箱舟に適応するのは間違いだ。
つまり船体の概観的寸法・比率が近くとも、
実際に水に浮かべると喫水線の位置が異なり
喫水線の位置が異なれば船の重心も異なる。
鉄でできていて満載時には大きく沈み込む事が前提で
その状態で安定する様設計されたタンカーの黄金比を
木造で内部スカスカで沈み込まない箱船に適応する
のは正直無理が在り過ぎて論外とも言えます。
自分が思うに「聖書が他の歴史的な整合性と原典性を有する真性古典書物と決定的に異なる点」は、
ソレが2000年近くにも渡って、絶えず再編集と再訳をくり返され続けて来た現役書であると言う事ですよね。
ちなみに聖書に記された未来の大災害についての預言が、その功を奏して当該災害を劇的に回避した…みたいな事例や記述は存在すると思われますか?
たぶんそんなの無さそうですよね。
ぶっちゃけ何事も起こらなければ、それは始めから無かった事との区別もつかないワケですし。
であるとしたならば‥聖書に記されている数多の預言らしきものの大半は、
何の役にも立たなかった“主のつぶやき”であったに過ぎないのではないでしょうか?
その辺のトコロ、どー思われます?
>>52
コメント頂き、ありがとうございます。
私は造船に詳しくありませんが、船舶工学に40年以上も携わった方の以下の記事を基にコメントしておりました。
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j-rb/102007008
この記事の感想を教えて頂けると幸いです。
>>53
サビぬきさん、コメント頂き、ありがとうございます。
>自分が思うに「聖書が他の歴史的な整合性と原典性を有する真性古典書物と決定的に異なる点」は、 ソレが2000年近くにも渡って、絶えず再編集と再訳をくり返され続けて来た現役書であると言う事ですよね。
再編集はほぼありません。次々と発見される古代写本から、写本が正確に行われ、内容が保たれてきたことが分かっています。
一方、再訳は重ねられています。例えば文語では分かりにくいので、現代語に訳し直されたりしています。
>ちなみに聖書に記された未来の大災害についての預言が、その功を奏して当該災害を劇的に回避した…みたいな事例や記述は存在すると思われますか? たぶんそんなの無さそうですよね。 ぶっちゃけ何事も起こらなければ、それは始めから無かった事との区別もつかないワケですし。 であるとしたならば‥聖書に記されている数多の預言らしきものの大半は、 何の役にも立たなかった“主のつぶやき”であったに過ぎないのではないでしょうか?
例えば大洪水を知り、信仰によって箱舟を建造したノアは自らを救いました。救世主に関する一連のメシア預言は、救世主がイエスであると特定するのに役立ちました。預言は無意味ではありません。
神エホバがニネベという都市の40日後の滅びを、預言者ヨナに託し、ニネベに遣わしました。ヨナの言葉を聞き、ニネベの民は真剣に悔い改めた為、エホバはニネベを滅ぼすことを思い留まられました。災害が回避された例です。
ニネベの人を恐れたヨナは当初、警告の任務を放棄して逃げました。結局は警告の任務を遂行しましたが、エホバがニネベの滅びを思い留まられた為、ヨナはふてくされました。しかしヨナは聖書のヨナ記で全てを自分で正直に記録しました。自分が逃げたこともふてくされたことも。聖書は正直で誠実な記録であると思われる例の一つです。
ダビデ王も同様に、自分がウリヤの妻と不倫したこと、妊娠を隠す為、戦争から帰還したウリヤに卑劣にも妻と寝ることを勧めたこと、忠実な戦士ウリヤが自宅で休もうとしないので戦争の最前線に送り込んで戦死させたことを自分で記録に残しています。聖書は正直で誠実な記録なのです。良い事だけを書いたヒーロー記ではなく、信頼出来る記録です。
一方、再訳は重ねられています。例えば文語では分かりにくいので、現代語に訳し直されたりしています。
↑
その機会に恣意的な災厄は為されている可能性はあるのではないでしょうか?
まあ、「それはカトリック教会がやってることでしょ」とか言われたら元も子もないですけど。
>>56
アーリアさん、メッセージ下さり、ありがとうございます。
>その機会に恣意的な災厄は為されている可能性はあるのではないでしょうか?
一つだけ重大なものがあります。
写本研究より、聖書「原文」には神の名としてテトラグラマトンというものが用いられていたことが分かっています。日本語では神聖四文字と呼ばれている古典ヘブライ語の子音四文字で、英語に置換すると、JHVHやYHWHに相当します。
ヘブライ語では母音を省略することがよくあるそうで、英語で言えばbuildingがbldg.と省略される様なものです。その為、現在では神の名の正しい発音が既に分からなくなっており、Yahweh(ヤハウェ)ともJehovah(エホバ)とも言われています。
聖書の別箇所では、略名としてYah(ヤハ)と書かれることもあります。JohnathanをJohnとする様な略かなと私は理解しています。
大切なのは聖書の神にはお名前があるということです。テトラグラマトンは聖書中に6000回以上も登場し、聖書中で最も登場頻度が高い名前です。それなのに、現在の大半の聖書では神、或いは主という「称号」に置き換えられてしまっています。その為、今日、聖書の神には名前があると知らないキリスト教徒が大勢います。
置き換えられた理由として、以下の3つが考えられます:
@神の名をみだりに唱えてはいけないと十戒にあるから。
確かにOh, my god(何てこった)の様に、神をみだりに乱発してはいけません。しかし敬意を持って神の名を用いれば問題無い筈です。
実際、神は人間にご自身の名を伝えましたし、神の名を唱える者が救われると聖書に書かれており、更にはイエスご自身も神の名が高められるように、また神の名によって云々、という言葉を多く残しています。
聖書中の人物名も、エホバにちなんだものが多いです。例えばイエスは「エホバは救い」という意味です。更にはハレルヤは「ヤハを讃美せよ」という意味です。
神の名を用いることは大切だと考えています。親しくなるには、先ずは名前を知ることから始まります。
A正確な発音が分からないから
この理由も賛同出来ません。例えばイエス(キリスト教徒の多くは三位一体説を信じ、イエスも神とみなしている)の名前でさえ、
英語ではジーザス
ドイツ語はイェーズス
フランス語ではジェジュ
ラテン語はイエズス
ヘブライ語はイェシュア
ギリシャ語はイエスース
という発音です。
イエスの正確な発音にこだわらないならば、エホバの発音だけにこだわるのは不自然と思われます。よって、この理由も却下だと私は思っています。
B真理を操作しようという意図がある。
私はこれが本当の理由だと思っています。
「エホバ」の名を「神」や「主」と置換し、神の名前を曖昧にすることで、神が誰かを曖昧にすることで、異教徒を改宗し易くなります。つまり、勢力の為に大切な教義が曲げられてしまった。古代において、また中世でさえ、宗教は政治と直結していました。はっきり言って宗教イコール政治でした。つまり政治的権力の為に、真理が操作されてしまった。
神の名が曖昧にされたことで、聖書がとても分かりにくくなりました。主と言った時、それがエホバを指すのかイエスを指すのか不明瞭になりました。名前という固有名詞が消され、代名詞的な称号にすり替えられてしまったからです。
三つ組の神を信仰する異教徒の改宗を容易にする為、聖書には書かれていない三位一体の概念が導入されました。その概念でイエスは神とされました。エホバの名前が消されてしまった為、三位一体が嘘であると見抜けないキリスト教徒が増えてしまいました。
ここに私はサタンの力が働いていると考えています。エホバはお名前を大切にされる方です。その方のお名前が、み言葉聖書から消されてしまった。また、イエスはご自身でなく、神に栄光を帰する方です。それなのにイエスに栄光が寄せられてしまった。エホバとイエスに対し、サタンの出来る最高の侮辱行為だと私は考えています。
その他にも、僅かに聖書訳が操作された箇所はあります。それが意図的であろうと無意識であろうと、例えばカトリックの幼児洗礼に都合の良い言い回しにされるなど。しかし、テトラグラマトンの喪失に比べれば小さな改ざんです。
「新世界訳」という聖書の翻訳は、上記を加味し、深い研究に基づき、聖書原文に忠実なので、私のお勧めです。
>>57
アナタが御懸念されている如く「原典性にこだわる聖書」と「布教に便利な聖書」、そして「政治的な恣意性を有する聖書」とが混在している現状において、
オレが指摘した再編集の可能性を否定する根拠は希薄であるように思われるのですが?
>「新世界訳」という聖書の翻訳は、上記を加味し、深い研究に基づき、聖書原文に忠実なので、私のお勧めです。
ちなみに門外漢としての素朴な疑問なのですが…“聖書原文”というのは紀元何年頃に誰によって編纂されたものをソレと認定しておられるのでしょうか?
「新世界訳」
↑
ちょっとまておい!
一応はカトリック支援派の私としては見過ごせないぞ!
さて、となると一つ聞きたいことがあります。
輸血の禁止について、非常に拡大しすぎた解釈だという主張についてどう思われていますか?
イエス・キリストは人類全ての罪を背負って十字架にかけられたのです。
イエス・キリスト神社を訪れた人たちはこのイエス様を受け入れて初めて救済されるのです。
救済において、イエス様の存在を無視されることはできません。
さて、イエス様はなんなのでしょうか?
すなわち神社の中でも極めて格の高い神様即ちヤハウェでございます。
何故なら人類の罪に赦しを与えた荒業はヤハウェでなければ不可能だからです。
>さて、イエス様はなんなのでしょうか?
すなわち神社の中でも極めて格の高い神様即ちヤハウェでございます。
何故なら人類の罪に赦しを与えた荒業はヤハウェでなければ不可能だからです。
確か、キリストは『神の子』だと聞いているけど
有名な『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたか?)
もキリストの言葉だし、貴方の言う通りキリストが神ならこの様に神に『何故私を見捨てられたか』なんて言葉は出ないと思うのですが…
>>58
サビぬきさん、コメント下さり、ありがとうございます。
>アナタが御懸念されている如く「原典性にこだわる聖書」と「布教に便利な聖書」、そして「政治的な恣意性を有する聖書」とが混在している現状において、 オレが指摘した再編集の可能性を否定する根拠は希薄であるように思われるのですが?
原文の保持性に関しては、一般的に古い写本程、原本に近いと考えて良いと思います。また、誤った写本を写した場合、誤りが継承されてしまう為、複数の写本を比較し、原本に近いものがどれか、推測することも可能です。こうした研究から、信頼出来ると思われるテキストが出来上がります。その後に更に古い写本(死海文書など)が発見され、テキストの信頼性が確認出来、更に裏付けられます。
この過程を経て、例えば神聖四文字が置換されたことは明らかになっています。また結果として僅かではありますが、果たして原本にあったかどうかが疑わしい箇所も具体的に特定が進んでいます。例えばマルコ16:9-20はアレ写、エフ写、ベザ写及びウル訳、シリ訳には含まれていますが、シナ写、バチ写及びシリ訳、アル訳には無く、原本に書かれていたのか疑問視されています。
一方、どの書(聖書は66の書から構成されています)を聖書の正典とするかですが、西暦367年のラオデキア公会議、及び西暦451年のカルケドン公会議で定義されました。しかし、ああでもないこうでもないと公会議で論議されたのでは無く、一般的に当時既に認識され、一致していた理解を公式に定義したのみでした。
聖書外典については、それがイエスと同時代を過ごした人ではなく、かなり後代になって書かれたものであること、また正典の教えと内容が異なっていること(偶像崇拝など)から、それがまがい物であると分かります。
加えて、信仰を前提に話すならば、神は聖書の内容を守られる筈だと確信出来ます。聖書自体が滅茶苦茶にされてしまったのでは、真理を学ぶこと自体が出来ないからです。確かに聖書は難しい書物であり、神の名が消されたりしました。しかし、ここは信仰が試されるところです。真剣に学ぶならば、必ず真理が見出せる様に聖書は作られています。以下の聖句に信仰を置くことが出来ます。
マタイ7:7-8
「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです。
ヤコブ4:8
神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます。
>ちなみに門外漢としての素朴な疑問なのですが…“聖書原文”というのは紀元何年頃に誰によって編纂されたものをソレと認定しておられるのでしょうか?
聖書は66の書で構成されています。それは約1600年の期間を掛けて、王や漁師、収税人など、様々な人々が神の霊感を受け、神の書記として別々の場所で記しました。書かれた概ねの年代、また書いた人物は特定されています。例えば創世記はモーセにより紀元前1513年迄に書き終えられ、啓示の書はヨハネにより西暦96年頃までに書き終えられたとされています。
何を正典とするかは、先述の通りです。
>>61
聖書は一つのフレーズだけを取り出して解釈するのではなく、どのような意図でそのような発言をしたのかも解釈しなければなりません。
先程はどのような意図でと言いましたが、本件では事情と言うべきでしたね。
三位一体はペルソナ(人格又は三位一体の位をとって位格というべきか)までもが同一とはされておりません。それ故に三位一体なのです。
悪く言えば、ヤハウェは三重人格というべきでしょうか。
なお、本来カトリック的にはヤハウェではなく主と呼ぶべきですがね。
>>63
>>64
アーリアさん、どの様な意図、或いは事情でその言葉をイエスが発せられたのか、あなたの説明は如何ですか?私が説明する前に、あなたの説明を聞いてみたいと思います。
>>59
アーリアさん、メッセージ頂き、ありがとうございました。
>さて、となると一つ聞きたいことがあります。
輸血の禁止について、非常に拡大しすぎた解釈だという主張についてどう思われていますか?
以下の聖句の通り、聖書は血を魂が宿っている特別なものとしています。
創世記9:4
その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。
申命記12:23-24
血を食べることはしないように堅く思い定めていなさい。血は魂であり,魂を肉と共に食べてはならないからである。それを食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出すべきである。
レビ記17:14
あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。
上記はイエスが登場する前、いわゆる旧約聖書の話です。イエスが立法を形式(規則)→本質(原則)に変え、律法を成就された後、本質は残り、形式としての律法は廃止されました。以下の聖句の通りです。
マタイ5:17
わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです。
ガラテア3:23-25
信仰が到来する前には律法のもとに警護されており,共に拘禁されたまま,やがて表わし示されることになっていた信仰を望み見ていました。したがって,律法は,わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり,それは,わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした。しかし,信仰が到来した今,わたしたちはもはや養育係のもとにはいません。
ローマ10:4
キリストは律法の終わりであり,こうして,信仰を働かせる者はみな義を得るのです。
エフェソス2:15
この方は自分の肉によって敵意を,すなわち数々の定めから成るおきての律法を廃棄されました。
ローマ7:6
今やわたしたちは律法から解かれました。
しかし、イエスの後も、本当に大切な規則は残されました。以下の聖句の通りです。血を避けないことは、偶像崇拝や淫行と同等の、非常に重大な罪なのです。
使徒15:19-20、29
わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。
聖書の中で、血の扱いはとても重要な問題です。
さて、血を避けるとは、どういう意味でしょうか。食べなければ良いのですか?輸血は良いのですか?例えば医者が或る患者に飲酒を禁止したとします。ではお酒を飲まずに注射で摂取するならば問題ありませんか?原則は何でしょうか?血を避ける理由は、それが魂の宿る特別なものだからです。口からの摂取であろうと、血管からの摂取であろうと、原則は同じです。
これが血を避けるべき聖書的な根拠です。
>>67
つまりアナタは「輸血・献血」を全否定する立場におられる方である…という解釈でよろしいのでしょうか?
エホバの証人じゃん。
70:ぬこ hoge:2019/03/21(木) 16:03 ID:MfM >>63
御返事ありがとうございます
私は特にキリスト教を信じていたり聖書の内容を信じていたりする訳では無いのですが、確かにあなたの言う通り『言葉は抜き出すだけでなく、何故その言葉を言ったのかが重要である』と言うのは正しい事だと思います
>>68
>つまりアナタは「輸血・献血」を全否定する立場におられる方である…という解釈でよろしいのでしょうか?
>>67では、血に関しての聖書的な見方を説明しました。私が、ではなく、聖書が輸血を否定していると理解出来ます。
私は聖書を神の言葉として受け止めています。それ故に、輸血や献血は聖書の神の言葉に反する行為だと考えています。
何を「血」と考えるかは、また別の問題です。血液分画を行った後、どの成分までを血と捉えるか、ということです。例えば血漿の9割は水分です。水は血ではありません。そういう観点から、「全否定」という表現が適切かは分かりません。しかし、血液の四つの主成分である赤血球、白血球、血小板、血漿は血と捉えています。
>>69
十六夜さん、コメント下さり、ありがとうございました。
>エホバの証人じゃん。
確かにエホバの証人は輸血を拒否しています。エホバの証人は聖書研究に熱心で、聖書の教えを真剣に適用しようとしているからです。
手術中の出血量を最低限に抑えるには高度な医療技術が求められます。また、輸血を生理食塩水で代用することが可能なこともある様です。輸血には未だ多くのリスクがある為、無輸血治療を求めることは最良の医療を求めることでもあります。
しかし、どうしても輸血を行わないと助からない局面もあるでしょう。それはキリシタンの踏み絵の様なものかもしれません。
1.信仰に反すること行って、命を繋ぐか。
2.或いは信仰を貫き、この命を失い、そして信仰を貫いた故に復活した後に永遠の命を得るか。
聖書中の事例はどうでしょうか。ダニエル、ダビデ、イエスは後者を選ぶことを教えています。
>>65
>悪く言えば、ヤハウェは三重人格というべきでしょうか。
アーリアさん、聖書から考えてみましょう。
ルカ22:42
こう言われた。「父よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯をわたしから取り除いてください。しかしやはり,わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」。
イエスのご意志ではなく、父のご意志がなされる様に、とイエスが仰っています。
マタイ24:36
「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます。
父が知っていることを子は知らない、とイエスは述べておられます。
確かに「三位一体ありきの考え」では、神が多重人格者の様に捉えざるを得ないでしょう。
しかし本当に三位一体の前提は正しいのでしょうか。
フィリピ2:5-6
キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなた方のうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。
例えばイエスご自身は、自分がエホバと同等だとは考えていなかった、と書かれています。
三位一体説は聖書の教えではなく、異教の由来です。
カトリック教会に異教の由来など無いと思われますか?例えばクリスマスのサンタクロース、イースターのウサギはどうですか?聖書に由来があるでしょうか?異教に由来があります。
アーリアさん、もう一つ、聖書からイエスの言葉を引用させて下さい。
ヨハネ14:28
父はわたしより偉大な方だからです。
どう思われますか。イエスご自身は三位一体を肯定されていますか。
>>60
>さて、イエス様はなんなのでしょうか?
すなわち神社の中でも極めて格の高い神様即ちヤハウェでございます。 何故なら人類の罪に赦しを与えた荒業はヤハウェでなければ不可能だからです。
ヨハネ6:38
わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を行なうために天から下って来たからです。
アーリアさん、上の聖句はイエスの言葉です。イエスは贖いを実現しました。エホバに遣わされ、それを実現しました。遣わした方エホバ、遣わされた方イエスが何故同じ一人と解釈されるのでしょうか。別の方だと解釈すべきではないでしょうか?
歴史的な間違いについて
>そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
シリア州で住民登録が行われたのは紀元前8年ごろ。時期が合わない。
また、アウグストゥスは名前ではない。
>これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 キリニウスが総督であったのは紀元前6年ごろ。時期が合わない。
神の存在だって絶対ではないしね。
ノアの箱舟はギルガメシュ叙事詩の盗作。
他にも、ソロモンについて矛盾がある。
列王記上 4:26(マソラ写本 5:6)
ソロモンは戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千を持っていた。(新共同訳 5:6)
ソロモンはまた戦車の馬の、うまや四千と、騎兵一万二千を持っていた。(改訂版 4:26)
歴代誌下 9:25
ソロモンは馬と戦車のための厩舎四千、騎兵一万二千を有した。
列王記上 5:16(マソラ写本 5:30)
そのほか、ソロモンには工事の責任を取る監督が三千三百人いて、工事に携わる民を指揮した。(新共同訳 5:30)
歴代誌下 2:17
そのうち七万人を荷役の労働者、八万人を山で石を切り出す労働者、三千六百人を民を働かせるための監督とした。
列王記上 7:26
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は二千バトもあった。
歴代誌下 4:5
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は優に三千バトもあった。
列王記上 9:23
ソロモンの工事に配置された監督は五百五十名で、工事に従事する人々の指揮をとった。
歴代誌下 8:10
ソロモン王の配置した監督は二百五十名で、人々の指揮をとった。
列王記下 8:26
アハズヤは二十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 22:2
アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。
まだまだあるよ、聖書の矛盾点。
ヨヤキンの即位について
列王記下 24:8
ヨヤキンは十八歳で王となり、三ヶ月間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 36:9
ヨヤキンは八歳で王となり、三ヶ月と十日間エルサレムで王位にあった…。
ヨシャファトについて
列王記上 22:49-50
ヨシャファトはタルシシュの船を数艘造り、金を求めてオフィルに行こうとしたが、船団はエツヨン・ゲベルで難破し、行くことが出来なかった。そのとき、アハブの子アハズヤがヨシャフトに、「わたしの家臣たちとともに船に乗り込ませればよい」と言ったが、ヨシャフトはそれを望まなかった。
歴代誌下 20:35-37
ユダの王ヨシャフトはイスラエルの王アハズヤと協定を結んだ。この王は悪を行った。彼らはタルシシュ行きの船団を造るために協定を結び、エツヨン・ゲベルで船団を造った。そのとき、マレシャ出身のドダワフの子エリエゼルがヨシャファトに向かってこう予言した。「アハズヤと協定を結んだため、主はあなたの事業を打ち壊される。」こうして船は難破し、タルシシュに行くことは妨げられた。
捕虜について
サムエル記下 8:3-4
ダビデは次に、ツオバの王、レホブの子ハダドエゼルがユーフラテスに勢力を回復しようと行動を起こしたとき、彼を討ち、騎兵千七百、歩兵二万を捕虜とし、戦車の馬は、百頭を残して、そのほかすべて腱を切ってしまった。
歴代誌上 18:3-4
ダビデは次に、ハマト地方のツオバの王ハダドエゼルが、ユウフラテスに覇権を確立しようと行動を起こしたとき、彼を討ち、戦車一千、騎兵七千、歩兵二万を捕獲し、戦車の馬は、百頭を残して、そのほかはすべて腱を切ってしまった。
戦闘員の数
サムエル記下 24:9
ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣をとりうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。
歴代誌上 21:5
ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣をとりうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であった。
死亡した戦車兵の人数
サムエル記下 10:17b-18
アラム軍は戦列を整えてダビデを迎え討ち、戦ったが、彼らはイスラエルの前から逃げ去った。ダビデはアラムの戦車兵七百、歩兵四万を殺し、軍の司令官ショバクもその場で打ち殺した。
歴代誌上 19:17b-18
ダビデは戦列を整えてアラムを攻撃し、戦った。彼らはイスラエルの前から逃げ去った。ダビデはアラムの戦車兵七千、歩兵四万を殺し、軍の司令官ショファクも殺した。
>>76
伊藤さん、興味深い投稿を下さり、ありがとうございました。
私は歴史に強くありませんが、一つずつ確認し、回答してみたいと思います。
>そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
シリア州で住民登録が行われたのは紀元前8年ごろ。時期が合わない。 また、アウグストゥスは名前ではない。
>これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 キリニウスが総督であったのは紀元前6年ごろ。時期が合わない。
聖書の以下の箇所ですね。
ルカ2:1-2
さてそのころ,人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから出た。(この最初の登録はクレニオがシリアの総督であった時に行なわれたものである。)
アウグスツスの治世は西暦前27年から西暦14年まで、ローマ元老院の議員クレニオはシリアで総督を二度務めており、1回目はウァルスの後任としてですが、ウァルスの任期は西暦前4年に終わりました。一部の学者は総督としてのクレニオの1回目の任期を西暦前3‐2年としています。特に時期の問題は無い様です。
アウグスツスは尊厳者を意味する称号ですが、この称号が名前として用いられる場合にはローマ帝国の初代皇帝オクタウィウスを指すそうです。
>>77
>ノアの箱舟はギルガメシュ叙事詩の盗作。
類似点は多くあれど、異なる点も多くあります。
時系列として、
@史実としての大洪水があった。
Aギルガメシュ叙事詩に大洪水が書かれる。
B創世記の大洪水が書かれる。
となっていても、盗作とはなりませんよね。
例えば
@大地震が起こる。
A新聞社Aが報道する。
B新聞社Bが報道する。
の時系列の場合、新聞社Bは自動的に盗作となりますか?ならないでしょう。記事に異なる点も多々あれば、尚更でしょう。
>他にも、ソロモンについて矛盾がある。
列王の四万が誤写の様です。誤写や誤訳はあり得ます。研究すれば原本の内容が明らかに出来る為、特に問題では無いです。
>>79
ヘロデ大王の没年は紀元前4年ですから、紀元前三年以降では聖書の記述と矛盾してしまいます。また、住民登録の時期とも合いません。
>>80
ノアの箱舟とギルガメッシュ叙事詩では書かれた時期が全然違う。細かいところまで一致しているうえ、時期も大きく違うのですから、新聞の報道に例えるのはナンセンスです。
作詞や作劇のほうが近いと思いますが。常識的に考えて、盗作ではないでしょうか。異なる点があっても同じような記述が多数あれば盗作では?
それは聖書の記述にも間違いがあり得るということですよね?
>>77
>列王記上 5:16(マソラ写本 5:30)
そのほか、ソロモンには工事の責任を取る監督が三千三百人いて、工事に携わる民を指揮した。(新共同訳 5:30)
歴代誌下 2:17
そのうち七万人を荷役の労働者、八万人を山で石を切り出す労働者、三千六百人を民を働かせるための監督とした。
>列王記上 9:23
ソロモンの工事に配置された監督は五百五十名で、工事に従事する人々の指揮をとった。
歴代誌下 8:10
ソロモン王の配置した監督は二百五十名で、人々の指揮をとった。
代官の分類の仕方が異なっているようです。歴代下は非イスラエル人の代官3,600人とイスラエル人の代官250人を区別しているのに対して、列王記上は現場監督3,300人と、もっと高位の長たる監督550人を区別しているものと思われます。どちらの場合も代官を務めた人の総数は3,850人でした。
>列王記上 7:26
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は二千バトもあった。
歴代誌下 4:5
「海」は厚さが一トファ、その縁は、ゆりの花をかたどって、杯の縁のように作られた。その容量は優に三千バトもあった。
別の訳では、この様になっています。
歴代下4:5
そして,その厚さは一手幅であり,その縁は杯の縁の造り,すなわちゆりの花のようであった。入れ物として,それに入ったのは三千バトであった。
原語のヘブライ語では次のように理解する余地があるのです。歴代下は神殿の水盤の最大容量、すなわち入り得た水量について述べているのに対して、列王上は、その水盤に日ごろ入っていた水量を記録しているということです。つまり神殿の水盤に最大容量いっぱいまで水を入れることはなかったのです。容量の3分の2だけ水を入れるのが習慣だったようです。
>列王記下 8:26
アハズヤは二十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 22:2
アハズヤは四十二歳で王となり、一年間エルサレムで王位にあった…。
一部写本に見られた誤写の様です。シリ訳の22が正の様です。
>>78
>列王記下 24:8
ヨヤキンは十八歳で王となり、三ヶ月間エルサレムで王位にあった…。
歴代誌下 36:9
ヨヤキンは八歳で王となり、三ヶ月と十日間エルサレムで王位にあった…。
同上で、シリ訳の18が正の様です。
>>82
容量の話をしているのだから、入っていた量の話だという解釈は無理があるのでは?
結局、聖書には間違いがありますよね。神の言葉によって導かれたものであればミスはありえないはず。にもかかわらずミスがあるということは神は真理ではないか、聖書は神の言葉によるものではないかのどちらかです。
しかし、神が真理でないということは、キリスト教における神の存在と矛盾するので、ありえない。よって聖書は神の言葉によるものではなく、人間から出たものだといえる。
人間から出たものなので、真理ではない。
お見事、チェックメイト!‥っぽい気がする。
>>81
>ヘロデ大王の没年は紀元前4年ですから、紀元前三年以降では聖書の記述と矛盾してしまいます。また、住民登録の時期とも合いません。
ヘロデの死の年代につき、諸説ある様です。詳しくはこちらをご参照下さい。
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j-rb/1200002000?q=%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%87+%E6%AD%BB%E3%81%AE%E5%B9%B4%E4%BB%A3&p=par
>ノアの箱舟とギルガメッシュ叙事詩では書かれた時期が全然違う。細かいところまで一致しているうえ、時期も大きく違うのですから、新聞の報道に例えるのはナンセンスです。
作詞や作劇のほうが近いと思いますが。常識的に考えて、盗作ではないでしょうか。異なる点があっても同じような記述が多数あれば盗作では?
確かに大洪水が史実で無ければ、盗作と考えることが出来ます。
つまり、ギルガメシュ→創世記
しかし大洪水が史実であれば、史実に基づき、別々の書き物が書かれたというだけで、盗作にはなりません。
つまり
史実→ギルガメシュ
史実→創世記
類似の大洪水の話は、ギルガメシュより古いシュメール神話にも登場します。更に中国やアステカ族、インカ族、およびマヤ族の神話にも登場します。これは史実として世界的な大洪水があり、人類の記憶に刻まれたことを示唆しています。
更にこれらの話に類似点が多いことは、元々同じ土地にいた人々が世界各地に散っていったという聖書のバビロンの塔の記述に、むしろ信憑性をもたらしています。
>>83
>容量の話をしているのだから、入っていた量の話だという解釈は無理があるのでは?
訳に踊らされてはいけません。英文欽定訳では2000バトが入っていた、と書かれています。容量という語は出てきません。
And it was an hand breadth thick, and the brim thereof was wrought like the brim of a cup, with flowers of lilies: it contained two thousand baths.
>結局、聖書には間違いがありますよね。神の言葉によって導かれたものであればミスはありえないはず。にもかかわらずミスがあるということは神は真理ではないか、聖書は神の言葉によるものではないかのどちらかです。
神の言葉である聖書とは、厳密に言えば神からの霊感であり、その霊感により記された「原本」です。
写本には誤写はあり得ます。訳本には誤訳があり得ます。今、例えば私が写したり訳したりすれば、無意識でも意図的でも間違えかねない。同じことです。
原本は失われているが、残された写本や訳本から原本を見定めています。これだけしかエラーが見つからないので、かなりの精度で写本され、原本の内容が保持されていると逆に考えられます。
その原本に誤りは無く、神の言葉だと信じています。
素朴な疑問なんだが…
神は「必ず間違ってはいけない」という考え方は正しいのか?
そこ崩れるとチェックメイトじゃないよな?w
神は真理であり間違いを起こさないなら…
そもそも地球を破壊するような暮らしをする人間なんて創作しないと思うよw
>>85
その記述は確かWikipediaで削除されていたはず。
まず、BC4年前後のエルサレムで月食が確認できたのはBC5、BC4、BC1のみ。
ここでヘロデの没年はこのうちのどれかだといえるだろう。
さて、BC1がヘロデの没年だった場合、彼の息子の在位年と矛盾する。
アルケラオス(在位期間10年間<『古代誌』第XVII巻13章2節>で紀元後6年解任。
第一、キリニウスが総督であった時期と住民登録の時期とは矛盾する。
>確かに大洪水が史実で無ければ、盗作と考えることが出来ます
事実であっても内容が酷似しているなら盗作ですよ。新聞記事だって他紙の記述を勝手に使ったら違反ですしね。盗作かどうかに史実であるかどうかはそこまで関係していません。
>これは史実として世界的な大洪水があり、人類の記憶に刻まれたことを示唆しています。
余談ですが、ギルガメシュはシュメール神話に登場しますwあくまで一説ですが
残念ながら、世界大洪水説は疑似科学の域を出ていませんよ。局地的な洪水と考えるのが現実的です。当時の人間の知り得る世界なんてちっぽけなんですから。
containerの意味は容量だったはずだからcontainedもそんな感じだと思うのですが、後で辞書引きますね。
>その原本に誤りは無く、神の言葉だと信じています。
間違った点があるかもしれませんよね。第一、神は存在するとは言えないんですよ。
>>86
キリスト教では絶対神ですから。
ちきうを破壊する人間を作ったのはちきうに試練を与えるためだと反論されるだけだと思います。彼らは都合のいいことは恵み(ほとんどない上にしょぼい)と言って、不都合なことは試練(多い上にキツイ)というのです。要するにドMです。
別に聖書に書いてあることが真実か正しいかなんてのは重要じゃないと思うんだけどなあ 人の宗教観を否定するのはよくないし
スレ主さんが真実かどうかを検証する目的で立てたんだったらごめん
聖書が真理だとしてもそれを布教したり伝える術が貧弱だと、その真理の数パーセントも活かせない結果となる。だから聞かされる側としてみれば真理として聞こえないわけよ。自分から真理として聖書を位置付けている人なら別だけど。
91:ヤキソバ:2019/03/25(月) 00:06 ID:vwM >>90
確かに布教したいなら別問題だったね
最後の一文を言いたかった
ある個人が考える位置付けとして聖書を真理として取り扱うって話なら分かりやすいんだけど、
その位置付けを自分以外にどこまで拡大できるかが問題で、こうなってくればもう布教する技術に依存する。めちゃくちゃ布教の上手い奴がいたら『聖書が真理』となる日もくるんじゃない?いろんな宗教あるからライバルも多くて、いつになるか分からないけど。
人によってとらえ方が変わる時点で真理ではないね。多分。
94:カレー:2019/03/25(月) 00:33 ID:7RY >>93
まぁそうなんだけどさ、一応真理として扱ってる人もいるから>>92で言ったぐらいに留めとけば問題はないかと、あとは頑張って布教してくださいってとこ。
>>86
無論さん、投稿をありがとうございます。
>神は真理であり間違いを起こさないなら…
そもそも地球を破壊するような暮らしをする人間なんて創作しないと思うよw
神は人間を完全に造り、自由意志を与えました。サタンに唆された人間は、その自由意志により、神に反逆する道を選びました。自由とは反逆出来るという自由も含みます。そして現在、人間は地球に害を与えています。
この自由意志はとても深いテーマで、掲示板で説明するのは結構難しいです。面着で一時間位個別に話さないと伝わらないかもしれません。
>>95
反逆されたということは自由意志を与えたことが間違いになる。
>>88
>ちきうを破壊する人間を作ったのはちきうに試練を与えるためだと反論されるだけだと思います。
伊藤さん、実際のところ、聖書には何と書かれているでしょうか。見てみましょう。
伝道の書1:4
代は去り,代は来る。しかし,地は定めのない時に至るまで立ちつづける。
詩篇37:29
義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう。
詩篇104:5
神は地の基をその定まった場所に置かれました。それは定めのない時に至るまで,まさに永久によろめかされることがありません。
つまり地球が滅びることはない、と聖書は教えています。
ヤコブ1:13
試練に遭うとき,だれも,「わたしは神から試練を受けている」と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,そのようにしてご自身がだれかに試練を与えることもないからです。
神は試練を与えない、と聖書は教えています。
これが聖書の本当の教えです。
俺思うんだけどよ、仮に聖書が真理だとしても現実に起こる現象にその真理を適応させるまでに時間がかかってしまう。その結果真理として認知されないと言う問題が常に付きまとうんじゃないか?
だから聖書を人間に近づけるんじゃなくて、人間の方から聖書に近づいてきて来てもらうといった手法でないと多分、真理として位置付けるのは無理なんじゃないかと思いますね。
>>93
>人によってとらえ方が変わる時点で真理ではないね。多分。
どうでしょうか。1+1=2は真理ですか。二進法の世界では1+1=10が正解です。赤ちゃんに問えば、答えはバブー、犬に問えば答えはワンです。1+1=2が2になるのは、公理でそう前提を決めたからに過ぎません。そう決めたからそうなるだけです。例えば睡眠中、夢を見ている人間には論理などどうでも良いのです。
少し脱線しました。。。
聖書に関して言えば、真剣に研究しない人、真剣に考えない人、真剣に感じようとしない人、真剣に適用しない人には真理が見出せない様に作られています。真理は貴重なものですので、受ける側も試される様に作られています。万人が真理を見出せるわけではありません。
マタイ6:13-14
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。
マタイ7:7-8
「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです。
>>97
>つまり地球が滅びることはない、と聖書は教えています。
ちきうは滅びます。恐らく、うちうの動きによってです。
>神は試練を与えない、と聖書は教えています
そうでしょうか?
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
とコリント信徒への手紙にあるのですが。乗り越えられる試練は与える可能性がある。